確かめるという方法

概要
偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。
この物語について
正しさは、誰が言ったかでは決まらない。この当たり前は、いつ、どうやって当たり前になったのか。そして、確かめるという方法は、誰の手でどのように受け継がれてきたのか。
「科学者」にあたる英語の語が作られたのは1833年のことで、それまでこの人たちは自然哲学者と呼ばれていた。職業としての科学は、この年表のほとんどの期間、存在しない。自然を調べた人々の多くは、医者であり、聖職者であり、役人であり、王に仕える占星術師だった。

この道筋でいちばん大きいのは、たぶん発見そのものより手続きのほうだ。古代ギリシアでは、前6世紀のタレスが世界の成り立ちを神話ではなく自然の原理で説明しようとし、ヒッポクラテスの学派は病を神の罰ではなく体の状態として見た。前300年ごろのエウクレイデスは、少数の定義と公理から定理を積み上げる書き方を『原論』に残した。前3世紀、アレクサンドリアの図書館長エラトステネスは、夏至の正午に南のシエネでは井戸の底まで日が差すのに、アレクサンドリアでは棒に影ができることから、二つの町の距離と影の角度を使って地球の周の長さを求めた(エラトステネス)。結果はかなり正確だったとされるが、彼が使った距離の単位の長さが分からないため、どれほど正確だったかには幅がある。同じ頃、アリスタルコスは地球が太陽の周りを回っていると述べたが、ほとんど顧みられなかった。
ほかの地域でも、測ることは進んでいた。中国では2世紀に張衡が地震の方角を知らせる器械を作り、5世紀の祖沖之は円周率を小数第7位まで正しく求めた。この精度は、その後900年ほど破られなかった。インドでは499年にアーリヤバタが天文と数学の書を著し、のちに零を含む位取りの記数法が整えられていく。
その数字と学問をまとめ上げたのが、イスラム世界だった。9世紀のバグダードでフワーリズミーが書いた方程式の解き方の書は、その書名の一語から「代数」を意味する語を生み、彼の名前そのものはラテン語に訳されるうちに「アルゴリズム」という語になった(フワーリズミーの代数)。10世紀の初めの医者ラーズィーは、天然痘と麻疹を初めてはっきり区別して書いた。11世紀の初め、カイロにいたイブン・アル=ハイサムは、目から光が出て物を見るという古代以来の説を、暗い部屋と小さな穴で確かめて退けた(『光学の書』)。光は物から目に入ってくる。誰が言ったかではなく、やってみてどうなるかで決める。この手続きこそが、のちの科学の核になる。同じ世紀、イブン・スィーナーの『医学典範』は、ヨーロッパの大学で数百年にわたって教科書として使われた。

中国では11世紀の沈括が『夢渓筆談』に、磁石の針が真北からわずかにずれることを書き留め、13世紀の郭守敬は精密な観測をもとに1年を365.2425日とする授時暦を作った。これはいまのグレゴリオ暦と同じ値である。だが、こうした知識が社会の中で一つの方法として制度になることは、どの地域でもまだなかった。
ヨーロッパでそれが起きたのは、16世紀から17世紀にかけてである。1543年、この年に世を去るコペルニクスの主著『天球回転論』が刊行され、太陽を中心に置いて惑星の動きを説明し直した。同じ年、ヴェサリウスは自ら解剖した人体の詳しい図譜を出し、千年以上権威だった古代の医者ガレノスの誤りを示した。アリスタルコスからコペルニクスまで、1800年空いている。出るのが早すぎた仕事は、いったん消える。
デンマークのティコ・ブラーエは、望遠鏡のない時代に20年あまり、肉眼で星の位置を測り続けた。その記録を受け継いだケプラーは、火星の軌道を円と考えるとどうしても観測と合わないことに悩み、ついに惑星は楕円を描くという結論に達した(ケプラーの法則)。天体は完全な円を描くという、2000年続いた前提を捨てたのは、観測記録に合わなかったという、それだけの理由による。1609年から翌年にかけて、ガリレオ・ガリレイは自作の望遠鏡を空に向け、月の山や木星の衛星を見つけた。彼は地球が動くという説を唱えて、1633年に教会の異端審問で有罪とされた。「それでも地球は動く」とつぶやいたという話は、後世の創作とされる。

この時代、知識を確かめる場所も作られた。1660年に設立されたロンドンの王立協会は、「誰の言葉も鵜呑みにするな」という意味のラテン語を標語に掲げ、実験を人前で再現し、その結果を雑誌で公表した。ハーヴェイは血液が体を循環していることを示し、ボイルは真空ポンプを使って気体の圧力と体積の関係を確かめた。そして1687年、アイザック・ニュートンは『プリンキピア』で、地上でリンゴが落ちるのも月が地球を回るのも同じ一つの力によることを、数式で示した。
18世紀から19世紀には、確かめる方法が化学と生物学と医学に広がった。ラヴォアジエは燃焼に酸素が関わることを示し、反応の前後で質量が変わらないことを確かめたが、フランス革命のさなか、徴税請負人だったことを理由に処刑された。ジェンナーは牛痘を使った種痘を広め、パスツールは首を白鳥のように曲げたフラスコで、生き物が自然に湧いて出るのではないことを示した。ファラデーは電磁誘導を見つけ、マクスウェルは電気と磁気と光を一つの理論にまとめた。メンデレーエフは元素を並べた周期表に空欄を残し、まだ見つかっていない元素の性質を予言した。

知識は一直線には増えない。修道院でエンドウを育てて遺伝の法則を見出したメンデルの論文は1866年に発表されたが(メンデルのエンドウの論文)、35年ほとんど読まれず、1900年に三人の学者が別々に再発見した。メンデル本人はその前に世を去っている。インドの事務員だったラマヌジャンは、独学で得た数式を手紙に書いてイギリスの数学者ハーディに送り、ようやく才能を認められた。
誰の手柄かも、思っているほどはっきりしない。1890年、北里柴三郎はベーリングと共に、毒素に対する抗体を含む血清で病を治す方法を発表した(血清療法の確立)。だが1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞を受けたのはベーリング一人だった。ドイツのエミー・ネーターは、物理学の土台になる定理を証明しながら、女性であるために長く正式な職を得られず、無給で講義をしていた。1953年、ワトソンとクリックはDNAの二重らせんの模型を発表した(DNAの二重らせん)。その決め手になった「写真51番」は、ロザリンド・フランクリンの研究室で撮られたもので、本人に断りなく彼らに見せられていた。フランクリンは1958年に37歳で死に、1962年のノーベル賞は存命の三人の男性に贈られた。

20世紀には、科学は国家と結びついて桁違いの力を持った。アメリカのマンハッタン計画は、何万人もの人々と巨額の費用を注ぎ込み、原子爆弾を作り上げた。チューリングの計算の理論は暗号解読と計算機の土台になり、やがてバーナーズ=リーのウェブへとつながっていく。
確かめるという方法は、ひとりの天才が発明したものではない。アレクサンドリアの図書館で、バグダードの翻訳の場で、カイロの暗い部屋で、ロンドンの協会の実演の場で、少しずつ形になってきた。その方法の要は、偉い人の言葉ではなく、誰がやっても同じ結果になるかどうかで決めることにある。そしてその方法は、誰が最初に見つけたかを決めるのには、いまも十分に公平ではない。
この物語が起きた場所
筋(396)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ルーシーできごと約320万年前(1974年に発見)骨格の4割1974年、エチオピアのハダールで、骨格の4割が出た。身長1メートル、脳は小さく、二足で歩いた。「アウストラロピテクス・アファレンシス」。その夜、ビートルズがかかっていた。脳が大きくなる前に、立って歩いた。順番が分かった。ハダール
- 犬の家畜化できごとBC1万4200年頃2万年前の狼の一系統農業より前に、人は犬と暮らしていた。ボン近郊の墓に、男女と一緒に子犬が葬られていた。1万4200年前。その犬は生後半年ほどで、重いジステンパーを二度患った痕がある。介護なしには生きられない。つまり、役に立たないと分かっていて、誰かが世話をしていた。遺伝子の研究では、家畜化の起源は2万〜4万年前、狼の一系統からとされ、場所は複数説がある。人が最初に結んだ、他の種との長い関係である。ボン=オーバーカッセル
- 六十進法できごとBC2000年頃1時間が60分である理由メソポタミアの数は60を単位にした。60は2、3、4、5、6、10、12、15、20、30で割り切れる。分けるのに都合がよい。粘土板に楔で刻む記号は二つだけで、縦の楔(1)と横向きの楔(10)を並べ、位置で桁を示す。位取りの考え方は、ここが最も古い。ゼロにあたる空位の記号は後から現れた。円を360度に、1時間を60分に、1分を60秒に分けるのは、この数の名残である。ウルク
- テラ島の噴火できごとBC17〜16世紀年代は放射性炭素と年輪と氷床で議論が続く島の中央が吹き飛び、火山灰の下に町がそのまま残った。クレタの宮殿文明が衰える一因とされる。アトランティスの伝説の元という説がある。テラ島(サントリーニ)
- タレス人物BC624年頃 – BC546年頃世界の成り立ちを神話ではなく、水という一つの原理で説明しようとした。答えは外れているが、そう問うこと自体が始まりになる。
- タレスの日食予言できごとBC585年5月28日天の異変を、繰り返す現象として扱ったリュディアとメディアの戦いの最中に日が欠け、両軍が戦いをやめた。タレスがこれを予言したとヘロドトスが書く。自然を神話でなく法則で説明する試みの始まりに置かれる。ミレトス(BC585年の日食)
- ピュタゴラス人物BC570年頃 – BC495年頃数が世界の骨組みだと考える一団を率いた。定理の名で知られるが、それはバビロニアで千年前から使われていた。
- パーニニ人物BC520年頃 – BC460年頃人間の知性の記念碑シャラートゥラ(ペシャワールの近く)の人、と伝える。生涯は何も分からない。生きた年も、BC6世紀からBC4世紀まで説がある。『アシュターディヤーイー』3959の規則(スートラ)。音声学、形態論、統語論、方言、ヴェーダ語と日常語の違い。記述の方法自体が、2000年後の言語学の方法。ブルームフィールド「人間の知性の最も偉大な記念碑の一つ」。パタンジャリ(BC2世紀)の注釈『マハーバーシュヤ』で伝わった。
- ヒッポクラテス人物BC460年頃 – BC370年頃病を神罰ではなく体の状態として見る病を神罰でなく自然の現象として扱った。医の倫理を説いた誓いに名が残る。
- ヒポクラテス集典と医の誓いできごとBC400年頃観察して記録するエーゲ海の島コスの医師たちが残した60編ほどの文書の束。一人の著者のものではない。病は神の罰でも祟りでもなく、自然の原因を持つ、と書いた(『神聖病について』は、てんかんを神の病と呼ぶのは無知の言い訳だと言う)。観察と記録を重んじ、患者ごとの経過を書き留めた。「誓い」は、害をなさないこと、毒を与えないこと、患者の秘密を守ることを誓わせる。医が職業倫理を持つという考えが、ここから来る。コス島
- パーニニの文法できごとBC400年頃2400年誰も超えられなかったガンダーラの人が、サンスクリット語を3959の規則で記述した。『アシュターディヤーイー(八章)』。音から語の形成、文まで。規則は代数のように短く(メタ言語、省略、順序の優先)、口で暗誦された。2400年、誰もこれより正確な文法を書けなかった。19世紀のヨーロッパが読んで、比較言語学と、20世紀の生成文法とプログラミング言語の記法(バッカス・ナウア記法)が影響を受けた。タキシラ
- エウクレイデス人物BC4世紀後半(生没年は伝わっていない) – ?定義と公理から積み上げるという書き方を残した『原論』を書いた。定義と公理から順に積み上げるという書き方そのものが、以後2000年の手本になる。本人については何も分かっていない。
- 『原論』できごとBC300年頃定義と公理を先に置き、そこから証明を積み上げる。この書き方が数学の作法として2000年以上使われた。アレクサンドリア
- 算木できごとBC300年頃位取りが、記号ではなく物の配置として先にあった竹や木の小さな棒を、机や布の上に並べて計算する。縦横で位を交互に表し、空いた桁は場所を空ける。位取りの十進法が、記号ではなく物の配置として先に成立していた。赤い棒を正の数、黒い棒を負の数に使い分ける。負の数を実際の計算に用いた、世界で最も早い例である。連立方程式は係数を格子状に並べて解いた。行列の消去法と同じ手続きが、そこにある。宋代に算盤へ、そして数字の記法へ引き継がれた。長安
- アルキメデス人物BC287年頃 – BC212年浮力の原理と円周率の評価を残し、投石機で祖国を守った。ローマ兵に殺される。
- エラトステネス人物BC276年頃 – BC194年頃井戸の影の長さから地球の大きさを出した井戸の影の差から地球の大きさを計算した。誤差は数パーセントに収まる。
- ヒッパルコス人物BC190年頃 – BC120年頃プトレマイオスの体系はこの人の観測の上に建っているロドスで観測し、歳差を見つけ、850の星の表を作り、三角法を始めた。プトレマイオスの体系は、この人の観測の上に建っている。
- ヒッパルコスの歳差の発見できごとBC130年頃基準のほうが動いている150年前の観測と比べて、星の位置が全体にずれていることに気づいた。地球の自転軸が2万6千年で一周する。三角法と星表もこの人から。ロドス
- 太初暦できごとBC104年武帝が暦を改め、正月を今の位置に定めた。司馬遷も編纂に加わっている。以後の中国の暦の枠組みになる。長安
- アンティキティラ島の機械できごとBC2〜1世紀同じ精密さの機械は1000年以上作られていない30あまりの歯車で太陽と月と惑星の位置と日食を計算する装置。沈没船から出た。同じ精密さの機械は、その後1000年以上作られていない。アンティキティラ島

- マヤの長期暦できごとBC36年(現存最古の刻銘)BC3114年を起点として日を数え続ける暦。ゼロを含む記数法を使い、5000年を超える周期を刻む。チアパ・デ・コルソ(位置は特定されていない)
- 張衡人物AD78年 – AD139年天文を司る役人。渾天儀と、地震の方角を示す地動儀を作った。詩人でもあった。
- 王充『論衡』できごとAD80年頃雷は火会稽の貧しい書生が、書店で立ち読みして暗記し、85篇を書いた。「天は意志を持たない」。「雷は火」。「人は死ねば鬼にならない」。「孔子も間違える」。「虚妄を嫌う」。当時は読まれず、200年後に蔡邕が隠して読んだ。中国で最も徹底した懐疑の本。紹興(会稽)
- クラウディオス・プトレマイオス人物AD100年頃 – AD170年頃アレクサンドリアで天文・地理・光学・音楽を書いた。地球中心の宇宙と、経緯度を付けた世界地図。どちらも1400年使われ、どちらも間違っていた。
- 九章算術できごとAD100年頃証明ではなく、手続きの書前漢から後漢にかけて、複数の手で編まれた。九つの章に246の問題を並べる。田の面積、穀物の交換、土木の人手と工期、税の按分、そして測量である。すべて、問い、答え、術の順で書かれ、証明は無い。分数の計算、負の数、連立一次方程式の解法、平方根と立方根、そしてピタゴラスの定理にあたる勾股の術が含まれる。3世紀に劉徽が注を付け、円周率を三千七十二角形から求めた。東アジアの数学は、以後千五百年、この書の注釈として展開した。洛陽
- ガレノス人物AD129年 – AD216年頃ペルガモンの剣闘士の医者から、皇帝の侍医へ。猿と豚の解剖で人体を論じ、その誤りごと1500年の権威になった。
- 張衡の地動儀できごとAD132年揺れの方角を示す装置。都で誰も感じないうちに西方の地震を示し、数日後に知らせが届いたと『後漢書』は伝える。現物は残っていない。洛陽
- 『アルマゲスト』できごとAD150年頃間違った体系が1400年よく当たった地球を中心に、周転円を重ねて惑星の動きを計算する体系。1400年間、天文学の教科書であり続けた。間違っていたが、予測は当たった。アレクサンドリア

- 張仲景人物AD150年頃 – AD219年頃一族の三分の二を疫病で失い、その経験から『傷寒雑病論』を書いた。病の段階と処方を結びつける考え方が、漢方の骨格になる。
- ガレノスの医学できごとAD169年(皇帝の侍医になる)猿と豚の解剖の誤りが1500年伝わった剣闘士の医者から皇帝の侍医になり、動物の解剖で体の仕組みを説いた。四体液説を体系にし、その権威は1500年続く。ローマ
- 『傷寒論』できごとAD200年頃症状の組み合わせから処方を選ぶ、の出発点熱病の経過を段階に分け、段階ごとに処方を定めた。一族の三分の二を疫病で失った医者が書いた。漢方の処方の多くがここから来ている。南陽
- 華佗人物? – AD208年頃麻酔と五禽戯沛国の人。麻沸散で麻酔をして腹を切り、腸を洗って縫った、と『三国志』。五禽戯。虎、鹿、熊、猿、鳥。体操。「私は本当は儒者になりたかった」。曹操の侍医を嫌がって帰った。獄で死に、医書は焼かれた。名前だけが「名医」の代名詞に。
- グプタ朝国AD320年(チャンドラグプタ1世の即位) – AD550年頃ゼロを含む記数法はこの時代サンスクリット文学と数学の古典期。ゼロを含む記数法、カーリダーサの戯曲、アジャンターの壁画がこの時代になる。フン系の侵入で崩れた。
- ヒュパティア人物AD355年頃 – AD415年アレクサンドリアの数学者・天文学者。街の宗教対立のなかで群衆に殺された。
- 祖沖之人物AD429年 – AD500年円周率を7桁まで天文と数学の家に生まれた。円周率を小数7桁まで求め、この記録は900年破られなかった。大明暦を作ったが、政敵に「古を改めるな」と止められ、死後10年で採用された。月の裏のクレーターに名がある。
- アーリヤバタ人物AD476年 – AD550年頃23歳で『アーリヤバティーヤ』を書いた。円周率を3.1416とし、天が回るのではなく地球が自転していると述べた。
- 祖沖之の円周率できごとAD480年頃900年破られなかった精度3.1415926と3.1415927のあいだ、と求めた。この精度は以後900年、誰も超えなかった。355/113という近似も出した。暦を作り、指南車を直し、水車を作った。南京
- 『アーリヤバティーヤ』できごとAD499年23歳の著者が、円周率を3.1416とし、日の出入りは天が回るのではなく地球が自転するからだと書いた。パータリプトラ
- ブラーマグプタ人物AD598年 – AD668年ゼロで割るとラージャスターンのビッラマーラ。ウッジャインの天文台の長。30歳で『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(正しく確立されたブラフマーの教説)、25章、詩の形。ゼロと負の数の演算規則、二次方程式の解、円に内接する四辺形の面積の公式、ペル方程式、天文計算。773年、バグダードに伝わって『シンドヒンド』としてアラビア語に訳され、フワーリズミーが読んだ。
- ブラーマグプタのゼロできごとAD628年ゼロを数として『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』。ゼロを数として扱い、負の数(借金)を含む計算の規則を書いた最初の本。「ゼロを足しても引いても変わらない」「借金から借金を引くと財産になる」「ゼロで割ると……」(この最後だけ、彼は答えを出せなかった)。10進の位取りと、この規則が、8世紀にバグダードへ、12世紀にヨーロッパへ渡って、いまの数字になった。ビンマール(ビッラマーラ)
- イシドルス『語源』できごとAD630年頃インターネットの守護聖人セビリアの司教が、古代の知識を全部、20巻に。文法、医学、法、神、動物、宇宙、船、道具、食べ物。「語の起源を知れば物が分かる」。ほとんどが誤りで、中世で最も読まれた本。1000の写本。「最後の教父」。インターネットの守護聖人。セビリャ
- ジャービル・イブン・ハイヤーン人物AD8世紀 – AD815年頃アルカリとアルコールクーファの錬金術師。蒸留と結晶化を書き、硫黄と水銀の理論を立てた。何百の書が名を借りて書かれ、実在自体が疑われる。ラテン語のゲーベル(硝酸や王水の作り方を書いた13世紀の書物は、この名を借りたもの)。
- フワーリズミー人物AD780年頃 – AD850年頃バグダードの知恵の館で数学と天文を研究した。代数(アルジャブル)はその書名から、アルゴリズムはその名前から来ている。
- マームーン人物AD786年9月14日 – AD833年8月9日地球の大きさを測らせたハールーンの子。母はペルシアの奴隷。弟アミーンと4年戦い、バグダードを囲んで、弟の首を受け取った。知恵の館。ギリシアの本を全部訳せ。地球の大きさを測らせた。「クルアーンは被造物」。ミフナ。ビザンツとの戦いの途中で、川の冷たい水で死んだ。
- ジャービルの錬金術できごとAD800年頃実験しない者は何も知らない蒸留、昇華、結晶化、濾過。金を作る試みの中で、実験の手順が書かれた。「実験しない者は、何も知らない」。ラテン語訳で「ゲーベル」となり、ヨーロッパの化学の最初の教科書になる。クーファ
- 蒸留とアランビクできごとAD800年頃物質の本質を取り出す液体を熱して蒸気にし、冷やして集める。分離の技術である。原型は古代からあったが、アラビアの錬金術師が装置と手順を洗練させた。アル=アンビーク(蒸留器)、アル=クフル(微細な粉、のちにアルコール)、アル=イクスィール(霊薬、エリクサー)。目的は酒ではなく、薬と、香料と、そして物質の本質を取り出すことだった。この装置がヨーロッパへ渡り、修道院で「生命の水」を生み、蒸留酒の系譜が始まる。バグダード
- フワーリズミーの代数できごとAD820年頃代数もアルゴリズムも、この一冊とその著者名から来ている知恵の館の学者が『ジャブルとムカーバラの計算の書』を書いた。「ジャブル」は移項(負の項を反対側へ移す)、「ムカーバラ」は同類項の整理。二次方程式を6つの型に分けて、幾何の図で解を証明した。記号はなく、全部が言葉で書かれている。ラテン語訳の題「アルジェブラ」が代数の名になり、彼の名前のラテン読み「アルゴリトミ」が算法(アルゴリズム)の語源になった。バグダード

- ラーズィー人物AD865年頃 – AD925年頃肉を吊るして病院の場所を決めたレイの音楽家が30歳で医学を学び、バグダードの病院の長になった。病院の場所を、街のあちこちに肉を吊るして腐り方で決めた。天然痘と麻疹を初めて区別し、ガレノスを批判し、200の本を書いた。晩年、失明した。
- 貞観地震できごとAD869年7月9日(貞観11年5月26日)1000年に一度の津波陸奥で大地震。「海が吼えて、大津波が城下を襲い、千人が溺れた」と『三代実録』。多賀城の下まで海が来た。1990年代から津波の砂の層が調べられ、2011年の前に「1000年に一度の津波」が警告されていた。同じ場所に、同じ高さで来た。多賀城
- ラーズィー『天然痘と麻疹について』できごとAD900年頃天然痘と麻疹を区別二つの病を初めて区別して書いた。発疹の出方、熱の経過、看護の方法。ガレノスに無い病気を、自分で見て書いた。ラテン語に訳され、18世紀まで読まれた。レイ
- イブン・アル=ハイサム人物AD965年 – AD1040年頃実験で確かめるという手続きを、方法として書いた目から光が出るのではなく、物から出た光が目に入るのだと示した。主張を実験で確かめるという手続きを、方法として書き残している。
- アル=ビールーニー人物AD973年 – AD1048年地球の半径を測り、インドの学問をその言葉で読んだ遠征に随行してインドに滞在し、サンスクリットを学んで『インド誌』を書いた。相手の言い分をその言葉で読んでから書くという構えが、当時としては際立っている。
- イブン・スィーナー人物AD980年 – AD1037年『医学典範』は、イスラーム世界でもヨーロッパでも600年にわたって教科書として使われた。哲学者でもあり、宮廷の医師でもあった。
- 『光学の書』できごとAD1021年頃目から光が出るという古代以来の説を、暗い部屋と小さな穴を使った実験で退けた。主張を実験で確かめるという手続きが方法として書かれている。カイロ

