帝国と独立

概要
数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。
この物語について
地図が数十年で塗り分けられ、数十年で戻った。支配していた時間のほうが短かった、という見方もできる。では、なぜそれほど速く塗り分けられ、なぜ同じくらい速く戻ったのか。そして戻ったあとに、何が残ったのか。
ヨーロッパの国々が海の向こうに領土を持つこと自体は、16世紀から始まっていた。スペインとポルトガルはアメリカ大陸の帝国を滅ぼし、カリブ海の島々では、アフリカから運ばれた奴隷の労働で砂糖が作られた。それでも18世紀の半ばまで、アジアとアフリカの大部分では、ヨーロッパ人は海岸の商館で現地の王の許しを得て商売をする客にすぎなかった。インドにはムガル帝国があり、その力が衰えたあとも各地に有力な王国があった。
形勢が変わり始めたのは、ヨーロッパの戦争が世界に広がったときだった。1756年からの七年戦争では、イギリスとフランスが北アメリカとインドでも戦った。その最中の1757年、イギリス東インド会社のクライヴはベンガルの太守と戦い、敵の将軍を寝返らせて勝った(プラッシーの戦い)。わずか数千の兵による戦いが、一つの会社に豊かなベンガルの徴税権をもたらし、以後、会社は軍を持つ国のようにインド各地を支配下に入れていく。南インドのマイソールでは、ティプー・スルタンが1799年に都の陥落とともに戦死するまで抵抗を続けた。

同じ頃、太平洋の南ではイギリスの入植が始まった。1788年、囚人を乗せた第一船団がシドニーの湾に着く。イギリスはこの大陸を「誰のものでもない土地」とみなして領有し、先住民の権利を認めなかった。この建前が裁判所で覆されたのは、1992年のマボ判決のことである。ニュージーランドでは1840年にワイタンギ条約が結ばれたが、英語版では主権をイギリスに譲るとあり、マオリ語版では統治を任せるという意味にとれる言葉が使われていた。そのずれは、いまも議論の的になっている。
インドで決定的な転機になったのは、1857年のインド大反乱だった。会社に雇われたインド人兵士の反乱は北インドに広がり、鎮圧には一年以上かかった。イギリスは翌年、東インド会社からインドの統治を取り上げて国王の直接統治に切り替え、のちにヴィクトリア女王はインド皇帝の称号を名乗る。名ばかりになっていたムガル帝国も、ここで正式に終わった。

19世紀の後半、ヨーロッパの国々は、それまで沿岸にとどまっていたアフリカの内陸へ一気に入り込んだ。1870年ごろ、ヨーロッパが支配していたのはアフリカの1割ほどだったが、第一次世界大戦の前にはエチオピアとリベリアを除くほぼ全土が分け取られていた。1884年から翌年のベルリン会議では、先に実効支配した国が取るという決まりが確かめられ、アフリカ分割は加速した。アフリカの代表は一人も招かれていない。会議の席で引かれた直線の国境は、いまの地図にもそのまま残っている。
それを可能にしたのは技術だった。蒸気船は川をさかのぼり、鉄道は内陸へ兵と物資を運び、電信は命令を速く届けた。キニーネでマラリアを防げるようになって、ヨーロッパ人は熱帯の内陸で生き延びられるようになった。そして連発の機関銃が、兵の数の差を逆転させた。1898年のオムドゥルマンの戦いでは、スーダンのマフディー軍が1万人以上の死者を出したのに対し、イギリス・エジプト軍の死者は50人に満たなかったとされる。
支配の中身は、ときに凄惨だった。ベルギー王レオポルド2世は、コンゴを国ではなく自分の私有地として手に入れ、ゴムの採取の割り当てを果たせない住民の手を切り落とさせるなどの暴虐で、膨大な数の死者を出した。その数ははっきりせず、推定には大きな幅がある。王自身は生涯一度もコンゴを訪れていない。ドイツ領南西アフリカでは、1904年からの反乱の鎮圧でヘレロ人とナマ人の多くが砂漠に追われて死に、ドイツ政府は2021年にこれを虐殺と認めた。
ただし、塗り分けは一方通行ではなかった。1896年3月のアドワの戦いで、エチオピア皇帝メネリク2世の軍はイタリア軍を破り、独立を守り抜いた。ヨーロッパの軍が植民地戦争でアフリカの国に正面から敗れたこの戦いは、のちにアフリカ各地の独立運動の誇りになる。東南アジアでは、シャムの王ラーマ5世が、西のイギリス領ビルマと東のフランス領インドシナに挟まれた位置を利用し、領土の一部を譲りながら制度の近代化を進めて独立を保った(シャムの近代化)。日本もまた、不平等条約のもとから出発して、やがて自ら台湾と朝鮮を植民地にする側に回った。

