陶淵明「帰去来の辞」
概要
県令になって80日、上役の視察に礼服で会えと言われ、「五斗米のために腰を折れるか」と印を置いて帰った。以後22年、田を耕し、酒を飲み、詩を書いた。隠者の詩の手本になる。
場所
29.55°N 115.98°E · 中国・江西省
関わった人(1)
陶淵明AD365年–AD427年 · 詩人本文
4世紀の終わりから5世紀の初めの中国の南は、東晋の成立から百年近くがたち、王朝の力が衰えていた。朝廷の実権は有力な将軍や門閥の貴族が争い、反乱が相次いだ。402年には将軍の桓玄が都を占め、翌年には帝位を奪う。これを倒したのが、のちに宋を建てる劉裕である。役人になるということは、こうした実力者のだれかの下につくことでもあった。
陶淵明は、潯陽の柴桑(いまの江西省九江の近く)の人である。曾祖父の陶侃は東晋の初めに大司馬にまでなった武将だったが、家はその後に傾き、淵明が生まれたころには貧しかった。淵明は二十代の終わりに州の役人になったのをはじめ、何度か役所勤めをしては辞めることを繰り返した。桓玄や劉裕の幕僚を務めた時期もあったとされる。勤めに出るのは、耕しても家族を養えなかったからだと、自分で書いている。

405年の秋、淵明は彭沢(いまの江西省北部)の県令になった。県の長官である。役所の田で、酒の原料になる秫を植えさせようとしたが、妻に頼まれて一部を稲にした、という話も伝えられている。在任は八十日あまりだった。『宋書』などの伝によれば、郡から監察の役人が回ってくることになり、下役が、帯を締めて礼装でお迎えなさい、と言った。淵明は嘆いて、自分は五斗の米のために、田舎の小役人に腰を折ることはできない、と言い、その日のうちに官印を返して辞めたという。五斗米は県令の俸給を指した言い方である。
ただ、淵明自身が「帰去来の辞」に添えた序文には、別の理由が書かれている。武昌に嫁いでいた妹が亡くなり、駆けつけたいと思って職を辞したという。同じ序文で、本来の自分の性分は自然のままで、飢えや寒さはつらくても、自分を曲げることのほうがよほど苦しい、とも述べている。腰を折らなかったという逸話は、のちの伝が人柄を鮮やかに描くために伝えたものだと見る人もいる。

「帰去来の辞」は、そうして故郷へ帰る心を歌った辞である。帰りなんいざ、田園はまさに荒れようとしている、どうして帰らずにいられよう、と始まる。これまで心を体の召使いにしてきたことを悔やみ、過ぎたことは取り返せないが、これからのことは追うことができる、と続く。舟で家に向かい、門の前で子どもたちに迎えられ、庭の小道は荒れても松と菊はまだ残っている。酒を注ぎ、庭の木を眺め、ときに丘に登り、清い流れのほとりで詩を作る。最後は、天命を楽しめばよい、何をためらうことがあろう、と結ばれる。
それから淵明は二度と役所に戻らず、427年に死ぬまで二十年あまり、故郷で田を耕して暮らした。暮らしは楽ではなく、家が火事で焼けたこともあり、晩年には食べ物を乞いに出たことを詩に書いている。その間に「飲酒」二十首や「園田の居に帰る」、理想の村を描いた「桃花源記」などが生まれた。「桃花源記」は、谷川をさかのぼった漁師が、桃の林の奥の洞穴を抜けて、秦の時代の戦乱を逃れた人々が外の世の移り変わりを知らずに暮らす村に行き着く話である。漁師は帰ってから役人に知らせるが、二度とその村は見つからなかった。この話から「桃源郷」という言葉が生まれた。420年に劉裕が東晋を倒して宋を建てたが(劉裕の宋建国)、淵明は新しい王朝に仕えなかった。宋の年号を使わずに干支で年を記したという話もあるが、これには疑問も出されている。

淵明の詩は、生きているあいだはあまり評価されなかった。飾りの多い美しい文が好まれた時代に、その言葉は素朴すぎたのである。6世紀の梁の昭明太子は、淵明の詩文を集めて序を書き、編んだ詞華集の『文選』にも「帰去来の辞」を収めた。同じころの批評家の鍾嶸は、淵明を古今の隠逸の詩人の祖と呼んだ。唐の詩人たちが淵明を慕い、宋の蘇軾は淵明のほとんどすべての詩に、同じ韻を使った詩を作って和した。役所を辞めて故郷へ帰るという選択は、この辞によって、中国と日本の知識人が繰り返し思い描く生き方の型になった。