- 『医学典範』できごとAD1025年当時の医学を一冊に整理した。12世紀にラテン語へ訳され、ヨーロッパの大学で17世紀まで教科書として使われつづける。イスファハーン
- 沈括人物AD1031年 – AD1095年官僚として各地を回り、見聞きしたことを『夢渓筆談』に書いた。磁針が真北を指さないことを、世界で最初に記録している。
- オマル・ハイヤーム人物AD1048年5月18日 – AD1131年12月4日平行線公準を疑ったニシャープール。「天幕作り」。三次方程式を円錐曲線で解いた。ユークリッドの平行線公準を疑った。ジャラーリー暦。『ルバイヤート』。「飲め、明日はない」。1859年、フィッツジェラルドの英訳で、ヴィクトリア朝の詩人になった。ペルシアでは数学者、イギリスでは詩人。
- チャコ・キャニオンの大集落できごとAD1050年頃(最盛期)18.6年の月の周期まで観測していた砂漠の峡谷に、数百室・五階建ての石造建築が十数棟並んだ。数十キロ先まで真っ直ぐな道が延び、太陽と月の周期に合わせた建物の向きが残る。チャコ・キャニオン
- ジャラーリー暦できごとAD1079年グレゴリオ暦より正確マリク・シャーがイスファハーンに天文台を建て、オマル・ハイヤームら8人に暦を作らせた。春分を年の始めに。1年を365.2424日。グレゴリオ暦より正確。ハイヤームは三次方程式を幾何で解き、酒と無常の四行詩を書いた。イランの暦は、いまもこれ。イスファハーン
- 『夢渓筆談』できごとAD1088年官を退いた官僚が、潤州の夢渓園で、見聞きしたことを書き留めた随筆。磁針が真北を指さないこと、活字による印刷が使われていることが、ここに初めて記録される。潤州(鎮江)

- ガザーリー『哲学者の矛盾』できごとAD1095年20の矛盾ニザーミーヤ学院の教授が、イブン・シーナーの哲学を20の点で「矛盾」と論じ、3点で「不信仰」と裁いた。世界の永遠、神の個物の認識、肉体の復活。その年、教授を辞めて、10年放浪した。「私は言葉で信じていて、心で信じていなかった」。『宗教諸学の再興』。イスラームの神学は、それから哲学より神秘を選んだ。バグダード
- アル=イドリースィー人物AD1100年 – AD1165年頃ムスリムの地理学者が、キリスト教徒の王に仕えて世界地図を作った。パレルモは当時、アラビア語・ギリシア語・ラテン語が並んで使われる場所だった。
- イブン・ルシュド人物AD1126年 – AD1198年12月10日コルドバの法官にして医師、そしてアリストテレスの注釈者。ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれた。
- 『ロジェールの書』と世界地図できごとAD1154年ムスリムの地理学者がキリスト教徒の王のために作った。以後300年、ヨーロッパでこれを超える世界地図は現れない。パレルモ

- アルベルトゥス・マグヌス人物AD1200年頃 – AD1280年11月15日経験だけが確かにするシュヴァーベンのラウインゲン。パドヴァで学び、ドミニコ会に。ケルン、パリ(1245〜48年、教授。弟子にトマス・アクィナス)、ケルン(1248年、大学の元になる学院)。アリストテレスの全部に注釈した。植物、動物、鉱物を自分で観察した(「経験だけが確かにする」)。「普遍博士」。錬金術と魔術の噂。レーゲンスブルクの司教(2年で辞めた)。1277年、パリでアリストテレス主義が断罪されたとき、80歳近くで、弟子トマスを弁護しにパリへ行った。ケルンで死んだ。1931年、聖人、教会博士。
- ナスィールッディーン・トゥースィー人物AD1201年2月18日 – AD1274年6月26日捕虜から顧問へホラーサーンのトゥース。イスマーイール派の城アラムートで20年、半ば捕虜として学問をした。1256年、フレグが城を落とすと、その顧問になった。バグダード攻略にも同行した。マラーガ天文台。『天文学の記憶』(トゥースィーの対)。三角法を天文学から独立した数学の分野にした。倫理学、論理学、ユークリッドとプトレマイオスの注釈。150以上の著作。
- フィボナッチ『算盤の書』できごとAD1202年うさぎの数列ピサの商人の子レオナルドは、父の任地である北アフリカのブジーで、アラビアの数字と計算法を学んだ。帰国して書いたこの本は、9つの数字と「ゼフィルム」(ゼロ)による筆算を、ヨーロッパの商人に教えるためのものだった。利息、両替、比例配分、そして有名なうさぎの問題(各項が前の二項の和になる数列)。ローマ数字とそろばんに代わって、紙の上で計算する方法が広まった。フィレンツェは1299年、帳簿での新数字の使用を一度は禁じている。ピサ
- ロジャー・ベーコン人物AD1220年頃 – AD1292年頃驚異の博士サマセット。オックスフォード(グロステストの影響)、パリで教えた(アリストテレスを講義した最初の一人)。1257年頃、フランシスコ会に。会は出版を禁じ、ベーコンは教皇に直接、秘密に、『大著作』『小著作』『第三著作』を送った。経験、数学、光学、言語(ギリシア語とヘブライ語の文法)、暦。眼鏡と望遠鏡を予想した。火薬。1278年頃、「新奇な考え」で会に幽閉された(10年、と伝える。確かでない)。「驚異の博士」。真鍮の話す頭を作った、という伝説。
- 郭守敬人物AD1231年 – AD1316年天文台と観測機器を作り直し、授時暦を作った。1年を365.2425日とした値は、グレゴリオ暦と同じで、そちらより300年早い。
- 『鷹狩りの技術』できごとAD1240年代古い書物の権威より、目の前の鳥を信じた神聖ローマ皇帝で、シチリア王でもあったフリードリヒ二世は、何より鷹狩りを好んだ。南イタリアの宮廷には、アラブやペルシアの鷹匠が仕え、彼は鷹と獲物の鳥を何十年も見続けた。そうして書いた六巻の本は、鷹の育て方と使い方の手引きであると同時に、鳥の骨格、羽の生え方、渡りの仕方を、自分の目で確かめて書いたものだった。アリストテレスの書いたことでも、見て違えば違うと書いた。王侯の遊びのための本が、古い書物の権威より目の前の鳥を信じるという、のちの博物学のやり方を先取りしていた。フォッジャ
- マラーガ天文台できごとAD1259年モンゴルの費用でフレグがバグダードを焼いた翌年、捕虜だった学者ナスィールッディーン・トゥースィーの進言で、モンゴルの費用で建てられた。半径4メートルの壁面四分儀、蔵書40万巻、中国とアンダルスから来た学者。惑星の運動を、プトレマイオスのエカントなしで説明する「トゥースィーの対」が作られた。コペルニクスの本に、同じ図と同じ文字が並んでいる(経路はまだ分かっていない)。マラーガ
- ロジャー・ベーコン『大著作』できごとAD1267年経験科学フランシスコ会士がオックスフォードとパリで、教皇クレメンス4世に頼まれて、1年で書いた。840ページ。「知識の四つの障害」(権威、習慣、偏見、無知の隠蔽)。「経験科学(scientia experimentalis)」。数学が全ての基礎。光学(レンズ、虹)、暦の改革(グレゴリオ暦の300年前に、誤りを指摘した)、火薬(ヨーロッパで最初の記述)。飛ぶ機械と自走する車の予想は、同じ頃の書簡に書いた。教皇は翌年死んで、読まれなかった。「驚異の博士」。オックスフォード
- 授時暦できごとAD1281年大都に天文台を建て、全国27か所で観測して作った暦。1年を365.2425日とする。同じ値をヨーロッパが採るのは300年後のグレゴリオ暦になる。北京
- 眼鏡の発明できごとAD1286年頃1306年、ピサのジョルダーノが説教で述べている。眼鏡が作られるようになってから二十年経たない、自分はそれを作った人物に会って話した、と。名は伏せられている。凸レンズを二枚、革か骨の枠に留め、鼻に載せる。老眼で読み書きができなくなった写字生と学者が、その後も働けるようになった。読む人の労働年数が延びた。凹レンズによる近視の矯正は15世紀である。ヨーロッパでガラスの光学が進んだ背景に、この日用品がある。ピサ
- 人前で、体を開くできごとAD1315年見ることが、読むことの下に置かれた時代が終わっていくボローニャ大学の医師モンディーノ・デ・リウッツィが、人の体を学生の前で開いた。医学は千年のあいだ、ガレノスの書物を読むことで教えられてきた。解剖そのものが禁じられていたというより、遺体をどう手に入れ、誰の目に触れさせるかが重かった。用いられたのは処刑された者の体である。教授が高い椅子から書を読み上げ、床屋外科が刀を入れ、助手が該当の部位を指す。翌年に書かれた手引きは、二百五十年にわたって教室で読まれ続けた。見ることが、読むことの下に置かれた時代が、ここから終わっていく。ボローニャ
- マドハヴァ人物AD1340年頃 – AD1425年頃弟子の引用でだけ知られる南インド、ケーララのサンガマグラーマ(イリンジャーラクダ)。ケーララ学派の創始者。円周率、正弦、余弦、逆正接の無限級数。π=√12(1−1/(3·3)+1/(5·3²)−…)で11桁まで求めた。彼自身の著作はほとんど失われ、弟子たち(ニーラカンタ、ジェーシュタデーヴァ)の書物の中の引用で知られる。『ユクティバーシャー』(1530年頃、マラヤーラム語)は、証明を伴う数学書として、世界で最初期のもの。
- ウルグ・ベク人物AD1394年3月22日 – AD1449年10月27日政治より天文をティムールの孫。15歳でサマルカンドの統治者。政治より天文と数学を好んだ。マドラサ(1420年)と天文台(1424年)を建て、自分で観測に加わった。『スルタンの星表』。ジャムシード・カーシーとカーディーザーデを集めた。1447年、父の死で君主になったが、2年で息子アブドゥッラティーフに背かれ、メッカ巡礼の名目で送り出された途中、刺客に首を斬られた。息子は6か月後に殺された。
- ケーララ学派の無限級数できごとAD1400年頃ライプニッツより270年早くマドハヴァが、円周率と、正弦と余弦と逆正接を、無限に続く項の和で表した。「マドハヴァ・ライプニッツ級数」(π/4=1−1/3+1/5−…)は、ライプニッツより270年早い。誤差の補正項まで作った。微積分の入り口に立っていた。写本はサンスクリットの詩の形で、南インドの外に出なかった。ヨーロッパに伝わったかどうかは、いまも研究されている。イリンジャーラクダ(ケーララ)
- 線遠近法の発見できごとAD1413年頃消失点ブルネレスキが、洗礼堂を正確に描いた板に穴を開け、裏から覗いて、鏡に映した像と実景を見比べる実験をした。一点に収束する消失点。1435年、アルベルティが『絵画論』で理論にした。「絵は、開かれた窓である」。それから500年、ヨーロッパの絵は、この規則で空間を作った。1907年、ピカソがそれを壊すまで。フィレンツェ
- ウルグ・ベクの星表できごとAD1437年地中に埋めた六分儀ティムールの孫が、サマルカンドに半径40メートルの六分儀を地中に埋めて作り、30年、星を測った。1018個の星の位置。1年の長さを365日5時間49分15秒とした(誤差25秒)。ヒッパルコス以来、最も正確な星表で、ヨーロッパが追い抜くのは17世紀。1449年、王位を継いだ息子に殺された。天文台は宗教者に壊され、20世紀に地中の六分儀の溝だけが見つかった。サマルカンド
- レオナルド・ダ・ヴィンチ人物AD1452年4月15日 – AD1519年5月2日観察の記録としての手稿。ほとんど公にならなかった絵、解剖、水利、飛行。分野を分けずに世界を観察し、大半を未完のまま残した。
- コペルニクス人物AD1473年2月19日 – AD1543年5月24日地球が動いていると説いた。死の年に本が出て、宇宙の中心から人間が外れはじめる。
- ゲオルギウス・アグリコラ人物AD1494年3月24日 – AD1555年11月21日本名はゲオルク・パウアー。ザクセンの染物屋の子。ライプツィヒで古典を学び、イタリアで医学を修めた。銀山の町ヨアヒムスタール、次いでケムニッツの市医となる。坑夫を診療しながら、坑内に入り、道具と手順を記録した。鉱物を色、硬さ、光沢など観察できる性質で分類し、化石を生物の遺骸と考えた。ケムニッツ市長を四度務めた。カトリックのまま、宗教改革下のザクセンに留まったため、死後、市内に埋葬されなかった。
- アンドレアス・ヴェサリウス人物AD1514年12月31日 – AD1564年10月ファブリカブリュッセルの薬剤師の子。パリで学び、パドヴァで教え、23歳で教授。絞首台から死体を盗み、自分で切った。28歳で『ファブリカ』。皇帝の侍医になって解剖をやめ、エルサレム巡礼の帰りに難破してザキントス島で死んだ。
- 李時珍人物AD1518年 – AD1593年湖北の蘄州、代々の医者の家に生まれた。父は息子に科挙を望んだが、三度落ちて医に戻った。楚王府と太医院に仕えたが長く留まらず、郷里で診療した。既存の本草書に誤りと重複が多いことに気づき、二十七年をかけて『本草綱目』を書いた。八百種以上の文献を読み、各地を歩き、農民と猟師と薬売りに聞き、自ら試した。三度書き改めた。刊行を見ることなく死んだ。
- パラケルススのガレノス焼却できごとAD1527年病気は外から来るバーゼル大学の医学教授が、聖ヨハネの日の焚き火に古典の医学書を投げ込み、ラテン語でなくドイツ語で講義した。病気は体液の不均衡ではなく外から来る、と。1年で追われ、放浪して死んだ。バーゼル
- クリストファー・クラヴィウス人物AD1538年3月25日頃 – AD1612年2月6日バンベルクの生まれ。イエズス会に入り、ローマ学院で四十年以上、数学を教えた。ユークリッドの注釈と算術の教科書は各国語に訳され、イエズス会の学校を通じて中国にも渡った。徐光啓と利瑪竇が訳した『幾何原本』は彼の版による。グレゴリオ暦の改暦委員会の中心となり、リリオの案を検討し、細部を定め、批判に反論する著作を書いた。ガリレオと文通し、望遠鏡による木星の衛星の観測を確認した。月にクラヴィウスの名のクレーターがある。
- 床屋の三色柱できごとAD1540年中世の床屋は、髪と髭だけを扱ったのではない。歯を抜き、腫れ物を切り、そして瀉血をした。患者は棒を握って血の巡りを出し、終われば血の付いた布をその棒に巻いて外に干した。それが看板になったとされる。赤は血、白は包帯である。1540年、イングランドは床屋と外科医の組合を一つにまとめ、同時に仕事を分けた。床屋は抜歯まで、外科医は髭を剃らない。やがて外科が医学の側へ移り、床屋には柱だけが残った。いまも回り続ける看板は、外科の分かれた跡になる。ロンドン
- ヴェサリウス『ファブリカ』できごとAD1543年見たままを描かせたパドヴァ大学の28歳の解剖学教授が、自分の手で人体を解剖して、見たままを描かせた。7巻、663ページ、木版画300点以上。ガレノスの記述が、実は猿と豚の解剖に基づくもので、200か所以上、人体と違うことを示した。骨格が思索する姿、筋肉が皮を剥がれて立つ姿。コペルニクスの『天球の回転について』と同じ年。権威でなく、見ることを基準にした。パドヴァ
- 大学の植物園できごとAD1545年書かれた名と、目の前の草を、突き合わせるそれまで薬草の知識は、古代の書物の写しと、薬草売りの経験にあった。書かれた名と、目の前の草が同じものかを、誰も確かめていない。ヴェネツィア共和国は、パドヴァ大学に、生きた植物を集めて栽培する園を作らせた。学生が実物を見て、記述と照らす。円形の敷地が四つに区切られ、世界の四方から集めた植物が植えられた。ピサとフィレンツェが数年先行するが、当初の場所に残るのはここだけである。ゲーテが訪れ、そこで植物の変態という着想を得たと書いている。パドヴァ
- ティコ・ブラーエ人物AD1546年12月14日 – AD1601年10月24日20年、肉眼でデンマークの貴族。決闘で鼻を失い、真鍮の鼻をつけた。王から島をもらい、天文台を建て、20年、肉眼で星の位置を1分角で測った。飼い慣らしたヘラジカがビールを飲んで階段から落ちて死んだ。王と喧嘩してプラハへ移り、ケプラーを助手にして死んだ。データはケプラーが取った。
- ジョン・ネイピア人物AD1550年 – AD1617年4月4日黒い雄鶏を連れた領主エディンバラ近郊マーチストンの領主。神学の論争家として当時は知られ、『ヨハネ黙示録の明白な発見』で教皇を反キリストと論じた。農業の改良、そして戦争の機械(鏡で敵艦を焼く装置、装甲車)の構想も残した。20年かけて対数の表を作り、1614年に発表した。掛け算と割り算を足し算と引き算に変える。計算のための棒(ネイピアの骨)も考案した。魔術師と噂され、黒い雄鶏を連れ歩いたと伝わる。
- 押し葉標本できごとAD1550年頃記述ではなく、物が、基準になるボローニャの医学者ルカ・ギーニが、植物を紙の間で乾かし、貼り付けて綴じる方法を広めた。生きた植物は季節と場所に縛られるが、乾いた標本は運べて、何百年も残る。誰かが記した名と、実物とを、後から突き合わせられる。これが分類学の物質的な土台になった。世界の標本庫に、いま推定で三億九千万点以上が収蔵されている。近年は、その葉から古いDNAが読まれ、当時の大気の組成や病原体の痕跡まで調べられるようになった。ボローニャ
- デ・レ・メタリカできごとAD1556年古代の権威ではなく、坑内を見て書いたゲオルギウス・アグリコラは、ザクセンの鉱山町の医師である。坑夫を診ながら、彼らの仕事を二十年かけて書き取った。鉱脈の探し方、坑道の支保、排水の水車とポンプ、換気の送風機、鉱石の粉砕と精錬。二百九十点を超える木版の図が付く。坑夫の肺の病についても書いている。ラテン語で書かれ、二百年近く現場の標準になった。1912年、後の大統領ハーバート・フーヴァーとその妻ルウが、鉱山技師としての知識で英訳した。ケムニッツ
- フランシス・ベーコン人物AD1561年1月22日 – AD1626年4月9日知識は力なり。権威ある書物ではなく観察と実験で自然を問えと説いた。大法官まで上り、収賄で失脚する。
- ガリレオ・ガリレイ人物AD1564年2月15日 – AD1642年1月8日望遠鏡を空へ向け、観測で世界を確かめる方法を示した。異端審問で説の撤回を強いられる。
- ヨハネス・ケプラー人物AD1571年12月27日 – AD1630年11月15日惑星の軌道が円ではなく楕円だと突き止めた。占星術の依頼で生計を立て、母を魔女裁判から救い出すのに6年を費やしている。
- ティコの新星できごとAD1572年11月11日視差で月より遠いと示したカシオペヤ座に金星より明るい星が現れ、16か月ほどで見えなくなった。月より遠いことを視差で示した。アリストテレスの「天は変わらない」が観測で崩れた。王は島を与え、20年、望遠鏡なしで星の位置を測り続けた。ヴェン島

- ウィリアム・オートレッド人物AD1574年3月5日 – AD1660年6月30日イートン校の書記の子。ケンブリッジで学び、生涯を英国国教会の教区司祭として過ごした。数学は職業ではなく、志願者に無償で教えた。ウォリス、レン、そして多くの数学者が彼の弟子である。1631年の『数学の鍵』は簡潔すぎて難解とされたが、長く読まれた。掛け算の記号×と、比を表す:: は彼が導入したものである。1622年頃、対数目盛の尺を二本重ねて滑らせる計算尺を考案した。八十六歳で死んだ。
- ウィリアム・ハーヴェイ人物AD1578年4月1日 – AD1657年6月3日72頁ケントの農家の長男。パドヴァでファブリキウスに静脈の弁を学び、ロンドンで王の侍医。血が回っていると言って、患者が減った。「私の血の流れの発見のあと、開業は落ち込んだ」。内戦で王の側にいて、実験ノートを兵に焼かれた。
- グレゴリオ暦への改暦できごとAD1582年10月15日十日が消えたユリウス暦の一年は365.25日で、実際より約11分長い。千二百年で十日ずれ、復活祭の基準になる春分が三月十一日に来ていた。教皇グレゴリウス13世の勅書により、1582年10月4日木曜の翌日を10月15日金曜とした。十日が消えた。閏年の規則も直した。百で割れる年は平年、四百で割れる年は閏年。カトリック諸国が先に従い、プロテスタントと正教の国は遅れた。イギリスは1752年に十一日を消し、日本は1873年、ロシアは1918年、ギリシアは1923年である。ローマ
- 本草綱目できごとAD1596年典拠を書き、先人の誤りを正す李時珍が二十七年かけて書いた薬物の書である。1,892種を、鉱物から人体まで十六の部に分けて並べた。分類の順を、無機から植物、動物へと段階的に上げている。374種を新しく加え、既存の書の誤りを正した。自ら山に入り、農民と漁師と猟師に聞き、自分で試した。生前には刊行されず、死の三年後、南京で出た。日本には1607年に伝わり、江戸期の本草学の土台になった。ダーウィンが「中国の百科事典」として引いている。南京
- 吉田光由人物AD1598年 – AD1673年京都嵯峨の豪商角倉家の一族に生まれた。角倉は河川の開削と朱印船貿易で知られる。一族の角倉素庵に学び、明の『算法統宗』を読んで数学に入った。1627年、二十九歳で『塵劫記』を著す。絵を多く入れ、実用と遊びを並べ、版元を変えながら生涯に何度も改訂した。海賊版が横行したため、巻末に答えの無い問題を置いて自著を見分けさせた。それが遺題継承の慣行になった。晩年は失明したと伝えられる。
- ピエール・ド・フェルマー人物AD1607年頃 – AD1665年1月12日この余白は狭すぎるトゥールーズの高等法院の法律家。数学は余暇の仕事で、論文をほとんど発表せず、友人への手紙で結果だけを告げた。パスカルとの往復書簡で確率論を作り、光の進み方を最短時間の原理で説明し、微分の先駆となる方法を編み出した。ディオファントスの本の余白に「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白は狭すぎる」と書き残した。この一行が、以後358年間、数学者を悩ませた。
- ケプラーの法則できごとAD1609年観測に合わないという理由だけで、2000年の前提が崩れる惑星の軌道は円ではなく楕円だった。円でなければならないという2000年の前提が、ティコ・ブラーエの観測記録に合わないという理由だけで崩れる。プラハ

- 『星界の報告』できごとAD1610年3月13日道具が宇宙の見え方を変えたオランダで作られた覗き眼鏡の噂を聞いて、ガリレオは自分で作り、倍率を20倍以上に上げた。そして、空へ向けた。月に山と谷があった。天の川は無数の星の集まりだった。木星に、四つの星が付き従っていた。それらは、木星の周りを回っていた。地球以外のものを中心に回る天体が、確かに存在する。24ページの小冊子を、彼は数か月で書いて出した。550部は、すぐ売り切れた。道具が、宇宙の見え方を変えた最初の例である。パドヴァ
- ネイピアの対数できごとAD1614年天文学者の寿命を二倍にした掛け算を足し算に変える。スコットランドの領主ジョン・ネイピアが20年かけて表を作った。数を並べ、その指数を並べれば、掛けたい二数の指数を足して引き直せばよい。天文学者は、それまで何日もかけていた計算を数時間で済ませられるようになった。ラプラスが「天文学者の寿命を二倍にした」と言った。ブリッグズが常用対数に直し、オートレッドが二本の対数目盛りを滑らせる計算尺を作った。この道具は、アポロ計画まで使われた。エディンバラ
- 薬を扱う職できごとAD1617年医師と薬剤師の線引きが、ここで形になった薬草も香辛料も、もとは同じ商人が扱っていた。乾いた品を量り売りする商売である。1617年、ロンドンの薬種商たちは食料雑貨商の組合から分かれ、独自の組合を作った。誰が薬を調合してよいかを決め、粗悪品を取り締まり、徒弟の修業年数を定める。医師は診断と処方、薬剤師は調合と販売、という分業がここで形になった。もっとも、医者にかかる金の無い人々は薬剤師に直接相談し、薬剤師が事実上の町医者になる。線を引いても、貧しさのほうが強い場面では、線は越えられる。ロンドン
- 『ノヴム・オルガヌム』できごとAD1620年観察と実験を手続きにした知識は力なり。古い書物の権威ではなく、観察と実験を積み重ねて自然を問えと説いた。知らないと認めるところから近代科学が始まる。ロンドン

