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Person / 人

アントワーヌ・ワトー

Antoine Watteau
AD1684年10月10日 – AD1721年7月18日(享年36)
フランス重要度 4

概要

ヴァランシエンヌ(フランドルから取ったばかりの町)。屋根瓦職人の子。パリで舞台の背景、コメディア・デラルテ。ルーベンスの色、ヴェネツィアの光。雅宴画。『シテール島』、『ジェルサンの看板』(1720年、画商の店の看板として。ルイ14世の肖像が箱に詰められる)、『ピエロ(ジル)』。結核。36歳。皮肉屋で、人嫌いで、絵を売るのが嫌いだった。ロココは彼の憂鬱から始まった。

関わったできごと(1)

ワトー『シテール島への船出』AD1717年 · 描いた

本文

1684年10月10日、ヴァランシエンヌ。ジャン=アントワーヌ・ワトー。1678年、ナイメーヘン条約でフランスになったばかりの町(元スペイン領ネーデルラント)。ワトーは生涯、フランドル人だと思われていた。父ジャン=フィリップは屋根瓦職人(乱暴で、酒で、訴えられた)。地元の画家ジェランに。1702年頃、パリ。ノートルダム橋の店で、宗教画の複製を描いた(1日に何枚も、同じ絵。「聖ニコラスは、暗記して描けた」)。1703〜08年、クロード・ジローの下で。舞台美術(オペラ座、コメディ・フランセーズ)。コメディア・デラルテ(1697年にルイ14世がイタリア人の劇団を追放していた。その記憶と、市の劇場の劇団)。ピエロ、アルルカン、メッツェタン。1708〜09年、クロード・オードラン3世(リュクサンブール宮殿の管理人)の下で。ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』(24枚)を毎日見た。「アラベスク」の装飾。

1709年、ローマ賞2位。ローマには行けなかった。ヴァランシエンヌへ帰った(1709〜10年。兵士の絵。スペイン継承戦争の兵の宿営、行進)。1710年、パリ。画商シロワ、ピエール・クロザ(財務家、コレクター。デッサンを1万9000点持っていた。ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ヴァン・ダイク)。ワトーはクロザの家(リシュリュー通り、モンモランシー)に住んで、ヴェネツィアの絵を見た。1712年、アカデミー準会員。1717年、正会員。「雅宴画」。

絵。赤チョークと黒チョークと白(「三色のチョーク」)で、人物をスケッチブックに描き溜めて(同じ人物を、いくつもの角度から)、絵の中に配置した。だから、絵の中の人物は、互いに関係がないように見える。舞台の書き割りの前の、演じている人たち。『愛の音階』『恋の宴』『ヴェネツィアの祭』(1718〜19年。ワトー自身がバグパイプ吹きで、後ろにいる)『気まぐれ娘』『気取った女』『まちがい』『メッツェタン』(1718〜20年。ギターを弾いて、女に背を向けられている)『ピエロ(かつてジルと呼ばれた)』(1718〜19年。ルーヴル。184センチの大きな絵。白い衣で、両手を垂らして、正面を向いて、立っている。何のために描かれたか分からない。芝居小屋の看板か)。『ジェルサンの看板』(1720年。ジェルサン(ノートルダム橋の画商)の店の看板として、8日で描いた、と言う。実際は看板に使われず、すぐ売れた。左で、ルイ14世の肖像が箱に詰められる。右で、客が楕円の絵を眺め、女が鏡を見る。ベルリン、シャルロッテンブルク)。

結核。1719年、ロンドンへ(ミード博士——名医で、コレクター——に診てもらうために)。1年。ロンドンの空気は悪かった。1720年、パリ。『ジェルサンの看板』。1721年、ノジャン・シュル・マルヌの家(アベ・アランジェが用意した)。7月18日、死んだ。36歳。「私は、私の絵を、全部燃やしてほしい」と言った、と友人ジェルサンが書いた(ジェルサンは燃やさなかった)。

友人ジュリエンヌ(コレクター)が、1726〜28年と1735年、ワトーの絵と素描を全部版画にして出版した(『ジュリエンヌ版画集』、4巻、600点以上)。それでワトーはヨーロッパに広まった(ブーシェが版画を彫った。ゲインズバラ、ホガース、ターナーが見た)。

「フランス絵画の中で、最も傷つきやすく、最も謎めいた画家」。「ワトーは、その時代の憂鬱を、絹の衣を着せて描いた」。フランス革命が捨てて、1850年代にゴンクール兄弟が『18世紀の美術』で拾い上げ、ボードレール(『灯台』の連。「ワトー、名高い心たちがひらひらと舞う謝肉祭」)、ヴェルレーヌ、ドビュッシー、プルースト。20世紀、ヴァランシエンヌの美術館とルーヴル。

ロココは、彼が始めて、彼が生きなかった時代のもの。