三国志

概要
400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。
この物語について
英雄たちの物語として語られる。だが実際に起きていたのは、中央の権威を誰も支えなくなっていく過程になる。
後漢の後半、皇帝は幼くして即位することが多く、実権は皇后の一族である外戚と、皇帝の身の回りに仕える宦官とのあいだを行き来した。地方の豪族出身の官僚や学生たちは宦官の専横を批判したが、166年と169年の党錮の禁で、多くが官職を追われ、投獄され、殺された。朝廷は、国を支えるはずの知識人層を自ら切り捨てたのである。地方では飢饉と疫病が重なり、土地を失った農民が流民となっていた。

184年、張角の率いる太平道の信徒たちが、黄色い頭巾を目印に一斉に蜂起した。「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」という合言葉は、漢の天命が尽きたことを公然と告げていた。黄巾の乱そのものは一年ほどで主力が鎮圧されたが、その過程で朝廷は各地の有力者や豪族に兵を集めさせた。乱が収まっても、その兵は解散されなかった。武力が中央から地方へ散らばったことが、のちの群雄割拠の出発点になる。
189年、霊帝が死ぬと、外戚の何進と宦官が衝突し、何進は殺され、宦官もまた皆殺しにされた。その混乱の中で都洛陽に入ったのが、西北の辺境で兵を率いていた董卓である。董卓は少帝を廃して幼い献帝を立て、朝廷を思うままにした。翌年、東方の諸将が名門の袁紹を盟主として反董卓の兵を挙げると、董卓は献帝を連れて長安へ移り、洛陽の宮殿と民家を焼き払った。二百年近く都だった街は廃墟になった。董卓は192年に配下の呂布に殺されたが、このとき皇帝はもう誰かに担がれる存在でしかなくなっていた。

群雄の中で最も先を見ていたのは曹操だった。196年、長安から逃れてきた献帝を自分の本拠の許に迎え入れ、皇帝の名で命令を出せる立場を手に入れた。同じ年、戦乱で荒れた土地に流民や兵を入れて耕させる屯田を始め、軍の食糧を自ら賄えるようにした。戦の前に米があった。南では淮南の袁術が197年に皇帝を名乗ったが、誰も従わず、最後は蜂蜜の水さえ手に入らない窮状のうちに死んだと伝えられる。漢の名を捨てるには、まだ早かったのである。
華北の覇権をかけて、曹操は袁紹と対決した。袁紹は四代にわたって三公を出した名門で、兵の数でも勝っていた。200年の官渡の戦いで、曹操は袁紹軍の兵糧が集められていた烏巣を夜襲して焼き払い、大軍を崩した。数年のうちに袁氏の勢力は一掃され、曹操は黄河流域を手に入れる。

そのころ、漢の皇室の血を引くと称する劉備は、各地の群雄のもとを渡り歩き、荊州の劉表に身を寄せていた。207年、劉備は隠棲していた若い諸葛亮を三度訪ね、ようやく会うことができたという。諸葛亮が示した策は、北の曹操、江東の孫権と並んで西の荊州と益州を取り、天下を三分してから機を待つというものだった。江東では、孫策が若くして基盤を固めたが、200年に二十六歳で死に、弟の孫権が跡を継いでいた。
208年、曹操は荊州を手に入れ、大軍で長江を下った。孫権の陣営には降伏を勧める声が多かったが、魯粛と周瑜は戦いを主張し、劉備と結んで迎え撃った。冬の赤壁の戦いで、周瑜の部下黄蓋が火を放った船を突入させ、曹操の船団は焼けた。慣れない南方の地で疫病が広がっていたことも、曹操軍の敗因に数えられる。曹操は北へ退いた。この一敗がなければ、天下はおそらく曹操のもとで一つに戻っていて、三国は生まれていない。

