表現の歴史

概要
書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。
この物語について
年表は、放っておくと戦争と王朝ばかりになる。だが同じ時代を生きた人が日々見聞きしていたのは、歌や絵や物語のほうになる。では、書いた人、描いた人、作った人の営みは、政治と戦争のあいだでどう続いてきたのか。そして、何が残り、何が忘れられたのか。
記録に戦争と王朝が多いのは、それが記録に残りやすいからである。王は自分の勝利を石に刻ませ、書記は年代記を書いた。だが、その石を刻んだ職人も、宮廷で歌った詩人も、市場で物語を語った語り手も、同じ時代を生きていた。
最古の文学として知られるのは、メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』である。友エンキドゥを失って死を恐れた王が、不死を求めて世界の果てまで旅をし、最後に手ぶらで自分の都に帰ってくる。前7世紀のアッシリア王アッシュルバニパルは、ニネヴェの宮殿に粘土板の書庫を集めた。宮殿は滅亡のときに焼かれたが、粘土板は火で焼き固められて残り、19世紀に掘り出されて叙事詩の全体が読めるようになった。

ギリシアでは、前8世紀ごろまでに『イリアス』『オデュッセイア』の成立がまとまった。トロイア戦争の英雄たちを歌うこの詩は、長く口で語り継がれたものが文字に書き留められたと考えられ、作者ホメロスが実在したのか、一人だったのかも分かっていない。この詩は、ばらばらの都市国家に住む人々に「ギリシア人」という共通の記憶を与えた。前7世紀から前6世紀には、レスボス島のサッポーが恋の歌を詠み、古代には抒情詩人の筆頭とされた。だが彼女の詩は、ほとんどが断片でしか残っていない。前5世紀のアテナイでは、アイスキュロスやソフォクレスの悲劇が、市民の祭りで上演された。
インドでは、『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』の二大叙事詩が数百年かけてまとめられ、4世紀から5世紀ごろとされるカーリダーサの戯曲『シャクンタラー』は、のちにドイツのゲーテを感嘆させた。『ラーマーヤナ』は東南アジアに渡り、渡った先ごとに少しずつ違う物語として、影絵芝居や舞踊に姿を変えた。

中国では、詩が政治と深く結びついていた。役人になる試験に詩が課され、詩を作れることは教養の証だった。8世紀、唐の唐詩の頂点の頂点に、李白と杜甫が同じ時代に生き、744年に一度出会って旅を共にしたと伝えられる。自由奔放な李白と、戦乱に苦しむ民を詠んだ杜甫は、対照的な詩人として並び称される。9世紀の白居易は、玄宗と楊貴妃の悲恋を『長恨歌』に歌い、字の読めない老女に読んで聞かせて分かりにくい所を直したという逸話が残る。その詩は日本にも渡り、平安の貴族に愛された。
日本では、漢字から生まれた仮名が、女性の書き手を生んだ。11世紀の初め、宮廷に仕えた紫式部が『源氏物語』を書き、清少納言が『枕草子』を書いた。光源氏とその子孫の恋と栄華と衰えを描く五十四帖の物語は、世界で最も古い長編小説の一つに数えられる。作者の本名はどちらも分かっていない。

書かれた言葉は、ときに言語そのものを作ってしまう。11世紀の初め、ペルシアの詩人フィルドウスィーは、30年あまりをかけて、イランの神話の王から歴史上の王までを歌う『シャー・ナーメ(王書)』を完成させた。アラビア語の語彙をなるべく避けて書かれたこの長大な詩は、イスラムの征服のあとアラビア語に呑まれかけたペルシア語を繋ぎ止めたとされる。14世紀の初め、フィレンツェを追われたダンテは、学問の言葉のラテン語ではなく、故郷トスカーナの話し言葉で『神曲』を書いた。地獄から煉獄を経て天国へ昇る旅を描いたこの詩が広く読まれたことで、トスカーナの言葉がのちのイタリア語の土台になる。同じ世紀、ペストから逃れた十人が語り合う形のボッカッチョの『デカメロン』や、イングランドのチョーサーの『カンタベリー物語』も、それぞれの話し言葉で書かれた。
表現は、それを運ぶ技術にも左右された。15世紀の半ば、マインツのグーテンベルクが金属の活字で聖書を刷った(グーテンベルクの活版印刷)。手で書き写すしかなかった本が、何百部も同じ形で作れるようになり、書いたものが遠くまで、多くの人に届くようになった。

同じ頃のイタリアでは、商人と銀行家の富を背景に、画家や彫刻家が古代の美を取り戻そうとしていた。14世紀の初めにジョットが、人を地に足をつけた重さのある姿で描き、15世紀にはブルネレスキがフィレンツェの大聖堂に巨大なドームを架け、線遠近法を考えた。メディチ家は芸術家の後ろ盾になった。16世紀の初め、ミケランジェロはほぼ一人で4年をかけてシスティーナ礼拝堂の天井画を描き上げた。レオナルド・ダ・ヴィンチは絵を描くために解剖をし、空を飛ぶ機械を構想した。
日本では、14世紀の終わりから15世紀の初めに、世阿弥が能を大成し、その心得を『風姿花伝』に書いた。雪舟は明に渡って水墨画を学んだ。16世紀には千利休が、狭い茶室と質素な道具で客をもてなす侘び茶を完成させたが、1591年、豊臣秀吉の命で切腹した。その理由ははっきりしていない。
17世紀の初め、ヨーロッパでは近代の文学が生まれた。スペインのセルバンテスの『ドン・キホーテ』は、騎士道物語を読みすぎて自分を騎士と思い込んだ男の旅を描き、最初の近代小説と呼ばれる。イングランドのシェイクスピアは『ハムレット』などの劇を書き、英語に数多くの言い回しを残した。二人は同じ1616年に死んでいる。オランダでは、フェルメールが室内に差し込む光を描いたが、死後はほとんど忘れられ、19世紀の後半にフランスの批評家に見出されるまで約200年埋もれていた。

忘れられた人は、ほかにもいる。ライプツィヒの教会の音楽監督だったバッハは、聖金曜日の礼拝のために受難曲を書いた。1727年のバッハ『マタイ受難曲』の初演がその一つである(初演を1729年とする説もある)。だがバッハは、1750年の死後、作曲家としてはほぼ忘れられた。1829年、20歳のメンデルスゾーンがベルリンで『マタイ受難曲』を再演し、それをきっかけにバッハの音楽が掘り起こされていく。モーツァルトは1791年、『レクイエム』を書きかけたまま35歳で死んだ。耳が聞こえなくなったベートーヴェンは、1824年の第九交響曲の初演で、終わったあとの喝采に気づかず、歌手に振り向かされたと伝えられる。いま名前が残っているかどうかは、作品の良し悪しだけでは決まらない。
日本では17世紀の終わり、元禄の上方で、井原西鶴の浮世草子や近松門左衛門の浄瑠璃が町人の楽しみになり、松尾芭蕉は奥州を旅して俳諧を芸術にまで高めた。19世紀の前半、葛飾北斎は70歳を過ぎてから『富嶽三十六景』を描いた。その鮮やかな青は、ヨーロッパで作られた合成の顔料で、安く輸入されるようになった「ベロ藍」によるものだった。技術と交易が、表現の中身を変えている。北斎の版画は、のちに海を渡ってヨーロッパの画家たちに衝撃を与えた。

19世紀には、ヨーロッパでも技術が絵を変えた。1839年に写真が発表され、絵画は目に見えるものを写し取る役目の一部を手放した。1840年代には金属のチューブに入った絵具が生まれ、画家は戸外に出て光を描けるようになった。チューブがなければ印象派はなかった、という言葉がルノワールのものとして伝わっている。ロシアでは、トルストイが『戦争と平和』で歴史を英雄ではなく無数の人の営みの集まりとして描き、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で信仰と罪を問うた。
20世紀の初め、日本では夏目漱石が猫の目から明治の知識人を描き、与謝野晶子が『みだれ髪』で女性の体と恋を大胆に歌った。中国では魯迅が話し言葉の小説で、古い社会の病を描いた。アフリカでは、ナイジェリアのイフェの青銅の頭像が、20世紀にヨーロッパに知られたとき、アフリカ人に作れるはずがないと長く疑われた。何を芸術と呼ぶかを決めてきたのが誰だったのかも、この歴史の一部である。

表現の歴史は、政治と戦争の歴史と無関係ではない。詩人は王に仕え、画家は銀行家に雇われ、作家は追放され、検閲された。だが、王朝の名を忘れた人も、光源氏やドン・キホーテやハムレットの名は知っている。年表に戦争と王朝が並ぶあいだにも、ずっと別の営みがあり、私たちが過去の人々の心に触れられるのは、多くの場合その営みを通してである。
この物語が起きた場所
筋(438)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- スンギールの埋葬できごとBC3万2000年頃一個に1時間かかるモスクワの東200キロ、氷期の狩人の遺跡。成人男性の墓と、頭を接して並べられた二人の子どもの墓が出た。三人が身につけていた象牙のビーズは、合わせて1万3000個を超える。マンモスの牙を削って一つずつ穴を開ける作業は、一個に45分から1時間かかると実験で見積もられた。全部で数年分の労働である。子どもの墓には、まっすぐに伸ばしたマンモスの牙の槍が添えられていた。狩猟採集の社会が、死者のためにこれだけを費やした。スンギール
- ラスコーの壁画できごと約1万7000年前(1940年に発見)人はほとんどいない1940年9月、犬を追った4人の少年が穴に落ちた。600の動物。牛、馬、鹿、「一角獣」。人はほとんどいない。1948年に公開して、15年で呼気とカビで傷み、1963年に閉じた。いまはレプリカを見る。本物は、また暗闇の中にある。ラスコー

- アルタミラの壁画できごと約1万4000年前(1879年に発見)学界が謝った1879年、8歳の娘マリアが天井を見上げて「牛」。父サウトゥオラが発表し、学界は「偽物」と言った。「原始人にこんな絵は描けない」。彼は否定されたまま1888年に死んだ。1902年、学界が謝った。天井の牛は、いまも赤い。アルタミラ
- カルナックの列石できごと約6000年前ストーンヘンジより古いブルターニュの海岸に3000の石が列をなして4キロ。何のためかは分からない。ストーンヘンジより古い。伝説では、聖コルネリウスが追ってきたローマ兵を石に変えた。1990年代に柵で囲まれた。カルナック(ブルターニュ)
- 目を縁どるできごとBC3千年紀古代エジプトでは、男も女も目の周りを黒い粉で縁どった。方鉛鉱などの鉱物をすりつぶし、油で練ったものである。壁画の人物の目が強く描かれているのはそのためだ。強い日差しを和らげる、虫を避ける、目の病を防ぐとも考えられた。鉛を含むので体に良いものではなかったが、ある種の鉛の化合物が細菌を抑える働きを持つという研究もある。飾ることと身を守ることは、化粧の始まりから分かちがたく結びついていた。テーベ(王家の谷)
- エンヘドゥアンナ人物BC2285年頃 – BC2250年頃名前の分かる世界最古の著述家。サルゴンの娘で、ウルの月神の大神官を務め、自分の名で讃歌を書いた。
- 『ギルガメシュ叙事詩』できごと紀元前21世紀記録に残る最古の文学記録に残る最古の文学。友の死を受け入れられず、不死を探しに行って手ぶらで帰る話になっている。ニップル

- アルファベットの成立できごとBC11世紀頃数百の記号を覚えなければ書けなかったものが、22の子音字で書けるようになった。書くことが書記の専門職から離れる。ギリシア文字もラテン文字もアラビア文字もヘブライ文字も、ここから枝分かれしている。ビブロス
- ホメロス人物紀元前8世紀頃 – ?『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。実在したかどうかも含めて議論がある。
- 『イリアス』『オデュッセイア』の成立できごと紀元前8世紀頃口誦で伝えられた叙事詩が文字になった。ギリシア人が共有する物語の土台になる。トロイア
- ヘシオドス『神統記』できごとBC700年頃神話に系譜という筋を通した混沌から始まり、大地と天が生まれ、三代の神々が争って、ゼウスが頂点に立つまでを整理した。ギリシアの神話に系譜という形を与えた。アスクラ(位置は特定されていない)

- ヘシオドス『仕事と日』できごとBC700年頃英雄ではなく農民の一年を詩にした英雄ではなく農民の暮らしを詩にした。怠け者の弟に説教する形で、季節ごとの仕事と正義を語る。黄金時代から鉄の時代へ衰えるという見方はここから。アスクラ(位置は特定されていない)

- ヘシオドス人物BC700年頃 – ?自分のことを語る最初の詩人ボイオティアの農民の詩人。神々の系譜を整理し、農民の一年を詩にした。ホメロスと違って自分のことを語る、最初の詩人になる。
- アッシュルバニパル人物BC685年頃 – BC627年頃各地から粘土板を集めてニネヴェに図書館を作った。焼けた宮殿の中で粘土が焼き固まったおかげで、『ギルガメシュ叙事詩』はいま読める。
- ニネヴェの図書館できごとBC7世紀半ば宮殿が焼けたおかげで粘土板が残った各地から集めた粘土板3万点あまり。BC612年に宮殿が焼けたとき、粘土が焼き固まって残った。『ギルガメシュ叙事詩』が読めるのはこの火事のおかげになる。ニネヴェ

- アルキロコスの詩できごとBC650年頃一人称の詩貴族と奴隷の子で、傭兵で、盾を捨てて逃げたことを自分で詩にした。「盾は茂みに置いてきた。また買えばいい」。ホメロスの英雄の裏側を、一人称で、韻律を変えて歌った最初の人。日食の詩は、BC648年4月6日の日食で年代が分かった。パロス島
- サッポー人物BC630年頃 – BC570年頃古代には抒情詩人の筆頭だった。残っているのは断片ばかりレスボス島の詩人。古代には九人の抒情詩人の筆頭に数えられたが、まとまった形で残っているのは一篇だけで、あとは断片しかない。
- アイスキュロス『ペルシア人』できごとBC472年現存する最古の悲劇サラミスから8年、自分も戦った作者が、負けたペルシアの側から海戦を描いた。現存する最古の悲劇で、実在の事件を扱った唯一のもの。勝った街で、負けた者の嘆きを上演した。アテナイ
- 背もたれのある椅子できごとBC5世紀背もたれのある椅子は、長く身分の印だった古代ギリシアの壺絵や墓碑には、脚が外へ反り、背板が肩を支える椅子が描かれている。クリスモスと呼ばれる。座っているのはたいてい家の主人か女主人である。多くの人は腰掛けか床に座り、背もたれのある椅子は長く身分の印だった。司教の座る椅子が司教座聖堂の名になり、会議を仕切る者を英語でチェアと呼ぶのはその名残である。誰もが椅子に座るようになったのは、椅子が安く作れるようになってからで、歴史の上ではごく最近のことになる。アテナイ
- ソフォクレス『オイディプス王』できごとBC429年頃悲劇の手本疫病の街を救うため、王が先王殺しの犯人を探す。探すほど自分に近づく。アリストテレスが悲劇の手本にし、フロイトが名前を借りた。疫病の直後のアテナイで上演された。アテナイ

- 屈原人物BC340年頃 – BC278年頃離騒名は平、字は原。楚の王族の一族で、懐王の左徒(副宰相格)。内政と外交を担い、秦に対抗して斉と結ぶことを主張した。同僚の讒言で退けられ、懐王は秦に騙されて客死した。頃襄王の代に再び追放され、湖南を10年さまよった。『離騒』373句。香草と美人を比喩に、理想と孤独を歌った。中国の詩は『詩経』(民の歌)と『楚辞』(個人の声)の二つの源を持つ。
- エピダウロスの劇場できごとBC4世紀後半拡声の機械が無い時代、声を運ぶのは建物の形だった医神アスクレピオスの聖域に、斜面を削って半円の客席が作られた。一万三千人が座り、いちばん上の段までおよそ六十メートル離れている。それでも舞台の声が聞き取れると、古代から言われてきた。2007年の音響の研究は、石の段が細かい溝の並びのように働き、風や人のざわめきのような低い音を弱め、声の高さの音を通していると論じた。設計者は溝の働きを知らなかったはずである。それでも、届く形が選ばれて残った。拡声の機械が無い時代に、声を遠くへ運ぶ方法は、建物の形しかなかった。エピダウロス
- 『荘子』できごとBC300年頃中国の絵と詩の半分宋の蒙の漆園の役人。「荘周が夢で蝶になった。目覚めて、荘周が蝶の夢を見たのか、蝶が荘周の夢を見ているのか」。「無用の用」。「混沌に七つの穴を開けたら、混沌は死んだ」。楚王が宰相にと使者を送り、「泥の中で尾を引きずる亀でいたい」と断った。妻が死んで、盆を叩いて歌った。内篇7篇が荘子の作で、外篇と雑篇は後の人。魏晋の玄学、禅、そして中国の絵と詩の半分は、ここから。蒙(商丘)
- 屈原の入水できごとBC278年頃我独り醒めたり楚の王族の詩人。秦との同盟に反対して讒言で退けられ、二度追放された。秦が楚の都・郢を落とした年、湖南の汨羅江に石を抱いて入った。『離騒』『九歌』『天問』。「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。衆人皆酔い、我独り醒めたり」。中国で最初の、名前の分かる詩人。人々が舟で探し、米を撒いて魚に食べられないようにした、というのが端午の節句と粽と龍舟の由来とされる。汨羅江
- 兵馬俑できごとBC210年(始皇帝の死と埋葬)一体ずつ顔が違う等身大の兵士8000体が、皇帝の陵の東を守っている。一体ずつ顔が違う。1974年、井戸を掘った農民が見つけた。陵そのものはまだ開けられていない。驪山(兵馬俑)

- 『ラーマーヤナ』の成立できごとBC5世紀からAD2世紀にかけて王子ラーマが、さらわれた妻シーターを取り戻す物語。インドを越えて東南アジアへ渡り、タイ、インドネシア、カンボジアで別々の形になった。ウッジャイン

- ルクレティウス人物BC99年頃 – BC55年頃生涯のことはほとんど分からない。原子論を六巻の詩にした。中世の写本はわずかしか残らず、1417年にポッジョが見つけた写本の写しから広まる。
- ウェルギリウス人物BC70年10月15日 – BC19年9月21日ダンテが地獄の案内役に選んだマントヴァの農家に生まれ、農事詩を書き、10年かけて『アエネイス』を書いた。死ぬとき焼けと遺言し、皇帝が止めた。ダンテが地獄の案内役に選ぶ。
- ルクレティウス『事物の本性について』できごとBC55年頃世界は原子と空虚でできていて、神は関わらず、死は恐れるに足りない。エピクロスの教えを詩にした。1417年に写本が見つかり、ルネサンスを揺らす。ローマ

- 王昭君の降嫁できごとBC33年千年、詩と物語に描かれた後宮の女性が匈奴の単于に嫁がされ、草原で生涯を終えた。漢と匈奴の和親の証で、その後60年、境は静かだった。詩と物語が千年語り継ぐ。長安
- ウィトルウィウス『建築十書』できごとBC25年頃ルネサンスの建築家の手本古代から残った唯一の建築書。神殿の柱の様式、都市の計画、水道、時計、投石機。15世紀にザンクト・ガレンで写本が読み直され、ルネサンスの建築家がこれを手本にした。ローマ
- ウェルギリウス『アエネイス』できごとBC19年(作者の死。未完)死ぬとき焼けと遺言したトロイアの落人がイタリアに着き、ローマの祖になる。アウグストゥスの時代に書かれた建国の叙事詩で、作者は未完のまま焼けと遺言した。ローマ

- ガンダーラの仏像できごとAD1世紀衣の襞をたどれば地中海に届く仏を人の姿で刻むことが、ここで始まった。衣の襞と巻き毛はギリシア彫刻の系統になる。アレクサンドロスの遠征から300年後に、その様式が仏の顔になった。ガンダーラ(位置は特定されていない)

- モチェ文化できごと100年数万点の土器が、顔を作り分けている砂漠に運河を引いて谷を潤し、日干し煉瓦の巨大な神殿を建てた。写実的な土器が数万点残り、文字のない社会の暮らしと儀礼を細かく伝えている。モチェ渓谷(位置は特定されていない)
- アプレイウス人物AD124年頃 – AD170年頃歯磨き粉と鏡と魚マダウロスのベルベル人。カルタゴ、アテナイ、ローマ。「哲学者」。オエアで寡婦プデンティラと結婚し、彼女の親族に「魔術で誘った」と訴えられた。『弁明』。歯磨き粉と鏡と魚について弁じた。『黄金の驢馬』『神々について』。プラトン主義者。魔術師と呼ばれた。
- ハドリアヌスのパンテオンできごとAD126年頂上に9メートルの穴アグリッパの神殿が焼けたあと、皇帝が建て直した。直径43メートルのコンクリートのドーム。頂上に9メートルの穴。碑文はアグリッパの名のまま残した。1900年、鉄筋なしの最大のドーム。7世紀から教会で、だから残った。ローマ
- アプレイウス『黄金の驢馬』できごとAD170年頃ロバになった魔術に手を出した若者がロバになり、盗賊、粉屋、料理人、見世物を巡って、イシスに救われる。中に「クピドとプシュケ」。完全に残るラテン語の小説はこれだけ。作者は魔術を使って寡婦と結婚したと訴えられ、自分で弁護した。『弁明』。マダウロス

- 曹植人物AD192年 – AD232年洛神賦曹操の三男。銅雀台の賦を一気に書き、跡継ぎに望まれ、酒で失った。兄曹丕に「七歩で詩を作れ」と命じられ、「豆を煮るに豆がらを燃く」と詠んだ、と伝わる。『洛神賦』。「天下の才を一石とすれば、曹植が八斗」。
- 銅雀台できごとAD210年戦争の合間に詩が政治になった曹操が鄴に建てた高楼。息子たちに詩を作らせ、曹植が一気に書いた。建安の文学。曹操、曹丕、曹植、建安七子。戦争の合間に、詩が政治になった。曹操の死後、歌姫たちが毎月ここで歌うよう遺言された。鄴
- 建安文学できごとAD210年頃詩が個人の声に曹操、曹丕、曹植の三曹と、王粲、陳琳ら建安の七子。鄴の銅雀台。戦乱と短い命を、五言詩で真正面から書いた。「対酒当歌、人生幾何」。「風骨」。中国の詩が個人の声になった最初の場所。七子のうち四人が217年の疫病で同じ年に死んだ。鄴
- 王羲之人物AD303年 – AD361年真筆は一つも残っていない書聖。曲水の宴で酔って書いた序文が、書の手本の頂点になった。真筆は一つも残っていない。唐の太宗が集めて墓に持っていったと伝わる。
- 顧愷之人物AD344年頃 – AD406年頃伝神は目にある無錫の人。「才絶・画絶・痴絶」。人物を描くとき何年も目を入れず、「伝神は目にある」と言った。維摩の像を寺の壁に描いて百万銭を集めた。『画雲台山記』は最古の画論。桓温と桓玄に仕えて生き延び、62歳で死んだ。
- 蘭亭序できごとAD353年酔って書いたものに醒めてから及ばなかった曲水の宴で詠まれた詩の序文を、王羲之が酔って書いた。醒めてから何度書き直しても及ばなかったと伝わる。書の手本の頂点とされ、原本は唐の太宗の墓に入ったという。紹興(会稽)

- サムドラグプタ人物? – AD375年頃琵琶を弾く姿を金貨に刻ませた北インドの王たちを次々に従え、南へも遠征した。その戦績はアショーカの石柱の空いた面に刻まれている。琵琶を弾く姿の金貨が残る。
- 顧愷之「女史箴図」できごとAD380年頃線だけで重さと視線を東晋の画家が、宮女への訓戒の詩を絵巻にした。鏡の前の女、熊に立ち向かう妃、輿を断る妃。線だけで人の重さと視線を描いた。現存するのは唐の写しとされ、1900年に義和団の混乱の中でイギリス軍将校が持ち出し、大英博物館にある。南京

- 陶淵明「帰去来の辞」できごとAD405年隠者の詩の手本県令になって80日、上役の視察に礼服で会えと言われ、「五斗米のために腰を折れるか」と印を置いて帰った。以後22年、田を耕し、酒を飲み、詩を書いた。隠者の詩の手本になる。廬山
- 『シャクンタラー』できごとAD4〜6世紀のどこかサンスクリット演劇の代表作。18世紀に英訳が出るとゲーテが絶賛し、ヨーロッパのインド観を変えた。ウッジャイン

- カーリダーサ人物AD4〜6世紀のどこか(確定していない) – ?サンスクリット文学の頂点とされる詩人・劇作家。生きた年代すら4世紀から6世紀のどこか、としか言えない。
- 雲岡石窟の造営できごとAD460年ガンダーラの顔をした仏廃仏のあと仏教を戻した北魏が、都の西の崖に石窟を掘った。最初の五窟の大仏は、五人の皇帝の顔で作られたと伝わる。ガンダーラの顔をした仏が、鮮卑の都に並んだ。雲岡
- 蕭統(昭明太子)人物AD501年 – AD531年東宮に3万巻武帝の長子。2歳で皇太子。「3歳で孝経と論語を読んだ」。東宮に3万巻。文人を集めて『文選』。母の墓の地に「墓に呪いを埋めた」と讒言され、父に疑われた。船で蓮を取っていて落ち、31歳で死んだ。昭明。息子は継げず、弟が継いだ。
- 『文選』できごとAD530年頃文選爛、秀才半梁の皇太子が、周から梁までの文章と詩を、130人、700余りに選んだ。30巻。経書と諸子と史書は除き、「文」だけ。唐で科挙の教科書になり、「文選爛、秀才半」。日本の『万葉集』と『枕草子』は、これを読んだ人が書いた。南京

