探検と発見

概要
地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。
この物語について
なぜ人は、行かなくてもよい場所へ行くのか。同じ「探検」という言葉の下で、動機は時代ごとに入れ替わっている。
最初の大きな渡海は、文字が生まれるはるか前に行われた。少なくとも5万年前、人類は東南アジアの島々から海を越えて、当時は陸続きだったオーストラリアとニューギニアの大陸に渡った。サフルへの渡海は、氷期で海面が今より低かった時代でも、見えない対岸を目指して数十キロの海を越えなければならなかった。舟に何人もの男女が乗っていなければ、渡った先で人は増えない。偶然流されたのではなく、計画して渡ったと考える研究者は多い。
太平洋の島々へ人が広がったのは、ずっと後のことである。紀元前1500年ごろ、ニューギニアの東の島々に、独特の文様を刻んだ土器を作る人びとが現れた。ラピタ土器の広がりは、わずか数百年でフィジー、トンガ、サモアまで東へ及ぶ。そこでいったん千年以上とどまった後、彼らの子孫であるポリネシアの人びとは、紀元1000年ごろから再び動き出す。ソシエテ諸島やマルケサス諸島を起点に、北はハワイ、東はラパ・ヌイ(イースター島)、南西はアオテアロア(ニュージーランド)まで、太平洋の3分の1に及ぶ三角形の海を、数百年で人の住む場所にした。
彼らは地図も羅針盤も持たなかった。星の昇る位置と沈む位置、うねりの向き、雲の形や鳥の飛ぶ方角を読み、二つの船体をつないだ大きなカヌーに、豚や鶏、タロイモやパンノキの苗を積んで漕ぎ出した。帰ってこられる見込みがあったから出られたのだとする見方もある。1976年、伝統の航法を再現したカヌー「ホクレア」が、計器を使わずにハワイからタヒチまでを渡り、こうした航海が実際に可能だったことを示した。

古い時代の航海には、真偽の確かめようがないものもある。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、紀元前600年ごろ、エジプトの王ネコ2世に命じられたフェニキア人が紅海から南へ漕ぎ出し、3年かけてアフリカを一周して地中海から戻ったと書いている。ヘロドトスは、西へ回り込むときに太陽が右手、つまり北に見えたという船乗りの話を信じなかった。だが南半球を西へ進めば、太陽はたしかに北に見える。疑われた細部が、かえって話の信憑性を高めているが、ほかに証拠はない。
ユーラシアの大陸では、探検は国家の使いとして始まることが多かった。紀元前139年ごろ、漢の武帝は匈奴を挟み撃ちにする相手を求めて、張騫を西へ送った。張騫の西域派遣は苦難の連続だった。張騫は途中で匈奴に捕らえられて10年あまり足止めされ、ようやくたどり着いた月氏には同盟を断られた。それでも張騫が持ち帰った西域の国々の知らせは、漢が西へ道を開くきっかけになった。司馬遷は彼の功を、道に穴を開けた、という意味の言葉で記している。
信仰のための旅もあった。7世紀、唐の僧玄奘は、国の禁を破って西へ向かい、砂漠と雪の峠を越えてインドに入り、16年後に600部を超える経典を持ち帰った。11世紀のはじめには、北の海でノルウェー系の人びとがグリーンランドからさらに西へ渡り、北米の東岸に短いあいだ住みついた。ニューファンドランドで見つかった集落の跡がそれを裏づけている。その航海に加わった女性グズリーズ・ソルビャルナルドッティルは、のちに巡礼としてローマまで旅したと伝えられる。

13世紀にモンゴルがユーラシアを一つにまとめると、陸の道は長い旅を可能にした。ヴェネツィアの商人の子マルコ・ポーロは、1271年に東へ旅立ち、フビライの宮廷に長く仕えたと語った。帰国後、戦争の捕虜となった牢の中で語った話が書き留められ、『東方見聞録』として広く読まれた。彼が本当に中国まで行ったのかを疑う声もあるが、多くの研究者は、誇張を含みながらも実際の見聞に基づくと考えている。2世紀後、コロンブスはこの本の写しに書き込みをしながら読んでいた。
14世紀、モロッコのタンジェに生まれたイブン・バットゥータは、21歳でメッカへの巡礼に出て、そのまま30年近く旅を続けた。アラビア、東アフリカ、中央アジア、インド、そして中国まで、その道のりは十数万キロに及ぶとされる。イスラームの世界では、法学者は町から町へ迎えられ、裁判官の職を得ることもできた。信仰と法を共有する広い世界が、一人の旅を支えていた。
15世紀に入ると、探検は国の富と結びついた。明の鄭和の大船団がインド洋を往復し、その後ポルトガルがアフリカの西岸を南へ下った。1488年にディアスがアフリカの南端を回り、1492年にコロンブスが大西洋を渡り、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに着く。ガマはアフリカ東岸のマリンディで水先案内人を得てインド洋を渡った。この人物を名高い航海者イブン・マージドとする話が伝わるが、これは後の伝承で、確かではない。1519年に出たマゼランの船団は、本人を失いながら3年かけて世界を一周した。世界一周の達成によって、地球をひと回りできることが実際に確かめられた。

この時代の探検は、征服と一体だった。新しい航路の先には交易と植民地があり、そこに住んでいた人びとにとって、探検家の到着は災いの始まりになることが多かった。北の海では、ハドソン湾を見つけたヘンリー・ハドソンが、越冬に疲れた船員の反乱に遭い、小舟に乗せられて置き去りにされている。
18世紀になると、探検は科学の旗を掲げた。イギリスの海軍士官ジェームズ・クックは、1768年から3度にわたって太平洋を航海した。最初の航海の表向きの目的は、タヒチで金星が太陽の前を横切る現象を観測し、地球と太陽の距離を求めることだった。クックはニュージーランドの周りを正確に測り、オーストラリアの東岸を地図に描いた。2度目の航海では南極圏に何度も入り、南に巨大な大陸が広がっているという古くからの想定を退けた。船員に野菜や酢漬けのキャベツを食べさせて、壊血病を抑えたことでも知られる。

クックの船には、タヒチの航海者トゥパイアが乗り、島々の位置を記した図を描いてみせた。ヨーロッパの測量と、ポリネシアの航法の知識が、一隻の船の上で出会ったのである。だがクックの太平洋航海の後に来たのは、宣教師と商人と病だった。クック自身は1779年、3度目の航海の途中、ハワイで島の人びととの争いの中で殺された。
地図の空白が減ると、探検は測ること、そして極地へ向かった。19世紀のインドでは、イギリスが三角測量で亜大陸を細かく測り、その過程で世界最高峰の高さが求められた。同じ頃、土佐の漁師の少年だったジョン万次郎は、1841年に漂流して無人島からアメリカの捕鯨船に救われ、アメリカで航海術と測量を学んで10年後に帰国した。彼の知識は、開国を迫られた幕府に重く用いられた。20世紀のはじめには、極点を目指す競争が繰り広げられた。1911年12月、ノルウェーのアムンセンは犬ぞりを使って南極点に一番乗りし、無事に帰還した。約1か月遅れて極点に着いたイギリスのスコットの隊は、先を越されたことを知り、帰り道で全員が力尽きた。スコットが最後まで書き続けた日記は、遺体とともに見つかっている。

