概要
第一次世界大戦に敗れた直後の1919年4月、建築家ヴァルター・グロピウスは、ドイツのヴァイマルで、美術の学校と工芸の学校を一つにした新しい学校、バウハウスを開いた。芸術家と職人の垣根を取り払い、建築を中心に、すべての造形をひとつにまとめることを目指した。教師には、画家のクレーやカンディンスキーらが招かれた。やがて学校は、芸術と工業の技術の結びつきを掲げ、量産できる簡素で機能的な家具や照明、建物を生み出した。1925年にデッサウへ移ったが、ナチの圧力で1933年に閉じられた。亡命した教師たちが、その考えを世界に広めた。
場所
50.98°N 11.32°E · ドイツ
本文
19世紀の末、イギリスのウィリアム・モリスは、機械で量産された粗悪な品物を嫌い、手仕事の美しさを取り戻そうとするアーツ・アンド・クラフツの運動を起こした。20世紀のはじめのドイツでは、工業の製品にも良い形を与えようとするドイツ工作連盟が作られ、建築家たちは、装飾を取り去った新しい建築を模索していた。
1919年、第一次世界大戦に敗れたドイツでは、帝政が倒れ、ヴァイマルで共和国の憲法が作られていた。その年の4月、35歳の建築家ヴァルター・グロピウスは、ヴァイマルの美術学校と工芸学校を合わせて、国立のバウハウスを開いた。「建築の家」を意味する名である。創立の宣言は、建築家も画家も彫刻家も、手仕事に立ち返らなければならない、芸術家と職人の間に本質的な違いは無いと述べ、すべての造形が建築のもとに一つになる未来を描いた。表紙には、画家ファイニンガーの木版の大聖堂が刷られた。
学生は、まず基礎の課程で、色と形と素材の性質を、先入観を捨てて学んだ。それから、木工、金属、織物、陶芸、壁画、印刷などの工房に分かれ、芸術家の「形のマイスター」と、職人の「工房のマイスター」の両方から教えを受けた。教師には、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキー、ヨハネス・イッテン、のちにはラースロー・モホイ=ナジらが招かれた。
1923年、グロピウスは「芸術と技術、新しい統一」を掲げ、バウハウスは、工業で量産できる製品の試作に重心を移した。鋼のパイプを曲げた椅子、ガラスと金属の照明、幾何学の形の茶器、装飾の無い活字が生まれた。1925年、保守的な州の政府に予算を削られたバウハウスは、工業都市デッサウへ移り、グロピウス自ら設計したガラスの壁の校舎で教育を続けた。
だが、ナチは、バウハウスを、ユダヤ人とボリシェヴィキの退廃した芸術の巣窟だと攻撃した。1932年、デッサウの校舎を追われてベルリンに移ったバウハウスは、1933年、ナチの政権のもとで閉校に追い込まれた。教師と学生の多くは国外へ逃れた。グロピウスはハーヴァード大学で、最後の校長ミース・ファン・デル・ローエはシカゴで教え、バウハウスの考えはアメリカの建築と工業デザインに大きな影響を与えた。テルアビブには、亡命した建築家たちが白い箱のような建物を数千棟建て、「白い都市」と呼ばれている。日本からも、山脇巌らがバウハウスで学んだ。