できごと

クインズベリー・ルール

Marquess of Queensberry Rules
AD1867年
重要度 3
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1867年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1867年の版図を描いています(22勢力)。

概要

それまでの拳闘は、素手で殴り合い、投げても組み付いてもよく、どちらかが立てなくなるまで続いた。賭けと結びつき、死人も出るので、多くの土地で禁じられていた。1867年、ウェールズの運動家ジョン・チェンバーズが書き、クインズベリー侯爵の名を冠して出された決まりは、様子を一変させた。手袋をはめる。一回は三分、間に一分休む。倒れた者は十数えるうちに立たなければ負け。組み付き、投げは禁止。殴り合いは、時間と数で区切られた競技になった。暴力を消したのではなく、決まりの枠に収めたのである。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

18世紀のイギリスでは、拳闘の試合が人気の見世物だった。「プライズ・ファイト(賞金試合)」と呼ばれ、二人の男が素手で殴り合う。殴るだけでなく、相手を投げても、組み付いて締め上げてもよかった。どちらかが倒れればそこで一回が終わり、短い休みのあと、また立ち上がって向かい合う。回数にも時間にも決まりはなく、どちらかが立ち上がれなくなるか、介添え人が負けを認めるまで、試合は何十回も、何時間も続いた。

1743年、ロンドンの人気拳闘家ジャック・ブロートンは、自分の試合の相手が死んだことをきっかけに、最初の成文の決まりを作った。倒れた者を殴ってはならない、腰より下をつかんではならない、といった内容である。のちにそれを引き継いだ決まりが、ロンドン・プライズ・リング・ルールとして19世紀に広まった。だが、それでも試合が過酷なことに変わりはなかった。

拳闘は、賭けと深く結びついていた。貴族から労働者まで、大勢の観客が大金を賭けた。八百長や乱闘がつきもので、死人も出た。治安を乱すとして、多くの土地で試合は禁じられ、主催者は警察の目を逃れるために、試合の場所を直前まで秘密にし、観客を特別列車で郊外の野原へ運んだ。1860年、イギリスの王者トム・セイヤーズとアメリカのジョン・ヒーナンが戦った大西洋をまたぐ一戦は国中の話題になったが、2時間あまり殴り合った末、押し寄せた観客と警官の乱入で決着がつかないまま終わった。

これを変えたのが、ジョン・グレアム・チェンバーズである。1843年にウェールズで生まれた彼は、ケンブリッジ大学でボートの選手として活躍し、卒業後はロンドンでアマチュアの陸上競技の大会を組織するなど、紳士のための近代スポーツを育てることに力を注いだ。19世紀の半ばのイギリスでは、サッカーやラグビー、陸上競技など、さまざまな遊びが成文の決まりを持つ競技へと姿を変えつつあった。クリケットには18世紀からすでに成文の決まりがあった(クリケットの決まり)。チェンバーズは、拳闘もまた、紳士が安全に競える競技にできると考えた。

1860年代の半ばにチェンバーズが書いた12か条の決まりは、1867年、友人のクインズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラスを後ろ盾として、その名を冠して公表された。侯爵は熱心なスポーツ愛好家で、のちに作家オスカー・ワイルドとの激しい争いでも名を残すことになる人物である。

12か条の中身は、拳闘の姿を一変させるものだった。試合は一辺が24フィートの四角い場で行う。組み付いたり抱え込んだりして戦ってはならない。一回は3分とし、回の間には1分の休みを置く。倒れた者は自力で立たなければならず、10数えるうちに立てなければ負けとする。そして、選手は質のよい、適当な大きさの手袋をはめる。素手で殴り、投げ、倒れるまで続ける戦いが、時間と回数で区切られ、手袋をはめた殴り合いだけの競技に変わった。

はじめ、この決まりはアマチュアのためのものだった。同じ年、チェンバーズはこの決まりで最初のアマチュア拳闘の選手権を開いた。プロの賞金試合は、しばらく素手のままだった。アメリカの英雄ジョン・L・サリバンは、1889年、素手の決まりで75回にわたる死闘を制して王座を守った。これが重量級の素手の選手権の最後とされる。1892年、ニューオーリンズで、サリバンはクインズベリーの決まりに従って手袋をはめ、若いジェームズ・コーベットの挑戦を受け、21回で倒された。この試合を境に、プロの拳闘も手袋の時代に入った。

決まりは、拳闘を禁じられた見世物から、許された競技に変えた。郊外の野原でひそかに行われていた試合は、町の中の会場で、入場料を取って堂々と行われるようになった。観客は増え、新聞が結果を報じ、選手は名声と賞金を手にした。賭けより入場料で稼げる商売になったのである。1904年には、オリンピックの種目にも加えられた。1896年の第1回近代オリンピックから数えて3回目の大会である。

ただ、決まりは暴力を消したわけではなかった。殴ることは同じである。手袋は拳の骨を守ったが、拳を痛める心配が減った分、選手はためらわずに相手の頭を強く打てるようになった、という指摘もある。10数えるうちに立てば試合が続くという決まりは、脳を揺さぶられた選手を何度もリングに戻らせた。頭への打撃が長い年月をかけて脳を傷つけることが分かってくるにつれ、拳闘の安全をめぐる議論は、いまも続いている。

暴力を消すのではなく、決まりの枠に収める。そうすることで、禁じられていたものが許され、人が集まり、商売になり、国境を越えて広がる。クインズベリーの決まりは、19世紀のイギリスで次々に生まれた近代スポーツの決まりの一つだった。日本でも、寺社の境内で行われていた相撲が、常設の建物(国技館)に入るのに合わせて、決まりと興行の形を整えていった。いまも世界中の拳闘の試合は、3分と1分と10の数という、150年前の決まりの骨組みの上で行われている。

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