赤壁のあと、劉備は荊州南部を取り、214年には益州(いまの四川)を手に入れた。219年には漢中の定軍山で曹操の将軍夏侯淵を討ち、曹操自身も漢中を捨てて退いた。だが同じ年、荊州を守っていた関羽が北へ攻め上がった隙に、孫権の将軍呂蒙が荊州を奪い、関羽は捕らえられて斬られた。天下三分の計の前提だった荊州は失われた。
220年、曹操が死ぬと、息子の曹丕は献帝から位を譲られる形で皇帝となり、国号を魏とした。四百年続いた漢は、戦いではなく、譲位の儀式によって終わったのである。翌年、劉備も漢の後継を名乗って皇帝となった。いわゆる蜀である。劉備は関羽の仇を討つため呉に攻め込んだが、222年の夷陵の戦いで陸遜に大敗し、翌年、白帝城で死んだ。229年には孫権も皇帝を名乗り、一つの天下に三人の皇帝が並び立ち、三国の鼎立が固まった。天命を受けた正統な皇帝は一人のはずなのに、三人いる。この矛盾こそが、三国時代という時代の性格だった。

蜀の国政を託された諸葛亮は、南の異民族の地を平定したあと、228年から魏への北伐を繰り返した。最初の北伐では、命令に背いて山上に陣を敷いた馬謖が街亭で敗れ、諸葛亮は軍律に従って彼を処刑した。「泣いて馬謖を斬る」の語源である。234年、五丈原で魏の司馬懿と対峙したまま、諸葛亮は陣中で病死した。人口でも国力でも魏の数分の一だった蜀が魏を倒す望みは、ここで事実上絶たれた。
魏の内部では、曹氏の力が衰えていった。曹丕は兄弟たちを警戒して力を与えず、皇族の支えは細くなった。官吏の登用では、地方の評判で人を九つの等級に分ける九品官人法が始まったが、やがて家柄の高い者が高い等級を独占するようになり、門閥貴族の時代を開いた。249年、司馬懿は皇族の曹爽が皇帝の墓参りに出た隙に都を押さえ、曹爽一派を滅ぼした。この高平陵の変から、魏の実権は司馬氏に移る。司馬氏の専横を嫌った知識人たちが、政治から距離を置いて酒と清談に逃れたとされるのが、竹林の七賢である。

263年、魏は蜀に攻め込み、劉備の子の劉禅は降伏した。三国のうち最初に消えたのは蜀だった。二年後の265年、司馬懿の孫の司馬炎は、魏の皇帝から位を譲られて晋を建てた。曹丕が漢に対して行ったのとまったく同じ儀式で、魏もまた終わった。280年、晋の水軍は長江に張られた鉄の鎖を焼き切って下り、呉の都建業に迫った。呉の最後の皇帝孫皓は降伏し、ここに晋による統一が成る。中国を再び一つにしたのは、魏でも蜀でも呉でもなく、魏を内側から奪った司馬氏だった。
だがその統一は長く保たなかった。司馬炎は一族を各地の王に封じて兵を持たせたが、彼の死後、291年から皇族どうしの争いである八王の乱が始まり、十数年にわたって国を荒らした。その兵力として呼び込まれた北方の諸民族がやがて自立し、311年には都洛陽が陥ちる。晋は江南に逃れ、中国は以後三百年近く、南北に分かれることになった。後漢の末に散った武力と権威は、三国でも晋でも元には戻らなかったのである。