そして1969年7月20日、アポロ11号の月面着陸で、人が初めて月の表面に降り立った。アームストロングの最初の一歩は、世界で数億の人がテレビで見守ったといわれる。それは米ソの競争の産物であると同時に、行けるかどうかを確かめたいという、太平洋のカヌーの時代から続く衝動の延長でもあった。
探検の動機は、生き延びるための土地、信仰、交易と富、国の威信、科学、そして名誉と好奇心へと、時代ごとに入れ替わってきた。だが、どの時代にも、帰って来られるかどうか分からない旅に出る人がいた。その一人一人の記録が積み重なって、いま私たちが手元の画面で何気なく見ている世界地図ができている。そしてその地図には、探検する側ではなく、探検される側として描かれた人びとの、もう一つの歴史が重なっている。
この物語が起きた場所
筋(127)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- サフルへの渡海できごと約6万5000年前(5万〜7万年前と幅がある)人類が意図して外洋を越えた、最も古い証拠氷期でも、この海は陸続きにならない。最低でも数十kmを船で渡ったことになる。人類が意図して外洋を越えた、最も古い証拠になる。マジェドベベ
- ニューギニア高地の農耕できごとこの年表より前から(およそ1万年前に始まる)世界で独立に農耕が始まった数少ない場所のひとつ。タロイモとバナナを育てる排水路の跡が残る。ニューギニア高地(位置は特定されていない)
- ラピタ土器の広がりできごとBC1500年同じ文様の土器がニューギニアからトンガまで点々と現れる。太平洋へ出ていった人々の足跡そのもの。ラピタ(トンガ)(位置は特定されていない)
- ポリネシア人の太平洋拡散できごとBC1000年頃〜AD1300年頃地図も羅針盤も無しに地球の3分の1へ星と波とうねりを読んで、地球の3分の1に及ぶ海域に渡った。地図も羅針盤も無しに、人類最大級の移住をやってのけた。ラピタ(トンガ)(位置は特定されていない)
- オーストラリア先住民の岩絵できごとこの年表より前から現在まで(数万年続く伝統)数万年にわたって描き継がれてきた。人類最古級の継続する文化で、この年表の左端より前から始まっている。ウルル
- バントゥー系の拡散できごとBC1000年農耕と製鉄を携えてアフリカ大陸の南半分へ広がった。いまの言語分布の骨格を作る。キンシャサ

- フェニキア人のアフリカ周航(伝承)できごとBC600年頃太陽が右手にネコ2世がフェニキア人を紅海から送り、3年で地中海に戻ったとヘロドトスは書く。「彼らは太陽が右手にあったと言った。私は信じない」。南半球で太陽は北に見える。信じなかった一文が、本当だった証拠になった。喜望峰
- 張騫の西域派遣できごとBC138年絹の道の始まり匈奴を挟撃する同盟を探して送られた使者が、中央アジアの情報を持ち帰った。絹の道の始まり。長安
- 『エリュトラー海案内記』できごとAD60年頃エジプトから紅海を出て、東アフリカとインドへ行く商人のための実用書。港ごとに売れる物と買える物が書かれている。季節風の使い方が広まった時期のもの。アレクサンドリア
- マダガスカルへの到達できごとAD5〜8世紀インド洋を横切った最長の航海アフリカの沖の島に最初に住み着いたのは、6000km東のボルネオから来た人びとだった。いまの言葉がそれを示している。マダガスカル(位置は特定されていない)

- 玄奘人物AD602年頃 – AD664年国禁を犯してインドへ渡り、17年かけて経典を持ち帰った。『西遊記』の三蔵法師の元。
- 玄奘の西域行できごと629年国禁を犯して経典を取りに行った国禁を犯して出発し、17年かけて経典657部を持ち帰った。旅の記録は当時の中央アジアとインドの一級史料になる。ナーランダー
- 義浄人物AD635年 – AD713年玄奘の陸路に対して、海路でインドへ行き帰りした。往復でシュリーヴィジャヤに滞在し、そこで見た仏教の様子と、海の道の僧たちの記録を残した。
- ハワイへの到達できごとAD1000年頃数千kmの外洋を渡って到達した。星と波とうねりを読む航海術の到達点のひとつ。ハワイ(位置は特定されていない)

- ヴィンランドへの入植できごとAD1000年頃コロンブスの500年前に、ノース人が北米に住んだ。ニューファンドランドで鉄の鍛冶場と建物の跡が出た。数年で引き上げている。ランス・オ・メドー
- 羅針盤が海に出るできごとAD1090年頃曇っても進める磁石が南を指すことは中国で古くから知られ、占いの盤に使われた。1044年の『武経総要』に、鉄の魚を熱して冷まし磁化する方法がある。1088年、沈括が『夢渓筆談』に、糸で吊るす方法と、磁北が真北からずれること(偏角)を書いた。1117年の『萍洲可談』に、泉州の船乗りが「夜は星を見、昼は日を見、曇りの日は指南針を見る」とある。曇りでも進めるようになった。アラブとヨーロッパへ12世紀に伝わった。泉州
- トンガ海上帝国できごとAD1200年頃島々を結ぶ交易と貢納の網が広がった。海が国境ではなく道だった社会。トンガ(位置は特定されていない)
- モアイの造営できごと1250年絶海の孤島で1000体近い石像が立てられた。森を使い尽くしたことが衰退の一因とされるが、議論がある。イースター島
- マルコ・ポーロ人物AD1254年 – AD1324年東方への旅を語り、ヨーロッパにアジアの富を印象づけた。コロンブスはこの本を携えて出航する。
- 『東方見聞録』できごとAD1298年(獄中での口述)この本を読み込んだ一人がコロンブスになるジェノヴァの獄中で、同房の物語作家に旅を語った。ヨーロッパのアジア観を数百年にわたって形づくる。ジェノヴァ

- アオテアロアへの到達できごとAD1300年頃人類の定住地として最後の大きな島ポリネシア人が人類の定住地として最後の大きな島に着いた。マオリの社会が始まる。アオテアロア(位置は特定されていない)
- ポリネシア三角形の完成できごとAD13〜14世紀ハワイ、イースター島、アオテアロアを頂点とする三角形の内側に、人が行き渡った。その海は約2700万平方キロメートルで、ロシアの国土の1.5倍を超える。海が国境ではなく、居住域だった。タヒチ

- ポルトラーノ海図できごとAD1300年頃経験を紙にした羊皮紙に、海岸線と港の名を書き、そこへ32方位の線を放射状に張り巡らせた海図。内陸は空白のことが多い。船乗りが実際に測った針路と距離の集積で、地中海の形は驚くほど正確である。最古の現存は1290年頃の「ピサ図」。ジェノヴァ、マヨルカ、ヴェネツィアが作った。理論から描いた地図ではなく、航海の経験を紙にしたもの。緯度も経度もない。羅針盤とセットで働いた。ジェノヴァ
- イブン・バットゥータ人物AD1304年2月24日 – AD1369年頃21歳で巡礼に出て、30年かけて12万kmを歩いた。インド・中国・マリまで行き、帰ってから口述で『大旅行記』を残す。マルコ・ポーロの三倍の距離になる。
- イブン・バットゥータの旅できごとAD1325年巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。タンジール

