できごと

ヒップホップの誕生

1520 Sedgwick Avenue
AD1973年8月11日
重要度 4
カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドメキシコホンジュラスキューバグアテマラAD1973年8月11日ニューヨーク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1973年8月11日の版図を描いています(8勢力)。

概要

ブロンクスの集合住宅、セジウィック街1520番地の集会室。妹の新学期の服を買う資金集めの催しだった。ジャマイカから来たクライヴ・キャンベル(クール・ハーク)は、曲の中で打楽器だけになる短い部分を客が待っていることに気づいた。同じレコードを二枚使い、その部分だけを交互につないで延ばした。「メリーゴーラウンド」。そこで踊る者、そこに言葉を乗せる者が現れた。

場所

ニューヨーク
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国

関わった人(1)

クール・ハークAD1955年4月16日–? · 回した

本文

1973年8月11日、土曜日の夜。ニューヨーク市ブロンクス区、セジウィック街1520番地にある集合住宅の、地下の集会室で小さな催しが開かれた。手書きの案内には「新学期のための催し」とあり、入場料は女性25セント、男性50セントだった。開いたのはシンディ・キャンベルという十代の少女で、目的は新学期に着る服を買う金をためることである。部屋を借り、飲み物を用意し、宣伝の紙を書いたのは彼女だった。ヒップホップの起源が語られるとき、この主催者の名はしばしば省かれる。

音を出したのは兄のクライヴ・キャンベルである。1955年にジャマイカのキングストンで生まれ、1967年、12歳で家族とともにブロンクスへ移ってきた。背が高く体格がよかったので、学校で「ヘラクレス」とあだ名され、それが縮まって「ハーク」になった。クール・ハークと名乗るのはそこからである。

クール・ハークが最初のパーティーを開いたセジウィック・アベニュー1520番地
クール・ハークが最初のパーティーを開いたセジウィック・アベニュー1520番地Wikimedia Commons Bigtimepeace · Public domain

ハークが持ち込んだのは、まずジャマイカの流儀だった。キングストンでは、大きなスピーカーを積んだ「サウンドシステム」が街頭や空き地で音を鳴らし、レコードを選ぶ者と、その上でしゃべる者が客を集める。音の大きさそのものが看板であり、どれだけ遠くまで低音を響かせるかで競い合った。ハークは父親が持っていた音響機材を借り、それを自分の装置の土台にした。集会室の天井が震えるほどの音だったと、居合わせた者たちは語っている。

もう一つは、観察である。ハークはファンクやソウルのレコードをかけながら、客の踊り方を見ていた。曲の途中で歌も旋律も引っ込み、ドラムとベースと打楽器だけが鳴る数秒から十数秒の部分がある。英語で「ブレイク」と呼ばれるところだ。踊り手たちはその部分を待っていて、そこでいちばん激しく踊る。しかし、ブレイクはすぐに終わってしまう。

クール・ハークの肖像
クール・ハークWikimedia Commons Richard Alexander Caraballo · CC BY 3.0

そこで彼は、同じレコードを二枚用意した。一枚目のブレイクが終わりかけたところで、もう一枚のブレイクの頭へ針を落として切り替え、その間に一枚目を頭まで戻す。これを繰り返すと、数秒の部分がいつまでも続く。彼はこのやり方を「メリーゴーラウンド」と呼んだ。拍の継ぎ目はまだ粗く、二枚の速さを耳で正確に合わせる技は、のちにグランドマスター・フラッシュらが磨き上げる。それでも効果は絶大だった。

延ばされたブレイクで踊る若者たちを、ハークは「ブレイク・ボーイズ」、縮めて「ビーボーイ」と呼んだ。少女なら「ビーガール」である。のちに世間が「ブレイクダンス」と呼ぶ踊りはここから育ったが、当の踊り手たちはその呼び名を好まず、「ブレイキング」と呼んだ。マイクを握る者も現れた。

ハークの相棒コーク・ラ・ロックは、最初は踊りをあおり、来ている友人の名を呼ぶ合いの手を入れていた。その言葉が、やがて韻を踏み、拍に乗る長い語りへと伸びていく。これがラップの原型になった。