この時代を記録した正史が、蜀に仕え、のち晋に仕えた陳寿の『三国志』である。晋の官僚として書いた陳寿は、魏を正統として扱った。5世紀に裴松之が多くの異聞を集めて注を付け、それは本文に劣らない分量になった。そして千年あまりのち、元末から明の初めごろに羅貫中の名で伝わる小説『三国志演義』がまとめられ、劉備と蜀を善、曹操を悪とする物語が人々の記憶を塗り替えた。桃園の誓いも、多くの名場面も、演義によって形を与えられたものである。正史の中で人並み以上の器量を持つ指導者だった曹操は、舞台では白塗りの悪役になり、関羽は死後に神として祀られるようになった。
英雄の物語として読まれる三国志の裏には、中央の権威が崩れたとき、それを誰がどうやって作り直すのかという問いがある。曹操は皇帝を担ぎ、劉備は血筋を掲げ、孫権は土地を守り、司馬氏は禅譲の形式を借りた。どれも天命の理屈の中で正統を主張する試みだった。そしてその問いに誰も決着をつけられなかったことが、四百年の長い分裂の時代を開いた。いまも日本と中国で三国志が繰り返し語り直されるのは、組織が崩れていくときに人がどう振る舞うかを、この百年がこれほど豊かに見せてくれるからでもある。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(67)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 曹操人物155年 – 220年3月15日後漢末の実力者。赤壁で敗れて中国の統一は遠のき、三国の時代に入る。
- 劉備人物AD161年 – AD223年漢の血筋を名乗り、流浪の末に蜀を得た。三国の一角を担う。
- 荀彧人物AD163年 – AD212年空の食器曹操に「献帝を迎えよ」と勧めた参謀。官渡で撤退を止めた。曹操が魏公になろうとしたとき反対し、空の食器を送られて、自殺したと伝わる。曹操の右腕が、曹操が漢を超えることを許さなかった。
- 党錮の禁できごとAD166年内側から傷みはじめる宦官が官僚と学生を弾圧し、政治を正そうとする側が排除された。後漢の統治が内側から傷む。洛陽
- 魯粛人物AD172年 – AD217年天下二分金持ちの家の米倉を周瑜に半分やった。孫権に「天下二分」を説き、赤壁の前に降伏論の中で一人だけ戦えと言い、劉備に荊州を貸すことを勧めた。周瑜の後を継ぎ、関羽と単刀で会って荊州を返せと迫った。
- 孫策人物AD175年 – AD200年26歳で孫堅の長男。父が死んで袁術の下に。「小覇王」。周瑜と同い年で、二人で大喬と小喬を娶った。5年で江東を取り、曹操が「あの若造と争えない」と言った。官渡の最中に許を襲おうとして、狩りで刺客に顔を射られた。26歳。「江東の衆を挙げて天下と争うなら、お前は私に及ばない。賢を用いて江東を守るなら、私はお前に及ばない」。
- 周瑜人物AD175年 – AD210年演義が嫉妬する人物に書き換えた赤壁で曹操の大軍を火で破った呉の将軍。美貌と音楽の才で知られ、36歳で病死した。演義では諸葛亮に嫉妬する人物に書き換えられている。
- 馬超人物AD176年 – AD222年一族200人涼州の馬騰の子。羌の血。潼関で曹操を脅かし、負けて、父と一族200人が曹操に殺された。張魯に身を寄せ、劉備に。成都の劉璋が彼を見て降った。「五虎大将」は演義。蜀で重く用いられず、47歳で死んだ。「一族は皆殺され、従弟の馬岱だけ残った」と遺言した。
- 呂蒙人物AD178年 – AD220年呉下の阿蒙にあらず字も読めない武人が、孫権に言われて本を読み、魯粛が「呉下の阿蒙にあらず」と驚いた。「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」。白衣の商人に化けて荊州を取り、関羽を捕えた。その年に病死した。
- 司馬懿人物AD179年 – AD251年その孫が魏を奪い、晋として統一する諸葛亮の北伐を守り切った。その孫が魏を奪い、晋として中国を統一する。
- 諸葛亮人物AD181年 – AD234年劉備を三顧の礼で迎えられ、蜀を支えた。北伐の途上、五丈原で陣没する。
- 孫権人物AD182年 – AD252年江南を固め、赤壁で曹操を退けた。三国のうち最も長く続く呉を建てる。