- 鄭和人物AD1371年 – AD1433年頃雲南のムスリムの家に生まれ、少年で去勢されて宮廷に入り、七度の大航海を率いた。旗艦はコロンブスのサンタ・マリア号の数倍あったとされる。
- エンリケ航海王子人物AD1394年3月4日 – AD1460年11月13日サグレスの学校は伝説ポルトガル王の三男。セウタで戦い、以後45年、アフリカの海岸へ船を送り続けた。自分は一度も探検に出ず、サグレスに住み、船と地図と航海士に金を出した。奴隷貿易もここから始まる。「航海王子」の名は19世紀のイギリス人がつけた。
- 鄭和の南海遠征できごと1405年皇帝の威を示すために出た七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。南京
- イブン・マージド人物AD1432年頃 – AD1500年頃インド洋の季節風と星の高さで航海する技術を書物にまとめた。ヴァスコ・ダ・ガマを案内したという話が伝わるが、確かな証拠はない。
- ボハドル岬の突破できごとAD1434年15回引き返した「そこから先は海が沸き、船は帰れない」。ヘンリー航海王子が15回送って、15回引き返した。ジル・エアネスが沖に出て回った。何もなかった。それから毎年、南へ。恐れは地図の上にあった。アフリカの海岸は、それから50年で喜望峰まで開いた。ボハドル岬
- マチュピチュの建設できごとAD1450年頃農民に案内されたパチャクティが、ウルバンバ川を見下ろす標高2400メートルの尾根に建てた。王の離宮か、聖地か、両方か。スペイン人は来なかった。100年で捨てられた。1911年、ビンガムが地元の農民に案内された。石は隙間なく組まれ、地震で崩れない。マチュピチュ
- コロンブス人物AD1451年頃 – AD1506年アジアを目指して西へ渡り、別の大陸に着いた。本人は最後までインドだと信じていた。
- ヴァスコ・ダ・ガマ人物AD1460年代 – AD1524年アフリカを回ってインドに着いた。地中海を通らない交易路が開く。
- ピーリー・レイース人物AD1465年頃 – AD1553年1513年の世界図に南アメリカの海岸線があるオスマンの提督で地図製作者。1513年の世界図に南アメリカの海岸線が描かれており、その出どころが議論されている。
- マゼラン人物AD1480年頃 – AD1521年4月27日世界一周の航海を率いたが、本人はフィリピンで戦死した。船は西へ回り続けて帰り着く。
- 喜望峰の回航できごとAD1488年ディアスがアフリカ南端を回った。インドへの海路が開けると分かり、10年後にダ・ガマが続く。喜望峰
- コロンブスの到達できごとAD1492年10月12日目指した場所とは違うところに着いた二つの大陸が結ばれた。人・作物・家畜・病原体が行き来し、両側の世界が作り替えられる。サン・サルバドル島(位置は特定されていない)
- カボットのニューファンドランド到達できごとAD1497年6月24日魚が籠で掬えたヴェネツィア人がヘンリー7世の特許で、ブリストルから小さな船一隻、18人で西へ。5週間。「新しく見つけた土地」。魚が籠で掬えた。翌年、5隻で出て、帰らなかった。イギリスの北米の主張は、この一隻から。ヴァイキングの500年後。ニューファンドランド
- ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路できごとAD1498年アフリカを回ってインドに着いた。地中海を通らない交易路が開き、富の流れが変わる。リスボン
- マリンディの水先案内できごとAD1498年喜望峰を回っても、そこから先は現地の航海術が要った喜望峰を回ったポルトガル船は、東アフリカで案内人を得て季節風に乗りインドへ渡った。その人をイブン・マージドとする話が広まっているが、確かな証拠はない。マリンディ
- カリカット到着できごとAD1498年5月20日数百年動いていたインド洋交易に、ヨーロッパの船が外から入ってきた。持参した贈り物は現地の基準では貧弱で、王の側は相手にしなかったと伝わる。カリカット
- 「新大陸」という認識できごとAD1507年(ヴァルトゼーミュラーの地図)コロンブスはアジアだと信じたまま死んだコロンブスはアジアに着いたと信じたまま死んだ。そこが別の大陸だと書いた航海者の名から、地図製作者が「アメリカ」と名づけた。サン=ディエ
- ゲラルドゥス・メルカトル人物AD1512年3月5日 – AD1594年12月2日投獄された地図屋フランドルの靴屋の子。ルーヴァンで数学と地理と測量、そして銅版彫刻を学んだ。地球儀と天球儀を作り、測量器具を売って生計を立てた。1544年、異端の嫌疑で7か月投獄された(同じ罪状で処刑された者もいた)。1552年、プロテスタントを認めるデュースブルクへ移住。1569年の世界図で等角航路を直線にした。地図帳に「アトラス」の名を与えたのも彼(天を担ぐ巨人ではなく、伝説の天文学者アトラス王にちなむ、と序文で書いている)。
- バルボアの太平洋到達できごとAD1513年9月25日丘の上から南の海借金取りから逃げて樽に隠れて船に乗った男が、パナマの地峡を190人で25日かけて越え、丘の上から南の海を見た。海に入って剣を掲げ、スペイン王のものだと宣言した。6年後、その総督に斬られた。ダリエン
- ピーリー・レイースの世界図できごとAD1513年20枚の古地図とコロンブスの地図を元にした、と余白に書かれている。南アメリカの海岸線が入っていて、その出どころが議論されてきた。コンスタンティノープル

- 世界一周の達成できごとAD1522年地球が丸くつながっていることの実証地球が丸くつながっていることが、航海によって実証された。出航した270人のうち18人が帰り着く。リスボン

