パブロ・ピカソ
概要
マラガ。画家の父が、息子の絵を見て筆を置いた。バルセロナ、1904年からパリ。青の時代、薔薇色の時代、『アヴィニョンの娘たち』、キュビスム(ブラックと)、コラージュ、新古典、シュルレアリスム、『ゲルニカ』(1937年)、陶器、晩年の版画。女が7人、絵が5万点。共産党員。「私は探さない。見つける」。91歳。20世紀で最も有名な画家で、最も嫌われた夫。
関わったできごと(1)
『アヴィニョンの娘たち』AD1907年 · 描いた本文
パブロ・ピカソは、1881年10月25日、スペイン南部のマラガに生まれた。洗礼名は聖人や親族の名を連ねた長いものである。父ホセ・ルイス・ブラスコは美術学校の教師で、鳩の絵を得意とする画家だった。母はマリア・ピカソ・ロペス。スペインでは父の姓と母の姓を並べて名乗るが、彼はのちに、珍しい響きの母の姓だけを名乗るようになった。

絵の才能は早くから目立った。言葉より先に絵を描いたといわれ、10代の初めには大人顔負けの写実の腕を見せた。父が息子の絵を見て、自分の絵筆と絵の具を譲り、もう描かないと言った、という話が伝わるが、これは後に語られた伝説の色合いが濃い。一家は北西部のラ・コルーニャ、次いでバルセロナへ移り、彼はバルセロナの美術学校で学んだ。マドリードの王立美術アカデミーにも入ったが、型にはまった授業に退屈してすぐに通わなくなり、プラド美術館でベラスケスやゴヤを見て過ごした。バルセロナでは、若い芸術家が集まるカフェ「四匹の猫」に出入りした。
1900年、19歳で初めてパリを訪れた。翌1901年、一緒にパリに来た親友の画家カサヘマスが失恋の末に自殺した。この衝撃から、彼は青い色調だけで、貧しい人々、盲人、やつれた母と子を描くようになった。「青の時代」である。1904年、パリのモンマルトルの古びた木造の集合アトリエ「洗濯船」に住みつき、恋人フェルナンド・オリヴィエと暮らし始めると、画面には明るい薔薇色が戻り、旅芸人や道化師の一家が描かれた。作家ガートルード・スタインの肖像を描いたとき、似ていないと言われると、いずれ彼女のほうが似てくる、と答えたという。

1907年、彼は『アヴィニョンの娘たち』を描いた(『アヴィニョンの娘たち』)。5人の裸婦の体は角ばった面に砕かれ、二人の顔はアフリカやイベリアの古い彫刻を思わせる仮面のようだった。仲間の画家たちでさえ困惑した。だが画家ジョルジュ・ブラックはこの絵から刺激を受け、翌年から二人は毎日のように行き来して、新しい絵画を作り上げた。物を一つの視点から写すのでなく、いくつもの方向から見た形を一つの画面に組み立て直す。茶色と灰色の細かな面で埋め尽くされた画面は「キュビスム」と呼ばれた。1912年には、絵の上に布や紙を貼りつける技法を試し、絵画とは何かという問いを押し広げた。
第一次世界大戦でブラックが出征すると、二人の共同作業は終わった。1917年、詩人ジャン・コクトーに誘われ、ディアギレフのバレエ団のための『パラード』の舞台美術を手がけた。その稽古の旅で知り合ったバレリーナのオルガ・コクローヴァと翌年結婚し、上流の暮らしに入った。1920年にはイーゴリ・ストラヴィンスキーの『プルチネッラ』の美術も担当している。1920年代の彼は、古代彫刻のように量感のある女性像を描く新古典主義の作品と、シュルレアリスムに近い歪んだ激しい作品を並行して描いた。1927年、17歳のマリー=テレーズ・ワルテルと出会い、オルガとの結婚を続けながら関係を持った。

1936年、スペイン内戦が始まると、彼は共和国政府の側に立った。翌1937年4月26日、フランコの側についたドイツの空軍部隊が、バスク地方の町ゲルニカを爆撃した(ゲルニカ爆撃)。パリ万国博覧会のスペイン共和国館に飾る壁画を頼まれていた彼は、報道写真を見て主題をこの爆撃に定め、1か月あまりで縦3.5メートル、横7.8メートルの大作を描き上げた。色は白と黒と灰色だけで、泣き叫ぶ母と死んだ子、倒れた兵士、いななく馬と牛が描かれている。『ゲルニカ』は内戦の後も、彼の意志でフランコの独裁が続くスペインには戻されず、ニューヨークの近代美術館に預けられた。スペインに渡ったのは、フランコの死後、民主化が進んだ1981年のことである。
第二次世界大戦が始まり、パリがドイツに占領されても、彼はパリにとどまった。作品の展示は禁じられたが、アトリエで描き続けた。アトリエを訪れたドイツの将校が『ゲルニカ』の写真を見て、これはあなたがやったのかと尋ね、いや、あなたたちがやったのだと答えた、という話が伝わっている。1944年のパリ解放の直後、彼はフランス共産党に入った。1949年、世界平和会議のポスターのために描いた鳩の絵は、平和の象徴として世界中に広まった。

女性たちは、彼の画風の移り変わりと重なるように現れ、去っていった。1936年からは写真家のドラ・マールが恋人になり、『泣く女』のモデルになった。1943年には画家を志す若いフランソワーズ・ジローと出会い、二人の子をもうけた。だがジローは1953年に彼のもとを去り、のちに彼との暮らしを本に書いた。ピカソを自分から捨てた唯一の女性と言われる。その本には、彼にとって女は女神か足ふきマットのどちらかだった、という彼の言葉が記されている。
戦後は南フランスに移り住み、地中海に近いヴァロリスの窯で陶器を何千点も作った。1961年、ジャクリーヌ・ロックと結婚した。晩年の彼は、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を58点の連作で描き直し、マネやドラクロワの名画にも挑んだ。80代になっても仕事の勢いは衰えず、1968年には半年ほどの間に347点の銅版画を制作している。

1973年4月8日、カンヌに近いムージャンの自宅で死んだ。91歳だった。エクサンプロヴァンスの近く、ヴォーヴナルグの城の庭に葬られた。生涯に残した作品は、絵画、彫刻、陶器、版画、素描を合わせて5万点ほどにのぼると推定されている。
彼の死の後には、悲劇が続いた。葬儀への参列を拒まれた孫のパブリートは、漂白剤を飲んで命を落とした。マリー=テレーズは1977年に、ジャクリーヌは1986年に、自ら命を絶った。私は探さない、見つけるのだ、という言葉は彼のものとして知られている。20世紀の美術を最も大きく変えた画家であり、そのそばにいた人々にとっては、最も扱いにくい人間でもあった。