- 陸遜人物AD183年 – AD245年夷陵で劉備を破った夷陵で劉備を火攻めで破り、呉の丞相になった。晩年、後継争いで孫権に責められて憤死する。
- 黄巾の乱できごとAD184年鎮圧のために各地が兵を持った宗教結社が起こした大反乱。鎮圧のために各地の実力者が兵を持ち、後漢は実権を失う。洛陽
- 曹丕人物AD187年 – AD226年禅譲の型を作った曹操の子。漢の皇帝から禅譲を受けて魏を建て、九品官人法を定めた。文学論『典論』を書き、弟の曹植を七歩の詩で追い詰めた話が伝わる。
- 董卓の洛陽焼き討ちできごとAD190年皇帝が担がれるだけの存在になる都を焼いて長安へ遷った。皇帝は名だけになり、各地の実力者が割拠しはじめる。洛陽
- 董卓人物? – AD192年洛陽を焼き、皇帝を擁して権を握った。この専横から諸侯が割拠しはじめる。
- 曹植人物AD192年 – AD232年七歩の詩曹操の三男。銅雀台の賦を一気に書き、跡継ぎに望まれ、酒で失った。兄曹丕に「七歩で詩を作れ」と命じられ、「豆を煮るに豆がらを燃く」と詠んだ、と伝わる。『洛神賦』。「天下の才を一石とすれば、曹植が八斗」。
- 孫策の江東平定できごとAD195年小覇王孫堅の長男が袁術から父の兵千人を返してもらい、21歳で長江を渡った。劉繇、王朗、厳白虎。5年で江東六郡。「小覇王」。26歳で狩りの途中に刺客に射られ、弟の孫権に「内は張昭、外は周瑜」と言って死んだ。呉の土台を作った男。南京
- 曹操の屯田できごとAD196年戦の前に米があった戦乱で荒れた田に、兵と流民を入れて耕させ、収穫の半分(官の牛を使う者からは6割)を取った。1年で100万石。「国を定める術は、兵を強くし食を足すことにある」。曹操が勝った理由は、戦の前に米があったことになる。許昌
- 袁術の皇帝僭称できごとAD197年蜂蜜の水孫策が置いていった伝国の璽を持ち、「代漢者当塗高」の讖を自分のことと読んで、寿春で「仲」の皇帝を名乗った。誰も認めず、曹操と呂布と孫策に攻められ、2年で兵糧が尽き、蜂蜜を求めて「ない」と言われ、血を吐いて死んだ。寿春
- 呂布の死できごとAD199年2月養父二人のことを忘れたか「人中に呂布、馬中に赤兎」。養父を二人殺した最強の武人が、下邳で曹操に囲まれ、部下に縛られて降った。「私を副将に」と言い、劉備が「養父二人のことを忘れたか」と言って、絞められた。下邳
- 呂布人物? – AD199年2月三姓の家奴并州の武人。丁原を殺して董卓につき、董卓を殺して逃げ、曹操と劉備を裏切って、下邳で絞められた。赤兎馬。方天画戟。貂蝉は小説。「三姓の家奴」。強さだけで、信用がなかった。
- 袁術人物? – AD199年誰も従わなかった皇帝袁紹の従弟で、嫡出。「四世三公」の家。董卓のあと南陽から淮南へ。孫堅と孫策を使った。伝国の璽。皇帝。誰も従わなかった。兵糧が尽き、袁紹の所へ行こうとして道を塞がれ、蜂蜜の水を求めて「血の水しかない」と言われ、「私がこうなるとは」と叫んで血を吐いた。
- 官渡の戦いできごとAD200年曹操が華北を取る曹操が十倍の袁紹軍を破り、華北の主になった。ここから南下が始まる。官渡(位置は特定されていない)
- 『傷寒論』できごとAD200年頃熱病の経過を段階に分け、段階ごとに処方を定めた。一族の三分の二を疫病で失った医者が書いた。漢方の処方の多くがここから来ている。南陽
- 袁紹人物? – AD202年四代三公の名門四代にわたって三公を出した名門の子。宦官を皆殺しにし、反董卓連合の盟主になり、河北四州を取って最大の勢力になった。官渡で曹操に負け、2年で死んだ。息子たちが争って、全部を曹操に取られた。
- 姜維人物AD202年 – AD264年11回の北伐魏から降った将軍で、諸葛亮の後を継いだ。11回北伐して、国を疲れさせた。蜀が降ったあと、鍾会を唆して反乱を起こさせ、失敗して殺された。腹を裂かれ、胆が卵ほどあったと伝わる。
- 三顧の礼できごとAD207年天下三分の計47歳の劉備が、27歳の諸葛亮の草庵を三度訪ねた。「天下三分の計」。北に曹操、東に孫権、西に自分。『出師表』に「先帝は臣を卑しいと思わず、三たび臣を草廬に顧みた」とある。三顧は本人の言葉で、他は小説。隆中

