人物

李白

Li Bai
AD701年 – AD762年(享年61・推定)
唐重要度 4

概要

酒と月と旅の詩を千首以上残した。官途では終始うまくいかず、それが詩を作ったとも言われる。

所属

唐

関わったできごと(1)

唐詩の頂点740年 · 当人

本文

李白、字は太白。701年に生まれた。出生地ははっきりせず、中央アジアのキルギスにあった唐の辺境の町、砕葉(スイアーブ)で生まれ、幼いときに一家で蜀(いまの四川省)に移ったとする説が有力である。父は西域と交易していた商人だったとみられ、名すら確かには伝わらない。母が明るい星の夢を見て彼を生んだので、太白(金星)を字にしたという話は伝説である。

李白の肖像
李白の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

少年時代の李白は、蜀の地で詩文を学び、剣術を好み、道教の仙人の世界にあこがれた。任侠の仲間と交わり、人を斬ったこともあると伝えられる。20代の半ば、彼は故郷を出て長江を下り、二度と蜀へ帰らなかった。各地を旅し、湖北の安陸では元宰相の孫娘と結婚した。

唐の官僚になる王道は、試験による登用である科挙だった。だが李白は科挙を受けていない。商人の家の出で受験の資格が無かったためとも、一族に罪人がいたためともいわれるが、理由ははっきりしない。彼は有力者に詩文を送り、推薦によって世に出ようとした。

南宋の画家梁楷の墨筆画「李白吟行図(東京国立博物館蔵)」。
南宋の画家梁楷の墨筆画「李白吟行図(東京国立博物館蔵)」。Wikimedia Commons Liang Kai · Public domain

742年、その願いがかなった。玄宗皇帝(玄宗)に召されて都の長安に上り、宮中で詩文を作る翰林供奉という職に就いたのである。老詩人の賀知章は、彼の詩を読んで、あなたは天上から地上へ流された仙人だ、と嘆じたという。李白は宮中の宴に呼ばれ、牡丹の花の前で、皇帝が寵愛する楊貴妃の美しさを歌う詩を即興で作った。だが彼は、酒に酔ったまま参内するような振る舞いをやめなかった。酔って皇帝の側近の宦官高力士に靴を脱がせたため恨みを買い、楊貴妃に讒言された、という話が伝わるが、これは後世の脚色とみられる。744年、李白は宮廷を離れた。都にいたのは2年足らずだった。

その年、洛陽で、11歳年下の杜甫と出会った。二人は詩人の高適も交えて梁や宋の地を旅し、狩りをし、酒を飲んで詩を語り合った。共に過ごしたのは1年ほどだったが、杜甫はその後も生涯、李白を思う詩を十数首も作った。一方、李白が杜甫に贈った詩は数えるほどしか残っていない。

酔った李白は高力士に靴を脱がせて恨みを買ったという伝説があるが、事実ではない
酔った李白は高力士に靴を脱がせて恨みを買ったという伝説があるが、事実ではないWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

宮廷を去った後の李白は、また旅の人になった。山に登り、道士から道教の正式な資格を受け、各地の有力者の世話になりながら詩を作り続けた。酒と月と旅は、彼の詩に繰り返し現れる。花の間に一壺の酒を置き、相手もなく独り酌む、という「月下独酌」では、月と自分の影を呼んで三人で飲む。寝台の前の月の光を霜かと疑い、頭を挙げて月を望み、頭を垂れて故郷を思う、という「静夜思」は、中国で今も子どもが最初に覚える詩の一つである。蜀への道の険しさを、ああ、危ういかな高いかな、と歌い上げる「蜀道難」のように、奔放で壮大な想像力が彼の持ち味だった。後世、杜甫の詩聖に対し、李白は詩仙と呼ばれる(唐詩の頂点)。

755年、安史の乱が起きた。玄宗は蜀へ逃れ、皇太子が粛宗として即位した。李白は、長江の流域で兵を集めていた玄宗の子の永王李璘に招かれ、その幕下に入った。ところが永王は粛宗の命に従わずに兵を動かしたとして反逆者とされ、討たれた。李白も捕らえられ、死罪は免れたものの、西南の果ての夜郎へ流されることになった。759年、流罪の途中、長江の三峡のあたりで恩赦の知らせを受けた。朝に白帝城を発ち、千里の江陵まで一日で帰る、という軽やかな詩は、このときの喜びを歌ったものとされる。

『唐詩選唐音』(1777年刊)の五言絶句の部。李白の「静夜思」「怨情」「秋浦歌 其十五」「独坐敬亭山」「見京兆韋参軍量移東陽」が並んでいる。
『唐詩選唐音』(1777年刊)の五言絶句の部。李白の「静夜思」「怨情」「秋浦歌 其十五」「独坐敬亭山」「見京兆韋参軍量移東陽」が並んでいる。Wikimedia Commons ウィキ太郎 · CC0

晩年は、長江の下流の当塗で、県令を務めていた一族の李陽冰のもとに身を寄せた。762年、そこで病のため死んだ。60歳を過ぎていた。酒に酔って舟から水に映った月を捕らえようとして溺れた、という話が広く伝わるが、後世の伝説である。李陽冰は彼の遺稿を集めて詩集を編んだ。それでも本人が書いたものの多くは失われたとされる。

現存する李白の詩は、およそ1000首。官僚として国を動かすという夢は、生涯かなわなかった。だが、自由で大胆な彼の言葉は、唐の詩の頂点の一つとして、中国だけでなく日本や朝鮮でも長く読み継がれてきた。

動画(1)

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