- 計算尺できごとAD1622年対数は掛け算を足し算に変える。ガンターは対数の目盛を刻んだ物差しを作り、コンパスで長さを測って足した。オートレッドは、同じ目盛の尺を二本、滑らせて重ねればよいと考えた。掛け算が、目盛を合わせる動作になる。有効数字は三桁ほどしか読めない。しかし、桁を間違えなければ、それで足りる場面が多い。以後三百五十年、技師と航海士と学生がこれを腰に下げた。アポロ計画の技術者も使っている。電卓が現れて、数年で消えた。ロンドン
- ブレーズ・パスカル人物AD1623年6月19日 – AD1662年8月19日19歳で計算機16歳で円錐曲線の定理、19歳で計算機、23歳で真空の実験、31歳で確率論と「火の夜」。ジャンセニストになり、イエズス会を『プロヴァンシアル』で笑い、乗合馬車を発明し、39歳で死んだ。上着に縫い込んだ紙に「火。アブラハムの神、哲学者の神ではなく」。
- ロバート・ボイル人物AD1627年1月25日 – AD1691年12月31日真空ポンプコーク伯の14番目の子。イートンを出て、姉の家で実験室を持ち、フックを助手にして真空ポンプを作った。王立協会の創立会員で、会長を宣誓が嫌で断った。独身で、聖書をアイルランド語に訳させ、錬金術で金を作ろうとし続けた。
- 塵劫記できごとAD1627年答えの無い問題を巻末に置く吉田光由が、明の『算法統宗』を下敷きに、日本の暮らしに合わせて書いた算術の入門書である。算盤の使い方、掛け算の九九、両替、検地、利息、そして継子立てや鼠算のような遊びの問題まで、絵入りで並べた。版を重ね、模倣と海賊版が無数に出て、江戸期を通じて最も読まれた数学の本になった。巻末に答えを付けない問題を残す遺題の形式を作り、それが次の著者への挑戦として受け継がれ、和算の発展を駆動した。京都
- ハーヴェイの血液循環できごとAD1628年血は回っている心臓は1時間で体重より多い血を送る。肝臓がそれだけ作れるはずがない。だから血は回っている。72頁の本で、1500年のガレノスが終わった。毛細血管は見えず、30年後に顕微鏡で見つかった。ロンドン
- アントニ・ファン・レーウェンフック人物AD1632年10月24日 – AD1723年8月26日織物商が趣味で作ったレンズで、水の一滴の中に動くものを見た。生きものの世界がもう一段下にあると分かる。フェルメールと同じ年に同じ町で生まれている。
- 関孝和人物AD1642年頃(1637年説もある) – AD1708年12月5日和算を高い水準に押し上げた。行列式にあたるものを、ライプニッツとほぼ同じ頃に、互いを知らないまま書いている。
- アイザック・ニュートン人物AD1643年 – AD1727年天体の運行と落ちる林檎を同じ式で説明した。世界が法則で書けると示す。
- 空気の重さを量るできごとAD1643年空気に重さがあり、真空がありうると同時に示した井戸の水は、どんなに良い喞筒でも十メートル以上は吸い上がらない。職人は知っていたが、理由は分からなかった。ガリレオの弟子トリチェリは、水より重い水銀で試す。片方を閉じた長い管に水銀を満たし、逆さに立てると、上に隙間ができて、水銀は決まった高さで止まった。空気が外から押しているから、その重さの分だけ上がるのだと彼は考えた。上の隙間は、何も無い空間である。空気に重さがあり、真空がありうる。この二つを同時に示した装置が、やがて天気を測る道具になる。フィレンツェ
- パスカルの計算機できごとAD1645年父の帳簿のために19歳のパスカルが、徴税官の父の帳簿の計算を助けるために作った。歯車を回して数を入れ、桁上がりは重りの落下で次の桁へ伝わる。フランスの通貨が12進と20進の混在だったため、桁ごとに歯数が違う。50台ほど作られ、9台が現存する。高価で壊れやすく、実用にはならなかった。30年後、ライプニッツが段付き歯車で掛け算のできる機械を作った。「優れた人間が、機械にもできる計算に時間を奪われるのは、まったく不当である」。パリ
- 確率論のはじまりできごとAD1654年未来の可能性を数える賭博師シュヴァリエ・ド・メレが、パスカルに二つの問いを出した。中断した賭けの掛け金をどう分けるか。パスカルはフェルマーと手紙を交わし、「これから起こりうる場合を数え上げて、期待値で分ける」という答えに達した。過去の実績ではなく、未来の可能性を数える。ここから、保険、年金、統計、そして意思決定の理論が出る。パスカル自身は、この考えを神の存在への賭けにも使った。パリ
- エドモンド・ハレー人物AD1656年11月8日 – AD1742年1月25日出版費を出した石鹸製造業者の子。20歳でセントヘレナへ行って南天の星図(341)。ニュートンを訪ねて「楕円軌道になるか」と聞き、ニュートンが「計算した」と答えて、『プリンキピア』を書かせ、出版費を出した。貿易風の地図、磁気偏角の海図、生命表(保険の元)、ダイビング・ベル、彗星。王室天文官(1720年、63歳から)。85歳、ワインを一杯飲んで、椅子で死んだ。
- 三百年の気温できごとAD1659年から測り続けることが、それ自体で発見になる二十世紀半ば、気象学者ゴードン・マンリーは、イングランド中部に残された観測の記録を集め始めた。個人の日記、館の記録、学校の帳面。置き場所も器械もばらばらで、暖房のない部屋の中で測ったものまである。彼はそれらを一つずつ突き合わせて補正し、1659年まで遡る月ごとの気温の列を作った。世界でもっとも長い気温の記録である。一年だけを見ても何も分からないが、三百年並べると、寒い時期があり、そして近年の上がり方が、それまでとは違うことが見える。測り続けることが、それ自体で発見になる。イングランド中部(位置は特定されていない)
- ボイルの法則できごとAD1662年圧力と体積は反比例気体の圧力と体積は反比例する。J字のガラス管に水銀を入れて測った。伯爵の息子が実験室を持ち、測って書いて、公開した。「懐疑的化学者」。錬金術から化学へ、と教科書は書くが、本人は錬金術を続けた。ロンドン
- 『ミクログラフィア』できごとAD1665年王立協会の実験係ロバート・フックは、自分で改良した顕微鏡で、ノミやシラミ、針の先、布の目を覗き、見たものを大きな銅版画にして1665年に出版した。ノミは紙いっぱいの怪物のように描かれ、読者を驚かせる。コルクの薄片に並ぶ小さな部屋を、修道院の小部屋になぞらえてセルと呼んだ。いまの細胞という言葉の始まりである。目に見えないほど小さな世界が、身の回りのありふれたものの中に広がっていることを、絵で示した本だった。ロンドン
- ニュートンのプリズムできごとAD1666年白い光は色の混合であるペストで大学が閉鎖され、故郷に戻っていた年。窓の鎧戸に穴を開け、差し込む光を三角のガラスに通すと、壁に虹の帯が伸びた。当時の説では、色はガラスが白い光を「汚す」ことで生じるとされていた。彼は帯の一色だけを二枚目のプリズムに通し、それ以上分かれないことを示した。白色光は色の混合であり、プリズムはそれを分けているだけである。1704年『光学』。ゲーテは半世紀後、これに真っ向から反論する色彩論を書いた。ケンブリッジ
- ニュートンの反射望遠鏡できごとAD1668年レンズをやめて鏡にしたレンズの望遠鏡は、色がにじむ。光の色によって屈折の度合いが違うためで、ニュートンはプリズムの実験からその原因を知っていた。鏡なら色は分かれない。彼は銅とスズの合金を自分で鋳て、磨いて凹面にし、小さな斜めの鏡で光を横へ出した。全長わずか十五センチほどで、当時の一メートル超の屈折望遠鏡に匹敵した。1672年に王立協会へ送られ、彼はそれで会員になった。現在の大型望遠鏡は、すべて鏡である。ケンブリッジ
- 『発微算法』できごとAD1674年和算を代数の水準へ進めた。のちの『解伏題之法』で示した行列式にあたる考えは、ライプニッツとほぼ同時期に、互いを知らないまま到達している。江戸
- レーウェンフックの微生物できごとAD1676年小さな動物デルフトの織物商が、自分で磨いた玉のようなレンズ(倍率270倍)で、雨水と、歯垢と、精液と、胡椒水を覗いた。「小さな動物(ディールケンス)」が泳いでいた。ロンドンの王立協会に、オランダ語の手紙で報告した。誰も信じず、フックが確かめて、認められた。細菌、原生動物、精子、赤血球、筋肉の横紋。レンズの作り方は誰にも教えず、死んだ。細菌がもう一度見られるまで100年かかった。デルフト
- 関孝和と和算できごとAD1683年ライプニッツとほぼ同時に甲府藩、のち幕府の勘定方に仕えた武士が、中国伝来の数学を組み替えた。算木を並べる代わりに、紙の上で未知数を記号で表す「傍書法」を作り、多元の高次方程式を扱った。行列式に相当する考え方を、ヨーロッパのライプニッツとほぼ同時期に得ている。円周率を小数第11位まで、円の求積を無限級数で。門人が全国に広がり、神社に問題と解答の絵馬を奉納する「算額」の風習が生まれた。数学が庶民の趣味になった、珍しい例である。江戸
- ルネ・レオミュール人物AD1683年2月28日 – AD1757年10月17日ラ・ロシェルの生まれ。裕福で、生涯を研究に費やした。鋼の組織を調べ、可鍛鋳鉄の製法を開き、アルコールの膨張による温度計と、氷点0度・沸点80度の目盛を作った。六巻の『昆虫誌』は観察の精密さで知られる。鳥の消化を、金属の管に肉を入れて飲ませる実験で調べた。1719年、雀蜂の巣が木の繊維からできていることに触れ、木から紙が作れると述べた。弟子と助手の功績を自分のものにしない人物だったと評される。
- アンデルス・セルシウス人物AD1701年11月27日 – AD1744年4月25日ウプサラの生まれ。父も祖父二人も教授である。1730年、ウプサラ大学の天文学教授。1736年、モーペルテュイのラップランド遠征に加わり、地球が極でつぶれた形であることを確かめた。オーロラを組織的に観測し、その出現と磁針の振れが関係することを示した。ウプサラ天文台を設立した。1742年、水の沸点を0、氷点を100とする温度目盛を提案した。結核により42歳で死んだ。
- ライプニッツの二進法できごとAD1703年0と1だけ0と1だけで、すべての数を書く。ライプニッツは1679年頃からこれを考え、1703年に論文として発表した。彼はイエズス会士から送られた『易経』の六十四卦の配列を見て、陰と陽が0と1に対応することに気づき、古代中国が同じ体系を持っていたのだと考えた(この解釈は現在では否定されている)。彼にとって二進法は、無(0)から神(1)がすべてを創る象徴でもあった。実用になるのは、電気の入切で計算する機械が現れてからである。ハノーファー
- ハレーの彗星の予言できごとAD1705年時計のように戻る1682年の彗星が、1531年と1607年の彗星と同じ軌道だと計算して、「1758年に戻る」と書いた。ニュートンの重力で。ハレーは1742年に死に、1758年のクリスマスにドイツの農民天文学者パリッチが見つけた。彗星は神の警告でなく、時計のように戻る物になった。ハレーは『プリンキピア』の出版費を自分で払った人。ロンドン
- 生命保険の始まりできごとAD1706年生命表ロンドンの「アミカブル・ソサエティ」。会員が毎年、同じ額を払い、その年に死んだ会員の遺族が、集めた金を人数で分ける。年齢による差はまだない。1762年、エクイタブル生命が、ドドソンがロンドンの死亡表から計算した表を使って、年齢ごとに保険料を変えた。数学で死を計算する商売。海上保険(ロイズのコーヒーハウス、1688年)と火災保険(大火の後、1680年)に続いて、命が金額になった。ロンドン
- ベンジャミン・フランクリン人物AD1706年1月17日 – AD1790年4月17日印刷屋から始めて、避雷針と二重焦点眼鏡を作り、独立宣言に署名し、フランスを味方につけた。「時は金なり」を書いた人でもある。
- プルシアンブルーできごとAD1706年ベルリンの絵具屋ディースバッハが、赤い顔料を作ろうとして、汚染された炭酸カリを使った。動物の血から作られたもので、鉄と反応し、赤ではなく深い青ができた。それまでの青は、アフガニスタン産のラピスラズリを砕いたウルトラマリンで、同じ重さの金に迫る値だった。新しい青は、桁違いに安い。ヨーロッパの絵画が変わり、やがて長崎経由で日本へ入る。北斎の富嶽三十六景の、あの青である。後にシアン化物の化学と、青写真の技法も、ここから出た。ベルリン
- カール・フォン・リンネ人物AD1707年5月23日 – AD1778年1月10日生きものを属と種の二語で呼ぶ決まりを作った。名前の付け方を揃えたことで、離れた土地の研究が初めて突き合わせられるようになる。
- デイヴィッド・ヒューム人物AD1711年5月7日 – AD1776年8月25日原因と結果は習慣で結びつけているだけで、必然は証明できないと論じた。カントが「独断のまどろみから覚まされた」と書いた相手になる。
- クロード・ブルジュラ人物AD1712年11月27日 – AD1779年1月3日リヨンの裕福な家に生まれ、法律を学び、弁護士を経て、騎兵隊に入った。除隊後、リヨンの乗馬学校を引き継ぎ、馬の解剖と運動を研究した。ディドロとダランベールの百科全書に、馬術と馬の項目を書いている。繰り返す牛疫を見て、家畜の医学を教える学校の必要を説き、財務総監ベルタンの支援で1761年に認可を得た。教育は厳格で、蹄鉄工の徒弟ではなく、解剖から学ばせた。校長として、パリのアルフォール校も指導した。
- 持続可能という言葉できごとAD1713年ザクセンの銀鉱山は、坑道の支柱と製錬の燃料に大量の木を使い、周りの森を裸にしていた。鉱山を監督するハンス・カール・フォン・カルロヴィッツは1713年、林業の本を書く。伐る量を、育つ量の範囲に収めること。彼はそれを「持続する利用」と呼んだ。いま世界で使われる「サステナビリティ」という言葉は、この本のドイツ語にさかのぼるとされる。動機は自然への愛ではない。鉱山を止めないためである。資源を使い続けたいという都合から、使いすぎない決まりが生まれた。フライベルク
- 経度法できごとAD1714年賞金2万ポンド緯度は太陽か北極星の高さで出る。経度が出ない。地球は1時間で15度回るから、出港地の時刻を持ち歩けば、その場の正午との差で分かる。しかし、揺れて温度も湿度も変わる船で、正確に動く時計がなかった。1707年、シリー諸島で艦隊が座礁し2000人近くが死んだ。1714年、議会が賞金2万ポンドを設けた。天文学者は月の位置から出す方法を推した。時計職人が挑んだ。ロンドン
- 人痘接種できごとAD1721年8月9日天然痘の膿を、健康な人の皮膚に入れる。軽く済ませて、以後かからなくする。中国では鼻から粉を吸わせる方法が明代から行われ、オスマン帝国では腕を切って入れた。イスタンブール駐在の英国大使夫人メアリー・ウォートリー・モンタギューがそれを見て、自分の息子に施し、帰国後に広めた。1721年、ニューゲート監獄の死刑囚六人で公開の試験が行われ、全員が生き延びた。危険は残る。接種された者の約2%が死に、その間は人に感染させた。それでも、かかったときの死亡率は三割だった。ロンドン
- 前野良沢人物AD1723年 – AD1803年10月17日名を出さなかった中津藩医。47歳で長崎に行ってオランダ語を習った。『解体新書』の翻訳は良沢の家で、良沢が読んだ。完成した本に名を出さなかった。「まだ不完全だから」。人は「蘭化(オランダの化け物)」と呼んだ。玄白は『蘭学事始』で「良沢の功」と書いた。80歳。
- ロバート・ベイクウェル人物AD1725年5月23日 – AD1795年10月1日記録を取って交配したレスターシャーのディシュリーの借地農。ヨーロッパ各地を回って農法を見て、家業を継いだ。雌雄を分けて飼い、記録を取り、目的の形質を持つ個体だけを交配した。ニュー・レスター種の羊、ロングホーン種の牛、そしてシャイヤ馬の改良。優れた種雄を売らずに貸す商法を作り、一季節で当時としては破格の料金を取った。牧草地の灌漑と、家畜の穏やかな扱いも重視した。生涯独身で、農場は繁盛したが晩年は借金を抱えた。
- 『ガリヴァー旅行記』できごとAD1726年10月28日火星の衛星を予言ダブリンの聖パトリック大聖堂の首席司祭が、匿名で。小人の国(政争と戦争の縮図)、巨人の国(人間の醜さ)、空飛ぶ島ラピュタ(学者の愚かさ。火星の衛星2つを予言した)、馬の国(人間が家畜ヤフー)。子供の本にされて、第4部は削られた。「私は人間という種を憎む」。イギリスとアイルランドへの怒りで書いた。ロンドン

- 平賀源内人物AD1728年 – AD1780年1月24日何も完成せず讃岐の足軽の子。長崎で本草学とオランダ語。江戸で物産会、『物類品隲』。火浣布、寒暖計、エレキテル。秩父で鉱山。油絵。戯作『風流志道軒伝』『根南志具佐』、浄瑠璃『神霊矢口渡』、『放屁論』。土用の丑の日の鰻の宣伝、は伝説。人を斬って獄死。玄白が葬った。「非常の人」。
- 歯を治す職できごとAD1728年隠されていた手技を書いて公開し、職が生まれた歯が痛めば、床屋か、市の立つ日に来る抜歯屋に抜いてもらう。音楽を鳴らして痛みの叫びをかき消したという話が残っている。フランスの外科医ピエール・フォシャールは1728年、それまで秘伝とされてきた手技を一冊にまとめて公開した。虫歯が体液の乱れではなく、口の中で起きることだと論じ、詰め物、義歯、歯並びを直す道具まで記している。抜くだけの仕事が、治して残す仕事になった。歯科が医学の一分野として名乗るのは、この本からになる。パリ
- 体内時計できごとAD1729年暗い戸棚の中でも葉が開いた天文学者ドゥ・メランが、オジギソウの葉が朝に開き夜に閉じることに気づいた。そして、その鉢を暗い戸棚に入れた。光が来なくても、葉は同じ周期で開閉を続けた。生物の中に、時計がある。この観察が正しく理解されるまで200年以上かかった。1970年代、ショウジョウバエで周期を狂わせる遺伝子が見つかった。1984年、その遺伝子が単離された。仕組みは、タンパク質が自分の合成を抑える、約24時間の負のフィードバックである。2017年、ノーベル賞。パリ
- 杉田玄白人物AD1733年10月20日 – AD1817年6月1日櫓も舵もない船小浜藩医。オランダ語はほとんど読めなかった。小塚原の腑分けで『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚き、翌日から翻訳。前野良沢が読み、玄白が日本語にした。3年半で『解体新書』。良沢は不完全だと名を出さず、玄白が出した。晩年、『蘭学事始』で「櫓も舵もない船で大海に出たようだった」と回想した。85歳。
- 『自然の体系』できごとAD1735年生きものを綱・目・属・種の階層に並べる体系を示した。属と種の二語で呼ぶ決まりを一貫して使うのは、のちの版(植物は1753年、動物は1758年)から。名前の付け方が揃ったことで、離れた土地の観察を初めて突き合わせられるようになる。ウプサラ

- 温度の目盛できごとAD1742年熱いか冷たいかを、数で言えるようにする。1724年、ファーレンハイトが水銀の温度計と目盛を定めた。1742年、ウプサラのアンデルス・セルシウスは、水の沸点を0度、氷点を100度とする目盛を提案した。いまと上下が逆である。気圧による沸点の変化まで注記していた。逆転したのは彼の死後で、リンネらの名が挙げられている。1948年、この目盛は正式にセルシウス度と呼ばれることになった。ウプサラ
- アントワーヌ・ラヴォアジエ人物AD1743年8月26日 – AD1794年5月8日燃焼を酸素との結合として説明し、化学に秤を持ち込んだ。徴税請負人でもあったため、革命裁判所で処刑される。
- ジョゼフ・バンクス人物AD1743年2月24日 – AD1820年6月19日自費でクックの第一回航海に乗り込み、数千の標本を持ち帰った。以後41年、王立協会の会長として科学と植民地を結びつける。
- カシニのフランス測量図できごとAD1744年国家が自国の形を知る一つの国の全土を、三角測量で測って地図にする。世界で最初の試みである。カシニ家が四代、およそ80年をかけた。基線を精密に測り、そこから三角形を連ねて、全国に骨組みを張る。結果は、意外なものだった。フランスは、それまで思われていたより小さかった。ルイ14世が「私は、敵に奪われたより多くの領土を、あなた方の測量に奪われた」と言ったと伝えられる。革命政府がこの図を接収し、軍が使い、そして各国が真似た。国家が自国の形を正確に知る、最初の道具になった。パリ
- ピエール・メシャン人物AD1744年8月16日 – AD1804年9月20日ラン生まれ。建築家の子で、家が傾き、測量と天文の助手になった。彗星を十三個見つけている。メートルを定めるための子午線測量では、南半分のロデーからバルセロナを受け持った。革命下、スパイと疑われて捕らえられ、事故で重傷を負い、戦争で帰国できずに三年足止めされた。バルセロナで測った緯度が二組の値で食い違うことに気づき、それを公表しないまま生涯苦にした。1803年、測量をやり直すために出発し、翌年スペインで黄熱病により死んだ。
- 伊能忠敬人物AD1745年2月11日 – AD1818年5月17日地球の大きさを知りたくて上総の生まれ。佐原の伊能家に婿入りして酒と米で家を大きくした。50歳で隠居し、江戸で高橋至時に天文を習った。地球の大きさを知りたくて蝦夷地を測り、幕府が続けさせた。10次、17年、4万キロ。歩幅で距離を測った。「一身にして二生」。
- エドワード・ジェンナー人物AD1749年 – AD1823年牛痘を使う種痘を確かめた。人類が病を根絶できると初めて示す。
- フランクリンの雷の実験できごとAD1752年神の怒りが、金属の棒で地面に流せるものになった雷が電気だと示し、避雷針を作った。神の怒りとされたものが、金属の棒で地面に流せるものになる。フィラデルフィア
- 二名法できごとAD1753年世界のどこでも同じ二語で指せるようにしたそれまでの学名は、その種を他と区別するための短い記述文だった。長く、そして書く人ごとに違う。リンネは『植物の種』で、属名と種小名の二語だけを、余白に添えた。それは記述ではなく、名前である。何であるかを説明せず、ただ指し示す。動物についても『自然の体系』第十版で同じ方式を通した。以後、この二つの本の刊行日が、学名の出発点と定められている。分類の内容は何度も覆されたが、呼び方の規則は残った。ウプサラ
- ガスパール・ド・プロニー人物AD1755年7月22日 – AD1839年7月29日土木技師。エコール・デ・ポンゼショセで学び、後にその校長を務めた。橋、運河、そして水力の研究で知られ、流体の摩擦を測る装置と、機関の出力を測るブレーキに名を残す。1791年、新しい度量衡に合わせた大規模な数表の作成を命じられた。分業によって単純な足し算の反復に還元するという方法を採り、十九巻の手稿を仕上げた。刊行費用が出ず、ついに印刷されなかった。手稿はパリの天文台に残っている。
- ベイクウェルの品種改良できごとAD1760年頃ダーウィンが冒頭に置いたそれまで、家畜は雄と雌を一緒に放しておくものだった。レスターシャーの農民ロバート・ベイクウェルは、雌雄を分けて飼い、目的の形質を持つものだけを掛け合わせた。近親交配も辞さない。目的は「早く太る羊」である。ニュー・レスター種は、従来の半分の期間で市場に出せた。彼は優れた種雄を売らずに貸し出し、一季節で高額の料金を取った。羊の平均重量が数十年で倍になった。ダーウィンは『種の起源』の冒頭で、この人為選択を、自然選択を説明する導入に使った。ディシュリー
- ハリソンの航海時計できごとAD1761年独学の時計職人ヨークシャーに生まれリンカンシャーで育った大工の子で、独学の時計職人ジョン・ハリソンが、31年かけて4台を作った。H1からH3は大きな機械。H4は直径13センチの懐中時計だった。1761年、ジャマイカまでの81日の航海で、遅れは5秒。経度にして誤差は数キロ。委員会は賞金を渋り、条件を足し続けた。1773年、80歳の彼は国王ジョージ3世の口添えで、ようやく相当額を受け取った。賞金そのものは、誰にも与えられなかった。ロンドン
- 熱と温度は、別であるできごとAD1760年代温度計が指す数と、出入りする熱の量は別物だったグラスゴーのジョゼフ・ブラックは、氷に火をあてても、溶けきるまで温度が上がらないことに引っかかった。熱は入っている。温度計は動かない。では入った熱はどこへ行ったのか。彼は、熱が氷を水に変えることそのものに使われていると考え、これを潜んだ熱と呼んだ。沸騰する湯も同じで、湯気になるまで温度は上がらない。同じ重さの物でも、温めるのに要る熱の量が違うことも測った。温度計が指す数と、出入りする熱の量は別物である。この区別が、蒸気機関の効率を考える土台になった。グラスゴー
- 獣医学校できごとAD1762年獣医が職業として制度になった十八世紀のヨーロッパで、牛疫が繰り返し流行した。一度来ると、その地方の牛が全滅する。国家の税収と食料が、直接、打撃を受けた。それまで家畜の治療は蹄鉄工と経験者が担い、体系だった知識が無かった。乗馬学校の教師クロード・ブルジュラが、王の認可を得てリヨンに学校を開く。解剖と、病理と、飼育を、教える。3年後にアルフォールにも作られ、以後、ヨーロッパ各国が真似た。獣医が、職業として制度になった最初である。リヨン
- 『解体新書』できごとAD1774年(安永3年)フルヘッヘンド1771年、杉田玄白と前野良沢が小塚原の刑場で腑分けを見て、持っていたオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の図と同じだと知った。翌日から翻訳を始めた。辞書はなく、良沢が少しオランダ語を読めるだけ。「鼻はフルヘッヘンドしている」を「うずたかい」と解くのに1日。3年半。「神経」「軟骨」「動脈」はこのとき作られた言葉。蘭学の始まり。江戸