- エルカーノの世界周航の完成できごとAD1522年9月6日日付が一日ずれたマゼランがマクタンで死んだあと、バスクの航海士が18人でビクトリア号をセビリアに戻した。5隻270人で出て、1隻18人。3年。積んだ丁子で航海の費用は出た。皇帝は地球儀の紋章を与えた。「最初に私を回った」。日付が一日ずれていることに、帰って気づいた。セビリャ
- ヴァリニャーノ人物AD1539年 – AD1606年1月20日ヨーロッパ人が野蛮に見えるナポリ王国の貴族、パドヴァで法学。イエズス会の東インド巡察師。日本に3度。「日本人は礼儀正しく、ヨーロッパ人が野蛮に見える」。宣教師に日本の作法を守らせ、日本人を司祭に育てる方針。安土のセミナリヨ、天正遣欧使節、活字印刷機(キリシタン版)。秀吉に謁見してインド副王の使節を名乗った。マカオで死んだ。
- イエズス会の創立できごとAD1540年9月27日ザビエルとリッチバスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラが、砲弾で足を砕かれた療養中に聖人伝を読んで転じた。1534年、パリのモンマルトルで7人が誓い、1540年、教皇パウルス3世が認可した。修道院に籠もらず、世界へ出る。教皇への「第四の誓願」。『霊操』による訓練。学校を作った(100年で500校)。ザビエル、リッチ、ヴァリニャーノ、そして南米の布教区。1773年に一度解散させられ、1814年に再興された。ローマ
- ザビエルの来日できごとAD1549年8月15日(天文18年7月22日)ヤジロウの案内マラッカで会った薩摩の男ヤジロウの案内で、イエズス会のバスク人が鹿児島に着いた。2年3か月。鹿児島、平戸、山口、京都、豊後。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。京都は荒れて天皇にも将軍にも会えず、山口の大内義隆に望遠鏡と時計を贈って布教を許された。中国へ渡ろうとして、広州沖の島で死んだ。鹿児島
- 唐辛子の伝播できごとAD1550年頃100年で食が塗り替わった中南米原産。コロンブスが胡椒だと思って持ち帰り、胡椒(pimienta)から取った名を与えた。ヨーロッパでは当初、観賞用と薬だった。広めたのはポルトガル船である。1500年代、インドのゴアへ、東南アジアへ、そして中国と朝鮮へ。日本には16世紀に伝わった(南蛮胡椒、高麗胡椒)。安く、育てやすく、暑い土地でよく実る。100年ほどで、四川、湖南、タイ、韓国、ハンガリーの食が塗り替えられた。伝統に見えるものの多くは新しい。長崎
- ウィレム・バレンツ人物AD1550年頃 – AD1597年6月20日海の名アムステルダムの地図製作者。北東航路を三度。スピッツベルゲンとベーレン島を見つけた。ノヴァヤゼムリャで越冬。「氷の家」。帰りのボートで死んだ。ヘリット・デ・フェールが日記を書いた。海の名。
- 伊達政宗人物AD1567年9月5日 – AD1636年6月27日支倉常長を送った幼いとき疱瘡で右目を失った。独眼竜。18歳で家督、5年で南奥州を取った。摺上原で蘆名を滅ぼした。秀吉の小田原に遅れて、死装束で行った。関ヶ原で東軍。仙台62万石。支倉常長をローマへ送った。料理を作り、能を舞い、詩を書いた。「あと20年早く生まれていたら」と言われる。70歳。
- メルカトルの図法できごとAD1569年角度を取り面積を捨てた球を平面にすると、必ずどこかが歪む。メルカトルは、角度を正しく保つほうを選んだ。緯線を等間隔にせず、高緯度ほど引き伸ばす。すると、地図の上で直線を引けば、それが「羅針盤の針を一定に保って進む針路」(等角航路)になる。船乗りにとって、これ以上ないものだった。代償として、面積が壊れた。グリーンランドがアフリカと同じ大きさに見える。この歪みは、後に政治の議論になった。デュースブルク
- ドレークの世界周航できごとAD1580年9月26日3年で地球を回った海賊海賊がスペインの船を襲いながら3年で地球を回った。持ち帰った金銀は女王の年収の倍で、女王は船の上で騎士にした。スペインは引き渡しを求め、女王は断った。8年後のアルマダは、ここから始まる。プリマス
- 天正遣欧少年使節できごとAD1582年2月20日(天正10年1月28日)8年ヴァリニャーノが、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、13〜14歳の4人を長崎からローマへ送った。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。8年。リスボン、マドリードでフェリペ2世、ローマで教皇グレゴリウス13世。1590年に帰ると、秀吉が宣教師を追放していた。マンショは長崎で病死、ミゲルは棄教、マルチノはマカオへ追放、ジュリアンは1633年に穴吊りで殉教した。長崎

- イェルマークのシビル汗国征服できごとAD1582年鎧が重かったストロガノフ家が雇ったコサック840人が、火縄銃でウラルを越え、シビル汗国の都を取った。イェルマークは3年後に川で溺れた。鎧が重かった。ロシアはそのあと60年で太平洋に着いた。毛皮を追って。シベリアの名は、この汗国から。カシュリク(シビル)
- イェルマーク人物? – AD1585年8月6日シベリアの英雄ヴォルガの盗賊。ストロガノフ家が雇った。840人。1582年、シビル汗国のクチュムを破った。イヴァン雷帝が鎖帷子を贈った。1585年、川岸の夜襲でその鎧を着たまま溺れた。シベリアの英雄。歌になった。トボリスクに記念碑。
- バレンツの越冬できごとAD1596年氷の家北東航路を探して三度目、ノヴァヤゼムリャで船が氷に閉じられた。流木で小屋を建て、白熊と極夜と壊血病の中で10か月。6月、ボート2隻で出て、バレンツは7日目に死んだ。12人が帰った。1871年、小屋が見つかった。時計、本、フルート。彼の名の海。ノヴァヤゼムリャ
- ハドソン湾の発見と遭難できごとAD1611年6月北西航路北西航路を探して湾に入り、氷に閉じ込められて越冬した。春、船員が反乱して、ハドソンと息子と病人7人を小舟に乗せて置き去りにした。二度と見つからなかった。湾も川も海峡も、その名になった。ハドソン湾
- ネイピアの対数できごとAD1614年航海表のために掛け算を足し算に変える。スコットランドの領主ジョン・ネイピアが20年かけて表を作った。数を並べ、その指数を並べれば、掛けたい二数の指数を足して引き直せばよい。天文学者は、それまで何日もかけていた計算を数時間で済ませられるようになった。ラプラスが「天文学者の寿命を二倍にした」と言った。ブリッグズが常用対数に直し、オートレッドが二本の対数目盛りを滑らせる計算尺を作った。この道具は、アポロ計画まで使われた。エディンバラ
- バタヴィア号の遭難できごとAD1629年6月4日曲がり目を見誤ると、未知の大陸にぶつかる1629年6月4日の未明、ジャワのバタヴィアへ向かっていたオランダ東インド会社の船バタヴィア号が、オーストラリアの西の沖の岩礁に乗り上げた。司令官のペルサールトは小舟で助けを呼びに発つ。残された島で、商務員のコルネリスが仲間と組んで島を支配し、百人を超える男女と子どもを殺した。救援の船が着いたとき、兵士たちの別の一団が抵抗を続けていた。反乱者は処刑され、二人は大陸の岸に置き去りにされる。この二人が、記録に残る最初のオーストラリアに住んだヨーロッパ人になった。アブロルホス諸島(位置は特定されていない)
- タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達できごとAD1642年11月24日南の大陸を探してオランダ東インド会社が南の大陸を探しに出した。タスマニアに名をつけ、ニュージーランドでマオリに4人殺されて上陸せず、オーストラリア本体を見ないまま一周して帰った。「利益がない」と会社は言った。タスマニア(位置は特定されていない)
- ドードーの絶滅できごとAD1662年飛ぶ必要がなかった鳥モーリシャス島には捕食者がいなかった。だから、この鳩の仲間は飛ぶ必要がなく、地面に巣を作り、人を恐れなかった。1598年にオランダ人が上陸し、100年経たずに姿を消した。人が食べた数より、持ち込まれた豚と鼠と猿が卵を食べた影響が大きい。最後の確実な目撃は1662年。標本はほとんど残らず、オックスフォードの一体も1755年に大半が焼却された。「絶滅」という現象を、人が初めて自分の目で確かめた例になった。モーリシャス
- ヴィトゥス・ベーリング人物AD1681年 – AD1741年12月19日顔が復元されたデンマークのホーセンス。ロシア海軍。1725年、ピョートルの命でシベリアを横断してカムチャツカへ。3年かけて着いて、船を造って、海峡へ。1741年、アラスカ。帰りに島で。1991年、墓が見つかって、顔が復元された。太っていなかった。
- ロイズと海上保険できごとAD1688年航海一件ごとに引き受けるテムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。ロンドン
- 経度法できごとAD1714年経度が出ない緯度は太陽か北極星の高さで出る。経度が出ない。地球は1時間で15度回るから、出港地の時刻を持ち歩けば、その場の正午との差で分かる。しかし、揺れて温度も湿度も変わる船で、正確に動く時計がなかった。1707年、シリー諸島で艦隊が座礁し2000人近くが死んだ。1714年、議会が賞金2万ポンドを設けた。天文学者は月の位置から出す方法を推した。時計職人が挑んだ。ロンドン
- 『ロビンソン・クルーソー』できごとAD1719年4月25日28年の島59歳のデフォーが、セルカークの4年の無人島の話を元に、28年の島の話を書いた。難破、日記、帳簿、柵、山羊、麦、傘、フライデー。ホモ・エコノミクスの神話、とマルクスが言い、ルソーは『エミール』の唯一の本にした。イギリスで最初の小説、と言われる。表紙に「彼自身が書いた」とあって、デフォーの名はない。ロンドン