- 赤壁の戦いできごとAD208年この一敗がなければ三国は生まれていない曹操の南下が水上で阻まれ、中国の統一が遠のいた。三国が並び立つ時代に入る。赤壁(位置は特定されていない)
- 華佗の死できごとAD208年頃医書は焼かれた麻沸散で腹を開いた医者が、曹操の頭痛を診て、「家に帰る」と言って戻らず、獄で殺された。獄吏に医書を渡そうとして、吏が恐れて受け取らず、焼いた。曹操は息子の曹沖が病で死んだとき「華佗を殺したことを悔いる」と言った。許昌
- 華佗人物? – AD208年頃麻沸散沛国の人。麻沸散で麻酔をして腹を切り、腸を洗って縫った、と『三国志』。五禽戯。虎、鹿、熊、猿、鳥。体操。「私は本当は儒者になりたかった」。曹操の侍医を嫌がって帰った。獄で死に、医書は焼かれた。名前だけが「名医」の代名詞に。
- 銅雀台できごとAD210年建安の文学曹操が鄴に建てた高楼。息子たちに詩を作らせ、曹植が一気に書いた。建安の文学。曹操、曹丕、曹植、建安七子。戦争の合間に、詩が政治になった。曹操の死後、歌姫たちが毎月ここで歌うよう遺言された。鄴
- 建安文学できごとAD210年頃人生幾何曹操、曹丕、曹植の三曹と、王粲、陳琳ら建安の七子。鄴の銅雀台。戦乱と短い命を、五言詩で真正面から書いた。「対酒当歌、人生幾何」。「風骨」。中国の詩が個人の声になった最初の場所。七子のうち四人が217年の疫病で同じ年に死んだ。鄴
- 潼関の戦いできごとAD211年離間の計涼州の馬超と韓遂が関中の十部と組んで潼関に拠った。曹操は北から渭水を渡り、離間の計で二人を割った。韓遂に馬上で昔話をし、字を書き換えた手紙を送った。馬超は敗れて涼州へ、やがて劉備に。「錦馬超」の話は演義が大きくした。潼関
- 劉備の入蜀できごとAD214年隆中対の半分益州の劉璋が張魯を防ぐために劉備を呼び、劉備は3年後にその劉璋を囲んだ。龐統が雒城で矢に当たって死んだ。諸葛亮と張飛と趙雲が長江を遡って来た。劉璋は「私は三年、民を苦しめたくない」と降った。隆中対の半分が実った。成都
- 合肥の戦いできごとAD215年張遼が来る孫権が10万で合肥を攻め、張遼が800人で夜明けに突撃して陣を割った。孫権は逃げ、橋が落ちていて馬で飛んだ。江南で「張遼が来る」と言えば泣く子も黙った、と伝わる。合肥
- 定軍山の戦いできごとAD219年鶏肋漢中の南の山で、黄忠が曹操の将軍夏侯淵を斬った。曹操は自ら来て、「鶏肋」と言って引いた。劉備は漢中王になった。関羽が北へ出て、その年のうちに死ぬ。頂点は、その年だった。漢中
- 関羽の死と荊州の喪失できごとAD219年天下三分の計の前提が崩れる樊城を囲んで曹操を怯えさせた将軍が、背後を呉に突かれて捕らえられ、斬られた。蜀は荊州を失い、天下三分の計の前提が崩れる。樊城
- 関羽人物? – AD219年死んでから大きくなった劉備の義弟として戦い、荊州を守り、曹操を怯えさせ、背後を突かれて斬られた。死後、義の神として祀られ、いま中華圏の商店の棚に座っている。
- 三国の鼎立できごとAD220年魏が漢の禅譲を受け(220)、蜀が漢を継ぐと称し(221)、呉が帝を名乗った(229)。中国が三つに割れる。
- 曹操の死できごとAD220年3月15日余った香は夫人たちに孫権が関羽を斬ってその首を送ってきた翌月、洛陽で66歳。「天下はまだ定まらない。古の葬礼に従うな。葬ったら喪を脱げ。妾たちは銅雀台に住んで、毎月朔と十五日に歌え。余った香は夫人たちに分けよ。履を作って売れ」。遺令は家事のことばかりで、蘇軾はそれを笑い、いまはそれで愛される。洛陽
- 曹丕の即位(漢の滅亡)できごとAD220年12月11日儀式で終わった漢献帝が三度譲位の詔を出し、曹丕が三度辞退して、四度目に受けた。受禅台。400年の漢が、儀式で終わった。献帝は山陽公として14年生き、曹丕より長生きした。「舜禹の事、私は知った」と曹丕は言ったと伝える。禅譲の型は、晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐が真似た。洛陽
- 九品官人法できごとAD220年貴族の時代の入口地方の人物を九つの等級に評して官に推す仕組みを魏が定めた。やがて家柄で等級が決まるようになり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われる。貴族の時代の入口になる。洛陽
- 張飛人物? – AD221年長坂橋劉備と関羽の義弟。長坂で20騎を率いて橋を落とし、曹操の軍を止めた(一人で橋に立ち「燕人張飛」と名乗るのは『演義』)。部下を殴り、その部下に寝込みを殺された。関羽の弔い合戦に出る直前だった。
- 七歩の詩できごとAD221年(伝承)豆を煮て茎を燃やす皇帝になった兄が弟に「七歩のうちに詩を作れ。できねば死」。「豆を煮て豆の茎を燃やす。豆は釜の中で泣く。本は同じ根から生まれたのに、なぜこうも急に煮るのか」。『世説新語』の話で、正史にはない。曹植はそれから10年、封地を転々として41歳で死んだ。洛陽
- 夷陵の戦いできごとAD222年三国の形がここで固まった関羽の仇を討とうと劉備が呉を攻め、陸遜が火攻めで破った。劉備は白帝城で死に、諸葛亮に子を託す。三国の形が、ここで固まった。夷陵(位置は特定されていない)
- 諸葛亮の南征できごとAD225年七縦七擒劉備の死で南中の四郡が背いた。諸葛亮は春に出て秋に帰った。「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とす」。孟獲を七度捕えて七度放したと『漢晋春秋』は伝える。南中の豪族と兵と銀と馬を得て、北伐の背後を固めた。饅頭の起源の話はここ。曲靖(南中)
- 街亭の戦いできごとAD228年泣いて馬謖を斬る諸葛亮の最初の北伐。先鋒の馬謖が命令に背いて山に登り、水を断たれて負けた。諸葛亮は泣いて馬謖を斬り、自分の位を三つ下げた。「泣いて馬謖を斬る」。北伐はあと四度、五丈原まで続く。街亭