- 平賀源内のエレキテルできごとAD1776年(安永5年)静電気の見世物長崎で壊れたオランダの摩擦起電機を手に入れて、何年もかけて修理した。ガラスを回して静電気を起こし、火花が出る。見世物にして金を取った。本草学、物産会、火浣布(石綿)、寒暖計、油絵、浄瑠璃、『放屁論』。何でもやって、何も完成せず、1779年、酒で人を斬って獄死した。「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常」。杉田玄白の墓碑。江戸
- 燃焼と酸素できごとAD1777年燃焼は失うことではなく、結びつくことであるものが燃えるのは、フロギストンという物質が抜けていくからだと説明されていた。だが金属を焼くと、灰は元より重くなる。抜けるのに重くなるので、負の重さを持つと言い繕われた。ラヴォアジエは密閉した容器の中で燃やし、前後の重さを測った。全体は変わらない。減ったのは空気のほうで、その一部が金属と結びついていた。彼はそれを酸素と名づけた。燃焼は、失うことではなく、結びつくことである。同じ天秤の使い方が、呼吸も、錆も、同じ反応だと示した。パリ
- アルガン・ランプできごとAD1780年頃油の灯は、二千年、ほとんど変わっていなかった。芯を油に浸し、火をつける。暗く、煤が出る。ジュネーヴ出身のエメ・アルガンは、芯を円筒にして内側にも空気を通し、その上にガラスの筒を立てた。煙突の効果で空気が引き上げられ、炎が完全に燃える。明るさが蝋燭十本分に達し、煤がほとんど出なくなった。夜の読書と、精密な作業と、そして灯台の光が、これで変わった。特許をめぐる争いで、彼自身は報われていない。パリ
- ルネ・ラエンネック人物AD1781年2月17日 – AD1826年8月13日ブルターニュ、カンペールの生まれ。母を五歳で結核により亡くし、医師の叔父に育てられた。革命下のナントで、十代から病院を手伝う。パリでコルヴィザールに学び、解剖と臨床を突き合わせる方法を身につけた。1816年、聴診器を考案。1819年『間接聴診法について』。肝硬変と腹膜炎の記述にも名を残す。ブルトン語を話し、笛を吹き、故郷に土地を買って過ごすことを好んだ。自らも結核にかかり、甥に自分の胸を聴かせて診断させ、四十五歳で死んだ。
- フリードリヒ・ゼルチュルナー人物AD1783年6月19日 – AD1841年2月20日技師の子。十六歳で孤児となり薬剤師の見習いになった。二十歳前後、店の裏でアヘンの成分を調べ、白い結晶を取り出した。犬と自分たちで試し、強い眠りと呼吸の抑制を確かめた。1806年と1817年の論文で、植物に塩基性の有効成分が含まれるという考えを示した。当初は無視され、ゲイ=リュサックが仏語に訳して広まった。後年は薬局を経営し、痛風とうつに苦しんだ。自らモルヒネを常用していたとされる。
- 人が浮かぶできごとAD1783年製紙業を営むモンゴルフィエ兄弟は、暖炉の上で灰が舞い上がるのを見て、煙に浮く力があると考えた。実際に浮かせていたのは熱せられた空気だが、理屈を取り違えたまま装置は動いた。1783年9月、ヴェルサイユの宮廷の前で、羊と鴨と鶏を乗せた気球が上がる。高いところで生き物がどうなるか分からなかったからである。二か月後、人が乗って二十五分ほどパリの上空を飛んだ。同じ年、シャルルは水素を使う気球を上げている。人が地面を離れたのは、飛行機より百二十年早い。パリ
- オーギュスタン・ジャン・フレネル人物AD1788年5月10日 – AD1827年7月14日建築技師の子。体が弱く、八歳まで読めなかったと伝えられる。エコール・ポリテクニークを経て土木技師になり、道路と橋を作りながら、独学で光を研究した。ナポレオンの百日天下に反対して職を解かれた期間に、回折の実験を行っている。光は粒子ではなく波であり、しかも進行方向に垂直に振動する横波である、と数学で示した。当時の主流であったニュートン以来の粒子説を、覆した。灯台のレンズは、その理論の応用である。三十九歳で結核により死んだ。
- ラヴォワジエ『化学原論』できごとAD1789年フロギストンはないフロギストンはない。燃焼は酸素との結合。質量は保存する。元素表33(光と熱を含む)。新しい命名法(1787年、酸素、水素、窒素、硫酸)。妻マリー=アンヌが実験を記録し、図を描き、英語を訳した。「化学革命」。同じ年、バスティーユ。5年後、徴税請負人として断頭台。「その頭を切るのは一瞬だが、同じ頭は100年かかっても生まれない」(ラグランジュ)。パリ

- マイケル・ファラデー人物AD1791年9月22日 – AD1867年8月25日製本屋の徒弟から実験家になった。磁石を動かせば電流が起きると示す。数式はほとんど使わず、代わりに「場」という考え方を残した。
- 傷の重い順に診るできごとAD1792年待たせる順番を、身分ではなく容体で決めたフランス革命軍のライン方面軍に配属された若い軍医ドミニク=ジャン・ラレーは、シュパイアーの戦いのあと、負傷兵が戦場に一昼夜以上置き去りにされ、救護が来る前に死んでいくのを見た。救護の車は戦闘が終わってから、軍の後ろからやって来る。彼は騎馬砲兵の軽い車台を借りて、戦闘のさなかに前線まで入る「飛ぶ救急車」を作った。そして運び込まれた者を、階級の順でも、着いた順でもなく、傷の重さと急ぎの度合いの順に診ると決めた。敵兵も同じ列に並べた。待たせる順番を、身分ではなく容体で決めるという考えが、のちにトリアージと呼ばれる。シュパイアー
- ド・プロニーの計算工場できごとAD1793年人間を部品として組んだ計算機革命政府は、十進法にもとづく新しい三角関数表と対数表を必要とした。桁数も規模も、前例が無い。ガスパール・ド・プロニーは、アダム・スミスのピン工場の記述を読んで着想した。仕事を三層に分ける。上層の数学者数人が式を決め、中層の十人ほどが計算の手順に落とし、下層の百人近くが足し算と引き算だけを繰り返す。下層の多くは、革命で職を失った理髪師だったと伝えられる。人間を部品として組んだ計算機であり、バベッジが機械化を構想する直接の手本になった。パリ
- メートル法の制定できごとAD1795年4月7日王の腕ではなく地球を基準にする王の腕や足ではなく、地球そのものを基準にする。1791年、科学アカデミーの提案で、北極から赤道までの子午線の一千万分の一を一メートルと定めた。ドランブルとメシャンが、ダンケルクからバルセロナまでを、革命と戦争のただ中で六年かけて三角測量した。二人は捕らえられ、資金を絶たれ、それでも測り続けた。1795年の法で単位系が定まり、1799年に白金の原器が納められた。地球は真球ではなく、この定義による値は現在の一メートルより約0.2ミリ短い。パリ
- 貧しい人のためのスープできごとAD1790年代アメリカ生まれの科学者ベンジャミン・トンプソンは、バイエルンの宮廷に仕えてランフォード伯となった。ミュンヘンの物乞いを救貧院に集めて働かせ、安く腹の膨れるスープを配る。大麦と豆とじゃがいもを煮た、ランフォードのスープである。燃料を節約するため、火を囲って鍋を並べる閉じた調理台も設計した。開いた火で煮るより、はるかに少ない薪で済む。熱の研究をした科学者が、台所と救貧の仕事に同じ頭で取り組んだ。ミュンヘン
- 笑気ガスの見世物できごとAD1799年痛みを消せる気体が、半世紀のあいだ笑うための見世物だったハンフリー・デーヴィが亜酸化窒素を吸って記録を残した。頭が軽くなり、笑いが止まらない。そして彼はこう書き添えた。この気体は痛みを消すので、外科手術に使えるかもしれない、と。誰も読まなかったわけではない。だが四十年以上、それは実行されなかった。代わりに広まったのは、巡回の興行である。木戸銭を取って客に吸わせ、ふらつく様を見せる。痛みを消せる気体が、笑うための見世物として、半世紀のあいだ使われ続けた。ブリストル
- 見えない熱できごとAD1800年目に見えないものが、温度計には映った天文学者ウィリアム・ハーシェルは、太陽を観るときの色ガラスによって、目に来る熱さが違うことに気づいた。色ごとに熱の量が違うのではないか。プリズムで日光を虹に分け、その帯の上に温度計を並べていった。紫から赤へ進むほど温度は上がる。そして赤の外側、何も見えないところに置いた温度計が、いちばん高く上がった。光と同じようにふるまい、目には映らず、熱として測れるものがある。のちに赤外線と呼ばれる。目に見えるものだけが世界のすべてではないことを、温度計が示した。スラウ
- 電池できごとAD1800年流れ続ける電気が、初めて手に入ったカエルの脚が金属に触れると痙攣する。ガルヴァーニはそれを動物の中の電気だと考えたが、同郷のヴォルタは、二種類の金属が触れ合うことで電気が生じているのだと反論した。彼は銅と亜鉛の円板を、塩水で湿らせた布を挟んで交互に積み上げる。触れると持続的に電流が流れた。それまでの静電気は、一瞬で放電して終わる。安定して流れ続ける電気が、初めて手に入った。この装置から電気分解が生まれ、電磁石が生まれ、電信が生まれる。十九世紀の電気の技術は、すべてこの積み木から始まった。コモ
- インド大三角測量できごとAD1802年計算室の主任が算出した東インド会社が、インド全土を三角測量で測る事業を始めた。ラムトンが起こし、ジョージ・エベレストが引き継いだ。半世紀以上かかった。測量士は、マラリアと虎と、そして半トンの経緯儀を担いで山を登った。死者が多く、ある年には隊員の半数が死んだ。1852年、計算室の主任ラダナート・シクダールが、ある山の高さが世界最高であると算出した。地元にチョモランマとサガルマータの名があったが、測量局は前任者の名を付けた。エベレスト本人は、それに反対した。チェンナイ
- モルヒネの単離できごとAD1804年薬が量で処方できるものになった薬草は、効く成分と効かないものの混合である。どれが効いているのか、量をどう測るのかが分からない。二十歳の薬剤師見習いゼルチュルナーが、アヘンから白い結晶を取り出した。犬に与えると眠り、自分と三人の若者で試すと、危うく死にかけた。夢の神の名からモルフィウムと名づけた。植物から取り出された最初のアルカロイドである。以後、キニーネ、カフェイン、ニコチン、アトロピンが次々に単離され、薬が量で処方できるものになった。パーダーボルン
- マシュー・モーリー人物AD1806年1月14日 – AD1873年2月1日海の道を探る者ヴァージニア。海軍士官。33歳のとき駅馬車の事故で脚を痛め、海に出られなくなった。海図倉庫の管理を任され、そこに積まれていた古い航海日誌を数十年ぶん読んで、風と海流の統計を作った。「海の道を探る者」。1855年『海の自然地理学』は海洋学の最初の教科書とされる。南北戦争で南部に付き、戦後は一時メキシコへ亡命した。大西洋横断ケーブルの海底の測深にも関わった。
- ドルトンの原子論できごとAD1808年原子が、数えて量れる単位になった物はそれ以上分けられない粒でできている、という考えは古代ギリシャからあったが、確かめようのない哲学の話だった。マンチェスターの教師ジョン・ドルトンは、気体の性質や、物が一定の重さの割合で結びつくことを説明するため、元素ごとに決まった重さの原子があると考えた。1808年からの著作で、原子の相対的な重さの表を示す。原子は、数えて量ることのできる化学の単位になった。のちの周期表も、この重さを並べることから生まれた。マンチェスター
- チャールズ・ダーウィン人物AD1809年2月12日 – AD1882年4月19日種が変化することを膨大な観察で示した。人間が特別ではないという考えが広がる。
- フンボルトの大学できごとAD1810年研究と教育の一致ナポレオンに敗れ、領土の半分を失った直後のプロイセンで、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが新しい大学を構想した。中世以来の大学は、既にある知識を教える場所だった。彼はそこに研究を持ち込んだ。教授は自分の研究を教え、学生はその研究に参加する(研究と教育の一致)。国家が金を出すが、内容には介入しない(学問の自由)。実験室とゼミナールが中核になった。19世紀後半、アメリカと日本の大学が、この形を輸入した。ベルリン
- ジョン・スノウ人物AD1813年3月15日 – AD1858年6月16日女王の出産にヨークの労働者の家。14歳で外科医の徒弟。麻酔の草分けで、ヴィクトリア女王の8番目と9番目の出産にクロロホルムを使った(王室が使ったことで麻酔への抵抗が消えた)。コレラは水で伝わると考え、1849年に論文を書き、1854年に地図で示した。菜食で、酒を飲まず、45歳で脳卒中。1866年、政府が彼の説を認めた。ロンドンのパブ「ジョン・スノウ」の前に、取っ手のないポンプが立っている。
- エイダ・ラブレス人物AD1815年12月10日 – AD1852年11月27日バベッジの解析機関の解説に、機械に計算させる手順を書き加えた。数を扱う機械が数以外のものも扱えると、100年早く書いている。
- イギリスの金本位制できごとAD1816年ニュートンが決めた比率長く、銀と金の両方が貨幣だった。ニュートンが造幣局長だった1717年、金と銀の交換比率を定めたところ、金を高く評価しすぎて銀が国外へ流出し、事実上の金本位になった。ナポレオン戦争の間、兌換は停止された。1816年の貨幣法で金を唯一の本位と定め、1821年に兌換を再開した。1870年代、ドイツ、アメリカ、北欧などが続き、日本も1897年に加わって、世界の通貨が金で結ばれた。為替が安定し、貿易と投資が国境を越えた。同時に、各国は金の量に縛られた。ロンドン
- 聴診器できごとAD1816年診察が、患者の言葉を聞くことから、体を読むことへ移ったそれまで、胸の音を聞くには、患者の胸に直接、耳を当てるしかない。1816年、ルネ・ラエンネックは、太った若い女性を診るのに、それをためらった。彼は紙を丸めて筒にし、一端を胸に、一端を耳に当てた。直接聞くより、はるかによく聞こえた。木で作り直し、三年かけて音と病変を対応づける。心雑音、ラッセル音、そして胸膜の摩擦音。解剖で確かめた。診察が、患者の言葉を聞くことから、体の内部を読むことへ移る。彼自身は結核で四十五歳で死んだ。パリ
- イグナーツ・ゼンメルワイス人物AD1818年7月1日 – AD1865年8月13日精神病院で死んだブダの商家。ウィーンで産科。友人が解剖のとき指を切って、産褥熱と同じ症状で死んだのを見て、「死体の粒子」が原因だと考えた。手洗いで死亡率を10分の1に。論文をなかなか書かず、書いたときは同僚を「殺人者」と呼ぶ調子だった。ウィーンを追われ、ブダペストで成果を上げ、精神を病み、精神病院に入れられて、看守に殴られ、2週間で死んだ。同じ年、リスターが石炭酸を使い始めた。
- ウィリアム・モートン人物AD1819年8月9日 – AD1868年7月15日誰が最初かの争い歯科医。入れ歯を売るために、抜歯の痛みを消したかった。化学者ジャクソンの助言でエーテル。1846年10月16日の公開のあと、「レテオン」という名で香料を混ぜて正体を隠し、特許を取ろうとした。誰が最初かの争い(ジャクソン、ウェルズ、そして4年前に使っていたクロフォード・ロング)が20年続いた。訴訟で財産を失い、48歳、ニューヨークのセントラル・パークで倒れて死んだ。
- フローレンス・ナイチンゲール人物AD1820年5月12日 – AD1910年8月13日鶏頭図フィレンツェ生まれの富裕な家の娘。「神の声を聞いた」。看護は下女の仕事で、家族が反対した。クリミア、スクタリの病院に38人の看護婦と。ランプ。死亡率を42%から2%に。汚水と換気を直した。戦争のあと、統計で議会を動かした。鶏頭図(円グラフの一種)。『看護覚え書』。ナイチンゲール看護学校。90歳。人生の後半はベッドの上で、手紙で世界の病院を変えた。
- キニーネを取り出すできごとAD1820年アンデスのキナの木の皮が熱病に効くことは、十七世紀にイエズス会士を通じてヨーロッパに伝わっていた。だが皮は効き目が一定せず、偽物も多い。1820年、パリの薬学者ペルティエとカヴァントゥが、皮から有効な成分を結晶として取り出し、キニーネと名付けた。量を測って与えられる薬になる。十九世紀、ヨーロッパ人が熱帯アフリカの奥へ入れるようになった理由の一つがこれである。やがてオランダがジャワのキナ農園で世界の供給を握った。パリ
- 伊能忠敬の日本図できごとAD1821年緯度は正確で経度は少し酒造家を隠居した50歳が、19歳年下の天文学者に弟子入りし、55歳から17年、歩いて日本を測った。4万キロ。死んで3年後、弟子が『大日本沿海輿地全図』を完成させた。緯度は正確で、経度は少しずれた。シーボルトが写しを持ち出し、ヨーロッパの日本地図になった。江戸
- グレゴール・メンデル人物AD1822年7月20日 – AD1884年1月6日35年埋もれた修道院の庭でエンドウを8年育て、遺伝が規則に従うことを見つけた。論文は35年間ほとんど読まれず、本人の死後に再発見される。
- ルイ・パスツール人物AD1822年12月27日 – AD1895年9月28日腐敗も病気も目に見えない生きものの仕業だと示した。ワクチンと低温殺菌はここから来ている。手を洗うという習慣の根拠でもある。
- フレネル・レンズできごとAD1823年厚みを削る、という一つの考え灯台の光を遠くへ届けるには、レンズで束ねればよい。しかし必要な大きさのレンズは、厚く、重く、自重で歪み、そして光を吸ってしまう。オーギュスタン・ジャン・フレネルは、レンズを同心円の帯に分け、曲面だけを残して厚みを削った。板のように薄く、光を通す。さらに外側には全反射するプリズムの環を置き、上下へ逃げる光まで拾った。ジロンド川口のコルドゥアン灯台に据えられ、光の届く距離が倍以上になった。彼は三十九歳で結核により死んだ。ボルドー
- ポルトランドセメントできごとAD1824年10月21日リーズの煉瓦積み職人ジョゼフ・アスプディンが、石灰石と粘土を焼いて粉にしたものに特許を取った。固まった色がポートランド島の建築石材に似ているとして、その名を付けた。ただし彼の焼成温度は低く、現在のものとは別物である。息子ウィリアムと、アイザック・チャールズ・ジョンソンが、原料が溶けかけるまで高温で焼くことで、はるかに強いものを得た。石灰と火山灰を探して回る必要がなくなり、どこでも同じ品質の結合材が作れるようになった。リーズ
- ジョゼフ・リスター人物AD1827年4月5日 – AD1912年2月10日リステリンクエーカーの家。父は顕微鏡のレンズの色収差を直した人。グラスゴー、エディンバラ、ロンドンで外科の教授。石炭酸。初めイギリスの外科医は嘲り、ドイツとアメリカが先に採り入れた。1877年、ロンドンで膝蓋骨の骨折を、開いて針金で留めた(消毒なしでは自殺行為だった手術)。男爵、王立協会会長。うがい薬リステリンと、リステリア菌に名が残っている。
- ロンドン動物園できごとAD1828年ジェニーというオランウータン王侯の見世物としての動物のコレクションは古い。ロンドン塔の獣舎は600年続いた。1826年、スタンフォード・ラッフルズらがロンドン動物学会を作り、1828年、リージェンツ・パークに「動物学的庭園」を開いた。当初は会員だけの研究施設で、一般公開は1847年から。zoological garden が略されて zoo という語になった。ダーウィンは1838年、ここでオランウータンのジェニーを観察し、その表情と癇癪を記録している。彼が人と動物の連続性を確信した場面の一つとされる。ロンドン

- ジェームズ・クラーク・マクスウェル人物AD1831年6月13日 – AD1879年11月5日電気と磁気を一組の式にまとめ、そこから出てくる波の速さが光と同じだと気づいた。光が電磁波だと分かる。電波もラジオもこの帰結になる。
- 電磁誘導の発見できごとAD1831年8月29日磁石を動かすとコイルに電流が流れた。発電機とモーターはここから来ている。電気が実験室の珍しい現象でなくなる。ロンドン
- ビーグル号の航海できごとAD1831年12月27日帰ってから20年かけて一つの考えになる22歳の博物学者が5年、世界を回った。集めた化石と、島ごとに違う鳥の嘴が、帰ってから20年かけて一つの考えになる。プリマス

