人物

在原業平

Ariwara no Narihira
AD825年 – AD880年(享年55・推定)
平安時代重要度 4

概要

平城天皇の孫。臣籍に降りた。「体貌閑麗、放縦不拘」と『三代実録』。六歌仙。『伊勢物語』の「昔、男」。二条后との恋、東下り、「唐衣きつつなれにし」。「ちはやぶる神代も聞かず竜田川」。歌が史実より大きくなった最初の人。

本文

在原業平は、平安時代の前期の歌人である。六歌仙の一人に数えられ、『伊勢物語』の主人公「昔、男」のモデルとされてきた。実際の業平について分かることは多くないが、その歌と、歌をめぐって作られた物語によって、日本の文学の中で恋と風流の代名詞のような存在になった。

狩野探幽画『三十六歌仙額』の在原業平
狩野探幽画『三十六歌仙額』の在原業平Wikimedia Commons Kanō Tan’yū · Public domain

825年に生まれた。父は平城天皇の皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女伊都内親王で、父方も母方も天皇の血を引く。阿保親王は、父の平城上皇が弟の嵯峨天皇と争った薬子の変に連座して、十数年にわたり大宰府に遠ざけられていた。業平が生まれた翌年、阿保親王の子どもたちは皇族の身分を離れて「在原」の姓を賜り、臣下となった。業平はその五男で、のちに右近衛権中将になったことから「在五中将」とも呼ばれた。842年の承和の変では、父の阿保親王が謀反の企てを朝廷に知らせる役回りを演じ、その年のうちに世を去っている。

業平の死を記す正史『日本三代実録』は、彼を、容姿が美しく、振る舞いは奔放で物事にこだわらず、学問はほとんどないが、和歌をよく詠んだ、と評している。漢詩文の才が官人の評価を左右した時代に、学問より和歌に生きた貴公子の姿が、短い言葉で描かれている。

在原業平と二条后(月岡芳年画)
在原業平と二条后(月岡芳年画)Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

官人としての業平は、蔵人頭や近衛の中将を務め、晩年には従四位上に至った。皇族の血を引く家柄としては、決して高い出世ではない。朝廷では、藤原良房を中心とする藤原北家が力を伸ばしていた(藤原良房の摂政)。業平が親しく仕えた惟喬親王は、文徳天皇の最初の皇子でありながら、良房の娘が産んだ弟の惟仁親王(清和天皇)に皇太子の座を奪われた人である。業平の妻は惟喬親王の母方の一族、紀氏の娘だった。

業平は惟喬親王の供をして、淀川のほとりの渚の院で桜を愛でた。そのとき詠んだと伝えられるのが、世の中に桜というものがまったくなかったら、春の心はどんなにのどかだろう、という歌である。桜が咲けば散るのが気がかりで落ち着かない、という逆説で春への思いを歌っている。のちに惟喬親王が出家して比叡山の麓の小野に隠れ住むと、業平は雪を踏み分けて訪ねていったと『伊勢物語』は語る。

在原業平邸址、京都市中京区
在原業平邸址、京都市中京区Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

『伊勢物語』は、ある男の元服から死までを、和歌を中心にした125ほどの短い章段で描いた歌物語である。主人公は「昔、男ありけり」と名前を伏せて語られる。その中には業平が詠んだ歌が多く入り、後の時代の人々はこの男を業平その人と見なした。ただし、物語に入っている歌の中で業平の作と確かめられるものは一部にとどまり、作者も分からない。業平の歌をもとにした話に、時代を追って別の人々の話が加えられ、少しずつ今の形になったと考えられている。

物語の中で最もよく知られているのは、のちに清和天皇の后となる藤原高子との恋である。高子は良房の姪で、藤原基経の妹だった。男は高子を連れ出して逃げようとするが、兄たちに取り戻されてしまう。翌年の春、高子のいなくなった屋敷を訪れた男は、月は昔の月ではないのか、春は昔の春ではないのか、私の身だけが元のままで、と詠んで泣く。

小野小町の霊を探す在原業平(月岡芳年画、1891年)
小野小町の霊を探す在原業平(月岡芳年画、1891年)Wikimedia Commons Public domain

都に居づらくなった男は、東国へ下っていく。三河の八橋で、かきつばたの花を見て、その五文字を句の頭に置いて詠んだのが、着慣れた唐衣のように慣れ親しんだ妻を都に残してきたので、はるばる来た旅を思う、という歌である。さらに武蔵と下総の境の隅田川では、見慣れない白い鳥の名を渡し守に尋ね、都鳥だと聞いて、その名を持つなら都のことを知っているだろう、私の思う人は無事でいるかどうか、と問いかけた。

高子との恋がどこまで事実なのかは分からない。だが業平と高子の間に縁があったことは、『古今和歌集』の歌からうかがえる。百人一首にも採られた「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」は、高子が東宮の母として御息所と呼ばれていたころ、その御殿の屏風に描かれた竜田川の紅葉の絵を題にして詠まれたものと、詞書に記されている。

『古今和歌集』に関わる図版:Kokin Wakashu Genei
『古今和歌集』Wikimedia Commons Public domain

880年、業平は56歳で死んだ。死の床で詠んだと伝えられるのが、誰もが最後に行く道だとは前から聞いていたが、それが昨日今日のこととは思わなかった、という歌である。

『古今和歌集』は業平の歌を30首収め、紀貫之は序文で、業平の歌を、心が余って言葉が足りない、しぼんだ花の色は失せても香りが残っているようだ、と評した。思いの深さが言葉からあふれ出る歌だということである。業平の色好みの姿は、のちに『源氏物語』の光源氏の造形にも影響を与えたと言われる(『源氏物語』)。能の『井筒』や『杜若』も『伊勢物語』に題材を取った。東京の隅田川には業平橋や言問橋の名が残り、都鳥と呼ばれたユリカモメは、いま東京都の鳥になっている。

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