- 趙雲人物? – AD229年一身これ胆長坂で劉備の幼い子を抱いて敵中を駆け抜けた。「子龍の一身はこれ胆なり」。街亭で唯一負けなかった隊を率いた。小説では白馬の若武者で、正史では堅実な老将。
- 孫権の帝位できごとAD229年三つの皇帝曹丕の即位から9年、劉備から8年遅れて、武昌で皇帝になった。呉。三つの皇帝が並んだ。蜀は同盟のために「天に二日なし」を飲んで祝いの使者を送った。翌年、都を建業に戻した。52年在位し、晩年に太子を廃して二人の息子を争わせ、国を弱くした。武昌(鄂州)
- 陳寿人物AD233年 – AD297年注が本文の倍蜀の史官で、宦官に逆らって左遷され、晋に仕えて『三国志』を書いた。「良史の才」と言われ、「父の仇の子を貶めた」「米をもらえば伝を立てた」とも言われた。正史の中で最も短く、注が本文の倍ある。
- 五丈原と諸葛亮の死できごとAD234年蜀が魏を倒す望みが絶たれる五度目の北伐の陣中で没した。蜀が魏を倒す望みはここで絶たれる。五丈原(位置は特定されていない)
- 司馬炎人物AD236年 – AD290年羊の車司馬昭の長子。武帝。禅譲で晋を建て、呉を取って統一した。太康の治。占田法。それから羊の車で後宮を回り、羊が止まった所で寝た。後宮1万人。一族を27の王に封じて兵を持たせ、白痴の息子を太子にした。死んで1年で八王の乱。
- 正始の音(玄学の始まり)できごとAD240年24歳で死んだ魏の正始年間。何晏が『論語集解』、王弼が『老子注』『周易注』。「無を本とする」。儒教と老荘を一つに。清談。王弼は24歳で死に、何晏は司馬懿に殺された。竹林の七賢が続いた。中国の哲学は、200年、「無」を語った。洛陽
- 孫皓人物AD242年 – AD284年席を用意していました呉の最後の皇帝。孫権の孫。最初は倉を開いて民を助け、それから酒を強い、目をえぐり、顔の皮を剥いだ。晋に降って洛陽で「帰命侯」。司馬炎が「この席をお前のために用意していた」と言うと「私も南で陛下のために席を用意していました」と答えた。
- 高平陵の変できごとAD249年魏の実権が司馬氏に移る皇帝と実力者が墓参りに出た隙に、病を装っていた老将が都の門を閉じた。曹爽の一族が処刑され、魏の実権が司馬氏に移る。16年後、その孫が皇帝になる。洛陽