- ロッゲフェーンのイースター島到達できごとAD1722年4月5日復活祭の日に見つけた島1722年4月5日、南の大陸を探していたオランダのロッゲフェーンの船団は、太平洋の真ん中に孤立した島を見つけた。その日が復活祭(イースター)の日曜日だったので、「イースター島」と名づける。上陸した一行は、巨大な石の像が立ち並んでいるのを見て、道具も木材も無いこの島でどうやって立てたのかと驚いた。ヨーロッパ人がラパ・ヌイを訪れた最初の記録である。それから百五十年のあいだに、像は倒され、奴隷狩りと天然痘で島の人々は百人あまりにまで減った。イースター島
- ジェームズ・クック人物AD1728年11月7日 – AD1779年2月14日三度の航海で太平洋の地図をほぼ完成させた。ハワイで現地の人々と衝突して死ぬ。
- ベーリングの海峡できごとAD1728年霧で向こう岸は見えなかったピョートルが死ぬ3週間前に命じた。「アジアとアメリカはつながっているか」。デンマーク人がカムチャツカで船を造り、北へ。霧で向こう岸は見えなかった。1741年、二度目でアラスカを見て、帰りに島で壊血病で死んだ。海峡、海、島に名が残った。ロシアがアラスカを持つ始まり。ベーリング海峡
- アーサー・フィリップ人物AD1738年10月11日 – AD1814年8月31日死者48人ロンドンのドイツ人の語学教師の子。海軍。第一船団の司令官で、初代ニューサウスウェールズ総督。8か月の航海で、囚人の死者は48人(当時としては非常に少ない。野菜と清潔に気を配った)。飢えかけた最初の3年を耐えた。先住民との関係を穏やかに保とうとして、槍で肩を刺されても報復を禁じた。ベネロンを友人にして、イギリスへ連れて行った。
- ジョゼフ・バンクス人物AD1743年2月24日 – AD1820年6月19日クックの第一回航海に自費で乗った自費でクックの第一回航海に乗り込み、数千の標本を持ち帰った。以後41年、王立協会の会長として科学と植民地を結びつける。
- ピエール・メシャン人物AD1744年8月16日 – AD1804年9月20日ラン生まれ。建築家の子で、家が傾き、測量と天文の助手になった。彗星を十三個見つけている。メートルを定めるための子午線測量では、南半分のロデーからバルセロナを受け持った。革命下、スパイと疑われて捕らえられ、事故で重傷を負い、戦争で帰国できずに三年足止めされた。バルセロナで測った緯度が二組の値で食い違うことに気づき、それを公表しないまま生涯苦にした。1803年、測量をやり直すために出発し、翌年スペインで黄熱病により死んだ。
- 伊能忠敬人物AD1745年2月11日 – AD1818年5月17日一身にして二生上総の生まれ。佐原の伊能家に婿入りして酒と米で家を大きくした。50歳で隠居し、江戸で高橋至時に天文を習った。地球の大きさを知りたくて蝦夷地を測り、幕府が続けさせた。10次、17年、4万キロ。歩幅で距離を測った。「一身にして二生」。
- 鯨油できごとAD1750年頃夜を明るくする最良の油は、マッコウクジラの頭部から採れた。煙が少なく、臭わず、白く明るい。頭の中の脳油は冷えると蝋になり、ほとんど煤の出ない蝋燭になった。ナンタケット島とニューベッドフォードの船が、大西洋から太平洋へ、そして日本の沖へと漁場を広げていく。航海は三年に及んだ。乗組員は多様で、逃亡奴隷と先住民と各国の船乗りが同じ船で働いた。鯨油の値が高騰し、そして石油とガス灯が、この産業を終わらせた。ナンタケット
- カメハメハ1世人物AD1758年頃 – AD1819年5月8日西洋の武器を取り入れてハワイ諸島を統一した。その王国は、死後の1843年に英仏から独立国として承認される。
- ハリソンの航海時計できごとAD1761年委員会は渋り続けたヨークシャーに生まれリンカンシャーで育った大工の子で、独学の時計職人ジョン・ハリソンが、31年かけて4台を作った。H1からH3は大きな機械。H4は直径13センチの懐中時計だった。1761年、ジャマイカまでの81日の航海で、遅れは5秒。経度にして誤差は数キロ。委員会は賞金を渋り、条件を足し続けた。1773年、80歳の彼は国王ジョージ3世の口添えで、ようやく相当額を受け取った。賞金そのものは、誰にも与えられなかった。ロンドン
- クックの太平洋航海できごと1768年太平洋の地図がほぼ完成する三度の航海で太平洋の地図がほぼ完成した。同時に、この海域が列強の関心の的になる。ハワイ(位置は特定されていない)
- テ・ラウパラハ人物AD1768年頃 – AD1849年11月27日マスケット銃を早くに取り入れ、ニュージーランドの勢力図を塗り替えた。彼の作ったハカがいまも歌われている。
- マンゴ・パーク人物AD1771年9月11日 – AD1806年ブッサの急流エディンバラで医学。1795年、アフリカ協会。一人でニジェールへ。1797年、帰った。『アフリカ内陸旅行記』。結婚して医者をして、退屈した。1805年、政府の金で40人。マラリアと赤痢で着く前に大半が死に、ブッサの急流で襲われて溺れた。
- 『解体新書』できごとAD1774年(安永3年)辞書なしで3年半1771年、杉田玄白と前野良沢が小塚原の刑場で腑分けを見て、持っていたオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の図と同じだと知った。翌日から翻訳を始めた。辞書はなく、良沢が少しオランダ語を読めるだけ。「鼻はフルヘッヘンドしている」を「うずたかい」と解くのに1日。3年半。「神経」「軟骨」「動脈」はこのとき作られた言葉。蘭学の始まり。江戸