- 岩のドームできごとAD691年最初のイスラームの建築アブドゥルマリクが、アブラハムがイサクを捧げ、ムハンマドが天に昇った岩の上に建てた。八角形、金のドーム、240メートルの碑文。「神は子を持たない」。最初のイスラームの建築。ビザンツの職人が作った。メッカがイブン・アッズバイルに取られていた年。エルサレム
- 李白人物AD701年 – AD762年酒と月と旅の詩を千首以上残した。官途では終始うまくいかず、それが詩を作ったとも言われる。
- 雅楽寮できごとAD701年大宝令で治部省の下に置かれた。唐楽、高麗楽、百済楽、新羅楽、そして倭の歌舞を、国家が教習させる役所である。楽師と楽生の定員が令に書かれている。大陸から来た音楽が、朝廷の儀式の音として制度に組み込まれた。唐の宮廷音楽そのものは中国では失われ、日本の雅楽と正倉院の楽器に、その形の一部が残った。平城京
- 杜甫人物AD712年 – AD770年安史の乱で流浪しながら、戦の下にいる人の暮らしを書いた。「国破れて山河在り」。
- 聖像破壊論争できごと726年正教の勝利像を拝むのは偶像崇拝かをめぐって100年争った。西方教会との溝が深まり、1054年の分裂につながる。コンスタンティノープル
- 唐詩の頂点できごと740年李白と杜甫が同じ時代に生き、一度会っている李白と杜甫が同じ時代に生き、一度会っている。安史の乱を挟んで、詩の調子がまるで変わる。長安
- 仏国寺と石窟庵できごとAD751年多宝塔と釈迦塔統一新羅の宰相金大城が、現世の父母のために仏国寺を、前世の父母のために石窟庵を建てた、と『三国遺事』。多宝塔と釈迦塔。石窟庵の花崗岩の仏は東の海を向く。仏国寺は1593年に日本軍が焼き、木造部分は1970年代の復元。1995年、世界遺産。仏国寺
- 正倉院の楽器できごとAD756年風だけが通る倉聖武天皇の四十九日に、光明皇后が遺愛の品を東大寺に納めた。その中に楽器が18種75件あった。螺鈿紫檀五絃琵琶(世界に現存する唯一の五絃琵琶。インド起源で、ペルシアと唐を経て来た)、漆胡瓶、箜篌(ハープ)、尺八、方響。国家が管理する倉に、1250年、風だけが通る校倉で保たれた。同じ時代のものが、原産地のどこにも残っていない。奈良
- 『万葉集』の成立できごとAD759年頃万葉仮名20巻、4500首。天皇から防人、遊女、乞食まで。大伴家持が最後の歌を759年に詠み、その後に編んだと考えられている。漢字の音で日本語を書いた「万葉仮名」。「令和」はこの本の梅の歌の序文から。読み方の研究は951年に梨壺の五人が訓をつけたことに始まり、鎌倉時代の仙覚の新点で固まる。平城京
- 白居易人物AD772年 – AD846年老婆に読んで聞かせた詩を老婆に読んで聞かせ、分からなければ直したと伝わる。「長恨歌」「琵琶行」。左遷され、杭州で堤を築き、洛陽で酒と詩の老年を送った。日本では『源氏物語』の時代に最も読まれた詩人になる。
- ロンスヴォーの戦いできごとAD778年8月15日ロランの歌の元スペイン遠征から帰るカール大帝の軍の殿を、ピレネーの峠でバスク人が襲った。ブルターニュ辺境伯ロランが死んだ。300年後、それはサラセンとの戦いに書き換えられ、『ロランの歌』になる。ロンスヴォー
- コルドバの大モスクできごとAD785年(着工)高さの揃わない柱を二段のアーチで揃えた西ゴートの教会の跡に建てはじめ、200年かけて広げた。レコンキスタのあと、その真ん中に大聖堂が建て込まれる。コルドバ
- 嵯峨天皇人物AD786年10月3日 – AD842年8月24日三筆桓武の子。兄平城から譲られ、薬子の変で兄を退けた。蔵人所と検非違使。『凌雲集』『文華秀麗集』。空海、橘逸勢と三筆。50人の子を源氏にした。嵯峨源氏。退位して嵯峨院に住み、その跡が大覚寺。「薄葬にせよ」と遺言した。
- ボナンパクの壁画できごとAD791年爪を剥がれた手1946年、アメリカ人がラカンドン人に連れられて見た。三部屋。行列、戦い、捕虜の拷問、生贄。指の爪を剥がれた捕虜の手から血が落ちる。「マヤは平和な天文学者」という像が、この絵で消えた。描かれた10年後、街は捨てられた。ボナンパク
- グレゴリオ聖歌の成立できごとAD800年頃覚えきれないから書いた名はグレゴリウス1世(在位590〜604)に由来するが、彼が作ったのではない。カロリング朝が、フランク王国の礼拝をローマ式に統一しようとして、ローマの聖歌とガリアの聖歌が混ざり、9世紀に一つの体系になった。「聖霊が鳩の姿で教皇の耳に囁いた」という絵が、権威づけのために描かれた。単旋律、無伴奏、ラテン語、拍節がない。この膨大な旋律を覚えるために、記譜法が生まれた。パリ
- 白居易「長恨歌」できごとAD806年天に在りては比翼の鳥50年前の玄宗と楊貴妃を、120句の詩にした。馬嵬で殺され、仙界で再会する。「天に在りては願わくは比翼の鳥」。『源氏物語』の桐壺の巻は、この詩を下敷きにしている。長安
- 空海の高野山開創できごとAD816年(弘仁7年)三筆804年、無名の私度僧として遣唐使船に乗り、長安の青龍寺で恵果に会った。恵果は「私は長くこの日を待った」と言い、3か月で密教の全部を伝えて、その年に死んだ。806年帰国。816年、嵯峨天皇から高野山を賜った。曼荼羅、真言、灌頂、即身成仏。彼は書の名手で、辞典を作り、日本最初の庶民の学校を開き、満濃池を修築した。835年、入定。いまも生きているとして、毎日、食事が運ばれている。高野山
- 在原業平人物AD825年 – AD880年昔、男平城天皇の孫。臣籍に降りた。「体貌閑麗、放縦不拘」と『三代実録』。六歌仙。『伊勢物語』の「昔、男」。二条后との恋、東下り、「唐衣きつつなれにし」。「ちはやぶる神代も聞かず竜田川」。歌が史実より大きくなった最初の人。
- 応天門の変できごとAD866年(貞観8年)閏3月伴大納言絵詞大内裏の門が燃えた。大納言伴善男が「左大臣源信が放火した」と告発し、藤原良房が信を守った。8月、逆に善男が犯人だと訴えられ、伊豆へ流された。伴(大伴)氏は消え、良房は摂政の詔を受けて、人臣の摂政が正式なものになった。『伴大納言絵詞』が門の火を描いている。京都

- 紀貫之人物AD872年頃 – AD945年頃男もすなる日記といふものを『古今和歌集』の編者で仮名序の作者。「力をも入れずして天地を動かし」。歌合の判者。土佐守の帰り道を女の振りで書いた『土佐日記』は仮名の日記の最初。「男もすなる日記といふものを」。歌は下手だと正岡子規に言われ、それから100年、擁護され続けている。
- 『竹取物語』できごとAD900年頃物語の出で来はじめの祖「今は昔、竹取の翁といふものありけり」。竹から出た娘が五人の貴公子に無理な宝を求め、帝を退け、月へ帰る。物語の中で作り話の面白さを作った最初。『源氏物語』が「物語の出で来はじめの親」と呼んだ。作者は分からない。京都

- 『古今和歌集』できごとAD905年(延喜5年)やまとうたは人の心を種として醍醐天皇の命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編んだ最初の勅撰和歌集。20巻、1100首。『万葉集』の後の150年から。仮名の序。「やまとうたは、人の心を種として」。それから500年、勅撰集は21回続き、歌の型はこの本が決めた。京都

- 紀貫之『土佐日記』とかな文字できごとAD935年(承平5年)ごろかなで書く散文平安時代のはじめ、公の文書や男の学問は漢文で書かれ、漢字を崩した「かな」は、和歌や手紙に使う私の文字で、とくに女性の文字とされた。934年、土佐の国司の任期を終えて都へ帰る紀貫之は、その55日の船旅を日記に書いた。冒頭で彼は、男も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思う、と記し、女性のふりをしてかなで書いた。漢文では書けない、旅の不安や、土佐で亡くした娘への悲しみが、日々の言葉でつづられた。かなで書く散文の道を開いたこの日記ののち、『蜻蛉日記』や『源氏物語』など、女性たちのかなの文学が花開いた。京都
- メディナ・アッザフラーできごとAD936年まだ1割コルドバのカリフを名乗ったアブド・アッラフマーン3世が、街の西の山の斜面に宮殿の都を建てた。三段の段丘、大理石、水銀の池、1万人の役人と兵。40年で建て、75年で焼かれた。1911年に掘り出し、まだ1割。アンダルスの頂点の、廃墟。メディナ・アッザフラー
- 李煜(南唐後主)人物AD937年 – AD978年8月13日一江春水向東流南唐の三代目。政治をせず、詞と書と画と仏教。周皇后と小周后。975年、金陵が落ちて開封へ。「違命侯」。「春花秋月何時了」。「問君能有幾多愁、恰似一江春水向東流」。誕生日に太宗の毒。詞は彼で、宴の歌から、人の心の文学になった。
- フィルドウスィー人物AD940年頃 – AD1020年頃30年かけて『シャー・ナーメ』を書いた。アラビア語に呑まれかけたペルシア語を、この一作が繋ぎ止めたとされる。
- 清少納言人物AD966年頃 – AD1025年頃『枕草子』の作者。こちらも本名は伝わらない。好き嫌いをはっきり書く随筆が千年読まれている。
- 紫式部人物AD973年頃 – AD1014年頃『源氏物語』の作者。本名は分かっていない。宮仕えの記録を日記にも残している。
- 『蜻蛉日記』できごとAD974年(天延2年)頃他の女の家に行く車を数えた藤原兼家の妻の一人が、結婚から21年を書いた。夫が来ない夜、他の女の家に行く車を数え、息子道綱を育て、「はかなき身の上」。女が自分の人生を自分で書いた最古の日記。『源氏物語』の30年前。作者の名は分からず「道綱母」。京都

- 南唐の滅亡できごとAD975年詞が亡国の嘆きに十国で最も豊かで文化の高い国が、宋に囲まれて1年で降った。王の李煜は詞人。開封に連れて行かれ、「故国は月明かりの中、振り返るに忍びない」と書き、太宗が毒を送った。42歳。詞が、宴の歌から、亡国の嘆きになった。南京
- 和泉式部人物AD976年頃 – ?けしからぬ方こそあれ大江雅致の娘。和泉守の妻。冷泉天皇の子為尊親王と恋をし、親王が死ぬと弟敦道親王と。『和泉式部日記』。親王も死に、道長の娘彰子に仕えた。紫式部が「けしからぬ方こそあれ」「歌はいとをかし」と書いた。「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」。娘小式部内侍も歌人。
- 源信『往生要集』できごとAD985年(寛和元年)地獄の絵はこの本から比叡山横川の僧が、経と論から極楽と地獄を集めた3巻。「厭離穢土、欣求浄土」。八大地獄。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間。念仏で極楽へ。宋に送られて「日本の小釈迦」と呼ばれた。地獄の絵は、この本から描かれた。比叡山横川
- グイード・ダレッツォ人物AD991年頃 – AD1033年頃子供が1か月でポンポーザの修道院(フェラーラの近く)で、聖歌を早く覚えさせる方法を作って、同僚に嫉妬されて、アレッツォへ。司教テオダルドゥスの下で聖歌隊の教師。『ミクロログス』(1026年頃、音楽理論の教科書。中世で最も写された)。譜線、ソルミゼーション、「グイードの手」。ローマで教皇ヨハネス19世に会った(1028年頃)。ローマの空気が体に合わず、帰った。「歌い手は10年学んでも、簡単な交唱を暗記できない。私の方法なら、子供が1か月で」。
- カジュラーホーの寺院群できごとAD10〜11世紀85あった寺院のうち25が残る。壁面を埋める彫刻の一部が性愛を扱っており、その解釈をめぐって議論が続いている。密林に埋もれていたことが、破壊を免れた理由になる。カジュラーホー
- 『ベーオウルフ』の写本できごとAD1000年頃写本は一つだけ古英語で3182行。デンマークの王の館を襲う怪物グレンデル、その母、そして50年後の竜。イェーアト族の英雄ベーオウルフが、素手で、剣で、そして竜と相打ちで死ぬ。異教の話を、キリスト教徒の詩人が書いた。写本は一つだけ(ノウェル写本)。1731年、コットン家の図書館の火事で縁が焦げた。1936年、トールキンが「怪物と批評家」で、これは歴史の史料でなく詩だ、と言った。ロンドン
- 『枕草子』できごとAD1002年頃好き嫌いをはっきり書いた随筆。千年前の人が何を「をかし」と思ったかが、そのまま読める。京都

- 景徳鎮の磁器できごと1004年一つの町が、世界の磁器を焼いた。分業で一日に数万点を作り、ペルシアの藍で染めた皿がイスタンブルにもアムステルダムにも届く。最初の世界商品の一つになる。景徳鎮

- フォークは無作法できごとAD11世紀無作法の象徴から上品さの証拠へ、六百年かけて変わった十一世紀、ビザンツから嫁いできた王女がヴェネツィアで二股の小さな道具を使って食事をした。聖職者は激怒したと伝えられる。神が指を与えたのに、金物で食べるとは何事か。当時のヨーロッパでは、手と刃物で食べるのが普通だった。フォークが広まるのは、まずイタリアで、それも熱くて手で扱いにくいパスタと結びついてからになる。十七世紀にフランス宮廷が採り入れ、十八世紀には作法の一部になった。同じ道具が、無作法の象徴から上品さの証拠へ、六百年かけて意味を変えている。ヴェネツィア
- 『源氏物語』できごとAD1008年頃長編の物語として世界で最も古い部類に入る。作者の本名は分かっていない。京都

- 菅原孝標女人物AD1008年 – ?あづま路の道の果て道真の5代の孫。母は道綱母の妹。上総で育った。「あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」。物語。源氏。宮仕え。橘俊通と結婚。夫が死んだ。「夢」。『更級日記』。『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』の作者とも。
- 『シャー・ナーメ(王書)』できごとAD1010年ペルシア語を繋ぎ止めた一作6万対句。アラビア語に呑まれかけたペルシア語を、この一作が繋ぎ止めたとされる。トゥース

- タンジャーヴールの大寺院できごとAD1010年高さ60メートルを超える塔を、モルタルを使わずに組んだ。頂上の石は80トンある。壁の碑文に、寄進の内訳と雇われた人の給与まで刻まれている。タンジャーヴール
- グイードの記譜法できごとAD1025年頃耳から目へアレッツォのベネディクト会士が、聖歌を覚えるのに10年かかる修道士のために、線の上に音符を置いた。4本の線(赤いF、黄色いC)。音の高さが、線と間で分かる。「ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」(聖ヨハネ賛歌の各行の最初の音節から)。「グイードの手」(指の関節で音を覚える)。教皇ヨハネス19世が呼んで、自分で聖歌を歌えた。音楽が、耳から目へ。楽譜。アレッツォ
- オマル・ハイヤーム人物AD1048年5月18日 – AD1131年12月4日ルバイヤートニシャープール。「天幕作り」。三次方程式を円錐曲線で解いた。ユークリッドの平行線公準を疑った。ジャラーリー暦。『ルバイヤート』。「飲め、明日はない」。1859年、フィッツジェラルドの英訳で、ヴィクトリア朝の詩人になった。ペルシアでは数学者、イギリスでは詩人。
- 平等院鳳凰堂できごとAD1053年(天喜元年)定朝の阿弥陀末法の始まりの翌年、藤原頼通が宇治の別荘を寺にして、池の中島に阿弥陀堂を建てた。定朝の阿弥陀如来。寄木造。52体の雲中供養菩薩。天井の鏡。扉の来迎図。極楽をこの世に。10円玉に、鳳凰堂。1万円札に、鳳凰。平等院

- 定朝人物? – AD1057年定朝様康尚の子。法成寺の仏像で道長に用いられ、仏師で初めて法橋、法眼。寄木造。分業。「定朝様」。柔らかい顔、浅い衣の襞、丸い肩。平等院の阿弥陀如来が、唯一確かな作。それから運慶が現れるまでの百数十年、日本の仏像はみなこの顔。
- 『更級日記』できごとAD1059年頃物語を読みたいと薬師仏に菅原孝標の娘。13歳で上総から京へ。「物語を読みたい」と薬師仏に祈った。『源氏物語』を全巻もらって、昼も夜も読んだ。宮仕え、結婚、夫の死。50歳を過ぎて、少女の頃からの40年を書いた。物語に憧れた人生の、静かな終わり。京都

- 烏台詩案できごとAD1079年赤壁賦と東坡蘇軾の詩が「新法を誹謗している」と御史台に訴えられ、獄で4か月。「根は九泉に到りて曲がる所なし」の檜は皇帝への不忠、と読まれた。死刑を求められ、太皇太后と王安石が助けた。黄州へ。そこで『赤壁賦』と「東坡」。中国で最初の文字の獄と言われる。開封
- エル・シドのバレンシア占領できごとAD1094年6月わがシドの歌カスティーリャを追われた傭兵隊長が、ムスリムの王にもキリスト教徒の王にも仕え、20か月囲んでバレンシアを取った。自分の国。ムラービト朝を退けた。5年で死に、妻ヒメナが3年守って、街は失われた。「わが主」。スペインの国民叙事詩は彼の名で。バレンシア
- 『ロランの歌』できごとAD1100年頃角笛オリファン778年、シャルルマーニュの後衛がピレネーのロンスヴォーでバスク人に襲われて全滅した。300年後、それがサラセン人との戦いになって、4002行の歌になった。ロラン、オリヴィエ、大司教テュルパン、裏切り者ガヌロン、角笛オリファン、剣デュランダル。「異教徒は間違っていて、キリスト教徒は正しい」。武勲詩の最初で最高。ヘイスティングズの前に、ノルマンの吟遊詩人が歌った、と伝える。オックスフォードの写本。ロンスヴォー

- トルバドゥールの歌できごとAD1100年頃雅な愛アキテーヌ公ギヨーム9世が、オック語で、恋の歌を作った最初の人。「フィン・アモール(雅な愛)」。手の届かない貴婦人に、騎士が仕える。ベルナール・ド・ヴァンタドゥール、ベルトラン・ド・ボルン、ジャウフレ・リュデル(「遠くの愛」)、女のトロバイリッツ(ディア伯爵夫人)。孫娘アリエノールが北へ、イギリスへ運んだ。トルヴェール、ミンネゼンガー、ダンテ、ペトラルカ。ヨーロッパの恋愛は、ここで作られた。ポワティエ
- 重源人物AD1121年 – AD1206年皺と目の力醍醐寺の僧。宋に三度渡ったと自分で言った。61歳で東大寺の大勧進。「南無阿弥陀仏」を名乗った。周防の杣、伊賀と播磨の別所、宋の技術、運慶と快慶。25年。86歳で死ぬまで。東大寺の俊乗堂の像は、皺と目の力で有名。
- 高麗青磁できごとAD1150年頃象嵌は高麗の発明中国の越州窯を学んで始まり、12世紀に独自の色に達した。「翡色」。宋の徐兢が『高麗図経』に「高麗人は青磁の色を翡色と言う。近年、作りが巧みで、色も美しくなった」と書いた。象嵌の技法——素地に文様を彫り、白土と赤土を埋めて焼く——は高麗の発明で、雲と鶴が器の上を飛ぶ。モンゴルの侵攻と、その後の窯の衰退で、技法は一度、失われた。開城
- 一ノ谷の戦いできごとAD1184年(寿永3年)2月敦盛16歳福原に戻った平家を、範頼が正面から、義経が裏の崖から。「鵯越の逆落とし」。平家は船で海へ逃げ、平敦盛が熊谷直実に討たれた。17歳。『平家物語』の最も有名な場面。義経の名が上がり、頼朝の疑いが始まった。一ノ谷

- シャルトル大聖堂できごとAD1194年青6月の火事で街と聖堂が焼け、聖母の衣が地下室から無事に出てきた。「聖母が建て直せと」。26年で建った。飛び梁、ステンドグラス176枚、青。ゴシックの完成形。二つの塔は形が違う。北は300年後に建った。シャルトル
- 東大寺の再建できごとAD1195年(建久6年)運慶と快慶1180年に平重衡が焼いた大仏殿を、61歳の僧重源が勧進で建て直した。宋の技術「大仏様」。周防の山から木を切り出し、宋の鋳物師陳和卿が大仏を鋳た。落慶供養に頼朝が来た。南大門の仁王は運慶と快慶。東大寺
- ノートルダム楽派できごとAD1200年頃石の建築と音の建築建設中のノートルダム大聖堂で、レオニヌスとペロティヌスが、聖歌の上に別の声部を重ねた。オルガヌム。下の声部が一つの音を長く伸ばし、その上で新しい旋律が動く。声部は2つ、やがて3つ4つ。同時に鳴る音の関係を書き分ける必要から、音の長さを表す記譜法(モーダル記譜)が生まれた。西洋音楽が、時間を刻んで書けるものになった。石の建築と、音の建築が、同じ場所で同時に立ち上がった。パリ
- 『ニーベルンゲンの歌』できごとAD1200年頃復讐で全員が死ぬジークフリート、クリームヒルト、ブリュンヒルト、ハーゲン、グンター、エッツェル(アッティラ)。ライン川のヴォルムスと、ドナウの向こうのフン族の宮廷。竜の血、隠れ蓑、宝、槍で背中を刺され、復讐で全員が死ぬ。5世紀のブルグント族の滅亡と、ゲルマンの神話が、宮廷の叙事詩になった。パッサウの司教の周りで書かれた、と言われる。ワーグナー、ヒトラー(「ニーベルンゲンの忠誠」)、フリッツ・ラング。パッサウ

- ルーミー人物AD1207年9月30日 – AD1273年12月17日ペルシア語の神秘詩人。800年後のいまも、英語圏で最も読まれる詩人の一人になっている。
- 鴨長明『方丈記』できごとAD1212年(建暦2年)ゆく河の流れ「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。下鴨神社の神職の家に生まれながら出世の道を断たれた鴨長明が、都を襲った大火、つむじ風、遷都、飢饉、大地震を書き留め、日野の山に一丈四方の庵を結んで暮らした日々を綴った。1212年に書き上げた。京都
- スノッリ『エッダ』できごとAD1220年頃オーディン、トール、ロキアイスランドの族長が、キリスト教から200年後に、北欧の神々の話を若い詩人のために書いた。オーディン、トール、ロキ、世界樹、ラグナロク。これがなければ、神話のほとんどが消えていた。書いた人は、ノルウェー王の命令で自宅の地下室で斬られた。レイクホルト

- シャルトルの青できごとAD1220年頃窓の下に、寄進した職人が働く姿がある1194年の火災の後、四半世紀ほどで再建された大聖堂に、176の窓が入った。中世の窓としては、これほどまとまって残っている例が他に無い。ガラスは溶かす段階で金属を混ぜて色を付ける。青はコバルト、赤は銅である。とりわけ12世紀の青は、後の時代に再現できなかった。文字を読めない者に聖書を見せる絵だと説明されるが、高い窓の細部は地上から見えない。窓の下部には、寄進した同業組合の職人が働く姿が描かれている。シャルトル
- ダンテ・アリギエーリ人物AD1265年 – AD1321年9月14日追放先で『神曲』を書いた。ラテン語ではなく話し言葉で書いたことが、イタリア語という言語を作る。
- ジョット人物AD1267年頃 – AD1337年1月8日人が地に足をつけた羊飼いの子が石に羊を描いているのをチマブーエが見た、という伝説。アッシジ、パドヴァ、フィレンツェ。人が地に足をつけ、悲しみが顔に出る絵を描いた。ダンテが『神曲』で名を出し、フィレンツェの鐘楼を設計した。
- ルーミー『精神的マスナヴィー』できごとAD1270年頃旋回舞踏法学者だった彼は、37歳のとき、放浪の修行者シャムスに会って、人が変わった。2年後にシャムスが消え(弟子たちに殺されたとも)、その喪失から詩が溢れ出した。『マスナヴィー』2万5000句。冒頭は葦笛の嘆き。「葦の笛が語るのを聞け。別れを嘆いている。葦原から切り取られてから、私の泣き声に、男も女も泣いた」。旋回舞踏(セマー)は、彼の死後、息子が儀礼にした。アメリカで最も読まれている詩人、と言われる。コンヤ
- イフェの頭像できごとAD12〜15世紀アフリカ人が作れるはずがない、と長く言われた写実的な人の頭像が、銅合金とテラコッタで作られた。1910年に紹介されたとき、ヨーロッパの学者は古代ギリシアの影響だと考えた。そうではないと分かるまで数十年かかっている。イフェ
- ラピスラズリと群青できごとAD1300年頃青が高価だったから聖母に使った当時、深い青の顔料はこれしかなかった。原料はアフガニスタン北東の山中の一つの鉱山。そこからヨーロッパへ運ばれるので「海を越えて(ウルトラマリーヌ)」と呼ばれた。石を砕いて練り、蜜蝋と樹脂に混ぜて灰汁で洗い出す工程が要る。値段は同じ重さの金に匹敵した。だから契約書に「聖母の衣にはウルトラマリンを何オンス使うこと」と書かれた。青が神聖なのではなく、高価だから聖母に使われた。1826年に合成品が作られ、値段は数百分の一になった。サーレサング
- ギヨーム・ド・マショー人物AD1300年頃 – AD1377年4月私の終わりは私の始まりシャンパーニュ。ボヘミア王ヨハン(盲目の王。クレシーで死んだ)の秘書として、ヨーロッパを回った(1323〜46年)。ランス大聖堂の参事会員。ナバラ王、ノルマンディー公(後のシャルル5世)、ベリー公の詩人。「アルス・ノヴァ」の最大の作曲家で、14世紀フランスの最大の詩人。ロンドー、バラード、ヴィルレー、モテット、そしてミサ。『真実の物語(ル・ヴォワール・ディ)』(60代で、19歳の娘ペロンヌとの恋の手紙と詩)。「私の終わりは私の始まり」(回文のロンドー)。
- ペトラルカ人物AD1304年7月20日 – AD1374年7月19日ルネサンスの言葉を作ったアヴィニョンの教会でラウラを見て、生涯366篇のソネットを書いた。キケロの手紙を見つけ、古代を「光」、その後を「暗黒」と呼んで、ルネサンスの言葉を作った。ヴァントゥー山に登って景色のために登った最初の人とされる。机で本を読んだまま死んだ。
- ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂できごとAD1305年絵画がここから変わった高利貸しの息子が父の罪を償うために建てた礼拝堂に、ジョットがキリストとマリアの生涯を描いた。平面の聖像が、重さと影と表情を持った。「ユダの接吻」の二人の目。絵画がここから変わったと、ヴァザーリは書いた。パドヴァ
- 『神曲』できごと1308年話し言葉で書いたことがイタリア語を作るラテン語ではなく話し言葉で書いた。それがイタリア語という書き言葉を作ることになる。フィレンツェ

