応天門の変

概要
大内裏の門が燃えた。大納言伴善男が「左大臣源信が放火した」と告発し、藤原良房が信を守った。8月、逆に善男が犯人だと訴えられ、伊豆へ流された。伴(大伴)氏は消え、良房は摂政の詔を受けて、人臣の摂政が正式なものになった。『伴大納言絵詞』が門の火を描いている。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
藤原良房AD804年–AD872年 · 摂政に本文
866年閏3月10日の夜、平安京の大内裏で火の手が上がった。燃えたのは応天門である。朝廷の重要な儀式を行う朝堂院の正門で、左右の楼閣とともに焼け落ちた。
まもなく、大納言の伴善男が、左大臣の源信が火をつけたと訴え出た。源信は嵯峨天皇の皇子で、臣籍に下って源の姓を与えられた人である。善男と信は、かねて仲が悪かったとされる。右大臣の藤原良相は善男の訴えを受けて、信を捕らえようとした。

これを止めたのが、太政大臣の藤原良房だった。良相の兄である。後世の説話によれば、良房はこの話を聞いて驚き、まだ若い清和天皇のもとへ急いで、信に罪はないと説いた。信への疑いは晴れ、捕縛は取りやめになった。信は罪を問われずにすんだが、恐れて門を閉ざし、家にこもったと伝えられる。
8月3日、事件は逆の方向へ動く。大宅鷹取という下級の役人が、火をつけたのは伴善男とその子の中庸だと訴え出た。鷹取の娘は、その後まもなく善男の従者に殺されている。鷹取の告発に対する報復だったとされる。

善男は否認した。だが、取り調べを受けた従者たちが、善男父子が火をつけたと述べた。9月22日、判決が下された。斬罪にあたるが一等を減じて遠流とされ、善男は伊豆へ、中庸は隠岐へ流された。善男とともに処罰された者も多い。善男は流された伊豆で、868年に死んだ。
伴氏は、もとの名を大伴という。古くから天皇の側近くに仕えて軍事を担った名門で、奈良時代の大伴旅人や家持もこの家の人である。823年、淳和天皇の名(大伴親王)をはばかって伴と改めていた。この事件で、伴氏は政治の舞台から退いた。同じ事件で、同じく古い名門の紀氏の官人も処罰されている。
事件のさなかの8月19日、清和天皇は良房に「天下の政を摂行せよ」と命じた。良房は、皇族ではない臣下として初めて、正式に摂政の任についた。清和天皇が9歳で即位した858年から、良房は事実上の摂政として政治を執っていたとされるが(藤原良房の摂政)、それがこの詔で形になった。
事件の真相は分かっていない。火事が放火だったのか、失火だったのかさえ、確かではない。善男が本当に火をつけたのか、あるいは信を陥れようとした善男が逆に罠にかかったのか。善男を退け、信を恐れさせ、良相の動きを封じて、最後に摂政の座を得た良房が、最も得をしたことは確かである。そのため、良房が事件を利用した、あるいは仕組んだと見る研究者もいる。承和の変に続く、藤原北家の他氏排斥の一つに数えられる。
この事件を描いた絵巻が、『伴大納言絵詞』である。12世紀の後半、後白河上皇の周りで作られたと考えられ、宮廷の絵師常盤光長の筆とされる。上中下の三巻。燃えさかる門と、それを見ようと駆け集まる人びとの群れを、絵師は生き生きと描き分けた。中巻では、子どもの喧嘩に親が割って入り、そこから「伴大納言が門に火をつけるのを見た」という秘密が漏れ出す。事件から300年後の人びとが、どう語り伝えていたかを示す絵巻で、国宝として出光美術館に収められている。
応天門はその後再建された。いまの京都の平安神宮の門は、1895年、平安遷都1100年を記念して、平安京の応天門をかたどって建てられたものである(平安京遷都)。
良房から始まった摂政、そして良房の養子藤原基経から始まる関白は、藤原北家が天皇に代わって政治を執る地位として続いた。武家の時代になっても形の上では残り、廃止されたのは1867年の王政復古のときである。応天門の火は、千年続く地位が生まれるきっかけの一つになった。