- 間宮林蔵人物AD1780年 – AD1844年4月13日デレンまで常陸の農民の子。伊能忠敬に測量を習った。1808年、松田伝十郎と樺太へ。1809年、一人で北端に近いナニオーまで行き、海峡を渡って大陸のデレンへ。『東韃地方紀行』。帰って隠密になった。シーボルト事件で高橋景保を密告した、と言われる。
- バウンティ号の反乱できごとAD1789年4月28日パンノキを運ぶ船の反乱1789年4月28日、パンノキの苗をタヒチから西インド諸島へ運んでいたイギリス海軍の船バウンティ号で、航海士のフレッチャー・クリスチャンらが反乱を起こし、艦長のブライと従う18人を小舟に下ろした。ブライは海図も無いまま六千キロ以上を漕ぎ渡り、ティモールにたどり着く。反乱者たちはタヒチの男女を連れて、海図の位置が誤っていた無人のピトケアン島に隠れ、船を焼いた。島は殺し合いの末に男が一人になるまで荒れたが、その子孫はいまも島に住んでいる。トンガ(位置は特定されていない)
- マンゴ・パークのニジェール川できごとAD1796年7月20日東に流れる川スコットランドの医者が、アフリカ協会の金で、ガンビアから一人で東へ。捕えられ、逃げ、飢えて、ニジェール川が東に流れるのを見た。「私が探していた川」。帰って本を書いた。1805年、40人で戻り、全員死んだ。川がどこへ流れるかは、25年後にランダー兄弟が確かめた。セグー(ニジェール川)
- インド大三角測量できごとAD1802年地元の名があったのに前任者の名を付けた東インド会社が、インド全土を三角測量で測る事業を始めた。ラムトンが起こし、ジョージ・エベレストが引き継いだ。半世紀以上かかった。測量士は、マラリアと虎と、そして半トンの経緯儀を担いで山を登った。死者が多く、ある年には隊員の半数が死んだ。1852年、計算室の主任ラダナート・シクダールが、ある山の高さが世界最高であると算出した。地元にチョモランマとサガルマータの名があったが、測量局は前任者の名を付けた。エベレスト本人は、それに反対した。チェンナイ
- 間宮林蔵の樺太探検できごとAD1809年樺太は島幕府の命で樺太へ。北端に近いナニオーまで行って、樺太が島だと確かめた。アイヌの船で海峡を渡り、黒竜江を遡って清の役所に着いた。「間宮海峡」。シーボルトが地図に書いた。ヨーロッパ人はまだ知らなかった。林蔵はシーボルト事件で密告した側になり、嫌われた。樺太(間宮海峡)
- ハワイ王国の統一できごとAD1810年西洋の武器を取り入れて諸島をまとめた。独立王国として各国に承認される。ハワイ(位置は特定されていない)

- デイヴィッド・リヴィングストン人物AD1813年3月19日 – AD1873年5月1日改宗させたのは一人スコットランドの紡績工場の子。10歳から働き、夜学で医学。宣教師として南アフリカへ。改宗させたのは一人。カラハリを越え、ザンベジを下り、ヴィクトリアの滝に名をつけた。「奴隷貿易を止めるには商業と文明を」。ナイルの源を探して、ザンビアの村で跪いて死んだ。心臓は木の下に、体はウェストミンスターに。
- 伊能忠敬の日本図できごとAD1821年4万キロ歩いた酒造家を隠居した50歳が、19歳年下の天文学者に弟子入りし、55歳から17年、歩いて日本を測った。4万キロ。死んで3年後、弟子が『大日本沿海輿地全図』を完成させた。緯度は正確で、経度は少しずれた。シーボルトが写しを持ち出し、ヨーロッパの日本地図になった。江戸
- リチャード・バートン人物AD1821年3月19日 – AD1890年10月20日29の言語29の言語。アフガン人に変装してメッカに入った。ハラルに入った。タンガニーカ湖。『千夜一夜』と『カーマ・スートラ』を訳した。トリエステの領事。妻イザベルが死後、原稿を焼いた。「頬に槍の傷」。
- ジョン万次郎人物AD1827年1月27日 – AD1898年11月12日鳥島から捕鯨船へ土佐の漁師の子。14歳で漂流し、鳥島でアメリカの捕鯨船に拾われ、マサチューセッツで学び、金鉱で稼いで、10年後に帰った。ペリーが来たとき幕府に呼ばれ、アメリカを知る唯一の日本人として通訳し、咸臨丸に乗った。
- ジョン・ハニング・スピーク人物AD1827年5月4日 – AD1864年9月15日正しかったインド軍。バートンと二度アフリカへ。1858年、ヴィクトリア湖。「ナイルの源」。1862年、リポン滝。バートンと争った。1864年9月15日、バース。討論の前日、狩りで猟銃が暴発した。「正しかった」と、後に分かった。
- ビーグル号の航海できごとAD1831年12月27日5年で世界を回った22歳の博物学者が5年、世界を回った。集めた化石と、島ごとに違う鳥の嘴が、帰ってから20年かけて一つの考えになる。プリマス