- ボッカッチョ人物AD1313年 – AD1375年12月21日自分の本を焼こうとした商人の庶子でナポリで育ち、フィレンツェに戻って黒死病を見た。『デカメロン』。晩年はペトラルカに従ってラテン語の学問に戻り、自分の俗語の本を焼こうとして止められた。ダンテの最初の伝記を書き、『神曲』を公開講義した。
- 夢窓疎石と禅の庭できごとAD1339年借景後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建てた天龍寺の作庭を、夢窓疎石が手がけた。曹源池庭園。借景に嵐山を取り込み、水の中に石を組んで滝を表した。彼は西芳寺(苔寺)も作った。天龍寺船を元に送って、造営の費用を稼いだ。後醍醐、尊氏、直義の三人の帰依を、同時に受けた僧。庭が、修行の場になった。京都
- ペトラルカの桂冠できごとAD1341年4月8日古代以来初めての桂冠詩人カピトリウムで、古代以来初めて詩人が月桂冠を受けた。本人が三年かけて根回しした。ラテン語の叙事詩『アフリカ』のためで、その詩は未完に終わり、残ったのはイタリア語のソネットのほうだった。ローマ
- ジェフリー・チョーサー人物AD1343年頃 – AD1400年10月25日詩人のコーナーワイン商人の子で、宮廷の小姓、フランスで捕虜、イタリアへ使節、税関の役人、下院議員。ダンテとボッカッチョを読んで、英語で書いた。ウェストミンスター寺院に葬られ、そこが「詩人のコーナー」になった。
- 『デカメロン』できごとAD1353年疫病から逃げた十人の百の話黒死病のフィレンツェから逃げた十人の男女が、十日で百の話をする。序文の疫病の記述は目撃の記録として読まれる。ラテン語でなくトスカーナ語の散文で、俗な話を上品に書いた。チョーサーがこれを写す。フィレンツェ

- マショー『ノートルダム・ミサ』できごとAD1360年頃一人で4声でランス大聖堂の参事会員で、ボヘミア王の秘書で、詩人で、作曲家が、ミサの通常文(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、イテ・ミサ・エスト)を、一人で、4声で、一つの作品として作曲した。最初。「アルス・ノヴァ(新しい技法)」。イソリズム。自分と兄の死後のミサのために。ランスで、毎週土曜日、100年歌われた。ランス
- 世阿弥人物AD1363年頃 – AD1443年頃能を大成し、『風姿花伝』に稽古と芸の理論を書き残した。晩年は佐渡へ流される。
- 『平家物語』と琵琶法師できごとAD1371年耳で聞く物語鎌倉のはじめ、盲目の僧が琵琶を弾きながら平家の滅びを語り歩いた。文字で読む本ではなく、耳で聞く物語。祇園精舎の鐘の声。当道座という盲人の職能集団が、語りの流派と伝授を管理した。1371年、覚一が語りを整理して口述筆記させた(覚一本)。能・浄瑠璃・歌舞伎が、この物語から題材を取り続けた。日本語の散文の調べを作った。京都
- ブルネレスキ人物AD1377年 – AD1446年4月15日線遠近法金細工師。1401年、洗礼堂の扉のコンクールでギベルティに負けた。ローマへ。ドナテッロと古代の遺跡を測った。「宝探し」と思われた。線遠近法を発明した。板に穴を開けて洗礼堂を描いた。ドーム。捨子養育院。サン・ロレンツォ。大聖堂の下に葬られた。
- ブルゴーニュ公の宮廷できごと1384年ファン・エイクが仕えた宮廷王より豊かな公が、儀礼と誓いと祝宴で世界を覆った。ファン・エイクが仕え、金羊毛騎士団が作られる。中世が終わりかけている場所で、中世の形式が最も華やかになった。ブリュージュ
- 『カンタベリー物語』できごとAD1387年頃英語が文学の言葉になったベケットの墓への巡礼者が、宿から大聖堂まで話を語る。騎士、粉屋、女子修道院長、バースの女房。英語で書かれた最初の大きな文学で、この言葉がフランス語に代わって文学の言葉になった。カンタベリー

- 北山文化と金閣できごとAD1397年公家と武家の文化が混ざり合った。明との通交で得た富がこれを支える。京都
- メディチ銀行できごとAD1397年教皇庁の資金を扱うジョヴァンニ・ディ・ビッチが、フィレンツェに銀行を開いた。革新は組織にある。各地の支店を、本店が出資する別々の合名会社にした。一つの支店が潰れても、他へ及ばない。支店長は共同経営者で、利益を分ける。ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン。最大の顧客は教皇庁で、全ヨーロッパの教会収入がこの銀行を通った。孫のロレンツォの代に、貸し倒れと放漫な経営で傾き、1494年、フランス軍の侵入とともに終わった。フィレンツェ
- 『風姿花伝』できごとAD1400年頃能の稽古と芸を理論として書いた。「秘すれば花」。600年前の芸能論がいまも読まれている。京都
- 『三国志演義』できごとAD14世紀三世紀の魏・呉・蜀の争いは、正史の『三国志』に記録され、その後千年にわたって、町の語り物や芝居で繰り返し語られてきた。元から明にかけて、羅貫中とされる人物が、それらを一つの長い物語にまとめる。劉備・関羽・張飛の義兄弟の誓い、諸葛亮の知略、曹操の悪役ぶり。事実が七分、作り話が三分と言われる。この小説が、東アジアの人びとの三国時代の像を決めた。日本でも江戸時代に訳され、いまも漫画やゲームで作り直されている。杭州(臨安)
- 『水滸伝』できごとAD14世紀十二世紀のはじめ、宋江という者が仲間を率いて各地を荒らした、という短い記録がある。それが語り物の中で膨らみ、梁山泊という沼地の砦に百八人の豪傑が集まる物語になった。元から明にかけて、施耐庵とされる人物がまとめたと伝わる。役人の不正に追われた者たちが、義によって結ばれ、腐った官を懲らしめる。反乱を讃える話として、明や清では禁書にされたこともある。江戸時代の日本でも大流行し、浮世絵の題材になった。杭州(臨安)
- ネサワルコヨトル人物AD1402年4月28日 – AD1472年三国同盟の一角の王であり、詩人であり、技師でもあった。堤防を築いて湖の塩水と真水を分けている。
- レオン・バッティスタ・アルベルティ人物AD1404年2月14日 – AD1472年4月25日万能人の見本亡命したフィレンツェの商家の庶子。ボローニャで法学。教皇庁の書記官。『絵画論』(1435年。遠近法の作図法を初めて文章にした)、『建築論』(10巻。ウィトルウィウス以来初の建築の理論書)、『家族論』。教会と宮殿を設計した(サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面、マントヴァのサンタンドレア)。暗号、測量、馬、そして走り高跳び。「万能人」の見本とされる。
- 線遠近法の発見できごとAD1413年頃絵は開かれた窓ブルネレスキが、洗礼堂を正確に描いた板に穴を開け、裏から覗いて、鏡に映した像と実景を見比べる実験をした。一点に収束する消失点。1435年、アルベルティが『絵画論』で理論にした。「絵は、開かれた窓である」。それから500年、ヨーロッパの絵は、この規則で空間を作った。1907年、ピカソがそれを壊すまで。フィレンツェ
- 雪舟人物AD1420年 – AD1506年頃明へ渡って水墨画を学び、帰国して日本の風景を描いた。手本を写すことから離れる。
- 宗祇人物AD1421年 – AD1502年9月1日箱根湯本で死んだ出自は分からない(近江か紀伊、身分は低かった)。30歳を過ぎてから連歌を学び、宗砌と心敬に師事した。応仁の乱で京を離れ、越後、周防、九州、東国を旅して、大名と地方の武士に連歌と古典を教えた。『新撰菟玖波集』を撰し、東常縁から古今伝授を受けた。旅の途中、箱根湯本で死んだ。芭蕉が「宗祇の時雨」と詠んだ。
- 村田珠光人物AD1423年 – AD1502年月も雲間のなきは嫌奈良の検校の家、と伝える。11歳で称名寺に入り、還俗し、京で大徳寺の一休宗純に参禅した。一休から圜悟克勤の墨蹟を与えられた、という話が伝わる(茶掛けの始まりとされる)。四畳半の茶室。唐物と和物を取り合わせる。「心の文」(弟子古市播磨への手紙)に「月も雲間のなきは嫌にて候」。
- 死の舞踏できごと1424年墓地の壁に、骸骨が教皇も王も農民も同じ列に引き込む絵が描かれた。黒死病と戦乱の世紀に、死が身分を平らにするという主題が繰り返し現れる。パリ

- ブルネレスキのドームできごとAD1436年二重の殻フィレンツェ大聖堂の穴は100年開いたままだった。幅45メートル、足場もアーチも無理。金細工師が二重の殻と、レンガの魚骨の積み方と、牛が回す起重機で16年で閉じた。設計図を誰にも見せなかった。ミケランジェロは「もっと大きくは作れるが、もっと美しくは作れない」。フィレンツェ

- 足利義政人物AD1436年1月20日 – AD1490年1月27日東山に移った8代将軍。8歳で家督を継ぐと決まり、13歳で将軍になって、政治から早く離れた。後継をめぐる争いと、守護の対立が応仁の乱(1467〜77年)になった。乱の間も、彼は花見と作庭と唐物の収集を続けた。京が焼けた後、東山に山荘を建てて移り、そこで座敷飾りと茶と立花の作法を整えさせた。政治の失敗と、文化の達成が、同じ人の中にある。
- イタリア・ルネサンスの盛期できごと1450年古典の再発見と商人の富が結びついた。人間を測るのは神ではなく人間自身、という見方が育つ。フィレンツェ

- レオナルド・ダ・ヴィンチ人物AD1452年4月15日 – AD1519年5月2日絵、解剖、水利、飛行。分野を分けずに世界を観察し、大半を未完のまま残した。
- グーテンベルクの活版印刷できごとAD1455年頃書いたものが届く速さが変わる書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。

- ヴラド串刺し公できごとAD1462年ストーカーが読んだワラキアの公がオスマンの使者のターバンを頭に釘で打ち、貢納を拒み、ドナウを渡って2万人を殺し、メフメト2世が来ると2万人の串刺しの森で迎えた。オスマンは退いた。ドイツのパンフレットが「血を飲む」と刷り、400年後にストーカーが読んだ。トゥルゴヴィシュテ

- ミケランジェロ人物AD1475年3月6日 – AD1564年2月18日自分は彫刻家だと言い張りながら、天井画を4年かけて描いた。石の中に像が既にあると考えていた。
- 銀閣と東山文化できごとAD1482年いまの和室の原型応仁の乱で京が焼けた後、足利義政が東山に山荘を建てた。銀は貼られていない。観音殿と東求堂。同仁斎は、四畳半に付書院と違い棚を備えた、書院造の最初期の形で、いまの和室の原型になった。義政の周りに、同朋衆(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)が集まり、唐物の鑑定、座敷飾り、立花、香、そして茶の作法を整えた。政治に失敗した将軍が、日本の生活の形を残した。銀閣寺(慈照寺)
- 雪舟の山水長巻できごとAD1486年16メートルの旅備中の農家の子が、京の相国寺で画僧になり、48歳で明に渡って2年、実際の中国の山河を見た。帰って、周防の大内氏の庇護で描いた。『四季山水図巻(山水長巻)』は長さ16メートル。春から冬へ、旅人が山と村と寺を通っていく。中国の様式を学びながら、線が太く、鋭く、日本の絵になった。67歳の作。「雪舟等楊」の署名。山口
- 宗祇と連歌できごとAD1488年打越を嫌う五・七・五と七・七を、何人かで交互に、百句まで続ける。前の句に付けながら、前の前の句からは離れる(「打越を嫌う」)。式目という細かい規則がある。宗祇は身分の低い出から、連歌の第一人者になり、大名の間を旅して指導した。1488年の『水無瀬三吟百韻』(宗祇・肖柏・宗長)は連歌の最高作とされる。応仁の乱で公家が地方へ散った時代、連歌が、都と地方をつないだ。京都
- ミマール・スィナン人物AD1489年頃 – AD1588年7月17日50年で300を超える建物オスマンの主席建築家。50年で300を超える建物を設計し、ハギア・ソフィアを超える大屋根を目指しつづけた。
- 村田珠光と侘び茶できごとAD1490年頃藁屋に名馬奈良の称名寺の僧で、大徳寺の一休宗純に参禅した。それまでの茶は、唐物の名器を並べて競う書院の茶か、賭けをする闘茶だった。珠光は、四畳半の狭い座敷で、唐物の中に和物(信楽・備前の粗い焼物)を混ぜた。「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」。「月も雲間のなきは嫌にて候」。武野紹鴎、そして千利休へ。奈良
- 虚栄の焼却できごとAD1497年2月7日ボッティチェリの絵メディチを追ったフィレンツェで、ドミニコ会の説教師が街を「神の共和国」にした。謝肉祭の日、シニョリーア広場で鏡、化粧、本、絵、楽器を積んで焼いた。ボッティチェリは自分の絵を投げ入れたと伝える。翌年、同じ広場で彼が焼かれた。フィレンツェ
- ミーラーバーイー人物AD1498年頃 – AD1547年頃王家に嫁ぎながらクリシュナへの信愛を歌い、宮廷を捨てて放浪した。その歌はいまも歌われている。
- 龍安寺の石庭できごとAD1500年頃15の石、必ず1つが見えない幅25メートル、奥行10メートルの白砂に、15の石を5つの群に置いた。木も水もない。どの位置から見ても、必ず1つは見えない。作者も、作られた年も、意図も、記録がない(石の裏に室町末期の庭師の名がある、と言われる)。江戸時代の書には「虎の子渡し」と読む説が載る。20世紀に、世界中の人がここへ来て、意味を探すようになった。龍安寺
- 京都の町衆と祇園祭できごとAD1500年くじ取り式応仁の乱で京は焼けた。祇園祭の山鉾も33年、途絶えた。1500年、町衆(下京の商工業者)が、幕府でも公家でもなく、自分たちで再興した。町ごとに山鉾を出し、順番をくじで決めた(くじ取り式)。町は自警し、地子(地代)を交渉し、法度を作った。都市の自治が、祭りの形をとった。応仁の乱の後の京都を作り直したのは、この人々だった。京都
- 香道できごとAD15世紀末香木を焚いて、その香りを当てる。日本ではこれを「嗅ぐ」ではなく「聞く」と言う。仏前に供える香から始まり、平安の貴族が衣に薫きしめ、室町の東山文化で作法として整った。志野宗信と三条西実隆が二つの流れの祖とされる。数種の香を順に聞き、組み合わせを言い当てる「組香」は、源氏物語の巻名を答えに使う。香木は一度焚けば失われ、同じ木の残りは年々減る。名香には銘が付き、由来が記録され、切り分けられて伝わる。消えるものを、記録によって残した。京都
- 武野紹鴎人物AD1502年 – AD1555年侘びを歌で説明した堺の皮革商(武具の材料)の家。若い頃、京で三条西実隆に和歌を学び、藤原定家の『詠歌大概』の序に茶の心を見出した、と伝える。珠光の弟子から茶を継ぎ、堺の町衆に広げた。竹の花入、素焼の水指、土壁の茶室。弟子に千利休、今井宗久(紹鴎の娘婿)、津田宗及。侘びを、歌の言葉で説明した最初の人。
- システィーナ礼拝堂の天井画できごと1508年自分は彫刻家だと言い張る男が、4年かけて見上げたまま描いた。ローマ
- 千利休人物AD1522年 – AD1591年茶の湯を簡素の美として大成した。秀吉に切腹を命じられる。
- 武野紹鴎の茶できごとAD1540年頃浦の苫屋の秋の夕暮堺の皮革商で、連歌を学び、藤原定家の歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」に侘びの心を見た。茶室から装飾を減らし、竹の花入と、備前と信楽の水指を使い、板の床を土壁にした。堺の町衆の間に茶を広げた。弟子に千利休、今井宗久、津田宗及。堺は自治都市で、鉄砲と南蛮貿易の富があり、その富が、簡素を選んだ。堺
- エル・グレコ人物AD1541年 – AD1614年4月7日19世紀末に再発見された本名ドメニコス・テオトコプーロス。ヴェネツィア領クレタ島で、イコン画家として出発した。ヴェネツィアでティツィアーノとティントレット、ローマでミケランジェロを見た(「あれを消して描き直せる」と言って嫌われた、と伝える)。1577年、トレドへ。以後、死ぬまでそこにいた。引き伸ばされた体、非現実の色、燃える空。忘れられ、19世紀末に再発見された。
- ヴェサリウス『ファブリカ』できごとAD1543年骨格が思索するパドヴァ大学の28歳の解剖学教授が、自分の手で人体を解剖して、見たままを描かせた。7巻、663ページ、木版画300点以上。ガレノスの記述が、実は猿と豚の解剖に基づくもので、200か所以上、人体と違うことを示した。骨格が思索する姿、筋肉が皮を剥がれて立つ姿。コペルニクスの『天球の回転について』と同じ年。権威でなく、見ることを基準にした。パドヴァ
- 狩野永徳人物AD1543年2月16日 – AD1590年10月12日大作はほとんど残らない狩野元信の孫。信長の安土城、秀吉の大坂城と聚楽第と御所の障壁画。金地に大きな松と檜と獅子。「大画」。『洛中洛外図屏風(上杉本)』は信長が謙信に贈った。『唐獅子図屏風』『檜図屏風』。仕事が多すぎて、東福寺の天井画の途中で倒れて死んだ。48歳。安土も大坂も聚楽第も焼けて、大作はほとんど残らない。
- ミゲル・デ・セルバンテス人物AD1547年 – AD1616年4月22日レパントで左手を失い、5年アルジェで捕虜だった。58歳で書いた『ドン・キホーテ』が最初の近代小説と呼ばれる。
- 死者の日できごとAD1550年頃ポサダの骸骨11月1日と2日、死者が帰ってくる。家に祭壇を作り、故人の写真と、好きだった食べ物と、匂いの強い花(センパスチル)を置く。墓地で夜を明かし、そこで食べ、歌う。先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀と、カトリックの諸聖人の日・死者の日が重なってできた。死を隠さず、笑いと結びつける。19世紀末、ポサダが描いた骸骨の風刺画(カラベラ)が、その図像を決定づけた。2008年、ユネスコの無形文化遺産。メキシコシティ
- 三味線の渡来できごとAD1560年頃蛇がいないので猫の皮中国の三弦が琉球に入って三線になり、蛇皮を張った。それが16世紀の半ば、堺に来た。日本には蛇がいないので、猫と犬の皮を張った。琵琶法師が、撥で弾く技法を持ち込んだ。棹に勘所を示す印がなく、音程を耳で取る。この楽器が、浄瑠璃と歌舞伎と、遊里の音楽を担った。町人の音楽の中心になり、江戸の音の風景を変えた。堺
- ウィリアム・シェイクスピア人物AD1564年 – AD1616年4月23日37の戯曲を書き、英語に千数百の語句を残した。生涯の記録が少なく、別人説がいまも湧く。
- クラウディオ・モンテヴェルディ人物AD1567年5月15日 – AD1643年11月29日言葉が音楽の主人クレモナの医者の子。マントヴァのゴンザーガ家に仕え、待遇の悪さに苦しみ、妻を病で失った。『オルフェオ』『アリアンナ』。不協和音を、言葉の感情のために使ってよいと主張し、理論家アルトゥージと論争した(「第二の作法。言葉が音楽の主人である」)。1613年、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂楽長。晩年、70代で世界最初の商業歌劇場のために『ポッペアの戴冠』を書いた。
- カラヴァッジョ人物AD1571年9月29日 – AD1610年7月18日人を殺して逃げたミラノ近郊カラヴァッジョ村。ペストで両親を失った。ローマで、初め果物と少年を描いて売り、枢機卿デル・モンテに認められた。下絵を描かず、モデルを直接カンヴァスに写した。娼婦を聖母のモデルにして、注文主に拒まれた。1606年、テニスの賭けの喧嘩で人を殺し、死刑を宣告されて逃亡。ナポリ、マルタ、シチリア。赦免の知らせを待ちながら、トスカーナの海岸で熱病で死んだ。38歳。
- 出雲阿国人物AD1572年頃 – ?男装出雲大社の鍛冶の娘で、社殿の修理の勧進で踊りに出た、と伝える。確かなことは、1603年に京で「かぶき踊り」をしたと日記にあること。男装。茶屋遊びの寸劇。名古屋山三郎の亡霊が出る演目。江戸城でも踊った。いつ死んだか分からない。出雲に帰って尼になった、とも。歌舞伎の始めの人は、女だった。
- セリミエ・モスクの完成できごとAD1575年「親方としての作」ミマール・スィナンが80代で建て、自ら「親方としての作」と呼んだ。円蓋の直径がハギア・ソフィアをわずかに超える。高さでは及ばなかった。ハドリアノポリス(エディルネ)
- 侘び茶の大成できごとAD1580年頃足りないことに美を見出す作法として茶の湯を整えた。権力者と美意識の緊張が、切腹に終わる。大坂
- 宮本武蔵人物AD1584年 – AD1645年6月13日枯木鳴鵙図播磨か美作。13歳で初めて決闘して勝った、と『五輪書』。60余回、負けなし。二天一流、二刀。吉岡一門、巌流島。大坂の陣と島原の乱に出た、と言うが、どちら側かも確かでない。晩年、熊本の細川家に客分で、霊巌洞で『五輪書』を書いた。水墨画『枯木鳴鵙図』。「我、事において後悔せず」。
- エル・グレコ『オルガス伯の埋葬』できごとAD1588年上へ行くほど引き伸ばされるクレタ島生まれ、ヴェネツィアとローマで学び、トレドに住んだ画家。下半分は地上の葬儀(トレドの現実の紳士たちが並ぶ)、上半分は天。二つの世界が、雲の帯で分かたれ、上へ行くほど体が引き伸ばされ、色が燃える。同時代の人は「奇矯」と評した。300年後、セザンヌとピカソが、この歪みを自分の絵の先例として見た。トレド
- 『西遊記』できごとAD1592年900年かけて物語になった玄奘の求法の旅が、900年かけて、講談と芝居の中で変わり、明代に100回の小説になった。孫悟空、猪八戒、沙悟浄、白馬。石から生まれた猿が天宮を暴れ、五行山に500年封じられ、経を取りに行く。妖怪81難。呉承恩の作とされるが、確証はない。仏教と道教と民間信仰と役所の風刺が混ざった、笑いの本。東アジアで最も広く読まれた物語の一つ。南京

- シェイクスピア『ヴェニスの商人』できごとAD1597年ごろ肉1ポンドの証文ヴェニスの商人アントーニオは、友人のために、ユダヤ人の金貸しシャイロックから金を借り、返せなければ自分の肉を1ポンド切り取らせると約束する。船が戻らず返済できなくなったアントーニオを救ったのは、男装して裁判官になったポーシャだった。喜劇として書かれたが、シャイロックの扱いをめぐって、いまも読み方が問われ続けている。ロンドン
- ディエゴ・ベラスケス人物AD1599年6月6日 – AD1660年8月6日37年、王のそばにセビリア。24歳でフェリペ4世の宮廷画家になり、37年、王のそばにいた。王と、王女と、道化と、小人と、そして『ブレダの開城』と『織女たち』。2度イタリアへ行き、教皇インノケンティウス10世を描いた(教皇は「あまりに真実だ」と言った)。晩年は宮廷の儀典長の職務に追われた。死の直前、サンティアゴ騎士団に列せられた。
- カラヴァッジョ『聖マタイの召命』できごとAD1600年汚れた場所の中の聖ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂。徴税人マタイが、仲間と金を数えている酒場のような暗い部屋に、右から光が差し込み、キリストが指を伸ばす。マタイが「私か」という顔で自分を指す。人物は当時のローマの街の人の服を着ている。聖なるものを、汚れた場所の中に置いた。彼自身は、喧嘩で人を殺して逃亡し、38歳で海岸で死んだ。ベラスケスとレンブラントとラ・トゥールが、この光を受け継いだ。ローマ
- 『ハムレット』できごとAD1601年頃迷い、考えすぎ、動けない主人公。英語という言語がこの一群の戯曲で大きく増える。ストラトフォード・アポン・エイヴォン

- 出雲阿国のかぶき踊りできごとAD1603年(慶長8年)女が始めて男のものに出雲大社の巫女と称する女が、京の北野で、男装して刀を差し、傾いた(かぶいた)派手な格好で踊った。茶屋の女と戯れる寸劇。「ややこ踊り」から「かぶき踊り」。関ヶ原の3年後。江戸に呼ばれ、女歌舞伎が流行り、1629年に幕府が風紀で禁じ、若衆歌舞伎も禁じ、野郎歌舞伎に。歌舞伎は女が始めて、男のものになった。京都
- 『ドン・キホーテ』できごとAD1605年最初の近代小説と呼ばれる騎士道物語を読みすぎて現実と区別がつかなくなった男の話。最初の近代小説と呼ばれる。マドリード