- 竹林の七賢できごとAD260年頃司馬氏が魏を乗っ取る政争の時代司馬氏が魏を乗っ取る政争の時代に、七人の名士が竹林で酒を飲み、琴を弾き、礼教を嘲った。嵆康は処刑され、阮籍は酔って逃げた。洛陽

- 蜀の滅亡できごとAD263年三国の一つが最初に消えた魏の鄧艾が険しい山道を越えて成都の背後に出た。皇帝劉禅は戦わずに降伏する。「ここが楽しくて蜀を思わない」と言った、と伝わる。三国の一つが最初に消えた。成都
- 司馬炎の晋建国できごとAD266年2月同じ儀式で祖父司馬懿が高平陵で曹爽を殺し、父司馬昭が皇帝を路上で殺させ、その子が曹奐に禅譲させた。45年前に曹丕がしたのと同じ儀式で。晋。15年後に呉を取って中国を一つにし、その10年後に八王の乱で壊した。洛陽
- 晋による統一できごとAD280年統一したのは三国のどれでもなかった呉が降り、およそ100年ぶりに中国が一つに戻った。ただしこの統一は長く続かない。建業
- 呉の滅亡(晋の統一)できごとAD280年3月鉄の鎖を焼き切った王濬が蜀で造った楼船で長江を下り、呉が川に張った鉄の鎖を松明の筏で焼き切った。「千尋の鉄鎖、江底に沈む」。孫皓は石頭城で棺を担いで降った。黄巾から96年。三国が終わり、晋が一つにした。統一は37年しか続かなかった。南京
- 陳寿『三国志』できごとAD285年頃小説の前の正史蜀に仕えて晋に仕えた史官が、魏・蜀・呉を65巻に書いた。魏を正統にし、蜀に「本紀」を立てなかった。倭人伝はその一部。130年後に裴松之が注を付けて倍にし、1100年後に小説になった。洛陽
- 八王の乱できごとAD291年晋の統一が16年で壊れる晋の皇帝が暗愚で、皇后賈氏が皇太后の一族を殺し、皇族が皇后を殺し、皇族同士が16年殺し合った。匈奴と鮮卑の兵を雇って戦い、その兵が国を取る。五胡十六国はここから始まる。洛陽

- 金(女真)国AD1115年 – AD1234年女真が遼を10年で滅ぼし、返す刀で宋の都を落とした。華北を1世紀支配したあと、モンゴルに削られて消える。
- 『三国志演義』できごとAD14世紀正史より物語のほうが記憶を作る三世紀の魏・呉・蜀の争いは、正史の『三国志』に記録され、その後千年にわたって、町の語り物や芝居で繰り返し語られてきた。元から明にかけて、羅貫中とされる人物が、それらを一つの長い物語にまとめる。劉備・関羽・張飛の義兄弟の誓い、諸葛亮の知略、曹操の悪役ぶり。事実が七分、作り話が三分と言われる。この小説が、東アジアの人びとの三国時代の像を決めた。日本でも江戸時代に訳され、いまも漫画やゲームで作り直されている。杭州(臨安)
- 孟獲人物彝族の祖南中の豪族。『三国志』本文に名はなく、裴松之の注が引く『漢晋春秋』に「七度捕えて七度放した」。「公は天の威、南人はもう背かない」。演義が蛮王にした。雲南には孟獲の廟がある。彝族は自分たちの祖と言い、諸葛亮も一緒に祭る。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
中国の王朝9件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。考えることの歴史2件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。誰が書き残したか2件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史2件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。