- リリウオカラニ人物AD1838年9月2日 – AD1917年11月11日ハワイ最後の君主。米国系の勢力に退位させられ、流血を避けるために抵抗しなかった。『アロハ・オエ』の作者。
- ヘンリー・モートン・スタンリー人物AD1841年1月28日 – AD1904年5月10日岩を砕く男ウェールズの私生児。救貧院。ニューオーリンズの商人の名を取った。南北戦争で両軍に。ニューヨーク・ヘラルドの記者。リヴィングストンを見つけ、コンゴを源から河口まで下り、レオポルド2世のためにコンゴ自由国を作った。「岩を砕く男」。
- フランクリン隊の遭難できごと1845年5月北極で消えた129人1845年5月、イギリス海軍のジョン・フランクリンは、2隻の軍艦エレバス号とテラー号に129人を乗せ、大西洋から北極の島々を抜けて太平洋へ出る北西航路を探しに出た。3年分の缶詰を積み、蒸気機関まで備えた、当時最高の装備の探検隊だった。だが船は氷に閉じ込められ、二度と戻らなかった。十数年に及ぶ捜索で、イヌイットの証言と、氷の上に残された書き置きや遺骨が見つかり、フランクリンは1847年に死に、残った者は船を捨てて歩き出し、全員が倒れたことが分かった。2隻の沈没船は、2014年と2016年にようやく海底で見つかった。キングウィリアム島(位置は特定されていない)
- ロバート・ピアリー人物AD1856年5月6日 – AD1920年2月20日足の指を8本海軍の技師。グリーンランドに8回。足の指を8本凍傷で失った。イヌイットの隕石を持ち帰って博物館に売った。イヌイットの子供が二人。1909年、北極点。クックと争った。議会が「到達」と認めた。1988年、ナショナル・ジオグラフィックが「届かなかったかもしれない」。
- バートンとスピークのタンガニーカ湖できごとAD1858年2月13日討論の前日ナイルの源を探して。二人とも病気で、バートンは歩けず、スピークは目が見えなかった。帰りにスピークが一人で北へ行き、ヴィクトリア湖を見て「これがナイルの源」。バートンは認めなかった。1864年、討論の前日、スピークが猟銃で死んだ。事故か自殺か。タンガニーカ湖
- ポニー・エクスプレスできごとAD1860年4月3日3100キロを10日ミズーリ州セントジョセフからカリフォルニアのサクラメントまで3100キロを、10日で運ぶ。15キロごとに中継所を置き、騎手は馬を替えながら100キロ前後を走り、次の騎手に鞍袋を渡す。騎手は体重が軽い若者が選ばれ、「孤児優先」と募集広告にあったと伝えられる。運んだのは軽い書簡だけで、料金は当初半オンスごとに5ドル。18か月で終わった。1861年10月、大陸横断電信が開通し、その二日後に廃業した。セントジョセフ
- バークとウィルズの大陸縦断できごとAD1860年8月20日先住民の知恵を持たなかった探検隊1860年8月20日、ロバート・バークとウィリアム・ウィルズの一行は、ラクダを連れてメルボルンを発ち、オーストラリアの南から北の海まで、内陸を縦断しようとした。北の海に近い河口の湿地にたどり着いたものの、クーパー川の基地に戻ったのは、待っていた仲間が引き揚げたわずか九時間後だった。二人はその近くで飢えて死ぬ。ただ一人生き残ったキングは、土地の先住民ヤンドルワンダの人々に食べ物を分けてもらい、救われた。その土地で生きる知恵が、探検隊には無かった。クーパー川(位置は特定されていない)
- フリチョフ・ナンセン人物AD1861年10月10日 – AD1930年5月13日ナンセン・パスポート動物学者。1888年、スキーでグリーンランドを横断した。フラム。北緯86度。1905年、ノルウェーの独立でロンドン大使。1920年、国際連盟。「ナンセン・パスポート」。難民に。ロシアの飢饉。1922年、ノーベル平和賞。
- 白瀬矗人物AD1861年7月20日 – AD1946年9月4日11歳で北極を秋田の寺の子。11歳で北極を志した。陸軍。千島で越冬して仲間が死んだ。50歳で南極。開南丸。ロス棚氷。「大和雪原」。帰って講演で借金を返し、貧しく85歳まで生きた。白瀬の名は、南極の氷河と、日本の観測船に。
- マシュー・ヘンソン人物AD1866年8月8日 – AD1955年3月9日先に立っていたかもメリーランドの黒人の小作農の子。12歳で船のボーイ。ピアリーの助手22年。イヌイット語を話し、橇を作り、犬を御した。1909年、ピアリーより先に点に立っていたかもしれない。帰ってニューヨークの税関の事務員。1944年、議会の勲章。1988年、アーリントンに移された。
- ロバート・スコット人物AD1868年6月6日 – AD1912年3月29日頃走り書きと死体が海軍。1902年、南極。1911年、テラ・ノヴァ。ポニーと機械橇と人力。南極点、1912年1月17日。帰り、エヴァンズ、オーツ「少し外へ出てくる」、そして3人。補給所まで18キロ。「これらの走り書きと我々の死体が物語を語る」。英雄になった。
- スタンリー、リヴィングストンに会うできごとAD1871年11月10日博士ですね新聞社の金で、消息の絶えた宣教師を探して8か月。タンガニーカ湖の岸の村で。「リヴィングストン博士ですね」。言ったかどうか、彼の日記のその日の頁は破られている。リヴィングストンは帰らず、2年後に死んだ。スタンリーはコンゴを下り、レオポルドに売った。ウジジ
- ロアール・アムンセン人物AD1872年7月16日 – AD1928年6月18日北も南も最初に医学をやめて船へ。1906年、北西航路を最初に通り抜けた。イヌイットに犬と毛皮を習った。1911年、南極点。1926年、飛行船ノルゲで北極点を越えた。1928年、墜落したノビレを探しに飛んで、消えた。北も南も、彼が最初に。
- チャレンジャー号の探検できごとAD1872年12月21日深い海の底を初めて調べる1872年12月、イギリス海軍の軍艦チャレンジャー号が、大砲の多くを降ろし、実験室と測深の装置を積んでポーツマスを出た。目的は、それまでほとんど知られていなかった深い海の底を調べることだった。3年半をかけて世界の海を回り、何百か所で錘のついた綱を海底まで下ろして深さを測り、海底の泥と生き物をすくい上げた。グアムの近くでは8000メートルを超える深さを測った。持ち帰った標本からは数千の新しい種が見つかり、報告は50巻に及んだ。深い海には生き物がいないという考えは覆され、海洋学という学問がここから始まった。ポーツマス(イギリス)
- 本初子午線会議できごとAD1884年10月1日海図が噛み合わない経度をどこから測るか。各国が自国の天文台を基準にしていた。パリ、カディス、フェロー島、リオ、東京。海図が噛み合わない。25か国がワシントンに集まり、グリニッジを本初子午線とすることを決めた(賛成22、反対1=サント・ドミンゴ、棄権2=フランスとブラジル)。理由は科学ではなく、当時の船舶の7割以上がグリニッジ基準の海図を使っていたからである。同時に、グリニッジの真夜中に始まる世界共通の一日を定めたが、時間帯の区分までは決めなかった。フランスは1911年までパリ子午線を使い続けた。ワシントンD.C.
- ハワイ王国の転覆できごとAD1893年1月17日砂糖農園主らが海兵隊の後ろ盾で女王を退位させた。5年後にアメリカが併合する。ハワイ(位置は特定されていない)

