できごと

夢窓疎石と禅の庭

Tenryū-ji
AD1339年
重要度 4
シベリアの諸集団元チベットパガン朝クメール帝国スコータイ朝日本高麗大越大越アイヌモシリチャンパAD1339年京都
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1339年の版図を描いています(12勢力)。

概要

後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建てた天龍寺の作庭を、夢窓疎石が手がけた。曹源池庭園。借景に嵐山を取り込み、水の中に石を組んで滝を表した。彼は西芳寺(苔寺)も作った。天龍寺船を元に送って、造営の費用を稼いだ。後醍醐、尊氏、直義の三人の帰依を、同時に受けた僧。庭が、修行の場になった。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

夢窓疎石AD1275年–AD1351年 · 作った

本文

1339年8月、後醍醐天皇は吉野の山中で世を去った。鎌倉幕府を倒して建武の新政を始めながら、わずか数年で足利尊氏に背かれ、京都を追われて南の吉野に朝廷を開いた天皇である。京都では尊氏が別の天皇を立てて幕府を開いており、二つの朝廷が並び立つ南北朝の争いが続いていた。敵として戦った天皇の死を知った尊氏と弟の直義は、その霊を弔うための大きな禅寺を京都の西、嵯峨の地に建てることを決める。かつて後醍醐が幼いころを過ごした離宮、亀山殿の跡地である。

この寺の開山に迎えられたのが、夢窓疎石だった。1275年に伊勢に生まれ、甲斐で育ち、初めは天台や真言を学んだが、のちに禅に転じた。修行を重ねて禅僧として名を上げる一方、権力から離れることを好み、土佐や三浦半島、甲斐などの山中に庵を結んでは移り住んだ。それでも名声は高まり、鎌倉の北条氏、ついで後醍醐天皇に招かれて南禅寺の住持となった。後醍醐が倒れたあとは足利兄弟の深い帰依を受ける。敵どうしの両方から師と仰がれた、珍しい僧である。

Japan Kyoto city urban topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

寺は初め年号をとって暦応資聖禅寺と名づけられたが、直義が寺の近くの川から金色の龍が昇る夢を見たことから、天龍資聖禅寺、すなわち天龍寺と改められたと伝えられる。造営には莫大な費用がかかった。戦乱のさなかで幕府の財政にも余裕は無い。夢窓の進言もあって、幕府は中国の元へ貿易船を送り、その利益を造営費にあてることにした。1342年に送り出されたこの船を、天龍寺船と呼ぶ。寺は1345年に落慶の供養を迎えた。

夢窓が天龍寺に作ったとされるのが、方丈の西に広がる曹源池の庭園である。池の向こうには嵐山と亀山がそびえ、庭の背景としてそのまま取り込まれている。遠くの山を庭の一部に見立てるこの手法を、借景という。池の正面奥には、高さの違う石を組んで、水が落ちる滝を表している。中国の伝説で、激流をさかのぼって龍門の滝を登りきった鯉が龍になるという話にちなみ、龍門の滝と呼ばれる。鯉に見立てた石が滝の途中に据えられている。登りつめれば悟りに至る、修行の姿を重ねたものと解されている。ただし、この池は亀山殿の時代の池を作り直したもので、その後の火災と再建の中で手が加えられてもいる。どこまでが夢窓の手によるものかは、はっきりしない部分が残る。

亀山天皇陵
亀山天皇陵Wikimedia Commons 利用者:Stanislaus · Public domain

同じ1339年、夢窓は西の嵐山に近い西芳寺の再興も任された。荒れていた古い寺を禅寺に改め、上下二段の庭を作った。下の段には池をめぐる庭、上の段の山の斜面には、水を使わずに石だけで滝や渓谷を表す石組を据えた。この上の段の石組は、のちの龍安寺の石庭のような、石と砂で山水を表す枯山水の先駆けとされる。西芳寺はいま「苔寺」の名で知られるが、一面の苔は夢窓の時代からのものではなく、江戸時代以後、寺が荒れる中で庭を覆っていったと考えられている。

夢窓にとって、庭は眺めて楽しむためだけのものではなかった。直義の問いに答えた『夢中問答集』の中で、夢窓は山水を好むことの是非を論じている。山や水を愛すること自体に良し悪しは無く、良し悪しはそれを好む人の心にある。庭を眺めて世俗の心を養う者もいれば、庭を修行の助けとして心を澄ませる者もいる、という趣旨である。庭を作り、手を入れ、その中で座ることが、禅の修行と一つにつながっていた。

後嵯峨天皇陵
後嵯峨天皇陵Wikimedia Commons ja:利用者:Stanislaus · Public domain

夢窓は政治の上でも大きな役割を果たした。戦乱で死んだ敵味方の霊を弔うため、国ごとに寺と塔を建てることを尊氏と直義に勧め、各地に安国寺と利生塔が置かれた。その一方で、尊氏と直義の兄弟は、やがて対立して争うことになる。夢窓は1351年に数え77歳で亡くなった。生前と死後に、あわせて7人の天皇から国師の号を贈られ、「七朝帝師」と呼ばれる。

夢窓の門下からは多くの禅僧が出て、室町幕府のもとで五山の禅寺を率い、漢詩文の文化を担った。夢窓の名で伝わる庭は、鎌倉の瑞泉寺、岐阜の永保寺、甲斐の恵林寺など各地にある。そのすべてが夢窓自身の手によるかは確かめられないが、禅僧が庭を作り、庭を通して修行するという伝統は彼に始まるとされる。この伝統は、のちに銀閣と東山文化の時代の庭へと受け継がれていった。天龍寺と西芳寺は、1994年にほかの寺社とともに「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

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