- レンブラント・ファン・レイン人物AD1606年7月15日 – AD1669年10月4日自画像80点ライデンの製粉業者の子。20代でアムステルダムへ出て、肖像画で成功し、大きな家を買った。妻サスキアと死別(1642年)、内縁の妻を教会に訴えられ、1656年に破産して家財を競売にかけられた。それでも描き続けた。自画像を生涯に80点以上(若い成功者から、老いて笑う男まで)。『テュルプ博士の解剖学講義』『夜警』『ユダヤの花嫁』『放蕩息子の帰還』。貧民の墓に葬られた。
- シェイクスピア『マクベス』できごとAD1606年ごろ王殺しの悲劇三人の魔女に「いずれ王になる」と告げられたスコットランドの武将マクベスは、妻にそそのかされて王を殺し、王位につく。だが疑いと恐れから殺しを重ね、妻は罪の意識で狂って死ぬ。スコットランド出身の王ジェームズ1世がイングランドの王になって間もないころに書かれた、シェイクスピアの四大悲劇の一つ。ロンドン
- モンテヴェルディ『オルフェオ』できごとAD1607年2月24日語るように歌うマントヴァのゴンザーガ公の宮廷。謝肉祭の余興として上演された。フィレンツェの人文主義者たちが「古代ギリシアの悲劇は全部歌われていたはずだ」と考え、語るように歌う様式(レチタティーヴォ)を作った。その実験を、モンテヴェルディが音楽として立たせた。40近い楽器を指定し、どの場面でどれを鳴らすか書いた(最初期の管弦楽法)。オペラという形式が、ここから400年続く。マントヴァ
- 姫路城の天守できごとAD1609年関ヶ原の戦いのあと、徳川家康の娘婿の池田輝政が播磨に入り、城を大きく造り替えた。1609年に完成した五重の大天守は、白い漆喰で塗り込められ、白鷺が羽を広げたようだと呼ばれる。西の大名を見張る城でもあった。一度も戦に使われず、明治の廃城のときには、わずかな値で売りに出されたとも伝わる。戦時の空襲では、焼夷弾が天守に落ちたが燃えなかった。1993年、法隆寺とともに、日本で最初の世界遺産に登録された。姫路
- 欽定訳聖書できごとAD1611年1604年、イングランド王ジェームズ1世は、国教会の中の対立を収めるため、新しい英語訳の聖書を作ることを認めた。50人ほどの学者が6つの組に分かれ、ヘブライ語とギリシア語の原典と、それまでの英語訳を突き合わせて訳を練った。とくに、異端とされて処刑されたウィリアム・ティンダルの訳から多くを受け継いだ。1611年に出版された「欽定訳聖書」は、声に出して読まれることを意識した、荘重で響きのよい英語で書かれた。その後三百年近く、英語を話す人々が最も多く読む本になり、「地の塩」「目には目を」など多くの言い回しが英語に根づいた。ロンドン
- ヨハネス・フェルメール人物AD1632年 – AD1675年12月15日確実な作品は30数点しかない。死後200年ほぼ忘れられ、19世紀に再発見された。
- 首に巻く布できごとAD17世紀実用の無い布が、きちんとした印として残った三十年戦争のころ、フランス王に雇われたクロアチア人の傭兵は、首に布を結んでいた。パリの宮廷で、その結び方が流行する。フランス語で首巻きをクラヴァットと呼ぶのは、クロアチア人を指す言葉から来ているとされる。ルイ14世も好んだ。布の結び方は時代ごとに変わり、十九世紀には結び方を解説する本まで出た。いまのネクタイはその子孫である。実用の役目はほとんど無い。首の布は、きちんとしていることを示す印として残った。パリ
- レンブラント『夜警』できごとAD1642年動き出す一瞬アムステルダムの市民自警団の集団肖像画。当時の慣例では、全員を横一列に、同じ大きさで並べて描く(一人あたりの料金で)。レンブラントは、隊が動き出す一瞬を描いた。前に出る者、影に沈む者、旗、犬、少女。注文主の一部は不満だった、と長く言われたが、記録はない。夜でもない(19世紀にニスが黒ずんでいた)。同じ年、妻サスキアが死んだ。彼は以後、注文を失っていった。アムステルダム
- 井原西鶴人物AD1642年 – AD1693年9月9日一昼夜に2万3500句大坂の町人。俳諧の談林派で、一昼夜に2万3500句を詠んだ(矢数俳諧)。妻が死んで、散文へ。『好色一代男』(1682年)で浮世草子が始まった。『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』。金と色と町人の生活を、笑って、細かく、速く書いた。「浮世の月見過ごしにけり末二年」。52歳。
- 松尾芭蕉人物AD1644年 – AD1694年俳諧を文学に高めた。『おくのほそ道』は旅の記録であり、思索の記録でもある。
- ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス人物AD1648年11月12日 – AD1695年4月17日学問を続けるために修道院に入った女性。教会に筆を折らされ、蔵書を手放した2年後に死ぬ。
- 近松門左衛門人物AD1653年 – AD1725年1月6日虚実皮膜越前の武士の子。京で公家に仕え、浄瑠璃を書いた。竹本義太夫と組んで『出世景清』(1685年)。『曽根崎心中』(1703年)で世話物。実際の心中を1か月で舞台に。『心中天網島』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』。「虚実皮膜」。100以上の作。「日本のシェイクスピア」と明治に呼ばれた。72歳。
- バルトロメオ・クリストフォリ人物AD1655年5月4日 – AD1731年1月27日パドヴァの生まれ。1688年、メディチ家のフェルディナンド大公に招かれ、フィレンツェで楽器の管理と製作にあたった。チェンバロとオルガンを作りながら、弦を槌で打つ仕掛けを考えた。槌が弦から離れて戻る脱進機と、二度打ちを防ぐ受けを備えた完成度の高い機構で、後の改良は多くがその延長にある。生前は評価されず、現存する自作の楽器は三台である。
- フェルメールの光できごと1656年死後200年忘れられていた確実な作品は30数点。死後200年ほぼ忘れられ、19世紀に再発見された。デルフト
- ベラスケス『ラス・メニーナス』できごとAD1656年誰が誰を見ているのか画家が、大きなカンヴァスの裏側に立って、こちらを見ている。中央にマルガリータ王女と侍女たち。奥の鏡に、国王夫妻がぼんやり映る。つまり、描かれているのは、絵を見ている私たちの位置にいる国王夫妻。奥の扉には人影。誰が誰を見ているのかが、入れ子になっている。フーコーが『言葉と物』の冒頭で20ページ論じた。プラド美術館。マドリード
- ダニエル・デフォー人物AD1660年頃 – AD1731年4月24日晒し台に花ロンドンの蝋燭屋の子、非国教徒。商人(靴下、煉瓦、ジャコウネコ)で破産。パンフレット。『非国教徒への近道』(1702年、皮肉を本気に取られて)で晒し台に立たされ、群衆が花を投げた。政府の密偵(スコットランド合同の工作)。『ロビンソン・クルーソー』(59歳)、『モル・フランダース』、『ペスト年代記』、『ロクサーナ』。500以上の著作。借金取りから隠れて死んだ。
- ジョナサン・スウィフト人物AD1667年11月30日 – AD1745年10月19日慎ましい提案ダブリン。生まれる前に父が死んだ。テンプルの秘書。「ステラ」(エスター・ジョンソン)。聖職者。トーリーのパンフレット作者。1713年、聖パトリック大聖堂の首席司祭(望んだ司教でなく)。『桶物語』、『ドレイピア書簡』(アイルランドの貨幣、国民的英雄に)、『ガリヴァー』、『慎ましい提案』(1729年、アイルランドの貧民の子を食用に売れ)。「残忍な憤怒がもはや心を引き裂けない所に横たわる」(自分の墓碑)。晩年、認知症。精神病院に遺産を残した。
- ミルトン『失楽園』できごとAD1667年革命に敗れた詩人が描いた、敗れた者の物語清教徒の革命政府に仕えたジョン・ミルトンは、王政が戻ると身を隠し、すでに目も見えなくなっていた。娘や弟子に口述して書き上げた長い叙事詩が、1667年に出版される。神に背いて天から落とされたサタンが、人間を誘惑してエデンの園から追い出させる話である。原稿の権利は、わずか数ポンドで売られた。敗れてもなお誇り高く語るサタンの姿は、のちの詩人たちに、反逆者こそが主人公ではないかと思わせた。ロンドン
- ステンカ・ラージンの乱できごとAD1670年川へ投げた歌ドン・コサックの首領が、カスピ海の略奪から戻って、ヴォルガを遡った。「農奴を解放する。貴族と役人を殺す」。ツァリーツィン、アストラハン、サラトフ、サマラ。20万人が加わったと言われる。シンビルスクで負け、翌年、モスクワの赤の広場で四つ裂きにされた。囚われのペルシアの姫を舟から川へ投げた、という歌が19世紀に作られ、いまも歌われる。カザン

- かつらの宮廷できごとAD17世紀後半着けられること自体が身分の表示になったルイ十四世は若いころから髪が薄くなり、大きなかつらを着けるようになった。王が着ければ、宮廷が真似る。宮廷が着ければ、都市の富裕層が真似る。高く盛り上げた巻き毛は、人の髪を買い集めて作るので高価で、手入れにも人手が要る。つまり、それを着けられること自体が身分の表示になった。一方で、実務に就く者には邪魔でもある。革命の前後、フランスでは短い自分の髪が新しい徳の表現になり、かつらは旧体制の象徴として捨てられた。装いは、いつも次の世代に否定される。パリ
- グランドツアーできごとAD1670年若い貴族の教養の旅17世紀の後半から18世紀にかけて、イギリスの貴族や富裕な家の若者たちは、学業の仕上げとして、家庭教師を連れてフランスとイタリアを1年から数年かけて巡った。パリで社交と言葉を学び、アルプスを越えて、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリで古代の遺跡とルネサンスの美術を見る。この旅は「グランドツアー」と呼ばれた。若者たちは古代の彫刻や風景画を買って帰り、故郷に古典様式の屋敷を建てた。旅はイギリスの趣味と教養を形作ったが、異国での放蕩の場でもあった。鉄道と団体旅行の時代が来ると、こうした長い旅はすたれた。ローマ
- アントニオ・ヴィヴァルディ人物AD1678年3月4日 – AD1741年7月28日赤毛の司祭ヴェネツィア。理髪師兼ヴァイオリン奏者の子。司祭になったが、喘息で1年でミサをやめ、「赤毛の司祭」と呼ばれた。孤児の少女のための施設ピエタで40年近く教え、そのために協奏曲を書き続けた。500曲以上の協奏曲、50のオペラ。急・緩・急の三楽章という形を定着させた。バッハが彼の曲を編曲して学んだ。晩年は流行に取り残され、ウィーンで貧しく死に、共同墓地に葬られた。
- アントワーヌ・ワトー人物AD1684年10月10日 – AD1721年7月18日ロココは憂鬱からヴァランシエンヌ(フランドルから取ったばかりの町)。屋根瓦職人の子。パリで舞台の背景、コメディア・デラルテ。ルーベンスの色、ヴェネツィアの光。雅宴画。『シテール島』、『ジェルサンの看板』(1720年、画商の店の看板として。ルイ14世の肖像が箱に詰められる)、『ピエロ(ジル)』。結核。36歳。皮肉屋で、人嫌いで、絵を売るのが嫌いだった。ロココは彼の憂鬱から始まった。
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハ人物AD1685年3月31日 – AD1750年7月28日教会の勤めとして毎週カンタータを書いた。死後は忘れられ、80年後にメンデルスゾーンが掘り起こす。
- ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル人物AD1685年2月23日 – AD1759年4月14日ハノーファーから来た王ハレ。バッハと同じ年。理髪外科医の父。ハンブルク、イタリア(4年、オペラ)。1710年、ハノーファー宮廷楽長、すぐロンドンへ。1714年、ハノーファー選帝侯がイギリス王になった。『水上の音楽』(1717年)。イタリア・オペラを40年(『リナルド』『ジュリオ・チェーザレ』)、破産して、オラトリオへ(『メサイア』『サムソン』『ユダス・マカベウス』)。『王宮の花火』(1749年)。1727年、イギリス国籍。失明。ウェストミンスター寺院に3000人。独身。
- 板ガラスと窓できごとAD1688年鏡の間ガラスの窓は、ローマにもあったが、中世には教会と宮殿のものだった。小さな円形ガラス(クラウン・ガラス)を鉛の桟で継ぐ。1688年、フランスのサン=ゴバン王立工場が、溶けたガラスを鉄の台に流して延べ、冷ましてから磨く方法を工業化した。大きな平らな板が作れる。ヴェルサイユの鏡の間(1684年)は、それより前の吹きガラスの鏡だった。19世紀、円筒法と機械研磨で値段が下がり、庶民の家に窓が入った。室内が明るくなり、そして店の陳列窓が生まれた。パリ
- 『おくのほそ道』の旅できごとAD1689年1689年の春、四十代半ばの松尾芭蕉は、住まいを人に譲り、門人の曾良と二人で江戸の深川を出た。東北から北陸をめぐり、美濃の大垣まで、およそ百五十日の旅である。平泉では、義経の最期と奥州藤原氏の栄華の跡を前に、夏草を詠んだ。紀行文は、旅のあと何年もかけて推敲され、芭蕉の死後に刊行される。事実どおりの記録ではなく、句と文を組み合わせて作り上げた作品だった。いまも多くの人が、その道筋をたどって歩いている。江戸
- ウィリアム・ホガース人物AD1697年11月10日 – AD1764年10月26日イギリスに絵の学校をロンドン。ラテン語教師の父が債務者監獄に。銀器の彫版。『娼婦一代記』(1732年)、『放蕩一代記』、『当世風結婚』(1743年)、『ジン横丁』『ビール街』(1751年)、『選挙』。版画で稼ぎ、絵で認められたかった。『美の分析』(1753年、蛇状線)。孤児院(捨て子養育院)の理事。「イギリスの画家」。フランスを嫌った。「私はイギリスに絵の学校を作った」。
- 元禄文化できごとAD1700年頃町人が文化の担い手になった。浮世草子・浄瑠璃・俳諧が花開く。大坂

- ピアノの発明できごとAD1700年頃指の力が音の大きさになったチェンバロは弦を弾く。強く叩いても音の大きさが変わらない。メディチ家の楽器係だったバルトロメオ・クリストフォリは、弦を叩く仕掛けを作った。叩いたあと、槌が弦から離れて戻る。指の力がそのまま音の大きさになる。「強くも弱くも出るチェンバロ」(gravicembalo col piano e forte)。1700年のメディチ家の目録にその名がある。反応は鈍く、彼の生前にほとんど広まらなかった。三台が現存する。フィレンツェ
- 雛人形を飾るできごとAD18世紀平安の貴族の子どもは、小さな人形と道具で「ひいな遊び」をした。別に、紙の人形に体の穢れを移して川へ流す習わしがあった。二つが重なり、三月の節句に人形を飾る行事になっていく。江戸時代、人形は流すものから飾るものに変わり、段が増え、衣装が豪華になった。幕府は贅沢を戒め、人形の大きさや飾りを制限する触れを何度も出している。守るための形代が、家の豊かさを見せる品になった。江戸
- 『曾根崎心中』の初演できごとAD1703年町人の、つい先日の出来事を舞台に1703年、大坂の曾根崎の森で、醤油屋の手代の徳兵衛と遊女のお初が心中した。そのわずか一か月後、近松門左衛門はこれを人形浄瑠璃に仕立て、竹本座で上演する。それまでの浄瑠璃は、昔の武将や神仏の物語だった。町の人々が、自分たちと同じ町人の、つい先日の出来事を舞台に見たのである。芝居は大当たりし、借金に苦しんでいた竹本座を立て直したと伝えられる。心中を扱う芝居はその後つぎつぎに作られ、心中が流行したとして、幕府は1723年にこれを禁じた。大坂
- プルシアンブルーできごとAD1706年技術が先にあって、表現がそれに続いたベルリンの絵具屋ディースバッハが、赤い顔料を作ろうとして、汚染された炭酸カリを使った。動物の血から作られたもので、鉄と反応し、赤ではなく深い青ができた。それまでの青は、アフガニスタン産のラピスラズリを砕いたウルトラマリンで、同じ重さの金に迫る値だった。新しい青は、桁違いに安い。ヨーロッパの絵画が変わり、やがて長崎経由で日本へ入る。北斎の富嶽三十六景の、あの青である。後にシアン化物の化学と、青写真の技法も、ここから出た。ベルリン
- 曹雪芹人物AD1715年頃 – AD1763年頃五たび増刪す名は霑。曹家は満洲の旗人に属する漢人(包衣)で、祖父曹寅は康熙帝の乳兄弟、江寧織造として20年(一家三代で60年)、江南の富と情報を握った。雍正帝の代に一族が失脚し、財産を没収された。曹雪芹は少年期に北京へ移り、貧困のうちに『石頭記(紅楼夢)』を書いた。「十年辛苦、五たび増刪す」。息子を失った後、除夕(大晦日)に死んだ、と友人の詩にある。
- ワトー『シテール島への船出』できごとAD1717年雅宴画ルイ14世が死んで2年。ヴェルサイユの重さから、パリのサロンの軽さへ。恋人たちが愛の島を去る(着く、とも)。霧、絹、憂い。アカデミーは新しい部門「雅宴画(フェート・ギャラント)」を作って彼を入れた。ロココ。ワトーは結核で4年後に死んだ。36歳。ブーシェ、フラゴナール。革命が、それを軽薄だと言って捨てた。パリ
- 『ロビンソン・クルーソー』できごとAD1719年4月25日最初の小説59歳のデフォーが、セルカークの4年の無人島の話を元に、28年の島の話を書いた。難破、日記、帳簿、柵、山羊、麦、傘、フライデー。ホモ・エコノミクスの神話、とマルクスが言い、ルソーは『エミール』の唯一の本にした。イギリスで最初の小説、と言われる。表紙に「彼自身が書いた」とあって、デフォーの名はない。ロンドン

- 平均律クラヴィーア曲集できごとAD1722年二十四の調すべてで純正な五度を積むと、十二回でもとの音に戻らない。わずかに余る(ピュタゴラスのコンマ)。どこかで狂いを押しつけるしかない。どの調も使えるように狂いを配る調律が広まりつつあった。バッハは全二十四の長短調で前奏曲とフーガを書いた。表題の wohltemperirt は等分平均律を指すとは限らず、どの調でも弾ける調律の意である。第二巻は1742年頃。ケーテン
- ヴィヴァルディ『四季』できごとAD1725年蚊の羽音まで書いたヴェネツィアの孤児院ピエタで、赤毛の司祭が少女たちに音楽を教えていた。演奏会は観光の名所になり、旅行者が「あれほどの合奏はヨーロッパのどこにもない」と書き残した。『四季』は12曲の協奏曲集の最初の4曲。各曲にソネットが添えられ、鳥の声、雷、氷の上で滑って転ぶ人、蚊の羽音までが音で書かれている。彼は500の協奏曲を書き、忘れられ、20世紀に再発見された。ヴェネツィア

- 『ガリヴァー旅行記』できごとAD1726年10月28日子供の本にされたダブリンの聖パトリック大聖堂の首席司祭が、匿名で。小人の国(政争と戦争の縮図)、巨人の国(人間の醜さ)、空飛ぶ島ラピュタ(学者の愚かさ。火星の衛星2つを予言した)、馬の国(人間が家畜ヤフー)。子供の本にされて、第4部は削られた。「私は人間という種を憎む」。イギリスとアイルランドへの怒りで書いた。ロンドン

- バッハ『マタイ受難曲』の初演できごとAD1727年これも80年忘れられた聖金曜日、ライプツィヒの聖トマス教会。二組の合唱と二組の管弦楽が向かい合う。福音書の言葉を語る福音史家、群衆の叫び、そして時間を止めて心情を歌うアリア。バッハはこの町の教会音楽の責任者として、毎週カンタータを書き、学校で少年たちにラテン語も教えていた。当時、この曲は特別扱いされていない。彼の死後、楽譜は使われなくなり、100年、誰も演奏しなかった。ライプツィヒ

- ヨーゼフ・ハイドン人物AD1732年3月31日 – AD1809年5月31日世界から隔てられて車大工の子。ウィーンの聖シュテファンの聖歌隊、声変わりで追い出され、貧しく、屋根裏で。1761年から30年、エステルハージ侯爵の楽長。制服、契約書。「私は世界から隔てられていて、独創的にならざるを得なかった」。交響曲104、弦楽四重奏68。「交響曲の父」「四重奏の父」。ロンドン(1791〜95年、12の交響曲、富と名声)。『天地創造』『四季』。モーツァルトの友人、ベートーヴェンの師。皇帝賛歌(ドイツ国歌)。ナポレオンの砲撃の中で死んだ。
- ホガース『放蕩一代記』できごとAD1735年漫画の祖父8枚の絵と版画。遺産を継いだ若者が、放蕩し、娼婦と、賭博と、監獄と、精神病院ベドラムで裸で終わる。「近代的な道徳の主題」。版画は安く、海賊版が出て、ホガースは議会に版画の著作権法を作らせた(1735年、「ホガース法」)。ロンドンの街の顔。ジン横丁。絵で語る物語。漫画の祖父。ロンドン
- ヘンデル『メサイア』初演できごとAD1742年4月13日24日で書いた24日で書いた。ロンドンで人気を失って、ダブリンの慈善演奏会で。フィッシャンブル通りの音楽堂。700人。女は輪骨のスカートを、男は剣を、家に置いて来るように言われた。囚人と病院のために400ポンド。ハレルヤ・コーラスで王が立った(ロンドンの1743年、という話は確かでない)。それから毎年、クリスマスに。ダブリン
- クリケットの決まりできごとAD1744年賭けの揉め事を収めるために、決まりが印刷された十八世紀のイングランドで、クリケットは村の遊びから、貴族が大金を賭ける勝負になった。賭けるなら、勝ち負けの決め方が村ごとに違っていては困る。1744年、ロンドンのクラブが決まりを書き上げ、印刷された。両端の柱(ウィケット)の間の長さは二十二ヤード。これは当時の測量に使う鎖一本の長さである。球の重さ、柱の高さ、審判の立つ場所まで決めた。書かれた決まりがあれば、知らない村どうしでも試合ができ、賭けの揉め事も収まる。のちにローズのクラブがこの決まりを引き継ぎ、帝国の広がりとともに、決まりごと世界へ運ばれていった。ロンドン
- 『仮名手本忠臣蔵』の初演できごとAD1748年1748年、大坂の竹本座で、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初めて上演された。四十数年前の赤穂の浪士の討ち入りを描いた作である。幕府は武家の実際の事件を芝居にすることを禁じていたので、時代を室町の初めに移し、吉良を高師直、大石内蔵助を大星由良之助という名に変えている。すぐに歌舞伎にも移され、どれほど客の入らない時でもこれを出せば当たるという意味で、芝居の世界では「独参湯」(よく効く薬)と呼ばれた。「忠臣蔵」は、主君への忠義の物語として、映画やテレビで繰り返し作り直された。大坂
- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ人物AD1749年8月28日 – AD1832年3月22日詩人であり、行政官であり、色彩論を書いた自然研究者でもあった。『ファウスト』を60年かけて完成させる。
- グラースと香水できごとAD1750年頃臭う革に香りを付ける南フランスの丘の町。もとは皮なめしの産地だった。なめした革は臭う。16世紀、革手袋に香りを付けることが流行し、この町が香料の栽培と加工に転じた。ジャスミン、バラ、チュベローズ、ラベンダー、オレンジの花。花は摘んですぐ処理しなければ香りが失われるので、畑と工房が隣り合う必要がある。冷浸法で油脂に香りを移し、アルコールで抽出する。19世紀、合成香料が現れ、天然にない香りが作れるようになった。グラース
- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト人物AD1756年1月27日 – AD1791年12月5日5歳から作曲し、35年で600曲を超えた。宮廷に仕えず自分で稼ぐ音楽家という生き方を試み、うまくいかなかった。
- フリードリヒ・シラー人物AD1759年11月10日 – AD1805年5月9日歓喜に寄すヴュルテンベルクの軍医の子。公爵の軍学校に13歳から8年、強制。『群盗』。逃亡。マンハイム、ライプツィヒ、ドレスデン。『歓喜に寄す』(1785年)。イェーナ大学の歴史の教授(1789年、『三十年戦争史』)。カント。『美的教育書簡』。1794年、ゲーテと。10年の友情、手紙1000通、ヴァイマル。『ヴァレンシュタイン』『マリア・ステュアルト』『オルレアンの乙女』『ヴィルヘルム・テル』(1804年)。結核。45歳。「自由」の詩人。ベートーヴェンの第9。
- 『カンディード』できごとAD1759年この世は最善だという楽天論を、リスボン地震と戦争と奴隷制を並べて笑った。最後は「自分の庭を耕そう」で終わる。パリ

- 葛飾北斎人物AD1760年 – AD1849年5月10日70歳を過ぎてから富嶽三十六景を描いた。90年で30回改名し、93回引っ越したと伝わる。
- 『紅楼夢』できごとAD1760年頃十年辛苦曹雪芹。祖父が江寧織造として康熙帝の南巡を4度迎えた家が、雍正帝に財産を没収されて没落した。北京の西郊で、粥をすすりながら、10年、5回書き直した。賈家の大邸宅の栄えと衰え、宝玉と黛玉と宝釵、400人以上の人物。80回で筆が止まり、高鶚が120回に整えて1791年に刊行された。中国の小説の頂点とされ、これだけを研究する学問(紅学)がある。北京

- ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン人物AD1770年12月(洗礼は16日) – AD1827年3月26日20代半ばから耳が聞こえなくなり、それでも書き続けた。第九の初演では聴衆の拍手が見えるまで気づかなかったと伝わる。
- 消しゴムできごとAD1770年鉛筆の跡を消すには、パンの白い部分を丸めて使っていた。南米から運ばれた樹液の塊が、その跡をよく消すと気づかれる。1770年、化学者プリーストリーが、この物質は鉛筆の跡を擦り取るのに向くと書いた。英語で「擦るもの」を意味する語が、この素材の名になった経緯がある。ただし生ゴムは、暑ければ溶け、寒ければ固くなる。実用になるのは、硫黄を混ぜて加硫する方法が見つかってからである。書いたものを消せることは、書くことと同じくらい大事だった。下書きと推敲が、当たり前にできるようになる。ロンドン
- ダービーできごとAD1780年競走は、賭けと繁殖の両方の装置になった競馬そのものは古い。変わったのは、賭ける側の仕組みである。1780年に始まったエプソムの競走は、三歳馬だけが一度きり走る形を採った。名は、企画した二人のうちどちらの名を付けるかを硬貨で決めたと伝えられる。同じ条件で走らせ、勝った馬の血を残す。これが馬の改良と、種牡馬の価値を決める市場を生んだ。観客は階級を越えて集まり、賭けの胴元が場を仕切る。のちに日本を含む各国が、この「ダービー」の名と形を輸入した。競走は、賭けと繁殖の両方の装置になった。エプソム
- シラー『群盗』初演できごとAD1782年1月13日客が失神した22歳の軍医が、公爵の軍医学校で夜に書いた劇。兄弟の憎しみ、盗賊団の首領になった長男、自由と反逆。マンハイムの劇場で、客が叫び、失神し、抱き合った。「疾風怒濤」。公爵は「これ以上書くな」と言い、シラーは逃げた。フランス革命はシラーに名誉市民権を贈った。『ドン・カルロス』『ヴァレンシュタイン』『ヴィルヘルム・テル』『歓喜に寄す』。マンハイム
- モーツァルトの死とレクイエムできごとAD1791年12月5日匿名の依頼で書いていた鎮魂曲を未完のまま残して死んだ。35歳。ウィーン