- ナンセンのフラム号できごとAD1893年海が動いている氷に閉じ込めても潰れない船を作り、シベリアの北で氷に入れて、海流で北極点を越えようとした。3年。点には届かず、ナンセンは一人と犬で歩いて北緯86度14分、人類の最北。帰りの冬をシロクマの肉と脂で越した。船も人も帰った。海が動いていることが分かった。北極点
- 北西航路の初めての通過できごとAD1903年6月16日イヌイットに学んだ探検ヨーロッパから北アメリカの北の氷の海を抜けてアジアへ出る北西航路は、四百年にわたって探検家を引き寄せ、多くの命を奪ってきた。1903年、ノルウェーのロアール・アムンセンは、わずか6人の仲間と小さなニシン漁の船ヨーア号で出発した。大きな船では通れない浅い水路を選び、キングウィリアム島の入江で二度の冬を越した。そのあいだ、土地のイヌイットから、毛皮の服の作り方や犬ぞりの扱いを学んだ。1906年8月、一行はアラスカのノームに着き、船で北西航路を通り抜けた最初の人々になった。キングウィリアム島(位置は特定されていない)
- ピアリーの北極点できごとAD1909年4月6日着いたと認められた最初8度目。犬橇でエルズミア島から。「星条旗を立てた」。ヘンソンと4人のイヌイットと。帰ると、クックが「私が1年前に」と言っていた。議会が認めた。彼の速度と記録には、いまも疑いがある。本当に着いたかは分からない。着いたと認められた、最初。北極点
- アムンセンの南極点できごとAD1911年12月14日犬を食べながら北極点に先を越されて、黙って南へ向きを変えた。犬52頭、5人。犬を食べながら。テントと手紙を残した。5週間後、スコットの5人が着いて、ノルウェーの旗を見た。帰りに全員が死んだ。「神よ、ここは恐ろしい場所だ」。日記は翌年見つかった。南極点
- 白瀬矗の南極探検できごとAD1912年1月大和雪原204トンの漁船で。政府は金を出さず、大隈重信が募った。アムンセンとスコットが点を争っている同じ月に、ロス棚氷を280キロ走って引き返した。「大和雪原」。帰ると借金だけ残り、講演で返した。日本人が南極に立った最初。南極点
- テンジン・ノルゲイ人物AD1914年 – AD1986年5月9日どちらが先か言わなかったチベットのカム地方の生まれ。クンブでシェルパ。1935年から7回エベレストへ。1953年、7回目。「どちらが先か」を言わなかった。「ヒラリーが先」と自伝で書いた。ダージリンで登山学校の校長。息子ジャムリンも登った。
- エドモンド・ヒラリー人物AD1919年7月20日 – AD2008年1月11日5ドル札養蜂家。1953年、エベレスト。「あの野郎をやっつけた」。それから南極点まで農業用トラクターで。シェルパのために学校と病院を建てた。妻と娘を飛行機事故で失った。ニュージーランドの5ドル札。
- ツタンカーメン王墓の発見できごとAD1922年11月4日見つける側の歴史ほぼ未盗掘の王墓が見つかった。少年王が有名なのは、その治世ではなく墓が残ったため。テーベ

- アクアラングの発明できごとAD1943年フランス海軍の士官ジャック=イヴ・クストーは、魚のように自由に海を泳ぎたいと願っていた。ドイツに占領された1943年、彼は技師エミール・ガニャンとともに、燃料不足の自動車を調理用のガスで走らせるための弁を作り変え、吸うときだけ背中のボンベから空気が出る仕組みを作った。南フランスの海で試し、仲間は60メートルを超える深さまで潜った。船から管で空気を送ってもらう重い潜水服から、人は解き放たれた。クストーは水中の撮影も進め、1956年の映画『沈黙の世界』は、海の中の世界を多くの人に初めて見せた。トゥーロン
- エベレスト初登頂できごとAD1953年5月29日15分いたニュージーランドの養蜂家とネパールのシェルパが、午前11時30分、15分いた。「どちらが先に足を置いたか」を二人は答えなかった。知らせは6月2日、エリザベスの戴冠式の朝に着いた。マロリーとアーヴィンが1924年に着いていたかは、いまも分からない。エベレスト
- ナイノア・トンプソン人物AD1953年3月11日 – ?計器を使わずにハワイからタヒチへ渡った計器を使わずにハワイからタヒチへ渡った。ポリネシアの航海術が実際に機能することを、実演して示す。
- マリアナ海溝の底へできごとAD1960年1月23日海のいちばん深いところ1960年1月23日、スイスの科学者ジャック・ピカールとアメリカ海軍のドン・ウォルシュ大尉は、潜水艇トリエステ号に乗って、グアムの南西、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵の底へ下りた。トリエステ号は、ジャックの父オーギュスト・ピカールが考えた、ガソリンを詰めた浮きの下に二人が入る鋼の球を吊るした乗り物である。5時間ほどかけて下り、深さは一万メートルを超えた。途中で窓にひびが入る音がしたが、二人は底に着き、20分ほどとどまった。人がこの深さに再び下りたのは、52年後のことだった。チャレンジャー海淵(位置は特定されていない)
- アポロ11号の月面着陸できごとAD1969年7月20日行けるかどうかを試し続けた先人類が地球以外の天体に立った。冷戦の競争が、そのまま到達点になった。
- パプアニューギニアの独立できごとAD1975年9月16日内陸と外の世界が出会ったのは1930年代800を超える言語が話される土地が、一つの国として独立した。植民地の境界線がそのまま国境になった例で、統合はいまも課題として残る。ポートモレスビー
- ホクレア号のタヒチ航海できごとAD1976年拡散が漂流でなかったことの実証計器を使わない航海術で、ハワイからタヒチへ渡った。ハワイでは既に失われていた技術を、ミクロネシアの最後の航海者から学び直している。拡散が偶然の漂流でなかったことの実証になる。ハワイ(位置は特定されていない)
- 国連海洋法条約できごとAD1982年12月10日200海里の経済水域海は誰のものか。17世紀、グロティウスが自由な海を説き、セルデンが閉じられた海を説いた。長く、大砲の届く距離、およそ3海里が領海とされた。20世紀、海底の資源と漁業をめぐって主張が広がった。9年の交渉の末に採択され、ジャマイカのモンテゴ・ベイで署名が始まった条約が、領海12海里、排他的経済水域200海里、そして大陸棚の定義を決めた。深海底は人類の共同財産とされた。アメリカは、その部分を理由に、いまも批准していない。モンテゴ・ベイ
- グズリーズ・ソルビャルナルドッティル人物アメリカで産んだアイスランドからグリーンランドへ。夫が死に、レイフの弟に嫁ぎ、また死に、ソルフィン・カールセフニと組んでヴィンランドへ。そこで息子スノッリを産んだ。アメリカで生まれた最初のヨーロッパ人。帰ってローマに巡礼し、修道女になった。「遠くまで行った女」。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
海の歴史23件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。大航海時代17件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。交易路とお金17件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。帝国と独立12件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。確かめるという方法12件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『サピエンス全史』で読む歴史12件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史11件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。技術と産業10件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史9件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀6件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。キリスト教のひろがり5件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。武士の700年4件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。民族移動の時代4件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。誰が書き残したか4件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『文明崩壊』で読む歴史4件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『世界史』(マクニール)で読む歴史4件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。インドと仏教3件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。中国の王朝3件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。イスラム世界3件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。接触前のアメリカ3件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『昨日までの世界』で読む伝統社会3件を共有 / 国家のない社会は、争いも子育ても老いも、私たちと違うやり方で扱ってきた。何を学べるか。交通と旅の歴史3件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。女性の権利2件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。草原の帝国2件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。ヴァイキング2件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。文明のはじまり2件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史2件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『リオリエント』で読む世界経済2件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。元禄から化政へ — 江戸の町人文化2件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。幕末1件を共有 / 黒船が来てから15年で、700年近く続いた武家政権が終わった。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。考えることの歴史1件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。日本の古代1件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。表現の歴史1件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『想像の共同体』で読む歴史1件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『1491』『1493』で読む新大陸1件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ1件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。『史記』で読む中国1件を共有 / 2000年前に、一人の男が3000年ぶんを書いた。宮刑を受けてなお書き続け、以後の中国の歴史書の型になった。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。