概要
後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建てた天龍寺の作庭を、夢窓疎石が手がけた。曹源池庭園。借景に嵐山を取り込み、水の中に石を組んで滝を表した。彼は西芳寺(苔寺)も作った。天龍寺船を明に送って、造営の費用を稼いだ。後醍醐、尊氏、直義の三人の帰依を、同時に受けた僧。庭が、修行の場になった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
夢窓疎石AD1275年–AD1351年 · 作った本文
夢窓疎石。1275年、伊勢。父は佐々木氏の一族、母は北条氏の縁者。4歳で母を失い、9歳で甲斐の寺へ。天台と真言を学んだ。
18歳の頃、師の死に立ち会って、生死の問題に突き当たった。「経典を読んでも、これは解けない」。禅に転じた。鎌倉で、宋から来た一山一寧に参じ、次いで高峰顕日(後嵯峨天皇の子)に参じた。1305年、常陸の臼庭で、悟った(夜、壁だと思って寄りかかったところに壁がなく、倒れて大笑した、と伝える)。
その後、20年、山にいた。土佐、美濃、甲斐、上総、三浦。名声が上がると、招かれる。招かれると、逃げる。「私は名利のために出るのではない」。
1325年、後醍醐天皇に召されて、南禅寺の住持。1年で辞して、伊勢へ。1327年、鎌倉、北条高時の招きで円覚寺。1330年、甲斐に恵林寺。1333年、鎌倉幕府が滅び、建武の新政。後醍醐が呼び戻し、「夢窓国師」の号を贈った。
1336年、足利尊氏と直義が後醍醐と対立した。1339年、後醍醐が吉野で死んだ。夢窓は尊氏と直義に、後醍醐の菩提を弔う寺を建てるよう勧めた。天龍寺。
費用がない。夢窓は、元へ貿易船を出して、その利益を充てることを提案した。「天龍寺船」。1342年、博多から出航、翌年帰り、5000貫を上げた。1345年、落慶。
作庭。天龍寺の曹源池庭園。方丈から見て、池の向こうに石を組んで滝(龍門瀑。鯉が滝を登って龍になる、という中国の故事による石組)を表し、その背後に嵐山と亀山を借景として取り込む。池の周りを歩く「回遊」と、座って見る「観賞」の両方を持つ。
西芳寺(苔寺)。1339年、荒れていた寺を再興した。上段に枯山水(水を使わず、石だけで滝を表す。日本で最初期の枯山水とされる)、下段に黄金池を中心とする池泉庭園。苔は後の時代に自然に生えたもので、彼の時代は白砂だった。
瑞泉寺(鎌倉)。岩を削って作った庭。恵林寺(甲斐)。永保寺(美濃)。
『夢中問答集』。足利直義の問いに答える形の、平易な仮名まじり文。「作庭を好むのは、道心のさわりではないか」という問いに、彼は答える。「山水には得失なし。得失は人の心にあり」。庭を愛でることが執着になるなら妨げだが、山水そのものに善悪はない。
彼が7度、国師の号を受けた(後醍醐、光厳、光明、後光厳、後円融、後小松、後花園の各朝から)。「七朝帝師」。
1351年、死んだ。76歳。弟子は1万3000人と伝える。その系統(夢窓派)が、室町の五山のほとんどを占めた。
彼は、後醍醐と、尊氏と、直義の、争っている三者すべてに帰依された。政治の外にいながら、政治の中心にいた。そして、庭を作った。