人物

嵯峨天皇

Emperor Saga
AD786年10月3日 – AD842年8月24日(享年55)
平安時代重要度 4

概要

桓武の子。兄平城から譲られ、薬子の変で兄を退けた。蔵人所と検非違使。『凌雲集』『文華秀麗集』。空海、橘逸勢と三筆。50人の子を源氏にした。嵯峨源氏。退位して嵯峨院に住み、その跡が大覚寺。「薄葬にせよ」と遺言した。

関わったできごと(1)

薬子の変AD810年(弘仁元年)9月 · 天皇

本文

786年に生まれた。名は神野親王。父は桓武天皇、母は皇后の藤原乙牟漏で、のちの平城天皇は同じ母から生まれた兄である。生まれた頃、父の桓武は長岡京の造営の最中で、まもなく平安京へ都を移すことになる。神野は幼い頃から聡明で、学問、とりわけ漢詩と書にすぐれ、父に愛されたと伝えられる。

嵯峨天皇の肖像
嵯峨天皇の肖像Wikimedia Commons Unknown · Public domain

806年、桓武が亡くなって兄の平城天皇が即位すると、神野は皇太弟となった。平城天皇は意欲的に政治を改めようとしたが、病がちだった。809年、病に悩んだ平城は、在位わずか3年で弟に位を譲った。嵯峨天皇の即位である。24歳だった。

位を退いた平城上皇は、まもなく健康を取り戻すと、旧都の平城京に移り住んだ。上皇のそばには、寵愛する藤原薬子と、その兄の仲成がいた。上皇は平城京から政治に口を出すようになり、朝廷は嵯峨天皇の平安京と上皇の平城京の二つに分かれたようになった。「二所朝廷」と呼ばれる状態である。810年9月、上皇は都を平城京に戻すという命令を出した。

嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り
嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有りWikimedia Commons Ono'e Hachirō aka Ono'e Saishū · Public domain

嵯峨天皇は素早く動いた。この年の春、天皇は自分の命令を確実に、ひそかに伝えるための新しい役所として蔵人所を置き、信頼する藤原冬嗣らをその長にしていた。上皇の命令が出ると、嵯峨は伊勢、近江、美濃に通じる関所を固め、仲成を捕らえて射殺させ、坂上田村麻呂に兵を率いさせて上皇の動きを阻んだ。東国へ向かおうとした上皇は行く手を阻まれて平城京に戻り、出家した。薬子は毒を仰いで死んだ。この事件は薬子の変(薬子の変)と呼ばれる。平城上皇の子で皇太子だった高岳親王は廃され、嵯峨の異母弟の大伴親王(のちの淳和天皇)が皇太弟になった。高岳親王はのちに出家し、仏法を求めて唐からインドをめざす旅の途中で亡くなっている。

この事件のとき作られた蔵人所は、やがて天皇の身辺の事務と宮中の雑事を取り仕切る重要な役所になった。蔵人頭となった冬嗣は嵯峨の厚い信任を得て、藤原北家の繁栄の基を築いた。冬嗣の子が藤原良房である。嵯峨はまた、京の治安を守り、犯罪を取り締まる検非違使を置いた。律令に定められていない、令外官と呼ばれる新しい官職が、平安時代の政治の実際を担うようになっていく。法令を整理した『弘仁格式』や、京と畿内の1182の氏族の系譜をまとめた『新撰姓氏録』もこの時代に編まれた。

嵯峨の時代を特徴づけるのは、唐の文化への強い傾倒である。宮中の儀式や服装を唐風に改め、宮殿の門や建物の名も唐風の名に変えた。嵯峨は、文章は国を治める大事業である、という中国の魏の文帝曹丕の言葉を重んじ、漢詩を政治と同じほど大切なものと考えた。天皇の命で、日本で初めての勅撰漢詩集『凌雲集』が814年に、続いて『文華秀麗集』が818年に編まれた。嵯峨自身の詩も多く収められている。この時代の文化は弘仁文化と呼ばれる。

嵯峨は仏教の新しい流れとも深く関わった。唐から帰国した空海と親しく交わり、詩や書を贈り合った。816年には高野山を修行の場として空海に与え(空海の高野山開創)、823年には平安京の東寺を空海に託した。一方、比叡山の最澄が求めていた、比叡山で独自に僧に戒を授ける大乗戒壇の設立は、最澄が822年に亡くなった直後に認められた。嵯峨は書の名手としても知られ、空海、橘逸勢とともに三筆と呼ばれる。比叡山の延暦寺には、嵯峨が自ら書いた僧の戒牒(出家の証明書)が国宝として残っている。

嵯峨には后妃が多く、皇子と皇女は50人ほどにのぼった。そのすべてを皇族として養えば国の財政が持たない。814年、嵯峨は多くの子に源の姓を与えて臣下の身分に下した。これが嵯峨源氏の始まりである。源信、源常、源融らは臣下として左大臣まで上った。とりわけ源融は、京の六条に贅を尽くした邸宅を構え、のちに物語の主人公、光源氏の手本の一人とも言われた(『源氏物語』)。皇族を臣下に下して源の姓を与えるやり方は、のちの天皇たちにも受け継がれ、清和源氏などの武家の源氏も、ここから生まれていく。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

823年、嵯峨は位を弟の淳和天皇に譲った。38歳だった。淳和の皇太子には嵯峨の子(のちの仁明天皇)が立てられ、仁明が即位すると、今度は淳和の子が皇太子になった。兄と弟の家系が交互に皇位を継ぐことで、争いを避けようとしたのである。退位後の嵯峨は、都の西の嵯峨野に営んだ嵯峨院に住み、上皇として20年近く朝廷ににらみを利かせた。嵯峨が生きている間、宮廷は大きな争いもなく、穏やかだった。

842年7月、嵯峨上皇は57歳で亡くなった。自分の葬儀は簡素にし、墓に盛り土をせず、木を植えて草が生えるに任せよ、と遺言した。そのわずか2日後、承和の変が起きた(承和の変)。淳和の子の皇太子恒貞親王に仕える者たちが謀反を企てたとして捕らえられ、三筆の一人の橘逸勢も流罪となって、配流の途中で亡くなった。皇太子は廃され、仁明天皇の子が新しい皇太子になった。嵯峨が築いた兄弟の家系の釣り合いは、嵯峨の死とともに崩れ、その後、皇位は嵯峨の子孫に受け継がれていく。

嵯峨院は、のちに娘の正子内親王によって寺に改められた。いまの京都の大覚寺である。庭の大沢池は、嵯峨が造らせた池の名残とされる。蔵人所、検非違使、源氏、唐風の文化。平安時代の宮廷を形づくる多くのものが、この天皇の時代に始まった。

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