- 解剖法できごとAD1832年8月1日墓を暴く動機は消えたが、台に載るのは変わらず貧しい者だったイギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
- ドミトリ・メンデレーエフ人物AD1834年2月8日 – AD1907年2月2日元素を重さの順に並べると性質が周期的に戻ることに気づき、表の空欄に「まだ見つかっていない元素」の重さと性質を書いた。数年で三つとも見つかる。
- 平均人できごとAD1835年平均は多数を表す数にすぎず、理想ではない天文学者ケトレーは、観測の誤差が釣鐘の形に散らばることを知っていた。同じ形が、人の身長や胸囲にも現れることに気づく。彼はそこから「平均人」という概念を作った。平均から外れるほど、望ましくないとされる。犯罪率や自殺率も、集団としては毎年ほぼ一定であることを示し、社会にも法則があると論じた。統計を人に当てはめる道を開いた功績は大きい。同時に、平均を理想と取り違える見方も生んだ。体格指数として彼の名が残る計算式も、本来は集団を比べるための指標だった。ブリュッセル
- マーシュ試験できごとAD1836年毒が証拠になった砒素は無味無臭で、症状がコレラや食中毒に似る。長く、最も使いやすい毒だった。ウーリッジ王立兵器廠の化学者ジェームズ・マーシュが、亜鉛と酸で発生させた水素に試料を混ぜ、燃やして、砒素の黒い鏡を得る方法を作った。ごく微量でも見え、陪審に現物を見せられる。1840年のラフアージュ事件でオルフィラがこれを法廷で行い、有罪になった。毒を、証拠として取り出せるようになった最初の例である。ロンドン
- バベッジの階差機関と解析機関できごとAD1837年一台も作られなかった当時の航海表と対数表は人が計算し、人が写し、誤植だらけだった。バベッジは「これを蒸気で計算できたなら」と言い、多項式を差分だけで求める階差機関を設計した。政府が資金を出し、17000ポンドを使って完成しなかった。彼は途中でより野心的な解析機関に移った。パンチカードで命令を与え、演算部(ミル)と記憶部(ストア)を分け、条件分岐と繰り返しを持つ。汎用計算機の設計である。一台も作られなかった。ロンドン
- 植物は何を食べるかできごとAD1840年足りない一つの成分が、全体の収穫を決める植物は土の腐植を食べて育つ、と考えられていた。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒは、植物を燃やして灰を分析し、カリウム、リン、カルシウムなどの無機の成分が要ることを示した。足りない一つの要素が、全体の収穫を決める。この考え方は樽の板にたとえられ、いちばん低い板の高さまでしか水が溜まらないと説明された。不足する成分を補えばよい、という発想から、化学肥料の産業が生まれる。彼は同時に、土から取り出した養分を都市が下水として海へ捨てていることを批判した。ギーセン
- 骨と硫酸できごとAD1842年効くかどうかを、百八十年の記録で確かめ続けている骨を砕いて畑に撒くと、よく育つ。ただし溶けるのに何年もかかる。イギリスのジョン・ベネット・ローズは、骨や鉱石のリン酸を硫酸で処理すると、水に溶けやすい形になることを見つけ、1842年に特許を取った。世界で最初の化学肥料の工場が動き出す。彼は自分の農場に試験区を作り、肥料を変えながら同じ畑で収穫を測り続けた。その試験は百八十年を超えて続いている。効くかどうかを、印象ではなく、長い年数の記録で確かめる。農学が実験の学問になった場所でもある。ロンドン
- エイダ・ラヴレスの覚え書きできごとAD1843年和声の規則を与えれば作曲もできるイタリアの数学者メナブレアが書いた解析機関の解説を、エイダが英訳し、原文の2倍以上の長さの注釈を付けた。注記Gに、ベルヌーイ数を求める手続きが表の形で書かれている。最初のプログラムと呼ばれる。それ以上に重要なのは、彼女が「この機械は数を計算するだけのものではない」と書いたことである。記号の関係を扱えるなら、和声の規則を与えれば作曲もできる。同時に、機械は人が命じたことしかできない、とも書いた。ロンドン
- ロベルト・コッホ人物AD1843年12月11日 – AD1910年5月27日コッホの原則田舎医者が妻に贈られた顕微鏡で炭疽菌を見た。1882年、結核菌。1883年、コレラ菌。「コッホの原則」。病気が菌で起きることを、菌ごとに証明した。ツベルクリンは治療に失敗した。1905年ノーベル賞。北里柴三郎の師。
- ハーヴェイ・ワイリー人物AD1844年10月18日 – AD1930年6月30日インディアナの農家に生まれ、南北戦争に従軍した。医学と化学を修め、1883年から農務省の主任化学者。砂糖と食品の分析から、防腐剤と着色料の乱用を確信した。1902年、志願した十二人の若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせて記録する試験を始めた。新聞が毒物班と名づけ、世論が動いた。1906年の法の成立に大きく寄与したが、運用をめぐって業界と省内で孤立し、1912年に辞職した。以後は雑誌で消費者運動を続けた。
- ヴィルヘルム・レントゲン人物AD1845年3月27日 – AD1923年2月10日賞金を大学にレネップ生まれ、オランダ育ち。他人の悪戯の罪をかぶってギムナジウムを退学になり、チューリヒ工科大学へ(入学試験なしで入れた)。ヴュルツブルク大学の学長のとき、X線。特許を取らず、ノーベル賞の賞金を大学に寄付した。第一次大戦後のインフレでほとんど無一文になり、1923年に腸癌で死んだ。「レントゲン」は日本語でX線写真の名前になった。
- エーテル麻酔の公開できごとAD1846年10月16日これはインチキではないマサチューセッツ総合病院の階段教室。歯科医ウィリアム・モートンが、印刷業者ギルバート・アボットにガラスの吸入器でエーテルを吸わせ、外科医ウォーレンが首の腫瘍を切った。患者は動かず、叫ばなかった。ウォーレンが振り向いて言った。「諸君、これはインチキではない」。それまで手術は、押さえつけて、速く切ることだった。1年で世界中に広がった。「エーテル・ドーム」。ボストン

- ゼンメルワイスの手洗いできごとAD1847年5月死亡率が10分の1にウィーン総合病院の産科は、医師の病棟の産褥熱の死亡率が10%を超え、助産婦の病棟は4%だった。ゼンメルワイスは、医師が朝の解剖から手を洗わずに分娩に来ることに気づいた。晒し粉の水で手を洗わせた。死亡率が1%台に落ちた。同僚は「自分たちが殺していた」と言われたに等しく、認めなかった。彼は職を追われ、精神病院で、看守に殴られた傷の敗血症で死んだ。47歳。細菌はまだ知られていなかった。ウィーン
- 硝子の温室できごとAD1848年見世物と研究と植民地経営が、一つの建物に同居した硝子と鉄で建物を作れるようになると、寒い土地で熱帯の植物を育てられるようになった。1848年、キュー植物園に巨大な温室が完成する。船の竜骨の技術を転用した曲面の骨組みで、柱を立てずに広い空間を覆った。中では、植民地から運ばれた椰子が天井まで伸びる。訪れた人は、行ったことのない土地の空気を歩いて通り抜けた。三年後の万国博覧会の建物も、同じ発想の巨大な硝子の箱である。見世物と研究と植民地経営が、一つの建物に同居していた。キュー
- 女性が初めて医学の学位を得るできごとAD1849年1月23日29の医学校に断られ、30校目で教授会が判断を学生に投げた。学生は冗談で全員一致の入学を認め、本人は本気で受け取って首席で卒業した。ジェニーヴァ(ニューヨーク州)
- 北里柴三郎人物AD1853年1月29日 – AD1931年6月13日ベルリンで破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を確立した。第1回のノーベル賞では共同研究者のベーリングだけが受けている。
- スクタリの野戦病院できごとAD1854年鶏頭図クリミア戦争。イスタンブール対岸の兵舎病院に、38人の看護婦を連れて着いた。傷病兵は床に並び、下水が床下に溜まり、換気がなく、包帯も食事も足りない。死因の大半は戦傷ではなく、チフス、コレラ、赤痢だった。彼女は掃除と換気と洗濯と食事を整えさせ、そして数を数えた。死因別の死亡者を月ごとに示す「鶏頭図」を描き、政治家に見せた。統計を説得の道具にした最初期の例。スクタリ
- ジョン・スノウのコレラ地図できごとAD1854年9月8日疫学の始まりロンドンのソーホーで、3日で127人が死んだ。麻酔医ジョン・スノウは、死者の家を地図に点で打った。ブロード・ストリートの井戸の周りに集まっていた。離れた場所の死者は、その井戸の水を好んで運ばせていた。近くの救貧院とビール工場(自前の井戸)では死者が出なかった。9月8日、彼はポンプの取っ手を外させた。「悪い空気」でなく水だという説は、10年後に認められた。疫学が始まった。ソーホー(ブロード・ストリート)
- クリミア戦争できごとAD1854年9月14日死亡率を42%から2%に聖地の管理権でロシアとフランスが争い、ロシアがオスマンに攻め、イギリスとフランスがオスマンについた。セヴァストポリ包囲、349日。バラクラヴァの軽騎兵の突撃。電信で新聞が戦争を伝え、写真が撮られた最初の戦争。ナイチンゲールがスクタリの病院で死亡率を42%から2%にした。死者は両方で75万人、ほとんどが病気。ロシアは負けて、農奴解放へ。ウィーン体制が終わった。セヴァストポリ

- サナトリウムできごとAD1854年結核は十九世紀のヨーロッパで、死因の上位を占め続けた。治す薬はない。ドイツの医師ヘルマン・ブレーメルは、自分が患い、山で過ごして回復した経験から、高地の澄んだ空気と、休息と、十分な食事で治せると考えた。1854年、シレジアの谷に療養所を建てる。患者は決まった時刻に寝椅子に横たわり、寒い日も毛布にくるまって外気に当たった。この型は各地に広がり、ダボスの療養地も同じ考え方で作られる。効果がどこまであったかは議論があるが、病んだ人を町から離して長期間置く場所が、ここで制度になった。ゲルベルスドルフ(ソコウォフスコ)
- モーリーの風と海流の図できごとAD1855年倉庫の航海日誌アメリカ海軍のマシュー・モーリーが、落馬の怪我で海上勤務を離れ、倉庫に積まれた古い航海日誌を読み始めた。何十年ぶんの、日ごとの風向と海流と水温。それを海域ごとに集計して図にした。船長たちは航路を変え、ニューヨークからリオまでの日数が10日縮んだ。彼は各国に「日誌を同じ書式で記録して共有しよう」と呼びかけ、1853年のブリュッセル会議で合意した。国際的な科学協力の早い例。ワシントンD.C.
- モーヴと合成染料できごとAD1856年石炭タールから18歳の学生ウィリアム・パーキンが、復活祭の休みに自宅の屋根裏で、石炭タールから抗マラリア薬キニーネを合成しようとした。できたのは黒い泥だった。洗おうとしてアルコールを注ぐと、鮮やかな紫に溶けた。絹を染めると落ちない。彼は学校をやめ、父の貯金で工場を建てた。ヴィクトリア女王とウジェニー皇后がこの色を着て、流行した。以後、色は畑(藍、茜、コチニール)から工場へ移り、ドイツの染料会社がバイエルとBASFになる。ロンドン
- 発酵は生き物の仕事であるできごとAD1857年一つの工場の相談から、微生物学が始まった当時の化学の主流は、発酵を純粋な化学反応と見ていた。糖が勝手に分解する、と。リールの砂糖大根から酒精を作る工場が、なぜか腐敗すると相談を持ち込んだ。パストゥールは顕微鏡で、正常な樽には丸い酵母が、傷んだ樽には棒状の別の微生物がいることを見た。発酵は生き物の営みであり、混入する別の生き物が腐敗を起こす。加熱で殺せば止まる。ここから低温殺菌が生まれ、病気は微生物が起こすという考えに、道が続いた。リール
- マックス・プランク人物AD1858年4月23日 – AD1947年10月4日反対者が死に絶えて勝つキール。法学者の家。物理の教授に「もう発見することは残っていない」と言われて、物理を選んだ。熱力学。1900年、量子。自分の仮説を20年疑った。ベルリン大学、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長。アインシュタインをベルリンに呼んだ。長男は第一次大戦で死に、次男はヒトラー暗殺計画で1945年に処刑された。ナチスを嫌い、ドイツを離れなかった。「新しい真理は、反対者を説得して勝つのではない。反対者が死に絶えて勝つ」。
- 製氷機できごとAD1859年液体が気化するとき、周りから熱を奪う。フェルディナン・カレは、アンモニアを水に溶かし、加熱して追い出し、冷やして凝縮させ、また蒸発させる装置を作った。動力に機械ではなく熱を使う吸収式である。氷を、いつでも、どこでも作れるようになった。南北戦争で北部に氷を止められた南部が、これを輸入している。以後、天然氷の交易は縮み、二十世紀初頭に消えた。冷やすことが、天候と地理から切り離された。パリ
- 白鳥の首フラスコできごとAD1861年首を曲げた瓶では、煮沸した液が空気に触れていても腐らない。生きものが無から湧くという説がここで退けられ、細菌説の土台になった。パリ
- 最初の天気予報できごとAD1861年1859年、嵐でイギリス沿岸に多数の船が沈み、五百人近くが死んだ。海軍の軍人でビーグル号の艦長だったロバート・フィッツロイは、各地の気圧と風を電信で集めれば、荒天の接近を先に知らせられると考えた。彼は港に警報の信号を掲げる仕組みを作り、1861年からは新聞に翌日の空模様を載せた。「フォーキャスト」という語を使ったのは、当たらないこともある推測だと断るためである。占いだと嘲られ、予報は彼の死後にいったん止められた。それでも、漁師たちが再開を求めて署名した。ロンドン
- 池田菊苗人物AD1864年10月8日 – AD1936年5月3日漱石と同宿した京都生まれ。東京帝国大学で化学。1899年からライプツィヒでオストヴァルトに学び、ロンドンでは夏目漱石と同宿した(漱石が神経衰弱の中で彼と議論したことが日記にある)。帰国後、湯豆腐の昆布だしの味が四つの基本味のどれでもないことに気づき、1908年、グルタミン酸ナトリウムを単離して「うま味」と名づけた。特許を鈴木三郎助に託し、味の素が生まれた。物理化学の教授としての本業は、界面と溶液の研究である。
- 電磁場の理論できごとAD1865年電気と磁気を一組の式にまとめると、波が出てくる。その速さが測ってあった光の速さと一致した。光が電磁波だと分かる。ロンドン
- メンデルのエンドウの論文できごとAD1866年修道院の庭で8年、二万を超える株を数えた。結果は地方の学会誌に載ったきり、35年ほとんど読まれない。ブルノ
- マリ・キュリー人物AD1867年11月7日 – AD1934年7月4日放射能の研究でノーベル賞を二度受けた。扱った物質が原因とみられる病で死んでいる。
- リスターの消毒法できごとAD1867年石炭酸グラスゴーの外科医は、手術は成功しても半分近くが感染で死ぬのを見ていた。パスツールの「腐敗は空気中の微生物が起こす」を読んで、下水の消毒に使われていた石炭酸を、傷と器具と手と、手術室の空気に使った。彼の病棟の切断手術の死亡率が45%から15%に落ちた。『ランセット』の5本の論文。「消毒」から「無菌」へ。外科が体の中を開けられるようになった。グラスゴー
- カール・ラントシュタイナー人物AD1868年6月14日 – AD1943年6月26日血を混ぜてみたウィーン。父は新聞の編集者で、6歳のとき死んだ。医学と化学を修め、病理解剖学へ。1901年、血液型を発見。1908年、ポリオがウイルスによることを猿の実験で示した。第一次大戦後のオーストリアの窮乏を逃れてオランダへ移り、1922年からニューヨークのロックフェラー研究所。1930年ノーベル賞。1940年、ウィーナーとともにRh因子を見つけた。研究室で発作を起こし、そのまま死んだ。
- フリッツ・ハーバー人物AD1868年12月9日 – AD1934年1月29日空気の窒素から肥料を作る方法を見つけ、いまの人口の半分を養っている。同じ人が毒ガス戦を指揮した。ユダヤ人として国を追われて死ぬ。
- ウォーレス・セイビン人物AD1868年6月13日 – AD1919年1月10日オハイオの生まれ。ハーヴァードで物理を教えていた二十七歳のとき、聞き取れない講堂の調査を命じられた。音響学の予備知識は無い。夜ごとオルガン管を鳴らし、座布団と人を出し入れしながら、残響の消える時間を測り続けた。得た式は、いまも彼の名で呼ばれている。ボストン交響楽ホールの設計に関わり、それは世界で最も響きの良いホールの一つと評価されている。第一次大戦中に軍務で消耗し、五十歳で死んだ。吸音の単位に、彼の名がある。
- 三十七度できごとAD1868年手のひらの感じが、紙の上の線に置き換わった熱があるかどうかは、額に手を当てて決めていた。ライプツィヒの内科医カール・ヴンダーリヒは、入院患者の体温を来る日も来る日も測り、紙に点を打って線で結んだ。一尺ほどある温度計を脇に二十分挟む作業を、二万五千人分積み上げたという。そこから、健康な人の体温はおよそ三十七度に収まること、そして病気ごとに熱の上がり下がりの形が違うことを示した。熱は病気そのものではなく、体が出している合図である。手のひらの感じが、紙の上の線に置き換わった。ライプツィヒ
- 周期表できごとAD1869年元素を重さの順に並べると性質が周期的に戻る。表の空欄に未発見の元素の重さと性質を書き、15年のうちに三つとも見つかった。サンクトペテルブルク
- 猫の品評会できごとAD1871年7月13日猫はねずみを捕る道具として、家の隅にいた。1871年、画家のハリソン・ウィアが水晶宮で猫の品評会を開く。毛の色、体つき、目の形に基準を作り、審査して賞を出した。品種という考え方が猫に持ち込まれた瞬間である。ウィア自身は、猫が美しい生き物として見られるようになれば、扱いも変わると考えていた。数十年で血統の登録が始まり、値の付く猫と付かない猫が分かれる。愛玩の対象になることは、守られることであると同時に、規格に当てはめられることでもあった。ロンドン
- チャレンジャー号の探検できごとAD1872年12月21日海洋学の始まり1872年12月、イギリス海軍の軍艦チャレンジャー号が、大砲の多くを降ろし、実験室と測深の装置を積んでポーツマスを出た。目的は、それまでほとんど知られていなかった深い海の底を調べることだった。3年半をかけて世界の海を回り、何百か所で錘のついた綱を海底まで下ろして深さを測り、海底の泥と生き物をすくい上げた。グアムの近くでは8000メートルを超える深さを測った。持ち帰った標本からは数千の新しい種が見つかり、報告は50巻に及んだ。深い海には生き物がいないという考えは覆され、海洋学という学問がここから始まった。ポーツマス(イギリス)
- 鈴木梅太郎人物AD1874年4月7日 – AD1943年9月20日オリザニンと呼ばれた静岡の農家。東京帝国大学農芸化学。ベルリンでエミール・フィッシャーに学んだ。帰国して、日本人の主食である米を研究し、1910年、米糠から脚気に効く成分を取り出して「オリザニン」と命名した。栄養に微量で不可欠な物質があるという考えは当時の医学界に受け入れられず、ドイツ語訳で「新発見」の語が抜け落ちたこともあって、国際的な先取権はフンクの「ビタミン」に移った。合成酒と、栄養研究所の設立にも関わった。
- メートル条約できごとAD1875年5月20日フランス一国の制度を、国際の制度にする。十七か国が署名し、常設の機関として国際度量衡局をパリ郊外セーヴルに置いた。1889年、白金九割・イリジウム一割の合金で、たわみに強いX字の断面を持つ国際メートル原器と国際キログラム原器が作られ、複製が各国に配られた。日本は1885年に加入し、原器を受け取った。度量衡が、条約で管理される対象になった最初である。パリ
- 野口英世人物AD1876年11月9日 – AD1928年5月21日梅毒スピロヘータを脳から会津の農家に生まれ、囲炉裏で左手を焼いた。手術で動くようになった手で医者になり、金を借りて渡米し、ロックフェラー研究所で梅毒スピロヘータを脳から見つけた。黄熱病の病原体を見つけたと言い、それは間違いで、ガーナで黄熱病で死んだ。千円札。
- アグナー・アーラン人物AD1878年1月1日 – AD1929年2月3日ユトランドの村の学校長の子。十四歳で教員の資格を得て、父の学校で教えた。コペンハーゲン大学で数学と物理を修め、教師をしていたところを、コペンハーゲン電話会社に招かれた。以後二十年、そこで働いた。通話の到着を確率の過程として扱い、必要な回線数を計算する式を作る。論文はデンマーク語で発表され、英訳が出るまで時間がかかった。生涯独身で、蔵書に囲まれて暮らした。腹部の手術の後、五十一歳で死んだ。通信量の単位に、彼の名がある。
- アインシュタイン人物AD1879年3月14日 – AD1955年4月18日時間と空間が絶対でないと示した。核兵器の開発を促す手紙に署名し、後に悔いる。
- 地震を学ぶ会できごとAD1880年地震が、測って比べる自然の現象になった1880年2月、横浜を中程度の地震が襲った。お雇い外国人として東京で鉱山学を教えていたイギリス人ジョン・ミルンは、揺れを測り記録する必要を説き、同じ年に日本地震学会を作る。世界で最初の地震学の学会である。地震の多い日本は、揺れを観測する実験場になった。ミルンは揺れを記録する地震計を工夫し、帰国後は世界に観測網を作ろうとした。地震は神の怒りでも鯰の仕業でもなく、測って比べる自然の現象になった。東京
- アレクサンダー・フレミング人物AD1881年8月6日 – AD1955年3月11日シャーレを洗わなかったスコットランドの農家の子。船会社の事務員から、遺産で医学校へ。射撃部に入るためにセント・メアリー病院を選んだ。第一次大戦で、消毒薬が傷を悪くするのを見た。1922年、リゾチーム(自分の鼻水から)。1928年、ペニシリン。だらしなくて、シャーレを洗わなかった。精製はフローリーとチェインで、名声はフレミングに来た。1945年、3人でノーベル賞。「私は自然の作ったものを見つけただけだ」。
- エミー・ネーター人物AD1882年3月23日 – AD1935年4月14日対称性があるところには必ず保存則があると示した。物理の土台にある定理を作りながら、女性であるために長く無給で講義していた。
- 帝王切開で母が生きるできごとAD1882年母を諦める手術から、母子を助ける手段へ帝王切開は古くから行われていたが、それは母が助からないと決まったあとに子を取り出す手術だった。切った子宮を縫わなかったため、出血と感染でほぼ確実に母は死ぬ。1882年、ライプツィヒのマックス・ゼンガーは、子宮の切り口を銀線で丁寧に縫い合わせる方法を示した。麻酔と消毒が揃いつつあった時期である。母の生存率は跳ね上がり、手術は最後の手段から、選べる手段に変わっていく。いま世界で生まれる子のおよそ五人に一人がこの方法で生まれる。多すぎるのではないかという議論も、同時に続いている。ライプツィヒ
- 医者が来るまでの手当てできごとAD1880年代救命の最初の数分は、居合わせた人の手の中にある怪我人が出ても、医者が着くまでの間、そばにいる人は何をすればよいか分からなかった。キールの外科医フリードリヒ・フォン・エスマルヒは、戦場の傷の手当てを研究し、その手順を医者でない人に教える講習を始めた。1880年代のことである。三角の布一枚で腕を吊り、傷を縛る方法を図で示した教本も広まる。応急手当という言葉が一般に使われるようになったのは、この運動からだとされる。救命の最初の数分は、医者ではなく居合わせた人の手の中にある。キール
- ケルクホフスの原理できごとAD1883年秘密にできるのは、取り替えのきく短い鍵だけであるオランダ生まれの言語学者オーギュスト・ケルクホフスが、軍事暗号についての論文で、六つの要件を挙げた。その二つ目が、後に彼の名で呼ばれる。仕組みが敵の手に渡っても、鍵さえ秘密であれば安全でなければならない。装置は盗まれ、人は寝返り、手順は漏れる。秘密にできるのは、取り替えのきく短い鍵だけである。当時の軍は、方式そのものを隠すことに頼っていた。現代の暗号は、逆に、方式を全部公開して、世界中の攻撃に晒して確かめる。パリ
- ニールス・ボーア人物AD1885年10月7日 – AD1962年11月18日深い真理の反対コペンハーゲン。生理学者の子。サッカーのゴールキーパー(弟はオリンピックの銀)。マンチェスターでラザフォードの下で原子模型。1921年、理論物理学研究所。ハイゼンベルク、パウリ、ディラック、ガモフが来た。「コペンハーゲン精神」。相補性。アインシュタインと30年議論した。1943年、ナチスから漁船でスウェーデンへ逃げ、ロスアラモスへ。戦後、核の国際管理を訴えた。「真理の反対は虚偽だが、深い真理の反対は別の深い真理だ」。
- 狂犬病のワクチンできごとAD1885年7月6日狂犬病は、発症すればほぼ確実に死ぬ。犬に噛まれた者は、数週間の猶予のあとに来るものを待つしかなかった。パスツールは、感染した兎の脊髄を乾かして毒性を弱める方法にたどり着く。1885年7月6日、犬に噛まれた九歳のジョゼフ・マイステルに、弱めたものから順に注射した。少年は生き延びる。医師の資格を持たないパスツールにとって、失敗すれば刑事責任を問われかねない賭けだった。発症してからでは間に合わない病に、噛まれたあとから間に合う手段ができた。パリ
- シュリニヴァーサ・ラマヌジャン人物AD1887年12月22日 – AD1920年4月26日独学で膨大な公式を書き溜め、手紙一通でケンブリッジに招かれた。証明を書かずに結論だけを出すことが多く、その多くが後に正しいと確かめられている。
- ニコライ・ヴァヴィロフ人物AD1887年11月25日 – AD1943年1月26日飢饉をなくすと決めた人モスクワの商人の家。父は農村の出で、飢えを見て育った人物である。息子は、飢饉をなくすことを生涯の目標にした。ロンドンでベイトソンに学び、遺伝学を身につけた。1920年、相同系列の法則を発表。1920〜30年代、64か国を回って種を集め、レニングラードに世界最大の種子集積を築いた。ルイセンコが遺伝学を否定し、スターリンがそれを支持した。1940年、ウクライナでの採集中に逮捕。9か月の尋問、400回以上。1943年、サラトフの獄中で、栄養失調により死んだ。
- 電流戦争できごとAD1888年勝ったのは交流エジソンの直流とテスラの交流が争った。エジソン側は公開の場で動物を感電させて交流の危険を示した。勝ったのは交流で、世界の送電はそれに倣う。ニューヨーク