- 国の歌できごとAD1792年革命下のフランスがオーストリアに宣戦した夜、ストラスブールの工兵大尉が行進曲を作った。マルセイユから来た義勇兵がパリへ入るときに歌ったことから、その名で呼ばれるようになる。歌詞は血なまぐさく、敵の血で畑を潤せと歌う。1795年に国歌と定められ、帝政と王政復古の時期には禁じられ、第三共和政で復活した。国民が同じ歌を同時に歌う。その経験が、国民という感覚を作る。以後、各国が国歌を持つようになり、式典と競技場で必ず流れるようになった。パリ
- 王の絵を民のものにできごとAD1793年8月10日王家の絵が、国民の財産だと宣言された革命で王が処刑された翌年、王宮だったルーヴルが美術館として開かれた。王家が集めた絵と彫刻は、国民の財産だと宣言される。週のうち数日は誰でも入れ、残りは模写をする画家のために空けられた。学ぶ場でもある、という考え方が最初から入っていた。やがてナポレオンが遠征先から美術品を運び込み、館は膨れ上がる。彼の失脚後、多くは返還された。宝物を「王のもの」から「国民のもの」へ移す動きは各国に広がり、美術館という制度が生まれる。パリ
- 鉛筆できごとAD1795年イギリスのボロウデールで見つかった黒鉛の塊は、切り出して木で挟むだけで字が書けた。良質の黒鉛はここにしか無く、イギリスは輸出を厳しく制限する。戦争でそれが手に入らなくなったフランスで、技師ニコラ・ジャック・コンテが解決した。粉にした黒鉛を粘土と混ぜ、焼いて固める。粘土の割合を変えれば、硬さも濃さも選べる。いまのHBやBという表示は、この方法から生まれた。材料の不足が、質を落とす代わりに、調整できる製品を生んだことになる。パリ
- フランツ・シューベルト人物AD1797年1月31日 – AD1828年11月19日1日に8曲書いたウィーンの小学校教師の子。14人兄弟のうち9人が幼くして死んだ。宮廷礼拝堂の少年合唱団、そして父の学校の助教師。18歳の1年間に、歌曲を145曲書いた(10月19日だけで8曲)。生涯、定職を持たず、友人の家を泊まり歩き、「シューベルティアーデ」と呼ばれる集まりで自作を演奏した。600曲以上の歌曲、交響曲、室内楽。31歳で腸チフス(梅毒の治療の水銀が体を弱らせていた)。ベートーヴェンの隣に葬られた。
- ハイドン『天地創造』できごとAD1798年4月30日光あれロンドンでヘンデルのオラトリオを聞いて、66歳で書いた。混沌の序奏から「光あれ」でハ長調の和音が炸裂する。ミルトンと創世記。ウィーンのシュヴァルツェンベルク宮殿で初演、翌年公開。1808年、76歳の最後の公の姿で、この曲を聞いて、「光あれ」で「そこから来たのだ」と天を指した。ベートーヴェンが接吻した。ウィーン
- 寄席の始まりできごとAD1798年毎晩、少しの銭で通える場所1798年、江戸の下谷の神社の境内で、櫛職人だった三笑亭可楽が、木戸銭を取って客を集め、噺を聞かせた。職業として毎日のように噺を聞かせる寄席は、ここから始まったとされる。それまでも、道端や大名の座敷で笑い話をする人はいたが、町の人が少しの銭で毎晩通える場所ができたのである。19世紀の初めには、江戸の町に百を超える寄席ができ、落語のほか講談や手品や音曲が演じられた。天保の改革で一時は十数軒に減らされたが、すぐに息を吹き返した。江戸
- 『東海道中膝栗毛』できごとAD1802年江戸の町人、弥次郎兵衛と喜多八の二人が、伊勢参りを口実に東海道を旅する。宿場ごとに失敗し、だまされ、喧嘩し、笑いを振りまく。1802年、十返舎一九が出した滑稽本の初編は評判を呼び、続編が二十年以上にわたって出された。庶民が旅をするようになった時代の、旅の案内書としても読まれた。各地の名物や方言が織り込まれている。弥次さん喜多さんという呼び名は、いまも気ままな二人旅の代名詞になっている。江戸
- ペール・ラシェーズ墓地できごとAD1804年モリエールの遺骨を移したナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。パリ

- 貸本屋できごとAD1808年(文化5年)同じ一冊が何十人に回り、続きものが成り立った本は高い。木版で刷り、紙も墨も手間も高くつく。江戸の庶民が読んでいたのは、買った本ではなく借りた本だった。貸本屋は背丈ほどの本を風呂敷に包んで背負い、得意先の家を順に回る。読み終えたころにまた来て、次を置いていく。文化5年、江戸には六百五十軒を超える貸本屋があり、客は十万人を超えたと見られている。同じ一冊が何十人もの手に渡るので、刷った部数より読者はずっと多い。滝沢馬琴の長い物語が続きものとして成り立ったのは、この仕組みがあったからになる。東京
- フェリックス・メンデルスゾーン人物AD1809年2月3日 – AD1847年11月4日姉ファニーハンブルクの銀行家の家。祖父は哲学者モーゼス・メンデルスゾーン。裕福で、家に楽団を呼べた。17歳で『真夏の夜の夢』序曲。20歳でバッハの『マタイ受難曲』を復活させた。姉ファニーも同等の才能を持ちながら、女性であるために公にできなかった。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者、音楽院の創設者。姉の死の半年後、38歳で死んだ。ナチスは彼の像を壊した。
- フレデリック・ショパン人物AD1810年3月1日 – AD1849年10月17日大ホールは30回ほどワルシャワ近郊。父はフランス人の家庭教師。7歳で出版、8歳で公開演奏。1830年、20歳でウィーンへ発ち、その3週間後に十一月蜂起が起きて、帰れなくなった。パリで、貴族の生徒に教え、少人数のサロンで弾いた(大ホールの演奏会は生涯30回ほど)。ジョルジュ・サンドと9年。マズルカ、ポロネーズ、ノクターン、バラード、練習曲。ほぼ全部がピアノのため。結核。39歳。心臓は姉が壺に入れてワルシャワへ運んだ。
- フランツ・リスト人物AD1811年10月22日 – AD1886年7月31日熱狂をやめた人ハンガリーの貴族の使用人の子。9歳で演奏会、パガニーニのヴァイオリンを聴いて「ピアノのパガニーニになる」と決めた。ヨーロッパ中を巡演し、熱狂を生んだ。37歳でやめ、ヴァイマルで指揮と作曲と教育に移った。交響詩という形式を作り、ワーグナーを支援し(後に娘コジマがワーグナーの妻になった)、若い音楽家に無料で教えた。1865年、下級の僧籍に入った。
- チャールズ・ディケンズ人物AD1812年2月7日 – AD1870年6月9日誰にも話さなかった数か月ポーツマス。12歳のとき、父が借金でマーシャルシー監獄に入り、彼は靴墨工場で1日10時間、瓶にラベルを貼った。数か月。そのことを、妻にも子にも話さなかった(伝記作家フォースターが死後に明かした)。速記者、新聞記者、そして『ピクウィック・クラブ』(1836年)で一夜にして人気作家に。月刊分冊の連載。15の長編。公開朗読で全国と米国を回り、それが命を縮めた。ウェストミンスター寺院の詩人の隅。
- グリム童話できごとAD1812年12月20日昔話を民族の宝として集めるナポレオンに支配されたドイツで、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は、ドイツの人々が語り継いできた昔話を、民族の宝として集めた。1812年の暮れに出た『子どもと家庭のための昔話集』の第1巻には、「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」「シンデレラ」など86の話が収められた。話を語ったのは、素朴な農民というより、町の教養ある家の若い女性たちが多かった。版を重ねるうちに、兄弟は性的な場面を削り、教訓を加えて、子どもに読ませる本へと書き直していった。最後の版では210話になり、聖書に次いで多くの言葉に訳されたドイツの本の一つになった。カッセル
- リヒャルト・ワーグナー人物AD1813年5月22日 – AD1883年2月13日劇場そのものを作ったライプツィヒ。1849年のドレスデン蜂起に加わって指名手配され、12年、スイスとパリに亡命した。借金から逃げ、他人の妻を奪い(リストの娘コジマ、指揮者ビューローの妻)、反ユダヤの文章を書いた。同時に、台本と音楽と演出と劇場を、一人で構想した。『トリスタンとイゾルデ』の和音が、調性の限界を開いた。1864年、18歳のバイエルン王ルートヴィヒ2世が現れて、全部の借金を払った。
- ジュゼッペ・ヴェルディ人物AD1813年10月10日 – AD1901年1月27日老いた音楽家の家パルマ近郊の宿屋兼雑貨屋の子。ミラノ音楽院の入学を年齢超過で断られた。25歳で妻と二人の子を2年の間に失った。『ナブッコ』で立ち直り、以後、26のオペラ。『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』、そして79歳の『ファルスタッフ』。統一イタリアの下院議員を短く務めた。財産で、老いた音楽家のための家(カーサ・ヴェルディ)をミラノに建てた。「私の作品の中で最も美しいものだ」。
- オースティン『高慢と偏見』できごとAD1813年1月28日1813年1月、作者の名を伏せた小説が出版された。田舎の地主の家の五人姉妹は、父が死ねば家も土地も遠い親戚の男に渡る決まりの中で暮らしている。結婚は、女性が生きていくほとんど唯一の手段だった。聡明な次女エリザベスと、高慢に見える資産家ダーシーが、互いの思い込みを乗り越えていく。ジェイン・オースティンは、客間の会話だけで、財産と身分と女性の置かれた立場を描き出した。二百年後も、映画とドラマで繰り返し作り直されている。ロンドン
- ムルタトゥーリ人物AD1820年3月2日 – AD1887年2月19日私は多くを苦しんだ本名エドゥアルト・ダウエス・デッケル。ジャワの副理事官として、現地の摂政による搾取を告発して、辞職に追い込まれた。1860年、ブリュッセルの安宿で1か月で『マックス・ハーフェラール、またはオランダ商事会社のコーヒー競売』を書いた。筆名はラテン語で「私は多くを苦しんだ」。オランダで最も重要な小説とされ、植民地政策を変えた。「サーイジャとアディンダ」の章。
- フョードル・ドストエフスキー人物AD1821年11月11日 – AD1881年2月9日銃殺刑の直前に減刑され、4年シベリアで過ごした。その経験のあとに書いたものが世界中で読まれている。
- ギュスターヴ・フローベール人物AD1821年12月12日 – AD1880年5月8日1日に数行ルーアンの外科部長の子。病院の敷地で育ち、父の解剖を窓から見た。法学生の頃、てんかんの発作で学業を断念し、以後、母の家(クロワッセ)で書くことだけをした。1日に数行。声に出して読んで、耳で確かめた(「怒鳴り部屋」)。『ボヴァリー夫人』に4年半、『サランボー』に5年、『感情教育』に7年。「ボヴァリー夫人は私だ」と言った、と伝えられる。
- 第九交響曲の初演できごとAD1824年5月7日耳の聞こえない作曲家が指揮台に立ち、終わったあと聴衆のほうを向かされて初めて拍手に気づいたと伝わる。ウィーン
- シューベルト『冬の旅』できごとAD1827年空の手回しオルガン24曲。失恋した男が、冬の夜に町を出て、あてもなく歩く。菩提樹、鬼火、宿屋(墓地のこと)、そして最後に、村外れで空の手回しオルガンを回し続ける老人。「不思議な老人よ、私はあなたと行こうか。私の歌に、あなたの楽器を合わせてくれるか」。31歳のシューベルトが、死の前年に書いた。友人に聞かせたとき、皆が黙り込んだ。「この歌は、他のどれよりも私を捉えた。君たちにもいつか分かる」。ウィーン
- レフ・トルストイ人物AD1828年9月9日 – AD1910年11月20日『戦争と平和』で歴史を英雄ではなく無数の人の集まりとして描いた。晩年は財産と著作権を手放そうとして家族と対立する。
- マタイ受難曲の復活上演できごとAD1829年3月11日100年ぶりの演奏20歳のメンデルスゾーンが、ベルリンの歌唱協会で、100年ぶりにこの曲を演奏した。彼の祖母が写譜を贈り、彼はそれを抱えて育った。切り詰めた版で、楽器も当時のものではなかったが、聴衆は打たれた。「二代の隔たりを越えて、一人のユダヤ人がこの偉大なキリスト教の音楽を人々に返した」と彼は言った。これがバッハ再発見の始まりで、以後、音楽に「過去の名作を演奏し続ける」という習慣ができた。ベルリン
- 『富嶽三十六景』できごと1830年安価な藍が入ってきたことが、あの青を可能にした70歳を過ぎてからの仕事。安価な藍(ベロ藍)が入ってきたことが、あの青を可能にした。江戸

- ジャワの強制栽培制度できごとAD1830年マックス・ハーフェラールジャワ戦争(1825〜30年)とベルギー独立で財政が傾いたオランダが、総督ファン・デン・ボスの案で、ジャワの村に、耕地の5分の1でコーヒー・砂糖・藍を作り、政府に決まった値で売ることを課した。実際には5割を超える村も、田が減って飢えた村もあった。オランダ本国の歳入の3分の1がジャワから来た年がある。1860年、『マックス・ハーフェラール』が告発し、1870年に緩んだ。プリアンガン(西ジャワ)
- 七月革命できごとAD1830年7月27日民衆を導く自由の女神シャルル10世が議会を解散し、出版を禁じ、選挙権を狭める勅令を出した。パリは3日で立った。「栄光の三日間」。バリケード。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』。シャルルはイギリスへ。オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス人の王」。ブルジョワの王政。革命は、王を替えただけだった。ベルギーがオランダから独立し、ポーランドが立って潰された。パリ

- 『ファウスト』の完成できごとAD1831年24歳で書きはじめ、82歳で終えた。60年かけて一つの作品に付き合っている。ワイマール
- 神奈川沖浪裏できごとAD1831年頃安く刷られたから、世界へ広がった七十歳を過ぎた葛飾北斎は、富士山をさまざまな場所から描く錦絵の揃い物を出した。その一枚、神奈川沖浪裏では、爪のように砕ける大波の向こうに、小さな富士が見える。舟の漕ぎ手たちは波の下に身をかがめている。当時輸入されたばかりの合成顔料の青が、空と海に使われた。町人が気軽に買える値段の版画である。のちにヨーロッパへ渡り、印象派の画家や音楽家を驚かせた。いまでは世界でいちばん知られた日本の絵になっている。江戸
- ショパンの練習曲できごとAD1833年練習曲を音楽にした作品10の12曲。それまでの練習曲は指を鍛えるための練習用の楽譜で、演奏会にはかけなかった。ショパンは、一つの技術的な課題(分散和音、黒鍵、三度、オクターヴ)を、そのまま一つの音楽にした。第12番「革命」は、ワルシャワ蜂起がロシアに潰された知らせを、シュトゥットガルトで聞いた頃の作とされる。彼は二度と祖国に帰らず、パリで死んだ。心臓だけがワルシャワの教会の柱に納められている。パリ
- ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』できごとAD1838年もう少しください救貧院で生まれた孤児が、粥のおかわりを求めて「もう少しください」と言い、追い出され、ロンドンの窃盗団に拾われる。1834年の新救貧法(貧民を救貧院に押し込め、夫婦を分け、労働を強いる)が施行された直後の連載。月刊の分冊で、毎号、街が続きを待った。作者は12歳のとき、父が債務者監獄に入って、靴墨工場で働いた。そのことを、生涯、誰にも話さなかった。ロンドン
- 写真の発明できごとAD1839年8月19日一点物か複製かニエプスが1826年に8時間の露光で窓の外を写し、その死後、共同研究者ダゲールが銀を蒸着した銅板を使う方法を完成させた。露光は数十分。フランス政府が特許を買い上げ、この日、科学アカデミーで公開して「世界への贈り物」とした。同じ頃イギリスのタルボットが、紙の陰画から何枚でも焼く方法を作っていた。一点物か複製か。写真術は後者を選び、それが絵画と記憶と証拠のあり方を変えた。パリ
- フレーベルと幼稚園できごとAD1840年球と立方体から始まる恩物それまで、就学前の子どもを預かる施設は、母親が働く間の託児所だった。フリードリヒ・フレーベルは、幼児期そのものに固有の意味があると考えた。子どもは遊びを通して世界を理解する。彼は球、立方体、円柱から始まる一連の教具(恩物)を作り、庭仕事と歌と手仕事を組み合わせた。施設を「子どもの庭(キンダーガルテン)」と名づけた。1851年、プロイセンが革命思想の温床として禁止した。彼の死後、弟子たちが世界へ広めた。バート・ブランケンブルク
- リストと独奏会の誕生できごとAD1840年ピアノを横向きに置いたそれまで演奏会は、複数の演奏者が交互に出る寄せ集めだった。リストは一人で全部を弾き、ピアノを客席に横向きに置いて横顔を見せ、暗譜で弾いた。「リサイタル」という語をこのとき使った。熱狂は「リストマニア」と呼ばれ、女性が手袋やハンカチを奪い合った。彼は稼いだ金をベートーヴェン記念碑とハンガリーの水害の被災者に投じ、35歳で演奏活動をやめ、後に僧籍に入った。ロンドン
- エミール・ゾラ人物AD1840年4月2日 – AD1902年9月29日ジェルミナール『ルーゴン・マッカール叢書』20巻。『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』。自然主義。1898年1月13日、『オーロール』紙の一面に「私は弾劾する」。大統領への公開書簡。参謀本部の将軍を名指しで。名誉毀損で有罪、イギリスへ逃げた。1902年、寝室の煙突が詰まって一酸化炭素で死んだ。事故か、反ドレフュス派の職人の仕業か。パンテオンに移された式典で、ドレフュスが撃たれた(軽傷)。
- 絵具のチューブできごとAD1841年チューブがなければ印象派もなかったそれまで絵具は、顔料を油で練って豚の膀胱に詰め、使うたびに針で穴を開けた。乾く。漏れる。持ち運べない。1841年、アメリカ人の画家ジョン・ゴフ・ランドが、錫の折りたためる筒に詰める方法を特許にした。絵具が保存でき、持ち運べる。屋外で、その場の光を見ながら描けるようになった。同じ頃、鉄道が郊外へ延びていた。ルノワールは後にこう言った。「絵具のチューブがなければ、セザンヌも、モネも、印象派もなかった」。ロンドン
- ヴェルディ『ナブッコ』できごとAD1842年3月9日黄金の翼に乗って妻と二人の子を続けて失い、前作が失敗して、もう書かないと決めていた28歳に、スカラ座の支配人が台本を押しつけた。開いた頁に「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」。バビロン捕囚のユダヤ人の合唱。初演は熱狂で迎えられ、この旋律がオーストリア支配下のイタリアで歌われた。彼の名 VERDI が「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の頭文字と重なり、壁に落書きされた。ミラノ
- ニッカボッカーの規則できごとAD1845年9月23日走る者に球をぶつけるのをやめ、大人が遊べる競技にしたニューヨークの若い事務員や商人たちが作ったクラブが、棒で球を打って塁を回る遊びの決まりを書き留めた。それまでの遊びでは、走っている者に球をぶつければアウトだった。新しい決まりでは、ぶつけるのをやめ、球を持って塁に触れればよいことにした。大人がけがをせずに遊べるようにするためである。打った球が外に出ればファウル、三つアウトで攻守交代。試合は、川向こうのホーボーケンの原っぱで行われた。二十の条からなるこの決まりが、のちの野球の土台になった。ホーボーケン
- メルヴィル『白鯨』できごとAD1851年売れずに忘れられ、七十年後に読まれた鯨油で夜の灯りをともしていた時代、捕鯨船は世界の海を何年も航海した。自ら捕鯨船に乗ったハーマン・メルヴィルは、片脚を奪った白い巨鯨を執念で追うエイハブ船長の物語を書き、1851年に出版する。鯨の解剖や捕鯨の作業の説明が延々と続く、型破りな本だった。ほとんど売れず、メルヴィルは税関の役人として忘れられたまま死ぬ。七十年後に再び読まれ始め、いまではアメリカ文学の頂点の一つとされている。ニューヨーク
- ストウ『アンクル・トムの小屋』できごとAD1852年逃げた奴隷を北部の州も捕らえて返すよう定める法律ができると、牧師の家に育ったハリエット・ビーチャー・ストウは、奴隷制の残酷さを物語で伝えようとした。信仰深い奴隷トムが売られ、最後は残忍な主人に打ち殺される小説は、1852年に本になると一年で数十万部が売れる。北部の世論は奴隷制への怒りに傾き、南部は嘘だと反発した。のちに、黒人を従順に描く型を作ったとも批判され、アンクル・トムは白人に媚びる者を指す悪口にもなった。ボストン
- 『ボヴァリー夫人』裁判できごとAD1857年1月31日作者の顔が見えない田舎医者の妻が、退屈と、読みすぎた恋愛小説の理想から、姦通と借金に落ち、砒素で死ぬ。連載後、公序良俗と宗教への冒涜で起訴された。検事は、姦通が罰せられていないこと、そして作者がどこにも道徳の判断を書いていないことを、罪だと論じた。無罪。作者は「私が有罪なら、文学全部が有罪になる」と書いた。作者の顔が見えない語り、正確な文体。近代小説の出発点とされる。パリ
- ウォルトとオートクチュールできごとAD1858年デザイナーが流行を作るそれまでの女性の服は、客が布を選び、仕立て屋が客の注文どおりに縫うものだった。イギリス生まれのシャルル・フレデリック・ウォルトは、1858年、パリに自分の店を開き、仕立て屋ではなく、服を考え出す者として振る舞った。季節ごとに新しい服を考え、生きた女性に着せて客に見せ、客はその中から選んで自分の寸法で作らせた。服には自分の名前の入ったラベルを縫いつけた。皇妃ウジェニーが顧客となり、ウォルトの服はヨーロッパの宮廷を席巻した。デザイナーが流行を作るというオートクチュールの仕組みは、ここに始まった。パリ
- マニプルのポロできごとAD1859年馬に乗って杖で球を打つ遊びは、ペルシアから中国まで古くから行われていたが、多くの土地では廃れていた。インド東北のマニプルでは、小柄な馬に乗って球を追う競技が、人々の暮らしの中に生きていた。隣のアッサムで茶園を営むイギリス人たちは、マニプルの人々の試合を見て夢中になり、1859年、シルチャルに最初のポロのクラブを作った。やがて規則が書かれ、騎兵の将校たちがそれを本国へ持ち帰る。イギリスの上流の競技として知られるポロは、植民地の辺境で、土地の人々から学んだものだった。シルチャル
- ラビンドラナート・タゴール人物AD1861年5月7日 – AD1941年8月7日二つの国歌を書いたアジアで最初のノーベル文学賞。インドとバングラデシュ、両方の国歌を作詞している。
- リュミエール兄弟人物AD1862年10月19日 – AD1954年4月10日未来のない発明オーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)。リヨンの写真乾板の工場主の息子。エジソンのキネトスコープ(覗き箱)を見て、映写できる機械を作った。ミシンの送り機構。1895年、シネマトグラフ。カメラマンを世界に送って、1400本の短い映画。1903年、オートクローム(カラー写真)。「映画は未来のない発明だ」と言って、事業を売った。ルイは立体写真、オーギュストは医学に戻った。
- ユゴー『レ・ミゼラブル』できごとAD1862年一本のパンと十九年の徒刑ナポレオン3世の独裁に反対して国を追われたヴィクトル・ユゴーは、英仏海峡の島で長い小説を書き上げた。一本のパンを盗んで十九年の徒刑となったジャン・ヴァルジャンが、司教の赦しをきっかけに生き直す物語である。1862年、ブリュッセルとパリで同時に出版されると、各地で行列ができるほど売れた。貧しさと法の冷たさ、革命の夢を描いた物語は、のちにミュージカルとなって、国も時代も越えて演じられている。ブリュッセル
- 『戦争と平和』できごと1865年歴史を英雄ではなく無数の人の集まりとして書いた歴史を英雄が動かすという見方をはっきり否定し、無数の人の集まりとして書いた。ヤースナヤ・ポリャーナ

