元禄文化

概要
町人が文化の担い手になった。浮世草子・浄瑠璃・俳諧が花開く。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
関わった人(1)
松尾芭蕉AD1644年–AD1694年 · 俳諧本文
元禄は、1688年から1704年まで続いた年号である。将軍は5代の徳川綱吉。大坂の陣が終わってからおよそ80年、島原の乱からでも50年が過ぎ、戦を知る者はもういなかった。この平和の間に、各地で新田が開かれ、農業の取れ高が増え、大坂を中心に全国の米と産物が船で行き交う仕組みが整った。日本海側から下関を回って大坂へ至る西廻りの航路が開かれたのは1670年代のことである。大坂は「天下の台所」と呼ばれ、米を売り買いする商人や、大名に金を貸す両替商が大きな富を蓄えた。
元禄文化と呼ばれる文化の花が開いたのは、この上方、つまり京都と大坂だった。担い手は、それまでの公家や武士、大寺社ではなく、町人である。自分の稼いだ金で本を買い、芝居を見て、俳諧の会に出かける人々が、文化を支えるようになった。

大坂の町人の家に生まれた井原西鶴は、もとは俳諧師で、一昼夜で数千句を詠む矢数俳諧で名を上げた。1682年、『好色一代男』を書いた。主人公世之介が7歳で恋を知ってから60歳になるまで、色の道を極めていく一代記である。古典の『源氏物語』を下敷きにしながら、舞台は遊郭と町の暮らしにある。これが評判を呼び、町人の世を描く「浮世草子」という読み物が生まれた。西鶴はさらに、商人がいかに金を稼ぎ、いかに失うかを描いた『日本永代蔵』や、大晦日の借金取りに右往左往する町人たちを描いた『世間胸算用』を書いた。人の欲と金の動きを、笑いを交えて冷静に見つめる目は、町人自身の目だった。
人形浄瑠璃の台本を書いたのが近松門左衛門である。越前の武士の家に生まれ、京で公家に仕えたのち、芝居の世界に入った。1703年4月、大坂の曽根崎の森で、醤油屋の手代と遊女が心中した。近松はこれを題材に『曽根崎心中』を書き、竹本義太夫の竹本座で、事件からわずか1か月ほどで上演した。実際に起きた事件を、身分の低い町人を主人公にして、悲劇として舞台にかけたのである。義理と人情の板挟みに苦しむ男女の物語は観客の涙を誘い、竹本座の経営を立て直すほどの大当たりになった。心中物はその後も次々に書かれ、まねる者が出たため、のちに幕府は心中物の上演を禁じた。

伊賀の武士の家に生まれた松尾芭蕉は、江戸の深川に庵を結び、言葉遊びの面白さが中心だった俳諧を、自然と人生を見つめる芸術に高めた。1689年、弟子の曾良を連れて江戸から東北、北陸を巡る旅に出た(『おくのほそ道』の旅)。その旅の記録『おくのほそ道』は、芭蕉の死後に刊行され、日本の紀行文学の代表となった。芭蕉は1694年、旅の途中の大坂で死んだ。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、が最後の句とされる。芭蕉の弟子たちは各地に散り、俳諧は町人だけでなく、地方の商人や豪農の間にも広まっていった。
歌舞伎も、このころ興行として形が整った。京・大坂では坂田藤十郎が、色男の柔らかな恋の芝居「和事」で人気を集め、江戸では初代市川團十郎が、隈取をした荒々しい英雄の芝居「荒事」で喝采を浴びた。17世紀の初めに出雲阿国が始めた踊り(出雲阿国のかぶき踊り)は、女性や少年の出演が禁じられて成人の男性の役者だけの芝居となり、役者の芸を見せる舞台芸術へと変わっていった。

絵画では、京の呉服商の家に生まれた尾形光琳が、金地に燕子花を大胆に配した屏風などで、装飾的な画風を完成させた。江戸では菱川師宣が、町の女性や遊里の風俗を描いた版画を一枚刷りの作品として売り出し、浮世絵の祖とされる。版木で刷れば、一枚の絵を安く大量に売ることができる。
その土台にあったのが、出版の広がりである。17世紀の京都には多くの本屋が生まれ、仏書や儒学の本から、絵入りの物語、俳諧の句集、旅の案内書、料理の本まで、さまざまな本が木版で刷られて売られた。西鶴の浮世草子も、こうした本屋が出した商品だった。読み書きを学ぶ子どもも増えていった。のちに各地に広がる寺子屋の土台は、このころから作られていく(寺子屋)。

学問の世界でも新しい動きがあった。関孝和は独自の記号を使った和算で高度な計算を行い(関孝和と和算)、渋川春海は日本独自の暦を作り、貝原益軒は本草学や、人々の暮らしの心得を説く本を書いた。綱吉は儒学を重んじ、江戸の湯島に孔子を祀る聖堂を建てた。一方で、生き物の殺生を禁じる生類憐みの令を次々に出し、人々を困らせた。幕府は貨幣の金銀の割合を減らす改鋳で財政を補い、物価は上がった。1701年から翌々年にかけての赤穂事件(赤穂事件)も、この時代の出来事である。
元禄文化は、金を払う人々が自分の楽しみのために文化を求めたことで生まれた。描かれたのは、遠い昔の英雄や宮廷の恋ではなく、自分たちと同じ町に生きる人々の欲と恋と死だった。18世紀の後半になると、文化の中心は上方から江戸へ移り、のちの化政文化へと受け継がれていく。