- C・V・ラマン人物AD1888年11月7日 – AD1970年11月21日海がなぜ青いのかから始まった海が青い理由を確かめようとして、光が分子で散乱するときに色が変わる現象を見つけた。アジア人で初の科学分野のノーベル賞。
- 国際音声記号できごとAD1888年一つの音に一つの記号英語の綴りと発音は大きくずれていて、文字を見ても読み方が分からないことが多い。1886年、パリの英語教師ポール・パシーらは、外国語の発音を正しく教えるための会を作り、1888年、その機関誌で、世界のあらゆる言語の音を書き表すための記号を発表した。一つの音には一つの記号、一つの記号には一つの音。ローマ字をもとに、足りない音には新しい記号を加えた。国際音声記号は、その後も改訂を重ねながら、言語学、外国語の辞書や教科書、言語聴覚士の仕事などで、世界共通の発音の書き方として使われている。パリ
- トマス・ミジリー人物AD1889年5月18日 – AD1944年11月2日発明家の家に生まれ、コーネルで機械工学を修めた。ゼネラルモーターズで、ノッキングを止める添加剤として四エチル鉛を見出し、1921年に実用化した。工場で作業員が中毒死し、彼自身も鉛中毒で療養している。それでも安全だと記者会見で主張した。1930年、無毒な冷媒としてフロンを開発。二つとも大規模に普及し、二つとも後に世界的な規制の対象になった。晩年、ポリオで身体が動かなくなり、自作の滑車装置に絡まって死んだ。
- 血清療法の確立できごとAD1890年破傷風菌を純粋培養し、その毒素に対する抗体を持つ血清が病を治すことを示した。第1回ノーベル賞は共同研究者のベーリングだけが受けている。ベルリン
- フレデリック・バンティング人物AD1891年11月14日 – AD1941年2月21日夜中に書き留めた着想オンタリオの農家。神学を志して落第し、医学へ。第一次大戦に軍医として従軍し、負傷して勲章を受けた。開業がうまくいかず、生理学の講義の準備をしていた夜、膵臓の実験の着想を書き留めた。トロント大学のマクラウドに研究室を借り、学生ベストと夏休みに実験した。1923年、32歳でノーベル賞(史上最年少級)。賞金をベストと分けた。1941年、軍務の途中、輸送機がニューファンドランドに墜落して死んだ。
- ナンセンのフラム号できごとAD1893年氷に潰れない船氷に閉じ込めても潰れない船を作り、シベリアの北で氷に入れて、海流で北極点を越えようとした。3年。点には届かず、ナンセンは一人と犬で歩いて北緯86度14分、人類の最北。帰りの冬をシロクマの肉と脂で越した。船も人も帰った。海が動いていることが分かった。北極点
- X線の発見できごとAD1895年11月8日私は自分の死を見たヴィルヘルム・レントゲンが、黒い紙で覆った真空管を暗室で放電させると、離れた蛍光板が光った。未知の線。「X線」。7週間、研究室に籠もった。12月22日、妻アンナ・ベルタの手を15分、写真乾板に。骨と結婚指輪が写った。「私は自分の死を見た」と彼女は言った。特許を取らなかった。翌年、世界中の病院が使い始めた。1901年、第1回ノーベル物理学賞。ヴュルツブルク
- ウォーレス・カロザース人物AD1896年4月27日 – AD1937年4月29日アイオワの生まれ。商業学校の教師の子で、化学を独学に近い形で修め、イリノイ大学で学位を得た。ハーヴァードで教えていたところをデュポンに招かれ、基礎研究の部門を率いた。高分子が長い鎖であることを合成によって示し、ネオプレンとナイロンを生んだ。若い頃から重いうつを繰り返し、青酸カリのカプセルを常に持ち歩いていた。妹の死の後、ホテルの一室でそれを飲んだ。四十一歳。娘が生まれたのは、その七か月後である。
- 炭鉱のカナリアできごとAD1896年一酸化炭素は無色無臭で、気づいたときには動けなくなっている。生理学者ジョン・スコット・ホールデンは、小さな動物のほうが代謝が速く、人より先に症状が出ることを示し、坑内に鳥を連れて入ることを勧めた。カナリアは歌が止まり、止まり木から落ちる。その時点で人は逃げられる。鳥を蘇生させる酸素の容器まで作られた。イギリスの炭鉱でカナリアが正式に退役したのは1986年で、電子式の検知器に置き換わった。危険を先に知らせる役を、長く別の生き物が負っていた。ロンドン
- 二酸化炭素と気温の計算できごとAD1896年寒い国には良いことだと考えた氷河期はなぜ来たのか。スウェーデンの化学者スヴァンテ・アレニウスは、空気中の二酸化炭素が熱を閉じ込める働きに注目し、その量が変われば地球の気温がどれだけ変わるかを、手計算で一年かけて見積もった。1896年、二酸化炭素が半分になれば気温は大きく下がり、倍になれば数度上がる、と発表する。石炭を燃やせば量は増えるとも述べたが、それは寒い国にとってむしろ良いことだと考えていた。百年あまり後、この計算は世界の最大の問題の一つになる。ストックホルム
- 合成インディゴできごとAD1897年割れた温度計の水銀が、触媒として働いたアドルフ・フォン・バイヤーが1878年に合成に成功し、1883年に構造を決めた。しかし工業化は別である。BASFは十七年と、当時の資本金を超える一千万マルク以上を投じた。転機は偶然で、水銀の温度計が割れて釜に落ち、それが触媒として働いた。1897年、製品が出る。インド各地の藍の畑が、数年で価値を失った。ベンガルとビハールの農村経済が崩れ、そこから南アフリカ帰りのガンディーが最初に取り組んだ農民運動が生まれる。ルートヴィヒスハーフェン
- アスピリンできごとAD1897年柳の樹皮が熱と痛みに効くことは古くから知られ、そこからサリチル酸が取り出されていた。だがそのままでは胃を荒らし、飲み続けられない。バイエル社のフェリックス・ホフマンが、分子の一部をアセチル基に置き換えた。効き目は残り、胃への負担が減る。父のリウマチのためだったという話が伝わるが、上司アルトゥル・アイヒェングリュンが自分の指示だったと後に主張した。彼はユダヤ人で、ナチス期に会社の歴史から名前を消された。世界で最も多く飲まれた薬の、功績の帰属は、いまも定まっていない。エルバーフェルト
- 『夢判断』できごとAD1899年11月4日科学かどうか出版社は1900年の日付にした。「新しい世紀の本」。600部が6年で売れた。夢は願望の充足。無意識。抑圧。検閲。エディプス。自分の夢を材料にした(父の死の後の自己分析)。「無意識への王道」。精神分析。20世紀の人間観を変えた。科学かどうかは、いまも争われる。ウィーン

- プランクの量子仮説できごとAD1900年12月14日絶望的な行為黒体放射のスペクトルを説明する式を作るために、プランクは「エネルギーはとびとびの値しか取れない」と仮定した。E=hν。h=6.626×10⁻³⁴。「絶望的な行為」と自分で言った。信じていなかった。5年後、アインシュタインが光そのものが粒だと言い、13年後、ボーアが原子に使い、25年後、量子力学になった。物理学会での発表の日が、量子論の誕生日。ベルリン
- ジョゼフ・ニーダム人物AD1900年12月9日 – AD1995年3月24日ケンブリッジの生化学者が、中国語を学び、戦時の中国を旅して、中国の科学技術史を書く仕事に生涯を変えた。全27冊はまだ続いている。
- 残響を測るできごとAD1900年建てる前に、響きを計算できるようになったハーヴァード大学の新しい講堂が、極端に聞き取りにくい。若い物理学者ウォーレス・セイビンが原因の調査を任された。夜、彼はオルガンの音管を鳴らし、止め、消えるまでの時間を耳と時計で測った。座布団を運び込んでは測り、人を座らせては測る。数千回。そして残響時間が、部屋の容積に比例し、吸音の総量に反比例することを見出した。式が一本できたことで、建てる前に響きを計算できるようになる。1900年のボストン交響楽ホールが、その最初の適用である。ボストン
- 黄熱と蚊できごとAD1900年キューバの医師カルロス・フィンレイは、1881年から黄熱は蚊が運ぶと唱えていたが、信じられなかった。米西戦争のあと、アメリカ陸軍の委員会がハバナで確かめる。委員の一人ジェシー・ラジアーは蚊に刺されて死んだ。委員会は志願者を募り、蚊に刺させる実験と、患者の汚れ物の中で眠らせる実験を比べた。志願者には危険を書いた同意書に署名させている。蚊が運ぶことが確かめられると、ハバナの黄熱は翌年ほぼ消え、その方法がパナマへ持ち込まれた。ハバナ
- 血液型の発見できごとAD1901年混ぜると固まる輸血は17世紀から試みられ、しばしば患者を殺した。ラントシュタイナーは、同僚と自分の血を組み合わせ、混ぜると固まる組と固まらない組があることに気づいた。A、B、C(後のO)。翌年、弟子がABを見つけた。合う血を選べば輸血は安全になる。第一次大戦で輸血が実用になり、クエン酸ナトリウムで凝固を止め、冷やして運ぶ「血液銀行」が生まれた。彼は1930年にノーベル賞。後にRh因子も見つけた。ウィーン
- ヴェルナー・ハイゼンベルク人物AD1901年12月5日 – AD1976年2月1日コペンハーゲンで何を言ったかヴュルツブルク。ゾンマーフェルトの弟子。23歳で行列力学、25歳で不確定性原理、31歳でノーベル賞。ナチスの下でドイツに残り、ウラン・クラブ(原爆計画)の中心にいた。原爆を作ろうとして失敗したのか、わざと遅らせたのか、分からない。1941年、コペンハーゲンでボーアに会って、何を言ったか(『コペンハーゲン』の劇)。戦後、西ドイツの物理を再建した。
- ジョージ・ギャラップ人物AD1901年11月18日 – AD1984年7月26日アイオワの生まれ。大学院で、新聞のどの記事が実際に読まれているかを測る方法を研究し、それが博士論文になった。広告会社で読者調査を担い、1935年に世論調査所を設立する。翌年の大統領選で、大手雑誌の巨大な調査を、はるかに小さく設計された標本で覆した。母の義理の親が州の役職に立候補したとき、その当落を予測したことが、出発点だと語っている。世論は測れるものであり、測ることが民主主義に資する、という信念を持ち続けた。
- ノーベル賞の始まりできごとAD1901年12月10日科学の栄誉が、爆薬の利益から生まれたダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、その爆薬で巨万の富を築いた。兄が死んだとき、ある新聞が本人と取り違えて、死の商人が死んだ、という記事を載せたと伝えられる。1895年、ノーベルは遺言で、財産の大半を基金にし、物理、化学、医学、文学、平和の五つの分野で人類に最も貢献した人に毎年賞を与えるよう書き残した。親族は争ったが、1901年12月10日、彼の命日に最初の授賞式が開かれる。科学の栄誉の最高位が、爆薬の利益から生まれた。ストックホルム
- ライト兄弟の初飛行できごとAD1903年12月17日操縦の問題として解いた12秒、36メートル。翼を大きくすることでもエンジンを強くすることでもなく、操縦の問題として解いた。新聞はほとんど報じなかった。キティホーク
- 見世物小屋の保育器できごとAD1903年病院が診ない子を、見世物の形で生かした早く生まれた小さな子を、病院は診なかった。助からないものとされ、親は家へ連れ帰るしかない。マーティン・クーニーは、遊園地に小屋を建て、保育器に入れた赤ん坊を二十五セントで見せた。見物料で運営し、親からは一銭も取らない。看護師を雇い、母乳を確保し、温度を管理した。コニー・アイランドの小屋は四十年続き、数千人の子が生きて帰ったとされる。医学の世界がこの器械を受け入れるのは1930年代である。見世物という形でしか続けられなかったことが、当時の医療の姿を映している。ニューヨーク
- 眠り薬できごとAD1903年眠れない悩みを、薬で解くという発想エミール・フィッシャーとヨーゼフ・フォン・メーリングが、眠りを誘う化合物バルビタールを見つけ、1903年に売り出された。商品名はヴェロナール。阿片や臭化物よりも扱いやすい薬として、世界中で使われる。だが効く量と死ぬ量が近く、誤って飲み過ぎる事故と自殺が相次いだ。依存もはっきりしていく。1960年代に、より安全なベンゾジアゼピンが取って代わった。眠れないという訴えは古いが、それを薬で解決するという発想は、ここから大衆のものになった。ベルリン
- ロバート・オッペンハイマー人物AD1904年4月22日 – AD1967年2月18日ロスアラモスロスアラモスで原爆の開発を率いた。戦後は水爆に反対し、赤狩りのなかで公職を追われる。
- エルンスト・ルスカ人物AD1906年12月25日 – AD1988年5月27日受賞は55年後ハイデルベルクの東洋学者の子。ミュンヘンとベルリンの工科大学で電気工学。学生のとき、磁界のコイルが電子の流れに対してレンズとして働くことを実験で確かめ、それを重ねれば倍率が上がることを示した。1931年、最初の装置。1933年、光学顕微鏡を超えた。ジーメンス社で量産型を作った。弟のヘルムートは医師で、この装置をウイルスの観察に使った最初の一人である。ノーベル物理学賞を受けたのは79歳、装置の完成から55年後だった。
- 純正食品薬事法できごとAD1906年6月30日瓶に何が入っているか、誰も保証していなかった。乳児用の鎮静剤にはアヘンが入り、牛乳にはホルマリン、肉には亜硫酸が入っていた。農務省の化学者ハーヴェイ・ワイリーは、志願した若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせ、体調の変化を記録した。新聞が毒物班と呼んだ。同じ年、シンクレアの小説『ジャングル』が食肉工場の内情を描いて反響を呼び、法が通った。表示の義務と、有害物の禁止。後の食品医薬品局につながる。ワシントンD.C.
- 湯川秀樹人物AD1907年1月23日 – AD1981年9月8日中間子の存在を予言し、日本人で初めてノーベル賞を受けた。戦後は核兵器廃絶を訴える側に立つ。
- ベークライトと合成樹脂できごとAD1907年分解されないものを作り始めたベルギー生まれの化学者レオ・ベークランドが、フェノールとホルムアルデヒドを圧力鍋のような容器で反応させた。できたのは、熱で固まり、二度と溶けない樹脂である。天然にない、まったく新しい物質だった。電気を通さず、熱に強く、型に流せば何にでもなる。電話機、ラジオの筐体、電気の絶縁部品、玉突きの球、装身具。「千の用途を持つ素材」と宣伝された。以後、人類は、分解されない物質を作り続けることになる。ヨンカーズ
- レイチェル・カーソン人物AD1907年5月27日 – AD1964年4月14日治療を受けながら証言したペンシルベニアの農場。文学を志して大学に入り、生物学へ転じた。ジョンズ・ホプキンズで修士。家計を支えるため博士課程を諦め、漁業局の職員になった。ラジオ用の原稿を書く仕事から、文章の力が知られた。『われらをめぐる海』(1951年)が世界的な成功を収め、専業の著述家になった。1962年『沈黙の春』。乳癌の手術と放射線治療を受けながら、議会で証言した。刊行の2年後、56歳で死んだ。
- 鳩のカメラできごとAD1907年ドイツの薬剤師ユリウス・ノイブロンナーは、近くの療養所との間で、処方箋や薬を伝書鳩に運ばせていた。あるとき一羽が霧で迷い、四週間も戻らなかった。どこを飛んでいたのか知りたくなった彼は、鳩の胸に付けられる小さく軽いカメラを作った。時計仕掛けで、飛んでいる途中に自動でシャッターが切れる。空から撮った町の写真は、博覧会で人々を驚かせた。飛行機がまだ珍しかった時代、軍はすぐにこれを偵察に使えないかと考えた。鳥は、手紙を運ぶものから、上から見るものになった。クロンベルク
- うま味の発見できごとAD1908年38キロの昆布東京帝国大学の池田菊苗が、昆布だしの味は甘・酸・塩・苦のどれでもない第五の味だと考え、38キロの昆布を煮詰めてグルタミン酸ナトリウムの結晶を取り出した。「うま味」と名づけた。翌年、鈴木製薬所が「味の素」として売り出した。西洋の生理学は長くこれを認めず、2000年に舌のグルタミン酸受容体が見つかって、ようやく第五の基本味として受け入れられた。だしも、チーズも、トマトも、同じ分子を含んでいる。東京
- 待ち行列の理論できごとAD1909年平均で足りていることと、待たされないことは、別であるコペンハーゲン電話会社の技師アグナー・アーランは、交換機の回線を何本用意すべきかを問われた。多すぎれば無駄、少なければ客が繋がらない。彼は通話の発生を確率の過程として扱い、待たされる確率と、諦める確率を式にした。1909年の論文が、この分野の出発点である。以後、道路、病院、工場、そして計算機の設計に使われた。行列は、平均で足りているときでも生じる。到着がばらつくからである。それが、この理論の中心にある。コペンハーゲン
- 脚気とビタミンの発見できごとAD1910年細菌か食事か白米ばかりを食べる海軍と陸軍で、脚気が猛威をふるった。明治の日本では、これを細菌の病と考える東大・陸軍と、食事の問題と考える海軍軍医の高木兼寛が対立した。高木が兵食に麦と洋食を混ぜて発症を止めても、原因物質は分からない。1910年、鈴木梅太郎が米糠から有効成分を取り出し、のちにオリザニンと名づけた。論文が日本語だったため、翌年ポーランドのフンクが独立に見つけた「ビタミン」の名が世界に残った。東京
- アラン・チューリング人物AD1912年6月23日 – AD1954年6月7日「計算できるとはどういうことか」を機械の形で定義した。大戦中は暗号解読に従事する。戦後に同性愛を理由に有罪となり、41歳で死んだ。
- 大陸は動くできごとAD1912年1月6日仕組みが説明できない正しさ大西洋の両岸の海岸線は、パズルのようにかみ合う。気象学者アルフレート・ヴェーゲナーは、南アメリカとアフリカで同じ化石と同じ地層が見つかることを集め、大陸はかつて一つで、そこから離れて動いたのだと考えた。1912年1月6日、フランクフルトの学会で発表する。だが、何が大陸を動かすのかを説明できず、地質学者たちからは笑われた。ヴェーゲナーはグリーンランドの調査中に死ぬ。1960年代、海の底の調べから、プレートが動く仕組みが確かめられ、彼の説はよみがえった。フランクフルト
- ラマヌジャンの手紙できごとAD1913年1月16日港湾事務所の事務員が、証明のない公式を並べた手紙をケンブリッジへ送った。二人が無視し、三人目が本物だと見抜いてインドから呼び寄せる。チェンナイ
- ボーアの原子模型できごとAD1913年量子跳躍ラザフォードの原子(中心に核、周りに電子)は、古典物理では電子が落ちて潰れるはずだった。ボーアは、電子はとびとびの軌道だけを回り、軌道を飛び移るときに光を出す、と言った。水素のスペクトルの線が全部合った。「量子跳躍」。理由は説明しなかった。1922年、ノーベル賞。コペンハーゲンの研究所に、世界の若い物理学者が集まって、量子力学を作った。コペンハーゲン
- ノーマン・ボーローグ人物AD1914年3月25日 – AD2009年9月12日緑の革命メキシコで背の低い小麦を作り、インドとパキスタンの飢饉を止めた。10億人を救ったと言われ、ノーベル平和賞を受けた農学者。
- 一般相対性理論できごとAD1915年11月25日質量が時空を曲げるプロイセン科学アカデミーで4回の講義の最後。重力は力でなく、質量が時空を曲げ、物はその曲がりに沿って動く。8年考えた。水星の近日点のずれ(43秒)が式から出て、アインシュタインは動悸がした。1919年、エディントンが日食で星の光が太陽で曲がるのを測り、『タイムズ』が「科学の革命」。一夜で世界一有名な科学者。GPSはこの理論で補正している。ベルリン
- イーペルの毒ガスできごとAD1915年4月22日1915年4月22日の夕方、ベルギーのイーペルの北で、ドイツ軍は塹壕に並べた五千本あまりのボンベの栓を開け、170トンほどの塩素を風に乗せて流した。黄緑色の雲が、アルジェリアの兵とフランスの兵の塹壕に流れ込み、兵は喉と肺を焼かれて逃げ出した。前線に数キロの穴が開いたが、ドイツ軍にも突破に回す兵がなく、カナダ兵がその穴をふさいだ。大がかりな毒ガスの使用はこれが初めてで、指揮したのは化学者フリッツ・ハーバーだった。以後、両軍がガスを撃ち合い、1917年にここで使われたマスタードガスは、町の名から「イペリット」と呼ばれる。イーペル
- ネーターの定理できごとAD1918年対称性があるところには必ず保存則がある。エネルギー保存も運動量保存も、この一つの定理の帰結として出てくる。ゲッティンゲン