- 『不思議の国のアリス』できごとAD1865年教訓のない子どもの本オックスフォード大学の数学の講師チャールズ・ドジソンは、1862年7月の夏の日、学寮長の娘アリス・リデルら三姉妹を連れて川でボートを漕ぎながら、白いウサギを追って穴に落ちた女の子の話を即興で語った。アリスにせがまれて書き留めた話は、ルイス・キャロルの筆名で、テニエルの挿絵を添えて1865年に出版された。それまでの子どもの本の多くは、良い子になるための教訓を説くものだったが、この本は言葉遊びと奇妙な論理で、ただ読む楽しさを子どもに差し出した。子どもの文学は、ここから大きく変わったといわれる。オックスフォード
- ドストエフスキー『罪と罰』できごとAD1866年理屈で人を殺してよいか賭博の借金に追われていたフョードル・ドストエフスキーは、1866年、雑誌に長編の連載を始めた。ペテルブルクの貧しい学生ラスコーリニコフが、選ばれた人間は社会のためなら悪人を殺してよい、という考えに取りつかれ、金貸しの老婆を殺す。そのあと彼を苦しめるのは、法の罰よりも自分の良心だった。犯人の心の中を、読者が一緒にたどる小説である。理屈で人を殺してよいとする考えへの問いは、次の世紀の独裁の時代に、いっそう重くなった。サンクトペテルブルク
- 夏目漱石人物AD1867年2月9日 – AD1916年12月9日三四郎、それから、こころ江戸の名主の末子で、養子に出され、戻された。英語教師としてロンドンに2年いて神経衰弱になった。帰って猫の話を書き、朝日新聞に入り、『三四郎』『それから』『こころ』。胃潰瘍で49歳。「則天去私」。
- 正岡子規人物AD1867年10月14日 – AD1902年9月19日柿くへば鐘が鳴るなり松山の生まれ。俳句と短歌を「写生」で作り直し、「月並み」を退けた。結核で脊椎が崩れ、寝たきりで『病牀六尺』を新聞に書いた。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。野球を愛し、「ベースボール」を「野球」と訳した一人。34歳。
- クインズベリー・ルールできごとAD1867年暴力を消さず、決まりの枠に収めたそれまでの拳闘は、素手で殴り合い、投げても組み付いてもよく、どちらかが立てなくなるまで続いた。賭けと結びつき、死人も出るので、多くの土地で禁じられていた。1867年、ウェールズの運動家ジョン・チェンバーズが書き、クインズベリー侯爵の名を冠して出された決まりは、様子を一変させた。手袋をはめる。一回は三分、間に一分休む。倒れた者は十数えるうちに立たなければ負け。組み付き、投げは禁止。殴り合いは、時間と数で区切られた競技になった。暴力を消したのではなく、決まりの枠に収めたのである。ロンドン
- ウォーレス・セイビン人物AD1868年6月13日 – AD1919年1月10日オハイオの生まれ。ハーヴァードで物理を教えていた二十七歳のとき、聞き取れない講堂の調査を命じられた。音響学の予備知識は無い。夜ごとオルガン管を鳴らし、座布団と人を出し入れしながら、残響の消える時間を測り続けた。得た式は、いまも彼の名で呼ばれている。ボストン交響楽ホールの設計に関わり、それは世界で最も響きの良いホールの一つと評価されている。第一次大戦中に軍務で消耗し、五十歳で死んだ。吸音の単位に、彼の名がある。
- 猫の品評会できごとAD1871年7月13日愛玩の対象になることは、規格に当てはめられること猫はねずみを捕る道具として、家の隅にいた。1871年、画家のハリソン・ウィアが水晶宮で猫の品評会を開く。毛の色、体つき、目の形に基準を作り、審査して賞を出した。品種という考え方が猫に持ち込まれた瞬間である。ウィア自身は、猫が美しい生き物として見られるようになれば、扱いも変わると考えていた。数十年で血統の登録が始まり、値の付く猫と付かない猫が分かれる。愛玩の対象になることは、守られることであると同時に、規格に当てはめられることでもあった。ロンドン
- 樋口一葉人物AD1872年5月2日 – AD1896年11月23日たけくらべ父が死んで17歳で戸主になり、母と妹を食べさせるために小説を書いた。吉原の裏で荒物屋を開いて失敗し、そこで見たものが『たけくらべ』になった。14か月で代表作を全部書いて、結核で24歳。五千円札。
- 日本の博物館できごとAD1872年(明治5年)ウィーンの万国博覧会に出品するため、政府は全国から品を集めた。その下見を兼ねて、1872年、湯島聖堂で展覧会を開く。名古屋城の金鯱や、大きな提灯、動植物の標本が並び、二十日間で十五万人が訪れたと伝えられる。人が集まりすぎて日時を制限したという。廃仏毀釈で寺の宝物が壊され、売られていた時期でもある。古いものを国の宝として保存し、見せて教える。そういう考え方が、この展覧会と、のちの東京の博物館から広まっていった。東京
- 第一回印象派展できごとAD1874年4月15日悪口が、流派の名前になったパリの画家の出世の道は、国が開く官展に入選することだった。筆の跡を残し、戸外の光を描く若い画家たちは、繰り返し落とされていた。1874年4月15日、モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、セザンヌらは、写真家ナダールの元の仕事場を借りて、自分たちで展覧会を開く。モネの港の朝の絵の題を取って、ある批評家が皮肉を込めて「印象派」と書いた。その悪口が、流派の名前になった。画家が、国の審査を通らずに観客と直接つながる道を開いた。パリ
- バイロイトと『指環』できごとAD1876年8月13日オーケストラを床下にワーグナーは、自分の作品のためだけの劇場を作った。オーケストラを床下に隠し(音が溶け、視界を遮らない)、客席を扇形にして貴賓席をなくし、上演中に客席を暗くした(当時、劇場は明るいままで、社交の場だった)。4夜15時間の『ニーベルングの指環』。26年かけて書いた。第1回の祝祭に、皇帝とブラジル皇帝とリスト、そしてチャイコフスキーが来た。ニーチェは失望して去った。バイロイト
- 蓄音機の発明できごとAD1877年演奏が商品になった錫箔を巻いた円筒に、針で溝を刻む。電話の実験の副産物だった。エジソンが最初に吹き込んだのは「メリーさんの羊」。それまで、音は、鳴った瞬間に消えるものだった。この機械が、死んだ人の声を残し、遠い土地の音楽を運び、演奏を商品にした。彼は用途の第一に「遺言と口述筆記」を挙げ、音楽は第四に置いた。1887年、ベルリナーが円盤に変え、複製ができるようになった。メンローパーク
- 第1回ウィンブルドン選手権できごとAD1877年7月9日庭の遊びから世界の大会へロンドンの郊外ウィンブルドンのクロッケーの倶楽部は、新しく流行し始めた芝生の上のテニスを取り入れ、1877年7月、初めての選手権を開いた。参加したのは22人の男たちで、決勝はわずか二百人ほどの観客の前で行われ、スペンサー・ゴアが勝った。この大会のために、コートの広さやネットの高さ、得点の数え方などの決まりが定められ、それがいまのテニスの決まりのもとになった。1884年には女子の部も始まった。上流の人々の庭の遊びは、世界で最も伝統のある大会の一つに育った。1968年からは、プロの選手も出場できるようになった。ウィンブルドン
- 『カラマーゾフの兄弟』できごと1879年銃殺刑の直前に減刑され、シベリアで4年過ごした人が最後に書いた長編。モスクワ

- 君が代できごとAD1880年(明治13年)明治の初め、外国の儀礼に接した日本は、国歌が無いことに気づいた。イギリス人軍楽隊長の助言で、古今和歌集の歌に曲が付けられたが、日本人には歌いにくかった。1880年、宮内省の雅楽の楽師が作った旋律に、ドイツ人教師が和声を付け直したものが採用される。以後、学校と軍隊で歌われた。法律で国歌と定められたのは1999年で、それまで百二十年近く、慣習として使われていたことになる。歌詞の「君」が誰を指すのかをめぐる議論は、その制定のときも、いまも続いている。東京
- 魯迅人物AD1881年9月25日 – AD1936年10月19日医学を捨てて小説を書いた。『阿Q正伝』で、変わらない社会を内側から抉る。
- パブロ・ピカソ人物AD1881年10月25日 – AD1973年4月8日探さない、見つけるマラガ。画家の父が、息子の絵を見て筆を置いた。バルセロナ、1904年からパリ。青の時代、薔薇色の時代、『アヴィニョンの娘たち』、キュビスム(ブラックと)、コラージュ、新古典、シュルレアリスム、『ゲルニカ』(1937年)、陶器、晩年の版画。女が7人、絵が5万点。共産党員。「私は探さない。見つける」。91歳。20世紀で最も有名な画家で、最も嫌われた夫。
- ジェイムズ・ジョイス人物AD1882年2月2日 – AD1941年1月13日ダブリンだけを書いたダブリン。落ちぶれた家の長男。ユニヴァーシティ・カレッジ。1904年、ノラ・バーナクルと駆け落ちして、トリエステ、チューリヒ、パリ。英語を教えて貧しく、目を17回手術した。『ダブリナーズ』(1914年)、『若い芸術家の肖像』(1916年)、『ユリシーズ』(1922年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年、17年、夢の言葉)。アイルランドに帰らず、ダブリンだけを書いた。娘ルチアは統合失調症でユングが診た。
- イーゴリ・ストラヴィンスキー人物AD1882年6月17日 – AD1971年4月6日音楽は何も表現しないペテルブルクの近く。オペラ歌手の子。リムスキー・コルサコフに学んだ。ディアギレフが『火の鳥』(1910年)を注文した。『ペトルーシュカ』『春の祭典』。革命で帰れず、スイス、パリ、1939年からアメリカ。新古典(『プルチネッラ』『詩篇交響曲』)、晩年に12音技法。ハリウッド。「音楽は何も表現しない」。ヴェネツィアのサン・ミケーレ島に、ディアギレフの隣に葬られた。
- サグラダ・ファミリアできごとAD1882年完成しないことが、物語の一部に1882年、バルセロナで、信者の寄付による贖罪の教会の工事が始まった。翌年、三十一歳のアントニ・ガウディが設計を引き継ぐ。森の木々のように枝分かれする柱、トウモロコシのような塔。ガウディは後半生をこの建物に捧げ、1926年に路面電車にはねられて死んだとき、完成していたのはごく一部だった。スペイン内戦では図面や模型が焼かれる。その後も寄付と入場料で工事が続き、百四十年を超えて、いまも建てられ続けている。バルセロナ
- フランツ・カフカ人物AD1883年7月3日 – AD1924年6月3日全部焼いてくれプラハ。ドイツ語を話すユダヤ人。商人の父を恐れた(『父への手紙』)。法学博士。労働者傷害保険局。午後2時に帰って、夜に書いた。『判決』『変身』『流刑地にて』。婚約を3回して、2回はフェリーツェ・バウアーと、全部解消した。結核。41歳で療養所で死んだ。『審判』『城』『失踪者』は未完で、ブロートが出した。「僕の書いたものを全部焼いてくれ」。
- 『星月夜』できごとAD1889年6月療養院の窓から見た夜を、記憶と想像で描いた。10年で2000点を描き、生前に売れたのはほとんど無い。弟への手紙が、その10年を日記のように残す。サン=レミ=ド=プロヴァンス

- ターハー・フセイン人物AD1889年11月14日 – AD1973年10月28日3歳で失明し、アラブ近代文学の中心になった。ジャーヒリーヤ詩の真正性を疑って論争を起こし、教育の無償化を進めた。
- 消える歌を捕まえるできごとAD1890年蓄音機は、はじめ事務の道具として売り出された。使い道を見つけたのは、人類学者と音楽家だった。1890年、アメリカの研究者がメイン州のパサマクォディの人々の歌と語りを蝋管に吹き込んだ。記録に残る最初の民族音楽の野外録音とされる。ハンガリーではバルトークとコダーイが村を歩いて農民の歌を集め、その音階が自分たちの作曲を変えた。文字に起こせば消えてしまう節回しや訛りが、そのまま残る。話者が数人になった言語の音も、この蝋管に残っている場合がある。消えていくものを、消える前に捕まえる道具になった。ワシントンD.C.
- リュミエールの映画上映できごとAD1895年12月28日列車が向かって来てグラン・カフェの地下「インドの間」。入場料1フラン。33人。『工場の出口』『水をかけられた散水夫』。50秒ずつ、10本。翌年から上映した『列車の到着』では、列車が向かって来て、客が逃げた、と伝える。シネマトグラフ。撮影機で映写機で焼付機。リュミエール兄弟は「未来のない発明」と言った。翌年、世界中で興行し、日本には1897年。パリ
- 活動写真の上映できごとAD1897年2月15日画面の横に立つ弁士1897年2月15日、大阪の南地演舞場で、京都の実業家の稲畑勝太郎が、フランスから持ち帰ったリュミエール兄弟のシネマトグラフを使って、日本で初めて映画をスクリーンに映した。前の年の暮れには神戸で、一人ずつ箱をのぞくエジソンのキネトスコープも見せられている。動く写真は「活動写真」と呼ばれた。日本の映画館では、画面の横に弁士が立って、筋を語り、登場人物の台詞を声色で演じた。人気の弁士は俳優より客を呼び、映画に音がついたあとも、しばらくは弁士つきの上映が続いた。大坂
- ジョージ・ガーシュウィン人物AD1898年9月26日 – AD1937年7月11日二流のラヴェルになる必要はないブルックリン。ロシア帝国から来たユダヤ人移民の子。12歳で家に来たピアノに取り憑かれ、15歳で学校をやめ、楽譜屋で流行歌を弾く仕事に就いた。兄アイラが詞を書き、二人で数百の歌を作った(「サマータイム」「ス・ワンダフル」)。『ラプソディ・イン・ブルー』『パリのアメリカ人』、そして黒人の歌手だけで演じる歌劇『ポーギーとベス』。ラヴェルに弟子入りを断られた(「一流のガーシュウィンが、二流のラヴェルになる必要はない」)。38歳、脳腫瘍。
- ウンム・クルスーム人物AD1898年頃 – AD1975年2月3日同じ歌が二度と同じにならない毎月第一木曜のラジオ放送で、アラブ世界の街から人が消えたと言われる歌手。一曲を1時間かけて歌った。
- 残響を測るできごとAD1900年ハーヴァード大学の新しい講堂が、極端に聞き取りにくい。若い物理学者ウォーレス・セイビンが原因の調査を任された。夜、彼はオルガンの音管を鳴らし、止め、消えるまでの時間を耳と時計で測った。座布団を運び込んでは測り、人を座らせては測る。数千回。そして残響時間が、部屋の容積に比例し、吸音の総量に反比例することを見出した。式が一本できたことで、建てる前に響きを計算できるようになる。1900年のボストン交響楽ホールが、その最初の適用である。ボストン
- 与謝野晶子『みだれ髪』できごとAD1901年8月15日22歳の女性が体を歌った「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。22歳の女性が恋と体を歌って、罵倒された。3年後、日露戦争の弟に「君死にたまふことなかれ」を書いて、また罵倒された。東京

- アルバート・ナマジラ人物AD1902年7月28日 – AD1959年8月8日風景画の形をとった、土地との関係の記録アレンテの画家。中央オーストラリアの風景を水彩で描き、先住民として初めて市民権を与えられた。その市民権が悲劇を招く。
- カルーソーの録音できごとAD1902年録音が、記録の道具から売り物になった当時の録音は音が悪く、まともな歌手が吹き込むものではないとされていた。1902年、レコード会社の技師ゲイスバーグは、ミラノのホテルの一室にピアノを運び込み、若いテノール歌手エンリコ・カルーソーに十曲を歌わせた。録音は数時間で終わり、彼は高額の報酬を受け取った。出来上がった盤は、それまでのどの録音より声がよく通った。人々は、歌手を見に行かなくても、その声を家で聴けることを知る。カルーソーは録音で世界的に知られた最初の音楽家になり、レコードは記録の道具から、売り物としての音楽になった。ミラノ
- テディベアできごとAD1902年政治家の逸話が商品になった1902年、ミシシッピへ熊狩りに出たセオドア・ローズヴェルト大統領は、木に縛りつけられた熊を撃つのを断った。その場面が新聞の漫画になる。ブルックリンで菓子屋を営むミクトム夫妻が、熊のぬいぐるみを作って「テディの熊」と名付けた。ほぼ同じころ、ドイツのシュタイフ社も手足の動く熊を作り、アメリカから大量の注文を受ける。猛獣だった熊が、子どもが抱いて眠るものになった。政治家の逸話が商品になった最初の例の一つでもある。ニューヨーク
- デルタのブルースできごとAD1903年綿花畑から出た音ミシシッピ・デルタは綿花の土地で、小作の黒人が働いた。畑の掛け合いの唄、教会のゴスペル、そして西アフリカの弦の弾き方が混ざった。1903年、W・C・ハンディがタットワイラーの駅で、ナイフの背を弦に滑らせて歌う男を見たと書いている。三行の詩の形、十二小節、そして三度と七度を下げる音。レコードは1920年代から。チャーリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソン。北へ移った人々がシカゴでこれを電気化した。クラークスデイル
- パブロ・ネルーダ人物AD1904年7月12日 – AD1973年9月23日恋愛詩から政治詩まで書き、外交官と上院議員も務めた。クーデターの12日後に死に、その死因はいまも争われている。
- 『ピーター・パン』の初演できごとAD1904年12月27日大人にならない少年スコットランド出身の劇作家ジェームズ・マシュー・バリーは、ロンドンのケンジントン公園で知り合った少年たちと遊ぶうちに、大人にならない少年の物語を作り上げた。1904年12月27日、ロンドンの劇場で劇『ピーター・パン』が初演された。ネバーランドに住み、空を飛ぶピーターが、ウェンディと弟たちを連れ出し、海賊フック船長と戦う。妖精ティンカー・ベルを救うため、観客の子どもたちに妖精を信じるなら拍手をと呼びかける場面は、劇場を沸かせた。バリーは1929年、この作品の権利を、ロンドンの子どものための病院に贈った。ロンドン
- 夏目漱石『吾輩は猫である』できごとAD1905年1月1日猫の目で見た明治「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。英語教師が神経衰弱の気晴らしに書いた話が『ホトトギス』に載り、続きを求められて11回続いた。37歳。2年後に東京帝大を辞めて朝日新聞に入る。東京

- 大部屋の事務所できごとAD1906年フランク・ロイド・ライトが、通信販売会社ラーキンのために建てた。中央が五階分の吹き抜けで、そこに事務員の机が整然と並ぶ。管理者は上の階から見下ろせる。空調と、金属製の家具と、壁に折りたたむ椅子まで設計された。効率と衛生と、そして監視である。この形が二十世紀の事務所の原型になり、後に個室化と、また大部屋化を繰り返す。建物は1950年に取り壊され、いまは駐車場になっている。バッファロー
- パーマネントできごとAD1906年髪を巻いても、湿気ですぐ戻る。ドイツ出身でロンドンに店を構えたカール・ネスラーは、アルカリの薬液を塗った髪を金属の棒に巻き、電気で熱して形を固定する方法を公開した。最初の施術には数時間かかり、頭皮を焼く事故もあった。それでも「持つ」ことの価値は大きく、機械は各国の美容室に入っていく。日本では大正末から広まり、戦時中は敵性の風俗として自粛が求められ、戦後にまた一気に戻った。髪型は、その時代に何が許されているかを、いちばん早く映す。ロンドン
- 夏目漱石『坊っちゃん』できごとAD1906年4月無鉄砲な江戸っ子無鉄砲な江戸っ子の青年が、四国の中学校に数学の教師として赴任し、教頭の赤シャツやその取り巻きのずるさに腹を立てて、同僚の山嵐と組んで一矢を報いる。漱石が若いころ松山の中学校で教えた経験をもとに、雑誌『ホトトギス』に一挙に載せた。東京に戻った坊っちゃんを待っていた、ばあやの清への思いで結ばれる。東京
- 『アヴィニョンの娘たち』できごとAD1907年500年の遠近法が終わったバルセロナのアヴィニョン通りの娼館の5人の女。顔がアフリカの仮面で、体が角ばって、遠近法がなく、正面と横顔が同時に。ピカソ25歳。友人に見せて、ブラックは「石油を飲まされたようだ」、マティスは怒った。9年、アトリエに丸めてあった。キュビスム。500年の遠近法の絵が、ここで終わった。ニューヨーク近代美術館。パリ
- フリーダ・カーロ人物AD1907年7月6日 – AD1954年7月13日事故の後遺症と向き合いながら、自画像ばかりを描いた。「私は自分をいちばんよく知っている」と言っている。
- 国技館できごとAD1909年6月2日相撲が「国技」と名乗ったのは、この建物が最初だった江戸時代の相撲は、寺社の境内に小屋を掛けて興行し、雨が降れば休みになった。1909年、両国に鉄骨の丸屋根を持つ常設の館ができ、晴天でなくても取組ができるようになった。館の名は、開館の案内に書かれた「角力は日本の国技」という言葉から採られたと伝えられる。同じ年、新聞社が幕内でいちばん勝った力士をたたえる仕組みを始め、個人の優勝という考えが生まれた。見物の人々は、東西の勝ち負けより、誰が勝ち越し、誰が優勝するかに目を向けるようになる。相撲が「国技」と名乗ったのは、この建物が最初だった。両国
- 太宰治人物AD1909年6月19日 – AD1948年6月13日青森の大地主の家の六男。東京帝大の仏文科に籍を置いたまま作家になり、自殺未遂と心中未遂を何度も重ねた。戦中に『走れメロス』『津軽』、戦後に『斜陽』で流行作家になる。『人間失格』の連載中、玉川上水に身を投げた。38歳。
- モナ・リザの盗難できごとAD1911年8月21日盗まれて、世界一有名な絵になったレオナルドが十六世紀のはじめに描いた女性の肖像は、ルーヴル美術館の名品の一つではあったが、いまほど特別ではなかった。1911年8月21日、美術館で働いていたイタリア人の職人が、額から外して上着の下に隠し、持ち去った。新聞は連日書き立て、空になった壁を見に人が列を作る。二年後、犯人がフィレンツェで売ろうとして捕まり、絵は戻った。盗まれて騒がれたことで、この絵は世界でいちばん有名な絵になった。パリ
- ジョン・ケージ人物AD1912年9月5日 – AD1992年8月12日ロサンゼルスの生まれ。シェーンベルクに学び、和声の才が無いと言われた。打楽器と、ピアノの弦にねじや消しゴムを挟むプリペアド・ピアノで作曲した。鈴木大拙の講義を聴き、易経で音を決める方法に移った。作曲家が選ばないこと、聞こえるものすべてを音楽として聞くことを主張した。菌類の研究家でもあり、イタリアのクイズ番組できのこの知識で賞金を得ている。
- 参政権の口紅できごとAD1912年十九世紀の欧米では、濃い口紅は舞台の女優か娼婦のものとされ、身持ちの良い女性はつけないものだった。1912年、ニューヨークの女性参政権の行進で、参加者が赤い口紅をつけたと伝わる。化粧品の店を開いていたエリザベス・アーデンが配ったとも言われる。口紅は、見られるための飾りから、自分で決める印に意味を変えた。金属の筒に入れて繰り出す口紅が出回ると、外で塗り直せるようになり、一気に広まった。ニューヨーク
- 『春の祭典』初演できごとAD1913年5月29日客席で殴り合いシャンゼリゼ劇場。ディアギレフのバレエ・リュス、ニジンスキーの振付。異教のロシアの春の儀式、乙女が踊り死ぬ。不協和音、拍子が変わり続け、踊りは内股で地面を踏む。客席が騒ぎ、罵り合い、殴り合い、警察。ストラヴィンスキーは舞台裏に逃げた。1年後、演奏会で喝采された。20世紀の音楽の始まり。パリ
- 映画のための化粧できごとAD1914年スクリーンの顔が、町の顔の手本になったロシアの宮廷の劇場で化粧を担当していたマックス・ファクターは、アメリカへ渡り、ロサンゼルスで映画俳優の化粧品を作った。舞台用の厚い練り白粉は、映画の大写しではひび割れて見える。1914年、薄く伸ばせる映画用の化粧品を作った。スターの顔を作る仕事が評判になり、やがて同じ品を一般の女性に売る。「メイクアップ」という言い方を広めたのも彼の会社だと言われる。スクリーンの顔が、町の女性の顔の手本になっていった。ロサンゼルス
- 宝塚少女歌劇の初公演できごとAD1914年4月1日プールを客席に変える大阪から宝塚へ電車を通した箕面有馬電気軌道の小林一三は、乗る人を増やすために、終点に温泉の娯楽場を作った。そこの室内プールは、水が冷たすぎるうえに男女が一緒に泳げないという理由で客が来なかった。小林はプールに床を張って客席にし、少女たちの歌と踊りの一座を作る。1914年4月1日、16人の少女による初めての公演が開かれた。女性だけで男の役も演じる舞台は、のちに宝塚歌劇団となり、1974年の『ベルサイユのばら』で社会現象を起こした。鉄道の会社が沿線に娯楽を作り、客を運ぶというやり方の、先がけでもある。宝塚
- 夏目漱石『こころ』できごとAD1914年4月20日先生の遺書鎌倉の海で出会った「先生」を慕う学生の「私」が、先生の長い遺書を受け取る。若いころ、先生は親友のKを出し抜いて下宿の娘との結婚を決め、Kは自殺していた。明治天皇の死と乃木希典の殉死を聞いた先生は、自分も死ぬことを決める。朝日新聞に連載され、のちに日本で最も多く読まれた小説の一つになった。東京
- 『変身』できごとAD1915年巨大な虫「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、ベッドの中で自分が巨大な虫に変わっているのに気づいた」。1912年に3週間で書いた。保険局の役人で、夜に書き、ほとんど出版せず、友人ブロートに「原稿は焼け」と遺言した。ブロートは焼かなかった。『審判』『城』。「カフカ的」。理由の分からない官僚の迷路。20世紀の言葉になった。プラハ