なぜブロンクスだったのか。この地区は1960年代から70年代にかけて、目に見えて荒れていった。都市計画家ロバート・モーゼズが推し進めたクロス・ブロンクス高速道路が、1948年から1972年にかけて既存の街区をまっすぐ切り裂き、多くの住民が立ち退かされた。余裕のある中産階級は郊外へ去り、残ったのは去ることのできない人々だった。家賃の取れない古い建物では火事が相次ぎ、その多くは保険金目当ての放火だったとされる。1970年から80年の間に、いくつかの国勢調査区では建物の97%以上が火事と放棄で失われた。

1977年のワールドシリーズの中継で、ヤンキー・スタジアムの近くの火事が映り、アナウンサーが「みなさん、ブロンクスが燃えています」と言ったという話がある。録画を調べても、その通りの言葉は見つかっていない。それでもこの一文は、時代の記憶として語り継がれた。同じ頃、ニューヨーク市は破産寸前の財政危機に陥り、学校の音楽の授業や楽器の予算が削られた。楽器が無いからレコードとターンテーブルが楽器になった、という説明はよく聞かれる。単純化ではあるが、要因の一つには数えられる。

街のギャングの事情も絡んでいた。1971年12月、ブロンクスの主なギャングの代表がホー・アヴェニューの少年クラブに集まり、抗争をやめる和平の会議を開いた。その後、縄張り争いの一部が、踊りと音の腕比べに置き換わっていったと語られる。元はブラック・スペーズというギャングにいたアフリカ・バンバータは、のちに「ズールー・ネイション」を作り、パーティーと音楽を若者の居場所にしようとした。

ヒップホップを形づくる要素は、のちにバンバータらによって四つに整理された。レコードを回すこと、言葉を乗せること、踊ること、そして壁や車両に描くことである。最後のグラフィティは、ハークのパーティーとは別にすでに広がっていた。地下鉄の車両に自分の名前を書きつける少年たちがいて、1971年にはニューヨーク・タイムズがその一人を記事にしている。これに「知ること」を第五の要素として加える人も多い。

1973年から70年代の終わりまで、この音楽はほとんど録音されなかった。公園や集会室や学校の体育館で、その場かぎりに起きる出来事だったからだ。残っているのは、客がその場で録ったカセットテープで、それが手から手へ渡って広がった。ハークの音を聞いたことのない若者でも、ダビングを重ねたテープで彼の名を知った。

商業的な成功は、意外なところから来た。1979年、ニュージャージーのレコード会社を営むシルヴィア・ロビンソンが三人の若者を集めて録音させた、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」である。三人はブロンクスの現場の人間ではなく、歌詞の一部はグランドマスター・キャズの書いたものから取られていたが、彼の名は載らなかった。それでもこの曲は大ヒットになり、ブロンクスの遊びが世界に知られるきっかけになった。1982年のグランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ「ザ・メッセージ」は、踊るためではなく、荒れた街で暮らす息苦しさを語る曲だった。ヒップホップが状況を語る言葉になった最初の代表作とされる。

その後の広がりは、ほとんど誰も予想しなかったものだった。パンク・ロックと同じ頃に生まれた若者の遊びは、やがて世界でもっとも聞かれる音楽の一つになる。2017年にはアメリカで、ヒップホップとR&Bを合わせた音楽の消費量がロックを抜いて首位に立った。いまでは、ほとんどの国に、その土地の言葉で韻を踏むラップがある。

ハーク本人は、この富をほとんど受け取っていない。1977年、自分の催しで喧嘩の仲裁に入って刺され、以後は表に出ることが減った。2011年には病気の治療費が払えず、仲間が支援を呼びかけている。2023年、ロックの殿堂に迎えられた。セジウィック街1520番地の建物は、2007年にニューヨーク州から史跡として登録に値すると認められたが、いまも人が暮らす普通の集合住宅である。50年前のある夏の夜、妹の服を買うために開かれた催しの地下室から、一つの文化が始まった。

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