- ロザリンド・フランクリン人物AD1920年7月25日 – AD1958年4月16日X線でDNAを撮った「51番写真」が二重らせんの決め手になった。本人に断りなく見せられたものだった。37歳で死に、ノーベル賞の対象にならなかった。
- インスリンの発見できごとAD1922年特許は1ドル糖尿病は、それまで死ぬ病だった。子どもは診断から1年ほどで痩せて死んだ。トロント大学で、外科医バンティングと学生ベストが、犬の膵管を縛って外分泌の組織を萎縮させ、残った膵島の抽出液を取り出した。1922年1月、14歳のレナード・トンプソンに注射した。血糖が下がった。生化学者コリップが精製法を改良し、マクラウドが研究室を貸した。特許は1ドルで大学に譲られた。「私たちのものではない。世界のものだ」。トロント
- 揺れに耐える建物の決まりできごとAD1924年耐えるかどうかを、計算で確かめる関東大震災で、東京と横浜の煉瓦の建物は多くが崩れた。建築学者の佐野利器は、建物の重さの一定の割合の力が横から加わっても壊れないように設計せよ、という考え方を唱えていた。震災の翌年の1924年、それが建築の法律に書き込まれる。地震の力を数字で見込んで設計することを、国の決まりとして求めた最初の例の一つとされる。揺れに耐えるかどうかを、建てる人の経験ではなく計算で確かめる時代が始まった。東京
- スコープス裁判できごとAD1925年7月10日教室で進化を教えるか1925年、テネシー州は、公立学校で、人が下等な動物から生じたという説を教えることを禁じる法を作った。自由人権協会が、この法を法廷で争う教師を探していると知ったデイトンの町の人々は、町の名を売るために、若い教師ジョン・スコープスを説き伏せ、わざと訴えさせた。7月、小さな郡の裁判所に全国から記者が押し寄せ、裁判はラジオで中継された。検察には三度大統領選挙に出た政治家ブライアン、弁護には名高い弁護士ダロウ。ダロウはブライアンを証人に呼び、聖書を文字どおりに読むことの矛盾を問い詰めた。スコープスは有罪になり、罰金100ドルを科された。デイトン(テネシー州)
- ヴァヴィロフと起源の中心できごとAD1926年多様性が最も高い場所が起源作物は、世界のどこで生まれたか。ニコライ・ヴァヴィロフは、遺伝的な多様性が最も高い場所が、その作物の起源地であると考えた。彼は64か国を回り、種を集めた。エチオピア、アフガニスタン、ペルー、中国。集めた標本は25万点を超え、当時、世界最大の種子の集積になった。目的は、飢饉をなくすことである。多様性の中から、寒さと病に強い品種を探す。彼はスターリンの下でルイセンコに敗れ、1940年に逮捕され、1943年、獄中で餓死した。サンクトペテルブルク
- 不確定性原理できごとAD1927年3月神はサイコロを振らない位置と運動量を同時に正確には測れない。Δx·Δp≥h/4π。測り方が下手なのではなく、自然がそうできている。ハイゼンベルクが23歳で、ヘルゴラント島の花粉症の療養中に行列力学を作り(1925年)、2年後、25歳でこれを書いた。ボーアの相補性と合わせて「コペンハーゲン解釈」。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言い、ボーアは「神に指図するな」と答えた。コペンハーゲン
- 血液型で性格を占うできごとAD1927年血液の型が見つかってまもなく、それが人の気質とも関係するのではないかと考える人が出た。1927年、東京の女子高等師範学校の教師・古川竹二は、血液型と気質を結びつける論文を発表し、話題になる。のちの研究で裏づけは得られず、いったん忘れられた。1970年代、放送作家の本がきっかけで再び流行し、雑誌や番組の定番になる。科学的な根拠は示されていない。血液型で人を決めつける差別も問題になった。東京
- ペニシリンの発見できごとAD1928年9月28日放置したシャーレ休暇から戻ったフレミングが、放置したブドウ球菌のシャーレに青カビが生えて、周りの菌が溶けているのを見た。「面白い」。カビの汁を「ペニシリン」と名づけて、論文を書いて、精製できず、忘れられた。1940年、オックスフォードのフローリーとチェインが精製して、マウスで試し、1941年、人で。アメリカが大量生産して、1944年、ノルマンディーの負傷兵に。感染症で死ぬのが当たり前だった時代が終わった。ロンドン
- ラマン効果の発見できごとAD1928年2月28日海がなぜ青いのかから始まった海がなぜ青いのかを確かめようとして、光が分子で散乱するときに波長が変わる現象を見つけた。太陽光と水銀灯と分光器だけで。アジア人初の科学のノーベル賞になる。コルカタ
- デシベルできごとAD1928年何と比べるかを決めなければ、数字にならない電話線は長いほど信号が弱る。技術者は当初、標準的な一マイルのケーブルの損失を単位に使っていた。ベル電話研究所が、それを比の対数として定義し直す。十分の一を意味する接頭語を付けて、デシベル。1928年に正式に採用された。比の対数だから、絶対値ではない。何と比べるかを決めなければ、数字にならない。音圧なら、若い健康な耳がかろうじて聞き取る大きさが基準である。人の感覚が対数に近いという経験則が、そのまま単位になった。ニューヨーク
- 宇宙が膨張しているできごとAD1929年宇宙は静止していないウィルソン山の口径2.5メートルの望遠鏡で、エドウィン・ハッブルは、遠くの星雲までの距離を測った。それらは、銀河系の中の雲ではなく、はるか外にある別の銀河だった。宇宙の大きさが、一挙に広がった。さらに、それらのスペクトルが赤くずれていた。遠いものほど、速く遠ざかっている。距離と速度が比例する。宇宙は、静止していない。膨張している。ルメートルが2年前に同じ結論を理論から導いていたが、フランス語の無名の雑誌に載っていた。ウィルソン山天文台
- フロンの発明できごとAD1930年当時の冷媒はアンモニア、塩化メチル、二酸化硫黄である。漏れれば人が死ぬ。家庭用の冷蔵庫の事故が続き、代わりが求められた。ゼネラルモーターズのトマス・ミジリーが、本人の回想では三日で、ジクロロジフルオロメタンに行き着いた。無毒、不燃、無臭。彼は学会で吸い込んで蝋燭を吹き消してみせた。冷蔵庫が家庭に入り、エアコンが普及した。そして四十年後、この物質が成層圏でオゾンを壊すことが分かる。同じ人物が、有鉛ガソリンも世に出している。デイトン
- 騒音を測るできごとAD1930年都市の音は、長く苦情の対象であって、測定の対象ではなかった。1929年、ニューヨーク市が騒音削減委員会を置く。技術者が測定車で街を回り、地点ごとの数値を記録した。市民から一万を超える苦情が寄せられ、その順位が公表される。交通、地下鉄、ラジオ、そして工事。健康への影響の調査も行われた。数値になったことで、規制が可能になり、同時に「この数値以下なら我慢すべきである」という線も引かれた。測ることは、許すことでもある。ニューヨーク
- 空を測る気球できごとAD1930年観測と計算は両輪。入れる数字が粗ければ答えも粗い天気を予報するには、地面の観測だけでは足りない。上空の気温と気圧と風を知る必要がある。凧や有人気球で測る試みは危険で、記録は降りてこないと読めなかった。1930年、ソ連のモルチャノフが、気球に小さな送信機を吊るし、測った値を電波で送る装置を飛ばした。使い捨てである。以後、世界中の観測所が毎日決まった時刻に同じ気球を上げるようになった。いまも日に二回、各国が同時に飛ばしている。数値予報の計算に入れる数字は、この気球が集めている。サンクトペテルブルク
- 電子顕微鏡できごとAD1931年光の波長より小さいものを見る光の顕微鏡には、原理的な限界がある。光の波長より小さいものは、見えない。おおよそ0.2マイクロメートル。ベルリン工科大学の学生エルンスト・ルスカと、指導者マックス・クノールが、電子の流れを磁界のレンズで曲げる装置を作った。電子の波長は、光よりはるかに短い。1933年、光学顕微鏡を超える倍率に達した。ウイルスが、初めて見えた。細胞の内部の構造が、見えた。ルスカがノーベル賞を受けたのは、55年後の1986年である。ベルリン
- 無作為抽出できごとAD1934年標本の大きさより、選び方が効く全部を数えるのは、費用も時間もかかる。一部を調べて全体を推し量る試みは古くからあったが、選び方に根拠が無く、当てにならないと見られていた。ポーランドの数学者イェジ・ネイマンが、王立統計学会に提出した論文で、確率にもとづく抽出だけが、誤差の幅を計算できると示した。層に分けて割り当てる方法も、同時に定式化している。標本の大きさより、選び方が効く。母集団の全員に、選ばれる確率がある、ということが、核心である。ロンドン
- 中間子論できごとAD1935年予言された粒子は12年後に見つかる原子核をまとめる力を、未知の粒子のやり取りで説明した。予言された粒子は12年後に見つかる。日本人として最初のノーベル賞になる。東京

- ナイロンできごとAD1935年2月28日石炭と空気と水から作るデュポンが、実用を求めない基礎研究の部門を作り、ハーヴァードからウォーレス・カロザースを招いた。当時、高分子が長い鎖状の分子であることは、まだ論争の対象だった。彼はそれを合成で示し、その過程で溶融した樹脂から糸が引けることに気づく。1935年、ナイロン66が得られた。石炭と空気と水から作る、と宣伝された。1940年に売り出された靴下は初日で完売し、戦時中は落下傘に回された。カロザースは発売を見ずに、うつ病により自ら命を絶っている。ウィルミントン
- マグニチュードできごとAD1935年揺れの強さと、地震の大きさを分ける地震の大きさは、各地の揺れの強さでしか語れなかった。同じ地震でも、近くでは強く、遠くでは弱い。パサデナの研究所にいたチャールズ・リヒターは、同僚のグーテンベルクと、地震計の記録の振れ幅から、地震そのものの大きさを一つの数で表す方法を作った。1935年のことである。目盛りは一つ上がると、揺れの幅が十倍になる。場所ごとの揺れの強さと、地震が放つエネルギーの大きさを、分けて語れるようになった。パサデナ
- 「計算可能な数について」できごとAD1936年紙テープに記号を書き換えるだけの想像上の機械を定義し、それで計算できないことがあると証明した。コンピュータという考えの出発点になる。ケンブリッジ
- リテラリー・ダイジェストの失敗できごとAD1936年11月3日数の多さは、偏りを直さない雑誌リテラリー・ダイジェストは、それまで五回続けて、大統領選を的中させていた。1936年は千万通の葉書を送り、二百四十万通の回答を得る。予測はランドン勝利、ローズヴェルトは四割強。結果は、ローズヴェルトが六割を超える圧勝だった。名簿を電話帳と自動車の登録から作ったため、大恐慌下で電話と車を持てる層に偏っていた。回答した者だけが集計されたことも効いている。一方、五万人の設計された標本で当てたギャラップが世に出た。数の多さは、偏りを直さない。ニューヨーク
- 少ない標本で当てるできごとAD1936年数を集めることと、偏りなく選ぶことは別である当時いちばん有名だった選挙予測は、雑誌が読者に葉書を送る方式だった。二百万を超える返信を集め、共和党の候補が勝つと予測する。ジョージ・ギャラップは、五万人ほどを偏りなく選んだ調査で、民主党のローズベルトが勝つと予測した。結果はローズベルトの圧勝である。雑誌の名簿は、電話と自動車を持つ層に偏っていた。恐慌下で、その層と全体では投票先が違う。数を集めることと、偏りなく選ぶことは別である。標本の作り方が結果を決めると示したことで、世論調査という商売が成立した。プリンストン
- エリキシル・スルファニルアミド事件できごとAD1937年10月効く薬だった。子どもが飲みやすいよう甘い液にしたい。テネシーの製薬会社の主任化学者は、溶かす液にジエチレングリコールを選んだ。味と香りは試したが、毒性は試していない。当時の法は、それを求めていなかった。腎不全で105人が死に、その多くが子どもだった。連邦の査察官が処方箋をたどって回収した。翌1938年、連邦食品医薬品化粧品法が成立し、販売の前に安全性を示すことが初めて義務になった。ワシントンD.C.
- 核分裂の発見できごとAD1938年雪の中の散歩が、原子爆弾につながった1938年の暮れ、ベルリンの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンは、ウランに中性子を当てると、ずっと軽いバリウムができることに気づいた。意味が分からず、ユダヤ人として亡命していた元の共同研究者リーゼ・マイトナーに手紙で相談する。マイトナーと甥のフリッシュは、雪の中を歩きながら、原子核が二つに割れ、莫大なエネルギーを出したのだと解き明かした。数年後、それは原子爆弾になる。ノーベル賞はハーン一人に贈られた。ベルリン
- エニグマの解読できごとAD1940年ポーランドの研究を引き継ぎ、機械で機械の暗号を解いた。従事した数千人は戦後30年、この仕事について話すことを許されなかった。ブレッチリー・パーク
- ねじれて落ちた橋できごとAD1940年11月7日強さは重さや太さでなく、どう動くかで決まる開通から四か月、細く軽く作られた吊り橋が、秒速十九メートルほどの風で大きく波打ち始めた。上下に揺れ、やがてねじれ、桁が裂けて川へ落ちた。死者は、取り残された犬一匹である。撮影された映像は、工学の教室で繰り返し流されることになった。当時は共振という言葉で説明されたが、いまは風が作る渦と橋の動きが互いを強め合う現象として理解されている。強度を上げるだけでは足りない。風の中でどう動くかを計算し、模型を風洞で試すことが、以後の橋の設計に組み込まれた。タコマ
- 全部は数えないできごとAD1940年数え方が、社会を見る解像度を決める国勢調査は全員に聞くものである。だが、聞きたいことが増えるほど、全員に聞く費用と手間は膨らむ。1940年のアメリカの調査は、詳しい質問を二十人に一人だけに尋ねる方式を採り入れた。標本の理論がそれを支える。適切に選べば、一部から全体を高い精度で推し量れる。同じ考え方で、失業率や物価の統計も、毎月少数を調べて作られるようになった。全部を数えるより、正しく選んだ一部のほうが、速くて安く、時には正確でもある。数え方そのものが、社会を見る解像度を決めている。ワシントンD.C.
- マンハッタン計画できごとAD1942年8月20億ドルドイツが先に作ることを恐れて、ロスアラモスに物理学者を集めた。13万人、20億ドル。1945年7月16日、アラモゴードの砂漠で最初の爆発。オッペンハイマーは『バガヴァッド・ギーター』を思い出した。「我は死なり、世界の破壊者なり」。3週間後、広島。ロスアラモス

- 包囲下の種子できごとAD1942年戦後、各地に配られた1941年から900日近く、レニングラードは包囲された。市民100万人以上が死んだ。多くが餓死である。市の中心に、ヴァヴィロフが集めた種子の研究所があった。食べられる米、麦、豆、じゃがいもが、数十トン。職員は、それを守った。交代で不寝番に立ち、鼠を追い、そして手をつけなかった。米の担当者ドミトリー・イワノフは、米の袋に囲まれた机で死んだ。落花生の担当者も、じゃがいもの担当者も。記録に残るだけで、9人が餓死した。標本は、戦後、各地に配られた。サンクトペテルブルク
- スポック博士の育児書できごとAD1946年二十世紀のはじめの育児の専門家は、赤ん坊を時間どおりに授乳し、泣いても抱かず、甘やかさないよう説いた。小児科医ベンジャミン・スポックは、1946年の育児書を、あなたは自分で思っているより多くを知っている、という言葉で始める。子どもに合わせ、親の感覚を信じよという本は、何千万部も売れた。一方で、版によってはうつ伏せ寝を勧めており、これは後に乳幼児の突然死を増やしたと批判される。専門家の助言も、時代とともに入れ替わる。ニューヨーク
- ニュルンベルク綱領できごとAD1947年人体実験のあとでニュルンベルク継続裁判の「医師裁判」。強制収容所で行われた人体実験——低体温、与圧、海水、毒ガス、双子の研究——について、23人が裁かれ、7人が処刑された。判決文に添えられた10項目が、この綱領である。第一条「被験者の自発的な同意が、絶対に不可欠である」。1964年のヘルシンキ宣言、各国の倫理委員会、そして「インフォームド・コンセント」という語の系譜が、ここから始まる。ニュルンベルク
- フラミンガム心臓研究できごとAD1948年危険因子という考え20世紀の半ば、アメリカでは心臓の病が死因の一位になっていたが、なぜ起きるのかはほとんど分かっていなかった。1948年、国の研究所は、ボストンに近い町フラミンガムの住民五千人あまりを選び、何年にもわたって定期的に血圧や血液や体重や喫煙の習慣を測り続ける研究を始めた。十数年後、高い血圧、高いコレステロール、喫煙が、のちの心臓病と結びついていることが分かる。研究者たちは、それを「危険因子」と呼んだ。病気になる前に原因を減らすという予防の考えは、ここから広まった。研究はいまも孫の世代まで続いている。フラミンガム
- 計算機で天気を解くできごとAD1950年計算機が速くなるほど予報が伸びる時代の始まり天気は物理の法則に従って動く。ならば、いまの空気の状態を数字にして方程式を解けば、明日が計算できるはずである。第一次大戦中、イギリスのリチャードソンは手計算でそれを試み、六時間先の予報を出すのに六週間かかった。彼は、六万四千人が計算尺を並べて分担すれば間に合うと書いている。1950年、フォン・ノイマンらはENIACを使い、二十四時間先の予報を、ほぼ二十四時間かけて計算した。実用には届かないが、道筋は示された。計算機が速くなるほど予報が当たるようになるという時代が、ここから始まる。アバディーン(メリーランド州)(位置は特定されていない)
- 喫煙と肺がんできごとAD1950年9月30日たばこだけに違いが出た20世紀の前半、肺がんで死ぬ人が急に増えていた。道路の舗装や排気ガスのせいだと考える人が多かった。1950年、イギリスの疫学者リチャード・ドールとオースティン・ブラッドフォード・ヒルは、ロンドンの病院の肺がんの患者と、ほかの病気の患者の暮らしを聞き取って比べ、肺がんの患者にたばこを多く吸う人がはるかに多いことを示した。同じ年、アメリカでも同じ結果が出る。ドールは研究の途中で自らたばこをやめた。二人は続いて、イギリスの医師四万人の喫煙と死因を追う研究を始め、喫煙が命を縮めることを確かめた。ロンドン
- ヒーラ細胞できごとAD1951年無限に増える細胞ジョンズ・ホプキンス病院で、31歳の黒人女性ヘンリエッタ・ラックスが子宮頸がんの治療を受けた。担当医が、本人に知らせず腫瘍の一片を研究室に送った。その細胞は、それまでのどの細胞株とも違い、培養皿の中で無限に増え続けた。彼女はその年に死に、細胞は生き続けた。ポリオワクチンの試験、遺伝学、宇宙実験、無数の論文。家族が事実を知ったのは20年以上後で、その間、医療費に苦しんでいた。同意とは何かを問う事件になった。ボルティモア

- 処方箋がいる薬できごとAD1951年誰が薬を選ぶのか。本人か、医師か、国か成分を書かせても、危ない薬は危ない。抗生物質や睡眠薬が普及すると、自己判断で飲んで害が出る例が増えた。1951年の法改正は、薬を二つに分けた。店で自由に買えるものと、医師の処方箋がなければ買えないもの。どちらに入れるかは、政府が決める。これで安全は上がったが、医師の診察を受ける必要が生まれ、費用も時間もかかるようになった。誰が薬を選ぶのか。本人か、医師か、国か。この線引きは、いまも薬ごとに動いている。ワシントンD.C.
- 写真51番できごとAD1952年5月6日露光62時間キングス・カレッジで、ロザリンド・フランクリンと大学院生レイモンド・ゴスリングが、DNAの繊維にX線を当てて撮った。露光62時間。写真に、はっきりとしたX字の模様が出た。らせん構造の証拠である。フランクリンは、確証を積み上げてから発表する方針だった。1953年1月、同僚のモーリス・ウィルキンズが、彼女に断りなく、この写真をワトソンに見せた。ワトソンは後に「それを見た瞬間、私の口はぽかんと開き、脈が速くなった」と書いている。ロンドン
- 線文字Bの解読できごとAD1952年羊の頭数と油の配給クレタ島クノッソスで見つかった粘土板の文字。50年、誰も読めなかった。建築家マイケル・ヴェントリスは14歳でエヴァンズの講演を聞いて取り憑かれ、余暇に取り組んだ。記号の出現位置を統計的に整理し、格子状の表に並べ、音節の対応を推測した。そして自分の予想に反する結論に達した。この言語はギリシア語である。ミケーネ文明がギリシア語を話していたことが、これで確定した。粘土板の中身は、羊の頭数と油の配給の記録だった。彼は4年後、34歳で交通事故で死んだ。ロンドン
- クロルプロマジンできごとAD1952年1952年、パリのサンタンヌ病院の精神科医ジャン・ドレーとピエール・ドニケールは、手術の麻酔を助ける薬として作られたクロルプロマジンを、激しい興奮や幻覚に苦しむ患者に与え、症状が大きく静まるのを見た。それまで、精神の病の治療は、拘束、電気ショック、脳の一部を切る手術くらいしかなかった。薬は数年で世界に広まり、大きな精神病院の中の空気を変えた。患者が病院から地域へ戻る道が開けたが、アメリカなどでは病院の閉鎖が先に進み、行き場を失った人々が街にあふれる問題も生んだ。パリ
- DNAの二重らせんできごとAD1953年生命の設計図の形が分かった。X線で撮られた「51番写真」が決め手になる。それは撮影者に断りなく見せられた写真だった。ケンブリッジ
- レム睡眠の発見できごとAD1953年8歳の息子が最初の被験者シカゴ大学の大学院生ユージン・アセリンスキーが、眠る子どもの眼球の動きを記録した。装置は、指導者クライトマンの研究室にあった古い脳波計である。眠っている間、目が速く動く時間帯が、周期的に現れた。そのとき起こすと、多くが夢を見ていたと答えた。眠りは、一様な休息ではなく、構造を持つ過程である。彼は最初の被験者に、8歳の自分の息子を使った。論文は1953年の『サイエンス』に載った。睡眠が、科学の対象になった。シカゴ
- ローゼンバーグ夫妻の処刑できごとAD1953年6月19日原爆の秘密原爆の秘密をソ連に渡したとして、ニューヨークのユダヤ人の夫婦が電気椅子に。妻の弟が証言した。教皇とサルトルとアインシュタインが助命を求めた。二人の息子が残った。1995年に公開されたヴェノナ文書でジュリアスがスパイだったことは確かになり、エセルの役割はいまも争われる。シンシン刑務所
- 運転手と車掌できごとAD1953年ロンドンの二階建てバスには、座り続ける運転手と、階段を一日に何百段も上り下りする車掌が乗っている。疫学者ジェリー・モリスは、両者の心臓病を比べた。1953年、運転手のほうが心臓病が多く、重いことを示す。郵便の配達員と局の事務員でも同じ差が出た。制服の寸法を調べると、運転手は採用の時から太めだったという反論にも向き合っている。体を動かすことが病を防ぐという、いまでは当たり前の考えは、この比較から始まった。ロンドン
- 『中国の科学と文明』の刊行できごとAD1954年なぜ近代科学はヨーロッパで生まれたのか中国には科学と技術の長い蓄積があった。ではなぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。この問いと、それを支える膨大な証拠が、一人の生化学者から始まった。ケンブリッジ
- 機械翻訳の公開実験できごとAD1954年1月7日ジョージタウン大学とIBMが、記者を集めて実演した。ロシア語の六十余りの文を、IBM701が英語に訳す。語彙は250語、規則は六つ。選ばれた文は、あらかじめ分かっていた。報道は熱狂し、五年で機械翻訳は解決すると書かれた。実際には、語義の曖昧さと文脈の問題が、規則では手に負えなかった。1966年のALPAC報告が、資金を打ち切る。統計的手法と、そして機械学習が現れるまで、この分野は長く冬に置かれた。ニューヨーク
- 最初の腎臓移植できごとAD1954年12月23日臓器を人から人へ移す医療他人の臓器を移しても、体の免疫がそれを異物として攻撃し、すぐに駄目になった。1954年12月23日、ボストンの病院で、腎臓の病で死にかけていた男性に、一卵性の双子の兄弟の腎臓が移される。遺伝子がまったく同じ双子なら、拒絶は起きない。移された腎臓は八年働いた。のちに免疫を抑える薬が開発され、双子でなくても移植ができるようになる。臓器を人から人へ移す医療は、同時に、誰から臓器を得るのかという問いも生んだ。ボストン
- ティム・バーナーズ=リー人物AD1955年6月8日 – ?CERNで文書を相互に繋ぐ仕組みを考え、特許を取らずに公開した。誰でも情報を出せる世界がここから始まる。
- ラッセル=アインシュタイン宣言できごとAD1955年7月9日1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆の実験は、予想を超える規模になり、日本の漁船の乗組員も死の灰を浴びた。1955年7月9日、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、ロンドンで、11人の科学者や知識人が署名した宣言を読み上げた。署名には、その年の4月に亡くなったアインシュタインが死の直前に書いた署名と、日本の湯川秀樹の名もあった。宣言は、核兵器による戦争は人類を滅ぼしうるとして、各国の政府に、争いを戦争でなく平和的な手段で解くよう求めた。この呼びかけから、東西の科学者が核の危険を話し合うパグウォッシュ会議が生まれた。ロンドン
- 人工知能という言葉できごとAD1956年1956年の夏、ニューハンプシャーのダートマス大学に、若い数学者や技術者が数週間集まった。呼びかけたジョン・マッカーシーは、その研究計画に人工知能という言葉を使う。学習や言葉の理解など、知能のあらゆる面は、機械で真似できるほど正確に記述できるはずだ、という見通しを掲げた。参加者の多くは、一世代のうちに実現すると考えていた。期待は何度も膨らみ、何度も冬の時代を迎えた。名前が付いたことで、一つの分野が生まれた。ハノーヴァー
- キーリング曲線できごとAD1958年地球が息をしているような波と、上がり続ける線空気中の二酸化炭素の量を、正確に、長く測り続けた人はいなかった。若い化学者チャールズ・キーリングは、工場や森の影響を受けにくいハワイのマウナロア山の上で、1958年から測定を始める。数年で、二つのことが見えてきた。植物が育つ夏に減り冬に増える、地球が息をしているような季節の波。そして、その波を乗せたまま、年ごとに確実に上がっていく線である。この一本の線は、いまも毎日延び続けている。マウナロア
- 胸を押して心臓を動かすできごとAD1960年病院の外で倒れた人を、居合わせた人が救う止まった心臓を動かすには、胸を開いて直接もむしかないと考えられていた。ボルティモアの大学病院で、電気技師ウィリアム・クーウェンホーヴェンらは、犬の実験で、胸の上から強く押すだけで血を送れることに気づく。1960年、その成果を発表した。口から息を吹き込む人工呼吸と組み合わせ、心肺蘇生法としてまとめられる。道具が要らず、誰でも覚えられる。病院の外で倒れた人を、居合わせた人が救えるようになった。ボルティモア
- 練習用の人形できごとAD1960年名も知れない顔が、最も多く口づけされたノルウェーのスタヴァンゲルでプラスチックの玩具を作っていたオースムン・レールダルは、心肺蘇生を人に練習させるための人形を頼まれた。生きた人の胸を強く押して練習するわけにはいかない。1960年、実物大の人形を作る。顔は、十九世紀末にパリのセーヌ川から引き上げられた身元不明の若い女性のデスマスクを手本にしたと伝えられる。その人形で、世界の何億人もが胸の押し方を習った。名も知れない一人の顔が、最も多くの人に口づけされた顔になった。スタヴァンゲル
- サリドマイド禍できごとAD1961年承認を保留し続けた審査官つわりに効く安全な睡眠薬として西ドイツで市販され、46か国に広がった。動物実験では毒性が出ず、処方箋なしで買えた国もあった。生まれた子に、腕や脚のない、あるいは極端に短い障害が現れた。世界で約1万人。1961年、ドイツのレンツとオーストラリアのマクブライドが薬との関係を指摘し、回収された。アメリカでは審査官フランシス・ケルシーが承認を保留し続けて被害を防いだ。以後、薬の承認に催奇形性の試験と厳格な手続きが要求されるようになった。ハンブルク