- ジャズの最初のレコードできごとAD1917年2月26日黒人の音楽が白人の録音でニューオーリンズの白人5人、オリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンドが、ヴィクターで『リヴァリー・ステイブル・ブルース』を録音した。100万枚。ニューオーリンズの黒人が20年演奏していた音楽が、白人の録音で世界に出た。同じ年、ニューオーリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉じられ、楽士がシカゴへ。1922年、ルイ・アームストロングがシカゴへ。ニューヨーク
- 運動靴できごとAD1917年走るための靴が、走らない人の装いになったゴムの底に布の甲を貼った靴は、十九世紀末から作られていた。底が柔らかく、歩いても音がしないので、忍び寄る者という意味の名で呼ばれる。1916年、アメリカで量産の運動靴が売り出され、翌1917年、別の会社がバスケットボール用の靴を出した。選手の名を付けた型は、その後何十年も売られ続ける。学校の体育が広まり、余暇に体を動かす人が増えた時期と重なっていた。やがて運動靴は、競技の道具から日常の履物になり、若者の装いと結びついていく。ボストン
- 浅草オペラできごとAD1917年西洋の音楽を、町の楽しみに1917年、東京の浅草の劇場で、伊庭孝と舞踊家の高木徳子が、歌と踊りと芝居を組み合わせた舞台を上演して当たりをとった。本格の歌劇を日本語にして、安い木戸銭で見せる浅草オペラの始まりである。『カルメン』や『天国と地獄』が演じられ、「恋はやさし野辺の花よ」「ベアトリ姉ちゃん」の歌が町に流行した。劇場に通いつめる若い熱狂的なファンは「ペラゴロ」と呼ばれた。1923年の関東大震災で浅草の劇場が焼け、この熱は数年で終わったが、ここから出た榎本健一らが、のちの日本の喜劇を担った。浅草
- 『赤い鳥』の創刊できごとAD1918年7月1日童話と童謡の運動1918年7月、作家の鈴木三重吉は、子どものための文芸の雑誌『赤い鳥』を創刊した。それまでの子どもの読み物は、教訓めいたお話や講談が多かった。三重吉は、一流の作家たちに子どものための芸術を書いてほしいと頼み、創刊号には芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が載った。有島武郎の「一房の葡萄」、新美南吉の「ごん狐」も、この雑誌から生まれた。北原白秋は童謡を書き、山田耕筰らが曲をつけた。子どもたちの作文や詩も募集し、ありのままを書く綴り方を広めた。雑誌は、大正の子どもの文化と童話・童謡の運動の中心になった。東京
- バウハウスの創立できごと1919年4月芸術と技術の新しい統一第一次世界大戦に敗れた直後の1919年4月、建築家ヴァルター・グロピウスは、ドイツのヴァイマルで、美術の学校と工芸の学校を一つにした新しい学校、バウハウスを開いた。芸術家と職人の垣根を取り払い、建築を中心に、すべての造形をひとつにまとめることを目指した。教師には、画家のクレーやカンディンスキーらが招かれた。やがて学校は、芸術と工業の技術の結びつきを掲げ、量産できる簡素で機能的な家具や照明、建物を生み出した。1925年にデッサウへ移ったが、ナチの圧力で1933年に閉じられた。亡命した教師たちが、その考えを世界に広めた。ワイマール
- 箱根駅伝できごとAD1920年2月14日オリンピックのマラソンに出て途中で倒れた金栗四三は、世界と戦える長距離の走者を育てたいと考えた。アメリカ大陸を走って横断する計画のための選考会として、大学の学生が東京と箱根のあいだの山道を、たすきをつないで走る競走が企画される。1920年2月14日、四校が参加して第一回が開かれた。やがて正月の二日と三日の恒例になり、テレビで全国に中継される。一人の走者の夢から始まった大会が、国の正月の風景の一部になった。箱根
- ベーブ・ルースのヤンキース移籍できごとAD1920年1月5日ホームランの時代1920年1月、ボストン・レッドソックスは、投手としても打者としても力を見せていたベーブ・ルースを、ニューヨーク・ヤンキースに売った。それまでの野球は、飛ばない球で、細かく点を取り合う競技だった。ヤンキースで打者に専念したルースは、その年に54本、1927年には60本の本塁打を打ち、ホームランで観客を熱狂させる時代を開いた。1923年に完成したヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」と呼ばれた。一方、ルースを手放したレッドソックスは、86年間優勝できなかった。1934年、ルースは大リーグの選抜の一員として来日した。ニューヨーク
- 『ユリシーズ』できごとAD1922年2月2日ダブリンの1日ジョイスの40歳の誕生日に、パリのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店のシルヴィア・ビーチが出版した。1904年6月16日のダブリンの1日。レオポルド・ブルーム、スティーヴン・ディーダラス、モリー。『オデュッセイア』の18の挿話。意識の流れ。最後の章は句読点なしで8文。アメリカとイギリスで猥褻で禁じられ、1933年にアメリカの裁判所が解禁した。6月16日はブルームズデイ。パリ
- 壁に描かれた歴史できごとAD1923年から学校が建つのを待たず、国の歴史を壁に描いた革命のあとのメキシコで、教育相になったバスコンセロスは、国民の大半が字を読めないという現実に向き合った。学校を建てるのには年月がかかる。彼は画家たちに、役所や学校の壁を開け放った。ディエゴ・リベラは、もとは修道院だった教育省の建物に、五年をかけて百を超える場面を描いた。畑を耕す農民、鉱山の労働者、先住民の祭り。そこに描かれたのは、王や将軍ではなく、名もない人々の国だった。かつて修道士たちが、字の読めない先住民に壁の絵で教えを説いたのと同じ場所で、今度は国が、自分たちの歴史を壁に描いた。メキシコシティ
- 『ラプソディ・イン・ブルー』できごとAD1924年2月12日冒頭の滑り上がりは事故ニューヨークのイオリアン・ホール。「現代音楽の実験」と題した演奏会。ガーシュウィンは3週間で書き、ピアノの部分は本番で即興した。冒頭のクラリネットの滑り上がりは、リハーサルで奏者がふざけて吹いたのを、そのまま採用したもの。ジャズの語法を管弦楽に持ち込んだ。ロシア系ユダヤ移民の子で、15歳で学校をやめ、楽譜出版社で新曲を弾いて聞かせる仕事に就いた。38歳、脳腫瘍で死んだ。ニューヨーク

- 甲子園球場できごとAD1924年8月1日新聞社が1915年に始めた全国の中学校の野球大会は、観客が増えすぎて、それまでの球場では入りきらなくなった。鉄道会社は、兵庫の川の跡地に、東洋一の大きな球場を造る。1924年8月1日に完成した。その年の干支が甲子であったことから、甲子園と名付けられる。以後、夏の高校野球はここで行われ、負けたチームが土を持ち帰る習わしも生まれた。学校の部活動の大会が、国民的な行事になった。西宮
- フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』できごとAD1925年4月10日成り上がる夢と、古い階級の壁禁酒法の時代のニューヨーク郊外で、正体の知れない大富豪ギャツビーが、毎晩のように豪華な宴を開く。目当ては、昔別れた恋人をもう一度手に入れることだった。1925年4月10日に出版された小説は、ほとんど売れず、作者スコット・フィッツジェラルドは失意のうちに死ぬ。第二次世界大戦中、兵士に配る本として大量に刷られたことで読まれ始めた。成り上がる夢と、それを冷たく拒む古い階級の壁は、いまも繰り返し読まれている。ニューヨーク
- 三島由紀夫人物AD1925年1月14日 – AD1970年11月25日本名は平岡公威。東京の官僚の家に生まれ、東大法学部から大蔵省へ。9か月で辞めて『仮面の告白』を書いた。『潮騒』『金閣寺』、ボディビル、映画、自ら作った民間の組織「楯の会」。最後の長編を書き終えた日に、市ヶ谷で割腹した。45歳。
- シャネルのリトル・ブラック・ドレスできごとAD1926年ガブリエル・シャネルは、孤児院で育ち、帽子の店から身を起こした。第一次世界大戦のころから、彼女は、男の下着に使われていた柔らかいジャージーの布で、コルセットの要らない、体を締めつけない服を作った。女性が自分で着られ、動き、働ける服だった。1926年、アメリカの雑誌『ヴォーグ』は、シャネルの飾りの少ない黒い短いドレスの絵を載せ、誰もが着られるこの服を、大量生産の車になぞらえて「シャネルのフォード」と呼んだ。黒は喪服の色だったが、シャネルはそれを、日常にも夜会にも着られる上品な色に変えた。パリ
- ガブリエル・ガルシア=マルケス人物AD1927年3月6日 – AD2014年4月17日祖母の口調をそのまま文体にした『百年の孤独』で、祖母が怪異を淡々と語る口調をそのまま文体にした。ラテンアメリカ文学が世界に届く入口になる。
- 映画がしゃべるできごとAD1927年10月6日映画がしゃべり、弁士が職を失ったそれまでの映画は声が無く、字幕と、映画館で弾かれる伴奏と、日本では弁士の語りで観た。1927年10月6日、ニューヨークで公開された『ジャズ・シンガー』は、歌の場面と数か所の台詞に、レコード盤に録って映写機と同じ速さで回す音をつけていた。主演のアル・ジョルソンが、まだ何も聞いちゃいないよ、と語りかけると、客席は沸いた。数年のうちに、映画は音の出るものになる。声の悪い俳優は消え、弁士と楽士は職を失った。ニューヨーク
- 蒸気船ウィリーできごとAD1928年11月18日キャラクターが会社の財産になったウォルト・ディズニーは、自分の作ったウサギのキャラクターの権利を配給会社に取られた。新しいネズミのキャラクターを作り、1928年11月18日、ニューヨークで、絵の動きに音楽と効果音をぴったり合わせた短編アニメーションを公開する。舵を取りながら口笛を吹くネズミ、ミッキーの登場である。キャラクターは映画会社の財産になり、玩具や本に広がっていった。その著作権を守るために法の保護期間が延ばされた、とも言われる。ニューヨーク
- チヌア・アチェベ人物AD1930年11月16日 – AD2013年3月21日植民地化を内側から書いた『崩れゆく絆』で、植民地化される側から書いた。アフリカを語る言葉を、外の筆から取り戻す試みになる。
- 街頭紙芝居できごとAD1930年ごろ字の読めない小さな子にも、物語が毎日届いた不況の東京で、職を失った男たちが自転車の荷台に木の枠を載せて、路地を回り始めた。拍子木を打つと子どもが集まり、飴を買った子が前に座る。枠の中の絵を一枚ずつ引き抜きながら、声色を使って語る。続きは明日。1930年に生まれた「黄金バット」は、骸骨の顔をした正義の味方で、子どもたちを夢中にさせた。絵は手描きで、同じ絵を何人もの紙芝居屋が借りて回した。字の読めない小さな子にも、物語が毎日届いた。戦後にもう一度盛り返したが、テレビが家に入ると、路地から消えていった。東京
- 新聞の星占いできごとAD1930年占星術が、十二に分けた大量生産品になった1930年8月、イギリスの日曜新聞が、生まれたばかりの王女の星回りを占星術師に書かせた。評判がよく、占星術師は続けて寄稿する。十月、イギリスの飛行船に危険があると書いた直後、飛行船R101がフランスで墜落し、予言が当たったと騒がれた。やがて新聞は、生まれ月の十二の星座ごとに今週の運勢を並べる欄を定番にする。個人の生年月日と時刻を細かく読む占星術が、十二に分けた大量生産品になった。ロンドン
- 第一回ワールドカップできごとAD1930年7月13日世界でいちばん多くの人が見る催しオリンピックのサッカーで二度続けて優勝し、最初の憲法から百年を迎えるウルグアイが、最初の世界大会を開くことになった。ヨーロッパからは船で二週間かかるため、参加したのはわずか四か国だった。1930年7月13日に始まり、十三か国が戦う。決勝はウルグアイとアルゼンチンで、試合球をどちらの国のものにするかで揉め、前半と後半で球を替えた。ウルグアイが勝つ。四年ごとの大会は、やがて世界でいちばん多くの人が見る催しになった。モンテビデオ
- しゃべくり漫才できごとAD1930年話すだけで笑わせる漫才のもとは、正月に家々を回って祝いの言葉を述べ、鼓を打って掛け合いをする「萬歳」という芸だった。寄席の萬歳も、長く歌や踊りや鳴り物が中心だった。1930年、吉本興業の横山エンタツと花菱アチャコは、和服ではなく背広を着て舞台に立ち、楽器を持たずに、ふだんの言葉の掛け合いだけで客を笑わせた。1933年の「早慶戦」はラジオで放送されて大当たりする。この年、吉本は「萬歳」を「漫才」と書くことに改めた。二人で話すだけの芸は、ラジオとテレビにそのまま載り、日本の笑いの中心になっていく。大坂
- 宮沢賢治の遺したものできごとAD1933年死んでから読者を得た岩手の花巻の裕福な質屋に生まれた宮沢賢治は、冷害に苦しむ農民の暮らしを変えようと、農学校で教え、肥料の相談所を開いて村々を回った。童話や詩を書き続けたが、生きているうちに出た本は二冊だけで、ほとんど売れなかった。1933年、三十七歳で病に倒れる。死後、手帳に書きつけられた、雨にも負けず、の詩や、『銀河鉄道の夜』などの原稿が見つかり、世に出た。いまでは最も広く読まれる日本の作家の一人になっている。花巻
- ロバート・モーグ人物AD1934年5月23日 – AD2005年8月21日ニューヨークの生まれ。十代でテルミンの組み立て品を売り、その稼ぎで学業を続けた。コーネル大学で工学物理の博士号。1964年、電圧制御の発振器を発表し、音を部品の組み合わせとして作る楽器を実用にした。特許で囲わなかったため規格が広まり、同時に会社は経営に苦しんだ。楽器は演奏者のためのものだという立場を最後まで崩さなかった。
- エルヴィス・プレスリー人物AD1935年1月8日 – AD1977年8月16日上半身だけ映されたミシシッピ州テューペロの貧しい家。双子の兄は死産だった。教会のゴスペルと、ラジオのブルースとカントリーを同じだけ吸って育った。1954年、サン・スタジオ。腰を振る動きがテレビで問題になり、上半身だけ映された。1958年から2年、陸軍でドイツに駐屯。以後は映画とラスヴェガスの興行に囲い込まれ、処方薬に溺れた。42歳で死んだ。
- 磁気テープ録音できごとAD1935年AEGとBASFが、紙とプラスチックの帯に酸化鉄を塗った磁気テープと、録音機マグネトフォンを発表した。円盤と違い、長時間を切れ目なく録れ、そして切って貼れる。戦中のドイツ放送は、深夜に生演奏に聞こえる番組を流し、連合国の情報部を困惑させた。1945年、アメリカ軍の通信兵ジャック・マリンが装置を持ち帰る。ビング・クロスビーが番組の事前録音に使い、放送が生でなくてよくなった。編集という行為が、音に対して可能になった。ベルリン
- 芥川賞と直木賞できごとAD1935年作家の出発点を、出版社の賞が決める雑誌社を営む作家の菊池寛は、若くして死んだ友人、芥川龍之介と直木三十五の名を冠した二つの文学賞を1935年に作った。純文学の新人に芥川賞、大衆文学に直木賞を贈る。第一回の芥川賞を逃した太宰治が、選考委員に受賞を懇願する手紙を送った話はよく知られている。賞は年に二度、新聞が大きく報じ、受賞作は売れる。作家の出発点を、出版社が作った賞が決める仕組みがここに生まれた。東京
- 日本の職業野球の始まりできごと1936年2月プロ野球の始まり日本の野球は、明治に伝わってから、学生の野球として人気を集め、甲子園の中等学校の大会や東京の大学野球が、大勢の観客を集めた。1934年、読売新聞は、ベーブ・ルースらの大リーグの選抜を日本に招いた。日本の選抜の若い投手、沢村栄治は、静岡の草薙球場で大リーグの強打者たちを相手に好投した。読売の社長、正力松太郎は、この選抜をもとに職業野球の球団を作った。1936年2月、7つの球団で日本職業野球連盟が結成され、春から試合が始まった。のちのプロ野球である。沢村は戦場に送られ、1944年に戦死した。東京
- ウンム・クルスームの木曜の夜できごとAD1937年頃同じ歌が二度と同じにならない毎月第一木曜のラジオ放送で、アラブ世界の街から人が消えたと言われる。一曲を1時間かけ、同じ一行を客の反応を見ながら何度も変えて歌った。カイロ
- ゲルニカ爆撃できごとAD1937年4月26日スペイン内戦のさなかの1937年4月26日、バスクの町ゲルニカは市の日だった。フランコ側を支援するドイツとイタリアの飛行機が、数時間にわたって町を爆撃した。軍の施設ではなく、町そのものが焼かれ、多くの市民が死んだ。パリにいたピカソは、この知らせを受け、万国博覧会のスペイン館のために巨大な白黒の絵を描く。ゲルニカである。都市を空から焼く戦争のやり方は、この後の大戦で世界中に広がった。ゲルニカ
- フェラ・クティ人物AD1938年10月15日 – AD1997年8月2日アフロビートを作り、軍事政権を歌で名指しした。自宅を独立国と宣言し、軍に焼き討ちされている。
- フリーダ・カーロの自画像できごとAD1939年事故の後遺症で寝たきりの間に、天蓋の鏡で自分を描きはじめた。作品の三分の一が自画像になる。シュルレアリスムと呼ばれることを拒んだ。コヨアカン
- 「奇妙な果実」できごとAD1939年4月20日アメリカ南部で黒人がリンチにあい、木に吊るされた姿を「奇妙な果実」にたとえた詩を書いたのは、ニューヨークの高校の教師エイベル・ミーロポルだった。リンチの写真を見て書いたという。1939年、白人と黒人が同じ客席に座れる初めてのナイトクラブで、ビリー・ホリデイがこれを歌う。大手のレコード会社は録音を断り、小さな会社が4月20日に録音した。放送を拒む局も多かった。黒人への暴力を正面から歌った最初の歌の一つで、のちの公民権運動の先ぶれとも言われる。ニューヨーク
- 『独裁者』できごとAD1940年10月15日笑いで権力に向かう力と限界声の無い映画にこだわってきたチャールズ・チャップリンは、初めて全編で台詞を語る映画に、ヒトラーを笑いものにする話を選んだ。撮影はヨーロッパで戦争が始まった直後に始まる。1940年10月15日、ニューヨークで公開された。独裁者と瓜二つのユダヤ人の床屋が、最後に独裁者の代わりに演壇に立ち、憎しみでなく人間らしさを、と長い演説をする。のちにチャップリンは、強制収容所の実態を知っていたら作れなかった、と語った。ニューヨーク
- 太宰治『走れメロス』できごとAD1940年5月友を信じて走る人を信じられない王に、羊飼いのメロスが、親友を人質に置いて妹の結婚式に向かい、三日目の日没までに戻ると約束する。雑誌『新潮』に載った短編で、末尾に古い伝説とシラーの詩によったと書き添えてある。結婚して落ち着いた時期の太宰の明るい作品で、のちに中学校の国語の教科書の定番になった。東京
- 太宰治『津軽』できごとAD1944年11月故郷と育ての親1944年の春、太宰治は出版社の依頼で故郷の津軽半島を3週間かけて旅し、その紀行を書いた。昔の友人や親類を訪ね、最後に、幼い自分を育ててくれた子守のたけと、小泊の運動会で30年ぶりに再会する。戦争のさなかに書かれた、太宰の作品の中でもとりわけ穏やかな一冊になる。東京
- ディオールのニュールックできごとAD1947年2月12日パリが流行の都に戻る1947年2月12日、パリの新しいデザイナー、クリスチャン・ディオールは、最初の作品の発表会を開いた。細く絞った腰、なで肩、ふくらんで広がる長いスカート。戦争中の、布を節約した角ばった肩の短いスカートとはまるで違う、華やかで女らしい服だった。アメリカの雑誌の編集長が「なんて新しい装い(ニュールック)でしょう」と言い、それが呼び名になった。一着に何十メートルもの布を使う服は、物資がまだ配給の時代に贅沢すぎると抗議も受けた。それでもニュールックは世界で大流行し、パリは流行の都の座を取り戻した。パリ
- 太宰治『斜陽』できごとAD1947年12月斜陽族敗戦のあと、東京の家を手放して伊豆に移った元華族の母と娘かず子。そこに戦地から戻った弟の直治と、娘が思いを寄せる作家の上原が加わる。母は病で死に、直治は自ら命を絶ち、かず子は一人で子を産んで生きると決める。雑誌に連載されて評判を呼び、没落した上流の人々を指す「斜陽族」という言葉まで生まれた。東京
- LPレコードできごとAD1948年片面二十分という枠が、アルバムという単位を作ったそれまでの円盤は片面で四、五分しか入らない。交響曲を聴くには、何枚もの重い盤を数分おきに裏返し、取り替え続ける必要があった。コロンビアの技師ピーター・ゴールドマークは、溝を細かくし、回転を遅くし、割れにくい樹脂を使うことで、片面二十分を超える盤を作った。1948年に発表されたこの長時間盤は、音楽の聴き方を変える。楽章の途中で立ち上がらなくてよくなり、やがて、はじめから一枚を通して聴かせることを前提にした作品が作られるようになった。アルバムという単位は、この盤の長さから生まれた。ニューヨーク
- 太宰治『人間失格』できごとAD1948年7月恥の多い生涯人の中でうまく生きられない男が、自分の半生を三つの手記に書き残す。太宰治はこれを雑誌『展望』に連載している最中の1948年6月、玉川上水に身を投げて死んだ。単行本はその翌月に筑摩書房から出た。戦後の日本でもっとも長く読まれ続けている小説の一つになる。東京
- 美空ひばりできごとAD1949年戦後の歩みと一人の歌手の生涯横浜の魚屋の娘は、幼いころから大人の歌を大人のように歌った。1949年、十二歳で映画に出て主題歌を歌い、たちまち人気者になる。焼け跡の町で、子どもの歌声は人びとの心をつかんだ。演歌からジャズまで、四十年にわたって歌い続け、昭和の歌の女王と呼ばれる。1989年、昭和が終わった年に五十二歳で亡くなり、同じ年に、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。戦後の日本の歩みと、一人の歌手の生涯が重なって記憶されている。東京
- 三島由紀夫『仮面の告白』できごとAD1949年7月仮面の下の欲望自分は人と違うと気づいた「私」が、その欲望を隠して仮面をかぶって生きる様子を、一人称で語る。24歳の三島由紀夫が、大蔵省を辞めて書き下ろした初めての長編で、河出書房から出た。同性への欲望を正面から書いた告白の体裁が驚かれ、三島は戦後を代表する作家の一人になった。東京
- 視聴率できごとAD1950年放送は、誰が聞いているか分からない。売っているのは電波ではなく、注意である。A・C・ニールセンは、受信機に取り付けて周波数と時刻を記録する装置を買い取り、選ばれた世帯に設置した。ラジオで実用にし、1950年からテレビへ広げる。数千世帯の記録が、全国の視聴の推計になった。番組の生死が、その数字で決まるようになる。測られるのは面白さではなく、消された回数と、次の番組へ残った割合である。表現が、数字の形に合わせて変わっていった。シカゴ
- ソリッドボディのエレキギターできごとAD1950年1930年代から、ギターの音を電気で大きくする工夫は始まっていたが、中が空洞のギターに磁石の拾いを付けると、音が共鳴してうなりを上げた。カリフォルニアのフラトンでラジオの修理店を営んでいたレオ・フェンダーは、中の詰まった板の胴に部品をねじで留めた、安くて丈夫で直しやすいギターを作った。1950年に売り出され、翌年テレキャスターの名になる。本人はギターを弾けなかった。同じ年に作った電気のベースとともに、少人数で大きな音を出せる楽団の形を可能にし、ロックの音を決めた。フラトン
- Tシャツを外に着るできごとAD1950年代いちばん安い服が、いちばん多くの言葉を運ぶ袖の短い綿の肌着は、アメリカ海軍が二十世紀のはじめに支給品にしたものだった。兵士が持ち帰り、作業着として広まる。だが人前で肌着一枚になるのは、だらしないことだった。1951年の映画でマーロン・ブランドが、1955年にジェームズ・ディーンが、Tシャツ姿で若者の反抗を演じる。肌着が外着になった。やがて文字や絵を刷り込めるようになり、主張を着て歩く服になる。いちばん安い服が、いちばん多くの言葉を運ぶ服になった。ロサンゼルス
- ゴールデンウィークできごとAD1951年四月末から五月はじめは、祝日が続き、休みが重なる。1951年、この時期に公開した映画がよく当たったことから、映画会社が宣伝のために黄金週間という言葉を作ったとされる。ラジオの最もよく聴かれる時間帯を呼ぶ言い方にならったという。放送局の中には、特定の会社の宣伝用語だとして、大型連休と言い換えるところもある。休みの呼び名は、休みに客を呼びたい側が付けた。東京
- 『羅生門』の金獅子賞できごとAD1951年同じ出来事が、見る人によって違って語られる黒澤明の『羅生門』は、一つの殺人を、そこにいた人びとがそれぞれ食い違う話で語る映画だった。日本の配給会社は評価しておらず、海外の映画祭に出すことも考えていなかった。イタリアの映画人の勧めで出品されると、1951年、ヴェネツィア国際映画祭で最高の金獅子賞を得る。敗戦から六年、日本の映画が世界に知られるきっかけになった。同じ出来事が見る人によって違って語られることを、英語でもラショーモン効果と呼ぶ。ヴェネツィア
- 紅白歌合戦の始まりできごとAD1951年1月3日大晦日の過ごし方の型1951年1月3日、NHKのラジオで、女性の歌い手の紅組と男性の白組が交互に歌って勝ち負けを競う番組が放送された。「紅白歌合戦」の第一回である。紅と白に分かれて競うのは、源平の合戦の旗の色に由来するとされる。1953年の暮れの第4回からは大晦日の夜に移り、テレビでも放送されるようになった。1963年には視聴率が81.4パーセントに達している。一年の終わりに家族が同じ番組を見るという習わしを作り、その年の流行歌を国じゅうで確かめ合う場になった。東京
- ケージ『4分33秒』できごとAD1952年8月29日デイヴィッド・チュードアがピアノの前に座り、蓋を閉じ、三つの楽章のあいだ何も弾かなかった。楽譜には TACET とだけ書かれている。無音の曲ではない。ケージはハーバードの無響室で、自分の神経系と血流の音を聞いた。完全な沈黙は無いと考えた。聞こえてくるものが曲になる。屋根を打つ雨と、退席する客の足音が、その日の演奏だった。ウッドストック
- ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンできごとAD1952年10月14日住むための機械スイス生まれの建築家ル・コルビュジエは、家は住むための機械であると唱え、緑地の中に高層の住宅を建てる都市を構想していた。第二次世界大戦のあと、住まいを失った人々のために、フランス政府は彼にマルセイユの集合住宅を任せた。1952年10月14日に完成したユニテ・ダビタシオンは、柱で持ち上げた高さ56メートルの建物に、337の住戸と、商店の並ぶ中の通り、屋上の幼稚園やプールを収めた、一つの町のような建物だった。打ち放しのコンクリートの荒々しい表情は、のちの建築に大きな影響を与え、戦後の世界の大規模な団地の手本にもなった。マルセイユ
- 『東京物語』できごとAD1953年11月3日家族が少しずつ離れていく1953年11月3日、小津安二郎の映画『東京物語』が公開された。尾道に住む老いた夫婦が、東京で暮らす子どもたちを訪ねる。子どもたちはそれぞれの暮らしに忙しく、親をもてあます。温かく迎えたのは、戦争で死んだ次男の妻だけだった。低い位置から据えたカメラ、ほとんど動かない画面、淡々とした会話で、家族が少しずつ離れていくさまを描いた。公開当時は日本の家庭の話と見られたが、のちに海外で知られるようになり、2012年、イギリスの映画誌が映画監督たちに尋ねた投票で、史上最高の映画に選ばれた。東京
- エルヴィスとサン・スタジオできごとAD1954年7月5日棚が崩れ始めたメンフィスの小さな録音室。19歳のトラック運転手が、休憩中にふざけて黒人ブルースの「ザッツ・オール・ライト」を速く歌い出した。技師サム・フィリップスが「もう一度やれ」と言った。彼は前から「黒人の歌を歌える白人がいれば大金になる」と言っていた。ラジオ局は、これを黒人の歌手だと思って掛けた。人種で分けられていた音楽の棚が、この録音から崩れ始めた。メンフィス
- ゴジラできごとAD1954年11月3日核と戦争の記憶を映した怪獣水爆実験で眠りを覚まされた太古の怪獣が、東京湾から上陸して街を焼き払う。1954年11月3日に公開された映画『ゴジラ』は、第五福竜丸の事件から八か月後の作品だった。焼け野原の東京を、戦争を覚えている観客が見た。着ぐるみと模型で撮る特殊撮影は、のちに世界に知られる手法になる。怪獣は数十作の続編で子どもの味方にも変わっていったが、最初の一本は、核と戦争の記憶を映した暗い映画だった。東京
- 三島由紀夫『潮騒』できごとAD1954年6月島の恋伊勢湾に浮かぶ小さな島で、若い漁師の新治と、海女の初江が恋をする。島の大人たちの噂や反対に阻まれながら、新治は嵐の夜の海で船を救う働きを見せ、二人は結ばれる。古代ギリシアの恋物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした書き下ろしの長編で、何度も映画になった。東京
- クール・ハーク人物AD1955年4月16日 – ?ジャマイカのキングストンに生まれ、1967年にブロンクスへ移った。故郷のサウンドシステムの流儀と、大音量の装置を持ち込んだ。1973年8月11日の妹の催しで、曲の打楽器だけの部分を二枚のレコードでつなぐ手法を見せた。そこで踊る者をブレイクボーイと呼んだ。1977年に刺されて以後は表に出ることが減り、後に医療費の工面が問題になった。
- ディズニーランドの開園できごとAD1955年7月17日テーマパークの誕生アニメーション映画で名を上げたウォルト・ディズニーは、親と子が一緒に楽しめる清潔な遊園地を作りたいと考え、ロサンゼルスの郊外アナハイムのオレンジ畑に、映画のセットのように作り込んだ世界を建てた。1955年7月17日の開園の日はテレビで全米に生中継されたが、偽の招待券で人があふれ、アスファルトが熱で溶け、水飲み場も足りず、のちに「暗黒の日曜日」と呼ばれた。それでも客足は伸び続け、物語の世界を丸ごと体験させる「テーマパーク」という形が生まれた。1983年には、アメリカの外で初めて、千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開園した。アナハイム
- 三島由紀夫『金閣寺』できごとAD1956年10月美と行為1950年7月、京都の鹿苑寺で修行していた若い僧が、金閣に火を放って焼いた。三島由紀夫はこの事件をもとに、吃音に悩む学僧の溝口が、金閣の美しさにとらわれ、ついにそれを焼くまでを、本人の告白の形で書いた。雑誌『新潮』に1年近く連載され、三島の代表作になった。京都
- ボサノヴァの誕生できごとAD1958年サンバの揺れを、指の爪弾きに1958年、リオデジャネイロで、ジョアン・ジルベルトが「シェガ・ジ・サウダージ」を録音した。作曲はアントニオ・カルロス・ジョビン、詞はヴィニシウス・ジ・モライス。サンバの揺れを、ギターの指の爪弾きに移し、声を張らずにささやくように歌う。海辺の町の若者たちの、新しい感じの音楽という意味で「ボサノヴァ」と呼ばれた。1962年の「イパネマの娘」はアメリカのジャズの奏者と組んで世界に広まる。軍事政権の時代が来ると、若い音楽家たちはより政治的な歌へ向かった。リオデジャネイロ
- モータウンの創業できごとAD1959年1月12日流れ作業で歌を作る1959年1月12日、自動車の町デトロイトで、フォードの工場の流れ作業で働いた経験のあるベリー・ゴーディが、家族から借りた800ドルでレコード会社を興した。町の呼び名「モーター・タウン」からモータウンと名づける。近所の若者を集め、作曲、演奏、歌い方、振り付け、舞台での礼儀まで社内で教え、毎週の会議で出す曲を選んだ。シュープリームス、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ。黒人が作り、黒人が経営する会社の音楽が、白人の若者の順位の上位を占めた。デトロイト
- 練習用の人形できごとAD1960年ノルウェーのスタヴァンゲルでプラスチックの玩具を作っていたオースムン・レールダルは、心肺蘇生を人に練習させるための人形を頼まれた。生きた人の胸を強く押して練習するわけにはいかない。1960年、実物大の人形を作る。顔は、十九世紀末にパリのセーヌ川から引き上げられた身元不明の若い女性のデスマスクを手本にしたと伝えられる。その人形で、世界の何億人もが胸の押し方を習った。名も知れない一人の顔が、最も多くの人に口づけされた顔になった。スタヴァンゲル
- 連続テレビ小説の始まりできごとAD1961年4月3日1961年4月3日、NHKは朝のテレビで、毎日15分ずつ続く連続ドラマ『娘と私』の放送を始めた。朝の忙しい時間でも、時計がわりに見られる長さである。1966年の『おはなはん』は、明治から昭和を生きた女性の一代記で、視聴率は50パーセントを超えた。これ以来、困難に負けずに生きる女性を主人公にするのが、この枠の決まりのようになる。「朝ドラ」と呼ばれ、半年ごとに主人公が替わりながら、半世紀を超えて続いている。東京
- カセットテープできごとAD1963年聴き手が、並べ替える側に回った磁気テープはすでにあったが、リールに巻かれた帯を手で通す必要があり、素人の道具ではなかった。オランダのフィリップスの技師たちは、テープを小さな箱に収めて、差し込むだけで使えるようにした。1963年、ベルリンの見本市で発表される。会社は特許を無料で公開し、規格を各社に開放した。その判断が、世界中で同じ形のテープが使われる結果を生む。買うだけでなく、自分で録る。ラジオから録り、友人に渡し、好きな曲を並べて一本にする。音楽を選んで並べ替える行為が、聴き手の手に渡った。ベルリン
- 鉄腕アトムの放送できごとAD1963年1月1日安く速く作るやり方が、産業の形を決めた漫画家の手塚治虫は、自分の人気作を毎週三十分のテレビのアニメーションにしようとした。映画のアニメーションのように一秒に何枚も絵を描けば、とても間に合わない。動く部分を絞り、同じ絵を使い回し、安い値段で番組を納めた。1963年1月1日、日本初の連続のテレビアニメーションとして放送が始まる。視聴率は四割に届いた。この安く速く作るやり方と、その安さの慣行が、日本のアニメーションの産業の形を決めていった。東京
- 大河ドラマの始まりできごとAD1963年4月7日ドラマの人物像が、史実として受け取られる1963年4月7日、NHKは日曜の夜に、一年をかけて一人の歴史上の人物を描くドラマ『花の生涯』を始めた。主人公は、桜田門外で殺された大老井伊直弼である。映画の会社が専属の俳優をテレビに出さない取り決めを結んでいたなかで、NHKは映画や歌舞伎の大物を口説いて出演させた。翌年の『赤穂浪士』は、最高で53パーセントの視聴率を記録する。のちに「大河ドラマ」と呼ばれるこの枠は、主人公の出身地に観光客を呼び、日本人の歴史の見方にも影響を与え続けている。東京
- 「上を向いて歩こう」の全米一位できごとAD1963年6月15日敵国だった国で、日本語の歌が一番に1961年、永六輔が詞を書き、中村八大が曲をつけ、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」は、日本で大きく流行した。この歌がヨーロッパで紹介され、覚えやすい日本の言葉として「スキヤキ」という題を付けられる。1963年6月15日、その「スキヤキ」がアメリカのビルボードの週間の順位で一位になり、三週続いた。日本語で歌われた曲がこの順位の一位になったのは、いまもこれだけである。歌の中身とは関係の無い題は、当時の日本の見られ方をよく表している。東京
- モーグ・シンセサイザーできごとAD1964年テルミンの組み立てで学生時代を過ごしたロバート・モーグが、電圧で音の高さを制御する発振器を作った。鍵盤の電圧を一オクターヴ一ボルトに決め、発振器・フィルタ・増幅器を線でつないで音を組み立てる。1968年、ウェンディ・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』が売れた。1970年のミニモーグで、実験室の装置が舞台の楽器になった。ニューヨーク
- 言葉のいらない案内できごとAD1964年作者の名を求めず、誰でも使える記号として手放した東京オリンピックには、日本語も英語も読めない選手や観客が、世界中から来る。案内をどう書くか。美術評論家の勝見勝のもとに若いデザイナーたちが集まり、競技と、食堂やトイレや更衣室などの施設を、文字を使わない記号で表した。施設の記号だけで三十九種類になった。大会のあと、デザイナーたちは作者の名を求めず、記号を誰でも使えるものとして手放した。ウィーンで生まれた、数を絵で見せる考え方が、道案内の記号になり、次の大会へ、そして駅や空港へと広がっていった。東京
- ビートルズがアメリカへできごとAD1964年2月9日自分で書き、自分で演奏するバンドリヴァプールの港町のクラブで演奏していた四人組は、イギリスで熱狂を巻き起こしていた。1964年2月9日、ニューヨークのテレビの人気番組に出演すると、七千万人を超える人が見たとされる。ケネディ暗殺から三か月足らずで、沈んでいたアメリカの若者たちが叫び声を上げた。自分たちで曲を書き、自分たちで演奏するバンドの形が、ここから世界の標準になる。1966年の日本公演では、武道館で演奏してよいかをめぐって議論が起きた。ニューヨーク
- ディランのエレキできごとAD1965年7月25日フォークを裏切ったエレキ1965年7月25日、ロードアイランド州のニューポートで開かれたフォークの祭典に、ボブ・ディランがエレキギターを抱えて現れ、ロックのバンドを従えて演奏した。フォークは、生のギターで社会の不正を歌う音楽であり、電気の楽器は商業の音楽の印とみなされていた。客席から激しいやじが飛んだと伝えられる。数日前に出た「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、六分を超える長さで順位の上位に入った。歌の詞が文学として読まれる道を開いたディランは、2016年、ノーベル文学賞を受けた。ニューポート
- ミニスカートできごとAD1965年ごろ若者が流行を作る1960年代のロンドンでは、戦後のベビーブームに生まれた若者たちが、親の世代とは違う音楽と服を求めていた。キングス・ロードに店を開いたデザイナーのマリー・クワントは、若い女性が走ったり踊ったりできる、膝上の短いスカートを売り出した。クワントの好きな小型車の名から「ミニ」と呼ばれたともいう。パリのクレージュも短いスカートを発表した。痩せたモデルのツイッギーが世界に広め、1967年に彼女が来日すると、日本でもミニスカートが大流行した。服の流行は、上流の大人から若者へと、作り手が移っていった。ロンドン
- 三島由紀夫『豊饒の海』できごとAD1965年9月最後の長編『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四部からなる、三島由紀夫の最後の長編。明治の末から戦後までを舞台に、友人の松枝清顕が二十歳で死ぬたびに生まれ変わる姿を、法律家の本多繁邦が見届けていく。三島は最後の原稿を出版社に渡した日に、市ヶ谷で自決した。東京
- ビートルズの日本公演できごとAD1966年6月30日武道の殿堂にエレキの音1966年6月29日の未明、ビートルズが羽田に着いた。公演の会場は、東京オリンピックの柔道のために建てられたばかりの日本武道館である。武道の殿堂で「エレキの音」を鳴らすのはけしからん、という声が上がり、右翼の団体も抗議した。警察は来日から帰国まで、延べで数万人の警官を動員する。6月30日から7月2日まで、一回30分ほどの公演が5回行われた。客席は警官に囲まれ、立ち上がることも許されなかった。この公演のあと、日本でもエレキギターを持った若者のバンドが次々に生まれ、グループ・サウンズの流行が始まった。日本武道館
- ウルトラマンの放送できごとAD1966年7月17日倒される側の悲しみ1966年7月17日、TBSで『ウルトラマン』の放送が始まった。作ったのは、『ゴジラ』の特撮を手がけた円谷英二の会社である。光の国から来た巨人が、地球に現れる怪獣と戦う。地球の上では3分間しか戦えないという決まりは、特撮の手間とお金を抑えるためだったとも言われる。視聴率は40パーセントを超えた。怪獣を倒すだけでなく、人間の身勝手で生まれた怪獣の悲しみを描いた回もあり、脚本家たちの問いかけは子ども向けの枠を超えた。シリーズは形を変えながら、半世紀を超えて続いている。東京
- 『百年の孤独』できごとAD1967年祖母が怪異を淡々と語る口調を、そのまま文体にした。架空の町マコンドの百年を七世代で書き、40以上の言語に訳される。アラカタカ
- 川端康成のノーベル文学賞できごとAD1968年10月17日翻訳を通じて世界に読まれる1968年10月17日、スウェーデン・アカデミーは、その年のノーベル文学賞を川端康成に贈ると発表した。日本人として初めての文学賞である。『雪国』『千羽鶴』『古都』などで、日本人の心の本質を繊細に表したとされた。英訳を手がけた翻訳者の力も大きかった。ストックホルムでの講演の題は「美しい日本の私」だった。四年後、川端はガス自殺とみられる死を遂げる。受賞は、日本の文学が翻訳を通じて世界に読まれる時代の始まりだった。ストックホルム
- 少年ジャンプの創刊できごとAD1968年後発だから、新人を育てる1968年、集英社は、先に出ていた少年マガジンと少年サンデーを追って、月二回の漫画誌『少年ジャンプ』を創刊した。後発で有名な漫画家を集められなかったため、新人を育てて連載させる道を選ぶ。翌年には週刊になった。読者のはがきの人気の順位で連載を続けるかを決める、厳しい仕組みでも知られる。「友情・努力・勝利」を柱に、『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』を生み、1995年には一号で653万部を売った。日本の漫画が世界に広がる道筋の、大きな一本になった。東京
- ウッドストックできごとAD1969年8月15日若者の文化が、一つの場所に姿を現した1969年8月15日から三日間、ニューヨーク州の農場に四十万人を超える若者が集まった。音楽の祭典として計画されたが、予想をはるかに超える人が押し寄せ、柵は倒れて無料になった。雨で農場はぬかるみ、食べ物も便所も足りなかったが、大きな暴力は起きなかったとされる。ジミ・ヘンドリックスはアメリカ国歌を、爆撃の音のように歪ませて弾いた。ベトナム戦争の時代に、若者たちの文化が一つの場所に姿を現した。ベセル
- 『8時だョ!全員集合』できごとAD1969年10月4日土曜の夜8時の子どもたち1969年10月4日、TBSで、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』が始まった。土曜の夜8時、各地の公会堂に客を入れて、コントと歌を生で放送する。大がかりな舞台の仕掛けが崩れ、水がかかり、失敗も停電もそのまま流れた。最高の視聴率は50パーセントを超える。一方で、食べ物を粗末にする、言葉が汚いと、親や教師の団体から「子どもに見せたくない番組」の筆頭に挙げられ続けた。1985年まで16年、800回を超えて続き、土曜の夜の子どもたちの時間を形作った。東京
- ドラえもんの連載開始できごとAD1969年便利な道具と人の弱さ1969年の暮れ、小学館の学年別の学習雑誌で、藤子不二雄(のちの藤子・F・不二雄)の漫画『ドラえもん』の連載が始まった。22世紀から来た猫型のロボットが、何をやってもうまくいかない少年のび太を、ポケットから出す未来の道具で助ける。学年ごとに雑誌を分けて、読者の年齢に合わせた話を描いた。1973年の最初のテレビアニメは半年で終わったが、1979年に始まった二度目のアニメは長く続き、映画も毎年作られるようになる。アジアを中心に世界で親しまれ、日本の顔の一つになった。東京
- 大阪万博できごとAD1970年3月15日進歩の祭典の真ん中に、土俗の顔1970年3月15日から半年、大阪の千里丘陵でアジア初の万国博覧会が開かれた。人類の進歩と調和を掲げ、七十余りの国が館を並べる。アメリカ館の月の石には何時間もの行列ができ、入場者は六千万人を超えた。岡本太郎の太陽の塔は、進歩の祭典の真ん中に、それに逆らうような土俗の顔を立てた。動く歩道、電気自動車、携帯電話の試作品が、未来として並べられた。多くはその後、実際に暮らしの中に入ってくる。大坂
- 三島事件できごとAD1970年11月25日いまも論じられる行動1970年11月25日、作家の三島由紀夫は、自ら作った民間の組織の若者四人と、東京の市ヶ谷にある自衛隊の駐屯地を訪れ、総監を人質にとった。バルコニーに立ち、集められた自衛官に、憲法を改めるために立ち上がれと演説する。野次にかき消され、三島は総監室に戻って割腹し、仲間が介錯した。ノーベル賞の候補とも言われた作家の行動に、世界が驚いた。多くの人は理解できないと感じ、その意味はいまも論じられている。東京
- 博物館に行列ができるできごとAD1972年博物館が、企画で人を集める場所になった1922年に見つかったツタンカーメンの副葬品が、半世紀ほどのちに世界を巡回した。1965年の日本では三百万人近くが見て、1972年のロンドンでは百六十万人が並んだ。開館前から列ができ、数時間待って数分見る。博物館は、静かに学ぶ場所から、企画で人を集める場所になった。入場料と物販が運営を支え、次の企画を呼ぶ。同時に、遺物を運ぶ危険や、持ち主の国との関係も問われるようになる。誰の宝を、誰が、どこで見せるのか。この巡回展は、その問いを大きな規模で突きつけた。ロンドン
- 世界遺産条約できごとAD1972年11月16日人類の宝を世界で守る1960年、エジプトがナイル川にアスワン・ハイ・ダムを造ることになり、ヌビアのアブ・シンベル神殿などの古代の遺跡が湖の底に沈むことになった。ユネスコは世界に呼びかけ、50を超える国の資金と技術で、神殿を切り分けて高台へ移した。人類の宝は、一つの国だけでなく、世界が共に守るべきだという考えが、ここで形になった。1972年11月16日、ユネスコの総会は、文化の遺産と自然の遺産を一つの条約で守る世界遺産条約を採択した。1978年に最初の12件が登録された。日本は1992年に条約を結び、翌年、法隆寺、姫路城、屋久島、白神山地が登録された。パリ
- アンパンマンの誕生できごとAD1973年飢えを知った人が書いたヒーロー戦争で飢えを知った作者が、自分の顔を食べさせるヒーローを書いた。大人には残酷だと評され、子どもが選んだ。アニメになるのは15年後になる。東京
- ヒップホップの誕生できごとAD1973年8月11日レコード二枚で打楽器の部分を延ばすブロンクスの集合住宅、セジウィック街1520番地の集会室。妹の新学期の服を買う資金集めの催しだった。ジャマイカから来たクライヴ・キャンベル(クール・ハーク)は、曲の中で打楽器だけになる短い部分を客が待っていることに気づいた。同じレコードを二枚使い、その部分だけを交互につないで延ばした。「メリーゴーラウンド」。そこで踊る者、そこに言葉を乗せる者が現れた。ニューヨーク
- シドニー・オペラハウスできごとAD1973年10月20日建物は、建築家より長く生きる1957年、シドニーの港に建てる劇場の設計競技で、デンマークの無名に近い建築家ヨーン・ウッツォンの案が選ばれた。帆のように重なる白い貝殻の屋根は、どうやって造るか誰にも分からなかった。工事は何年も遅れ、費用は当初の十倍を超える。政府と対立したウッツォンは、1966年に国を去った。1973年10月20日に完成したが、彼は一度も完成した建物を見なかった。いまでは、国そのものの顔になっている。シドニー
- 756号できごとAD1977年9月3日記録を世界と比べて語る片足を上げて球を待つ一本足打法で、王貞治は本塁打を打ち続けた。1977年9月3日、後楽園球場で通算七百五十六本目を打ち、アメリカの大リーグの記録を抜いたとされる。この日のために、国民栄誉賞という賞が新しく作られた。王は中国の浙江省出身の父を持ち、中華民国の国籍だったため、高校時代に国の大会の一部に出られなかった経験もある。最終的に八百六十八本を打った。日本の野球の記録を、世界と比べて語る時代が来ていた。東京
- パンク・ロックできごとAD1977年5月27日誰でも楽器を持ってよい1977年5月27日、エリザベス女王の即位25年の祝いを前に、ロンドンのバンド、セックス・ピストルズが「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を出した。国歌と同じ題で、女王と国をあざける歌である。放送は禁じられ、店が売るのを拒んだが、売上の順位で二位に入った。一位を避けるための操作があったと噂された。不況と失業の中の若者の怒りを、下手でもかまわない、三つの和音でできる、短く速い音楽にぶつける。自分たちで楽器を持ち、雑誌を刷り、レコードを出すやり方は、のちの独立の音楽の土台になった。ロンドン
- ボブ・マーリーの平和コンサートできごとAD1978年4月22日二人の手を頭の上で握らせる1970年代のジャマイカでは、二大政党がそれぞれ町の貧しい地区の銃を持つ若者を抱え、選挙のたびに殺し合いが起きていた。1976年、レゲエの歌い手ボブ・マーリーは自宅で銃撃されて傷を負い、国を離れる。1978年4月22日、帰国したマーリーは、首都キングストンの競技場で開かれた平和のためのコンサートに立ち、演奏の途中で、敵対する首相マイケル・マンリーと野党の党首エドワード・シアガを舞台に呼び上げ、二人の手を自分の頭の上で握らせた。暴力は止まらなかったが、その場面は、小さな島の音楽が世界に語りかけた姿として残った。キングストン
- MTVの開局できごとAD1981年8月1日歌を目で見るものに1981年8月1日の午前0時すぎ、アメリカのケーブルテレビで、歌に合わせて作った映像を一日じゅう流す局MTVが放送を始めた。最初に流れたのは、バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」である。歌は耳で聞くものから、目で見るものになった。見栄えのする歌い手や、映像に凝るイギリスのバンドが売れはじめる。一方で開局のころの局は、黒人の歌い手の映像をほとんど流さず、ロックの局だと説明した。1983年、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が流れはじめたことで、その壁は崩れていった。ニューヨーク
- 『スリラー』できごとAD1982年11月30日局の区分を越えるアルバム1982年11月30日、マイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』が発売された。制作はクインシー・ジョーンズ。ロックもソウルもディスコも取り込み、9曲のうち7曲がシングルとして上位に入った。1983年、テレビの特別番組で「ビリー・ジーン」を歌いながら、後ろへ滑るように歩くムーンウォークを見せる。14分の映画のような映像「スリラー」も作られた。アルバムはいまも史上最も売れたアルバムとされ、黒人の歌い手が人種の垣根を越えて世界の頂点に立った象徴になった。ロサンゼルス
- 『おしん』できごとAD1983年4月4日豊かになった国が、少し前の貧しさを思い出す1983年4月から一年間、NHKの朝の連続テレビ小説で『おしん』が放送された。橋田壽賀子の脚本で、明治の末に山形の貧しい小作の家に生まれ、七歳で奉公に出された少女が、苦労を重ねて商売を興し、戦争と戦後を生き抜く一代記である。平均の視聴率は52.6パーセント、最高は62.9パーセントに達した。豊かになった日本が、少し前の貧しさを思い出す物語でもあった。海外の60を超える国と地域で放送され、イランやアジアの国々でも、同じように人々が見入った。東京
- ビルバオのグッゲンハイム美術館できごとAD1997年10月18日スペイン北部のビルバオは、造船と製鉄が衰え、失業とテロに苦しむ港町だった。市は、アメリカの美術財団の分館を呼び、建築家フランク・ゲーリーに設計させる。チタンの板がうねる、魚のような建物が、1997年10月18日に開館した。世界じゅうから観光客が押し寄せ、町は生まれ変わる。一つの建物が都市を立て直すことを、ビルバオ効果と呼ぶようになった。その後、多くの都市が同じ夢を追い、うまくいかない例も多い。ビルバオ
- 『千と千尋の神隠し』できごとAD2001年7月20日アニメーションが映画の芸術として認められた宮崎駿の率いるスタジオジブリが、2001年7月20日に公開したアニメーション映画は、湯屋で働くことになった少女が名前を奪われ、取り戻す物語だった。日本で映画の興行収入の記録を塗り替え、その記録は二十年近く破られなかった。翌年のベルリン国際映画祭で最高賞を分け合い、アメリカのアカデミー賞でも長編アニメーション賞を受ける。子どものための娯楽と見られていたアニメーションが、映画の芸術として世界に認められた。東京
- シーズン262安打できごとAD2004年10月1日比べる時代から、同じ舞台で競う時代へ日本で七年続けて首位打者を取ったイチローは、2001年、日本人の野手として初めてアメリカの大リーグに移った。体の小さな日本の打者は通用しないとも言われたが、一年目から首位打者と最優秀選手になる。2004年10月1日、一シーズンの安打の数で、八十四年破られなかった記録を抜き、最終的に二百六十二本を打った。本塁打ではなく、打って走る野球で世界の頂点に立った。のちに多くの日本の選手が海を渡る道を開いた。シアトル
重なっているストーリー
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考えることの歴史47件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。技術と産業34件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。都市の歴史32件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。誰が書き残したか27件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史26件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。武士の700年23件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。女性の権利23件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。交易路とお金21件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。日本の古代18件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。キリスト教のひろがり17件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。インドと仏教14件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史13件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。イスラム世界12件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。中国の王朝10件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。確かめるという方法10件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。国風文化 — かなと宮廷の女たち10件を共有 / 唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。明治8件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。教育の歴史8件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ8件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。言葉と文字の歴史7件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。元禄から化政へ — 江戸の町人文化7件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。ローマ人の物語6件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。主権はだれのものか6件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。メディアの歴史6件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。宗教改革と科学革命5件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。古代オリエント5件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。文明のはじまり5件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。ペルシア戦争5件を共有 / 当時最大の帝国に、都市国家の寄り合いが勝った。ギリシアが自分たちを語りはじめる。コテンラジオで聞く歴史5件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。子どもの歴史5件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。三国志4件を共有 / 400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。冷戦4件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。帝国と独立4件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。接触前のアメリカ4件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。差別の歴史4件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。老いと死の歴史4件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。性の歴史4件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。交通と旅の歴史4件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。住まいの歴史4件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教4件を共有 / 源平の争乱で焼けた寺の再建と、新しい仏教の広がり。12世紀の終わりから14世紀の初めにかけての、武士と民衆が担い手になった文化。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス3件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。支え合いの歴史3件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。二つの大戦2件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。朝鮮半島2件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。ヴァイキング2件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史2件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『日本の歴史をよみなおす』で読む日本2件を共有 / 日本は農業の国で、百姓は農民だった。その前提を、史料の側から崩した本。『中世の秋』で読む中世の終わり2件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。共和政の終わり1件を共有 / 500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。中華の統一1件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『文明崩壊』で読む歴史1件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『想像の共同体』で読む歴史1件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙1件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『リオリエント』で読む世界経済1件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。