- 『沈黙の春』できごとAD1962年ヒステリックな独身女性という攻撃海洋生物学者レイチェル・カーソンが、農薬、特にDDTの生態系への影響を、平易な散文で書いた。冒頭は寓話である。ある町で、春が来ても鳥が鳴かない。彼女は乳癌を患いながら、4年かけて資料を集め、註を並べた。化学業界は、彼女を「ヒステリックな独身女性」と攻撃した。ケネディが諮問委員会を作り、報告書が彼女を支持した。1970年、環境保護庁の設立。1972年、アメリカでのDDTの農業使用が禁止された。ニューヨーク
- 部分的核実験禁止条約できごとAD1963年8月5日核の冬から一歩キューバ危機の10か月後。大気圏内、宇宙、水中での核実験を禁じた。地下は残った。米英ソ。フランスと中国は署名しなかった。「ホットライン」と同じ夏。核の冬に一歩近づいてから、一歩下がった最初。モスクワ
- ジェニファー・ダウドナ人物AD1964年2月19日 – ?その道具が人の胚に使われることを自分で警告したシャルパンティエとともに、細菌の免疫の仕組みをゲノム編集の道具にした。その道具が人の胚に使われることを、自分で警告している。2020年ノーベル化学賞。
- レッドリストできごとAD1964年評価されていないものは、存在しないのと同じに扱われる国際自然保護連合が、絶滅のおそれのある種の一覧を作り始めた。当初は手書きのカードで、著名な大型動物が中心である。1994年、基準が数値で定義された。個体数の減少率、分布の面積、そして絶滅の確率。近絶滅、絶滅危惧、危急、そして野生絶滅と絶滅。判定が個人の印象から手続きに変わった。評価済みの種は十六万を超え、その約三割が危機にあるとされる。そして評価されていない種のほうが、はるかに多い。ジュネーヴ
- 宇宙のはじまりの残り火できごとAD1965年探していなかった組が見つけたニュージャージーの電話会社の研究所で、アーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンは、大きなアンテナから消えない雑音に悩んでいた。どの方向に向けても、昼も夜も同じように聞こえる。アンテナに巣を作った鳩を追い出し、糞を掃除しても消えなかった。近くの大学では、宇宙が熱い火の玉から始まったなら、その残り火の電波が空のすべてから届くはずだと、探す準備をしていた。1965年、二つの組が出会い、雑音こそがその電波だと分かる。宇宙に始まりがあったことの、強い証拠になった。ホルムデル
- イタイイタイ病できごとAD1968年原因を言い当てたのは、町の医者だった富山の神通川の流域で、大正の頃から、中年の女性が骨がもろくなり、わずかな動きで骨が折れて痛みに泣く病が知られていた。痛い、痛いと訴えることから病名がついた。地元の医師・萩野昇は、上流の鉱山から流れるカドミウムが原因だと唱えたが、長く相手にされなかった。1968年、国はこれを公害による病と初めて認める。1971年、患者は鉱山の会社を相手にした裁判に勝った。四大公害の裁判の中で最初の勝訴である。富山
- 氷から、昔の気温を読むできごとAD1969年過去の温度計が、氷の中にあったグリーンランドの氷の下に、アメリカ軍が基地を掘った。その一角で、氷床を岩盤まで貫く掘削が行われ、1966年に千三百八十七メートルの氷の柱が抜き出された。デンマークのウィリー・ダンスガードは、雪に含まれる酸素の重い原子と軽い原子の割合が、降ったときの気温で変わることに着目していた。氷は毎年降り積もる。深いほど古い。柱を上から下まで測れば、十万年分の気温が並ぶ。1969年に出た記録は、氷期のなかで気候が何度も急に変わっていたことを示した。過去の温度計が、氷の中にあった。キャンプ・センチュリー(位置は特定されていない)
- 役を与えるとできごとAD1971年実験の信頼性と、問いの重さは別のことになる大学の地下に模擬の監獄を作り、学生をくじで看守役と囚人役に分けた。数日で看守役の一部が嫌がらせを始め、囚人役が精神的に参り、予定の二週間を待たずに中止された。人は役を与えられると、その役らしく振る舞ってしまう。長くそう語られてきた。近年、この実験には批判が強い。看守役が厳しく振る舞うよう促されていた記録が見つかり、参加者の証言も食い違う。それでも、状況が人の行動を大きく左右するという問い自体は残った。実験の信頼性と、問いの重さは別のことになる。スタンフォード
- 古い処方から新しい薬できごとAD1972年古い処方を、読み方を変えて新しい薬にしたベトナムの戦場で、北ベトナムの兵士が薬の効かないマラリアに倒れていた。1967年5月23日、中国は秘密の研究計画を始め、日付から「523」と呼んだ。屠呦呦の組は二千を超える処方を洗い出し、四世紀の葛洪の書に、青蒿を水に浸して絞った汁を飲む、とあるのに目を留める。煮出さないことに意味があると考え、低い温度で抽出すると効き目が出た。1972年に有効成分を取り出す。屠は自分でも飲んで安全を確かめた。2015年、ノーベル賞を受けている。北京
- 遺伝子組み換え技術の誕生できごとAD1973年種の壁を越えて遺伝子を移す1973年、スタンフォード大学のスタンリー・コーエンとカリフォルニア大学のハーバート・ボイヤーは、ある生き物の遺伝子を切り取り、別の生き物の細胞に入れて働かせることに成功した。ボイヤーの持つ遺伝子を切る酵素と、コーエンの扱う大腸菌の小さな環状の遺伝子を組み合わせたのである。翌年にはカエルの遺伝子を大腸菌の中で増やした。生き物の設計図を人の手で書き換える時代が始まる。ボイヤーは会社を興し、1978年、大腸菌にヒトのインスリンを作らせた。いま糖尿病の患者が使うインスリンの多くは、こうして作られている。スタンフォード
- アシロマ会議できごとAD1975年2月24日科学者が自ら立ち止まる遺伝子を組み換えた菌が研究室から漏れ出たら、どうなるのか。1974年、遺伝子を扱う研究者たち自身が、危険が分かるまで一部の実験を止めようと呼びかけた。1975年2月、カリフォルニアの海辺の会議場アシロマに、世界の研究者や法律家やジャーナリストが集まり、四日間議論する。危険の度合いに応じて封じ込めの設備を分ける、という指針がまとめられ、実験は再開された。新しい技術の危うさを、法律に縛られる前に科学者が自分たちで話し合って決めた例として、のちのゲノム編集や人工知能の議論でも繰り返し引かれる。アシロマ
- 公開鍵暗号できごとAD1976年11月それまでの暗号は、送る側と受ける側が、同じ鍵を先に共有していなければならない。会ったことの無い相手とは、通信できない。ディフィーとヘルマンが、公開する鍵と、秘密に持つ鍵を分ける方式を発表した。錠を配り、自分だけが開ける。翌年、リヴェスト、シャミア、エーデルマンが具体的な方式を作る。イギリスの政府通信本部でも数年前に同じ発想に達していたが、機密とされ、1997年まで公表されなかった。いまの通信のほとんどが、これの上にある。スタンフォード
- セベソの事故できごとAD1976年7月10日町の名が、決まりの名に1976年7月10日の昼、ミラノの北の町セベソの近くにある化学工場で、反応の釜の温度が上がりすぎ、猛毒のダイオキシンを含む雲が噴き出した。風下の町に白い粉が降り、数日のうちに小動物が死に、子どもたちの皮膚にただれが出る。住民が避難させられたのは一週間以上たってからだった。数万頭の家畜が処分される。この事故をきっかけに、危険な物質を扱う工場に、周りの住民への情報の公開と備えを求めるヨーロッパの決まりが作られた。セベソ
- ボイジャーできごとAD1977年9月5日外側の惑星が一列に並ぶ、百七十年あまりに一度の配置を使えば、一機の探査機で木星、土星、天王星、海王星を次々に訪ねられる。1977年、二機のボイジャーが打ち上げられた。どちらにも、地球の音と画像と言葉を刻んだ金色のレコードが積まれている。1990年、太陽系の外へ向かう一号は振り返って地球を写した。広い闇の中の、小さな青い点である。二機はいまも、人の作った物として最も遠くを飛び続けている。ケープカナベラル
- 体外受精で生まれた子できごとAD1978年7月25日親になることと、体の仕組みが切り離され始めた卵管が詰まっていて子を授かれない女性は多い。生理学者ロバート・エドワーズと産婦人科医パトリック・ステップトーは、卵子を体の外に取り出して受精させ、子宮に戻す方法を十年近く試み続けた。宗教界からも科学者からも強い反対があった。1978年7月25日、イングランドのオールダムの病院で、ルイーズ・ブラウンが生まれる。いまでは世界で千万人を超える人がこの方法で生まれている。エドワーズは2010年にノーベル賞を受けた。オールダム
- ピロリ菌の発見できごとAD1984年自分の体で示した発見胃は強い酸で満たされていて、菌は住めない、と考えられていた。胃の潰瘍は、ストレスや食べ物が原因で、治療は胃酸を抑える薬を飲み続けるか、胃を切ることだった。1982年、オーストラリアのパースの病理医ロビン・ウォレンと若い医師バリー・マーシャルは、潰瘍の患者の胃に、らせん形の菌がいることを確かめた。学界は信じなかった。1984年、マーシャルは培養した菌を自ら飲み、胃炎を起こしてみせた。潰瘍は、抗生物質で菌を除けば治る病気になった。胃がんとの関係も明らかになり、二人は2005年、ノーベル賞を受けた。パース
- オゾンホールの発見できごとAD1985年世界がすばやく手を打てた例南極のイギリスの観測基地で、ジョー・ファーマンらは、春になるたびに上空のオゾンが大きく減っていることに気づいた。人工衛星のデータの処理では、あまりに低い値が異常な値として見過ごされていたとも言われる。1985年、彼らの論文が発表される。原因は、冷蔵庫やスプレーに使われていたフロンが、成層圏で紫外線を防ぐオゾンを壊すことだった。二年後、国々はフロンを減らす議定書を結ぶ。地球の規模の環境の問題に、世界がすばやく手を打てた数少ない例である。ハリー基地(位置は特定されていない)
- チェルノブイリ原発事故できごとAD1986年4月26日黒鉛が10日燃えた午前1時23分、試験中の4号炉が爆発した。黒鉛が10日燃えた。政府は2日黙り、スウェーデンの観測所が気づいた。プリピャチの5万人は36時間後に出た。消防士と「リクビダートル」60万人。死者は31人とも数万人とも。ゴルバチョフは「これが本当のペレストロイカの始まり」と言った。チェルノブイリ
- モントリオール議定書できごとAD1987年9月16日予測より速く穴が開いていた1974年、ローランドとモリーナが、フロンが成層圏で分解してオゾンを壊すと予測した。1985年、イギリスの観測隊が南極上空のオゾンの急減を報告した。予測を、はるかに超える速さだった。2年後、24か国が生産の削減に合意した。後の改定で全廃に至る。親条約のウィーン条約とともに、全ての国連加盟国が批准した最初の条約になった。オゾン層は回復に向かっている。代替品として使われた物質が、強力な温室効果ガスであることが、後に分かった。モントリオール
- 中距離核戦力全廃条約できごとAD1987年12月8日全廃射程500から5500キロのミサイルを、米ソが全部壊す。2692基。初めて核兵器の「削減」でなく「全廃」。レーガンは「信頼せよ、だが検証せよ」とロシアの諺を言い、ゴルバチョフが「毎回それを言う」と笑った。2019年、アメリカが離脱した。ワシントンD.C.

- IPCCの設立できごとAD1988年1988年の夏、アメリカの議会で、気候の研究者ジェームズ・ハンセンが、地球の温暖化はすでに始まっていると証言した。同じ年、国連の二つの機関が、気候の変化についての科学の知見を集めて評価する政府間の組織を作る。IPCCは自ら研究をせず、世界の研究者の論文を読んで報告書にまとめ、各国の政府と一行ずつ文言を確かめる。報告は回を重ねるごとに、人間の活動が原因であることをより強く述べるようになった。2007年、ノーベル平和賞を受けた。ジュネーヴ
- コラ半島超深度掘削坑できごとAD1989年足元の十二キロより下を、誰も見ていないソ連が、地殻の底まで掘ることを目指した。1970年に開始し、1989年に12,262メートルに達する。人が開けた最も深い穴である。それでも地殻を抜けていない。得られたもの。予想より深くまで水があった。花崗岩と玄武岩の境と思われていた層は、境ではなく圧力による変質だった。深さ六千メートルの岩から、二十億年前の微化石が出た。温度が想定より高く、二百度近い泥の中では掘進できず、そこで止まった。コラ半島(位置は特定されていない)
- ハッブル宇宙望遠鏡できごとAD1990年4月24日ぼやけた最初の画像から地上の望遠鏡は、大気の揺らぎで星の像がにじむ。大気の外に望遠鏡を置く計画は数十年かかり、1990年4月24日、スペースシャトルで打ち上げられた。ところが最初の画像はぼやけていた。主鏡の形が、髪の毛の数十分の一だけ狂っていたのである。1993年、宇宙飛行士が軌道上で補正の装置を取り付けると、見違えるほど鮮明な像が届いた。遠い銀河の姿は、宇宙の年齢を測り直させ、多くの人に宇宙の美しさを見せた。ケープカナベラル
- 嗅覚受容体できごとAD1991年視覚は三種類の受容体で色を作り、嗅覚は千種類の組み合わせで匂いを作るリンダ・バックとリチャード・アクセルが、鼻の奥の細胞にある受容体の遺伝子の一群を見つけた。数は約千。哺乳類の全遺伝子の三パーセントがこれに充てられていた。一つの細胞は一種類の受容体だけを作り、同じ受容体を持つ細胞は脳の同じ場所へ配線される。匂いの分子は複数の受容体に、それぞれ違う強さで結びつく。その組み合わせの型が、匂いの正体である。視覚が三種類の受容体で色を作るのに対し、嗅覚は千種類の組み合わせで匂いを作る。2004年、二人はノーベル賞を受けた。ニューヨーク
- 井戸のヒ素できごとAD1990年代池や川の水で下痢の病が多いなら、地下水を汲めばよい。1970年代から、援助機関と政府がバングラデシュ各地に管井戸を掘った。数百万本が掘られ、乳児の死亡は確かに減る。だが1993年、地下水から高濃度のヒ素が検出された。地層に元からある成分で、掘る前には誰も測っていなかった。皮膚の病と癌が広がり、数千万人が曝露したと推定される。世界保健機関は、史上最大規模の集団中毒と呼んだ。ある危険を減らす手段が、測っていなかった別の危険を連れてくる。ダッカ
- 仰向けに寝かせるできごとAD1994年寝かせる向きを変えただけで、突然死が半分に眠っている間に、健康な赤ん坊が突然亡くなる。原因は分からなかったが、統計を重ねると、うつ伏せに寝かせた子に多いことが見えてきた。イギリスでは1991年に、アメリカでは1994年に、赤ん坊を仰向けに寝かせるよう呼びかける運動が始まる。数年で乳幼児の突然死は半分ほどに減った。薬も手術もなく、寝かせる向きを変えただけである。専門家が一度勧めたことを、数字を見て取り消した例でもある。ワシントンD.C.
- 遺伝子組み換え作物の登場できごとAD1994年畑を覆う組み換えの作物1994年、アメリカで、遺伝子を組み換えた作物として初めて、店に並べることが認められたトマト「フレーバー・セーバー」が売り出された。熟しても柔らかくなりにくいよう、カリフォルニアの会社が遺伝子に手を加えたものである。トマトは商売としては失敗したが、1996年からは、除草剤に強い大豆や、害虫に強いトウモロコシが大規模に作られはじめる。いまアメリカの大豆とトウモロコシの九割以上が組み換えである。一方でヨーロッパや日本では、安全や環境への影響を心配する声が強く、表示の義務づけをめぐって議論が続いてきた。デイヴィス
- クローン羊ドリーできごとAD1996年7月5日細胞は時を巻き戻せる大人の体の細胞は、もう何にでもなれる力を失っていると考えられていた。エディンバラ近郊の研究所は、羊の乳腺の細胞の核を、核を抜いた卵に移して育てた。二百七十七回の試みのうち、生まれて育ったのは一頭だけだった。1996年7月5日に生まれ、翌年の発表で世界を驚かせる。人のクローンも作れるのではないかという恐れが広がり、多くの国が人への応用を禁じた。細胞は時を巻き戻せる、という発見は、のちの再生医療の研究につながった。エディンバラ
- 狂牛病できごとAD1996年3月20日1980年代のイギリスで、脳がスポンジのようになって死ぬ牛が見つかった。牛の骨や肉を砕いて飼料に混ぜ、草を食べる牛に牛を食べさせていたことが広がりの原因だった。政府は長く、人には移らないと言い続けた。1996年3月20日、若い人に出た新しい型の脳の病が、この牛の病と関係するとみられると認める。イギリスの牛肉は世界から締め出され、数百万頭が処分された。日本でも2001年に見つかる。アメリカで見つかって輸入が止まると、牛丼が店から消えた時期もある。ロンドン
- ヒトゲノム計画できごとAD2003年4月14日遺伝子は2万個しかなかった1990年に始まり、6か国の20の研究所で13年、30億ドル。30億の塩基対を読んだ。途中からクレイグ・ヴェンターの民間の会社が別の方法で追い上げ、2000年、ホワイトハウスで「引き分け」の共同発表になった。遺伝子は10万個と思われていたのが、2万個ほどしかなかった。データは全部、無償で公開された。いま、1人分を読むのに数百ドル、1日。ワシントンD.C.
- iPS細胞できごとAD2006年卵も胚も使わずに、細胞の時計を巻き戻す体のどんな細胞にもなれる細胞は、受精卵を壊して取り出すしかなく、倫理の上で強い反対があった。京都大学の山中伸弥は、大人の細胞を若返らせる鍵になる遺伝子を、候補の二十四個から絞り込み、四つにまでたどり着く。2006年、マウスの皮膚の細胞から、何にでもなれる細胞を作ったと発表した。翌年には人の細胞でも成功する。卵も胚も使わずに、細胞の時計を巻き戻せる。2012年、山中はクローン羊の研究の源流にいたガードンとともにノーベル賞を受けた。京都
- はやぶさの帰還できごとAD2010年6月13日日本の探査機はやぶさは、2003年に打ち上げられ、小惑星イトカワに降りて表面の粒を取った。だがその後、燃料が漏れ、通信が途絶え、四台あるエンジンは次々に故障する。技術者たちは、壊れたエンジンの使える部分を組み合わせて動かし続けた。予定より三年遅れの2010年6月13日、カプセルを切り離し、機体は大気の中で燃え尽きる。オーストラリアの砂漠に降りたカプセルには、世界で初めて小惑星から持ち帰った微粒子が入っていた。ウーメラ
- 牛疫の根絶できごとAD2011年5月25日牛疫ウイルスは、数千年、ユーラシアとアフリカの牛を殺し続けた。1960年代、ウォルター・プロウライトが、冷蔵を必要としない弱毒生ワクチンを作る。それが決定的だった。電気の来ない土地でも運べる。国際的な接種計画が進み、最後の症例は2001年、ケニアのメル地区で確認された。2011年、国際獣疫事務局とFAOが根絶を宣言する。人類が根絶させた病は、天然痘と、これだけである。家畜の病としては、初めての根絶だった。パリ
- CRISPR-Cas9によるゲノム編集できごとAD2012年6月28日細菌の免疫を道具にした細菌がウイルスを切る仕組みを、狙った場所でDNAを切る道具にした。安く、速く、誰でも使える。人の胚を編集した実験が3年後に報告される。バークレー
- ヒッグス粒子の発見できごとAD2012年7月4日四十八年待った予言物に質量があるのはなぜか。1964年、ピーター・ヒッグスらは、宇宙を満たす場があり、粒子はそれと関わることで重さを持つ、と理論で予言した。その場の存在を示す粒子を見つけるため、ジュネーヴ郊外の欧州の研究所は、地下に一周二十七キロの加速器を造る。陽子どうしを光に近い速さでぶつけ、何兆回もの衝突を調べた。2012年7月4日、予言された粒子を見つけたと発表される。四十八年待ったヒッグスは、会場で涙をぬぐった。ジュネーヴ
- 重力波の初検出できごとAD2015年9月14日アインシュタインが自分では検出できないと考えていたもの13億年前に二つのブラックホールが合体したときの時空のさざ波が、地球に届いた。アインシュタインが100年前に予言し、自分では検出できないと考えていたもの。リヴィングストン(LIGO)

- ブラックホールの撮影できごとAD2019年4月10日地球の大きさの望遠鏡地球の大きさの電波望遠鏡の網で、5500万光年先の影を写した。見えないはずのものの輪郭が、オレンジ色の輪として公開される。ワシントンD.C.

- キログラムの再定義できごとAD2019年5月20日基準が人工物から離れたセーヴルの金庫にある金属の塊が、世界の質量の基準だった。しかしその原器は、同時に作られた複製と比べて百年で五十マイクログラムほどずれていた。原器が変われば、定義上、宇宙の全質量が変わることになる。2018年の国際度量衡総会は、プランク定数の値を定義として固定し、キログラムをそこから導くことに決めた。アンペア、ケルビン、モルも同時に定数で定義され、七つの基本単位すべてが人工物から離れた。ヴェルサイユ
- 答えてくれないできごとAD2020年代聞かずに測る方へ移れば、答えない自由が消える電話調査に応じる人の割合は、1970年代には七割を超えていた。いまは数パーセントである。固定電話が減り、知らない番号に出なくなり、勧誘と区別が付かない。答えてくれた少数が全体と似ているなら問題はないが、答える人と答えない人で意見が違えば、結果は歪む。調査の側は、補正の重みを増やし、インターネットの調査を併用し、統計の技法で埋める。ただし、補正が強くなるほど、結果は調査者の想定に近づく。人の考えを数で知るという営みが、いま難しくなっている。ロンドン
- mRNAワクチンの接種開始できごとAD2020年12月8日2020年12月8日、イギリスのコヴェントリーの病院で、90歳の女性マーガレット・キーナンが、新型コロナウイルスのワクチンを、臨床試験の外で世界で初めて受けた。ウイルスの一部の設計図を、脂の小さな粒に包んで体に入れ、体の細胞にその部分を作らせる、mRNAワクチンである。ウイルスの遺伝子の配列が公開されてから一年足らずで作られた。その土台には、ハンガリー出身の研究者カタリン・カリコらが、研究費も得られないなかで何十年も続けた研究があった。カリコとドリュー・ワイスマンは2023年、ノーベル賞を受けた。コヴェントリー
- ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡できごとAD2022年7月12日銀河の生まれ方の理論が見直しを迫られている150万キロ先で広げた6.5メートルの鏡が、宇宙の最初の銀河を赤外線で写した。ビッグバンから3億年の光になる。ワシントンD.C.

重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業89件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。考えることの歴史57件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。感染症と人類43件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。宗教改革と科学革命23件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。誰が書き残したか17件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。冷戦のあと15件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。イスラム世界14件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。探検と発見12件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。女性の権利11件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。交易路とお金11件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。二つの大戦10件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。都市の歴史10件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。表現の歴史10件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。帝国と独立9件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。『サピエンス全史』で読む歴史8件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。冷戦7件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。中国の王朝7件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。主権はだれのものか7件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史7件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。支え合いの歴史6件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。日本の古代5件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。食の歴史5件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。戦争と平和の歴史5件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。文明のはじまり4件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『文明崩壊』で読む歴史4件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史4件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。教育の歴史4件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。働くことの歴史4件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。老いと死の歴史4件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史4件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。言葉と文字の歴史4件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。元禄から化政へ — 江戸の町人文化4件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。武士の700年3件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。コテンラジオで聞く歴史3件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『疫病と世界史』で読む歴史3件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。お金の歴史3件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。海の歴史3件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。三国志2件を共有 / 400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。明治2件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。古代オリエント2件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。接触前のアメリカ2件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『ホモ・デウス』で読む次の歴史2件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。差別の歴史2件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。性の歴史2件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。障害の歴史2件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。メディアの歴史2件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。住まいの歴史2件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史1件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙1件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。子どもの歴史1件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ1件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。