戻る力は、二つの世界大戦のなかで育った。宗主国は植民地から兵と物資を集め、インドだけで第一次大戦に100万人以上が動員された。戦った人々は、自分たちの国はなぜ自由でないのかと問うようになる。1919年4月、インドのアムリトサルでは、集会に集まった非武装の群衆にイギリス軍が発砲し、公式発表だけで379人が死んだ。この事件は、それまでイギリスに協力的だった人々の多くを独立へと向かわせた。
その先頭に立ったのがガンディーだった。1930年、彼は塩の製造と販売をイギリスが独占していることに抗議し、海岸まで約380キロを歩いて、自ら海水から塩を作った(塩の行進)。誰もが毎日口にする塩を選んだことで、非暴力の抵抗は字の読めない農民にまで伝わった。同じ1930年代、イタリアはエチオピアに攻め込み、皇帝ハイレ・セラシエは国際連盟で助けを訴えたが、連盟は侵略を止められなかった。

第二次世界大戦は、古い帝国の土台を崩した。日本軍は東南アジアのイギリス、オランダ、フランスの植民地を短期間で占領し、白人の支配が揺るがないものではないことを見せた。日本の敗戦の直後、1945年8月17日にスカルノがインドネシアの独立を宣言し、9月2日にはホー・チ・ミンがハノイでベトナムの独立を宣言した。ホー・チ・ミンはその演説の冒頭に、アメリカ独立宣言の一節を引いている。どちらも、戻ってきた旧宗主国とのあいだで長い戦争を戦うことになった。
1947年8月、インドは独立した。だが同時に、ムスリムが多い地域がパキスタンとして分かれた(インド・パキスタン分離)。境界線を引いたのは、それまでインドに行ったことのなかったイギリスの法律家ラドクリフで、わずか数週間で線を引き、その線が公表されたのは独立の2日後だった。線の両側で宗教の違う人々が逃げ出し、1000万人以上が移動し、数十万から100万を超えるともいわれる人が殺された。

1950年代、独立した国々は自分たちの声を持ち始めた。1955年、インドネシアのバンドンにアジアとアフリカの29か国が集まり、米ソどちらの陣営にも属さない立場を確かめ合った(バンドン会議)。前年にはベトナムのディエンビエンフーでフランス軍が降伏し、1956年のスエズ危機では、イギリスとフランスがエジプトに出兵したものの、米ソの圧力で撤退を強いられた。かつての大国が、もう単独では動けないことがはっきりした。
アフリカでは、1957年にエンクルマの率いるガーナがサハラ以南で最初に独立し、1960年だけで17か国が独立して「アフリカの年」と呼ばれた。アルジェリアは8年近い戦争の末、1962年に独立を勝ち取った。19世紀の後半に20年あまりで塗り分けられた地図は、20年ほどでほとんど塗り直されたのである。

ただし、独立が独立で終わらないこともあった。1960年に独立したコンゴでは、直後に軍の反乱と地方の分離が起き、首相ルムンバは翌年1月に殺された。その死には旧宗主国ベルギーが関わり、アメリカも暗殺を計画していたことが、後に明らかになっている。冷戦のなかで、新しい国々の多くは大国の介入と独裁に苦しんだ。宗主国が引いた国境のなかに、言葉も宗教も違う人々が押し込められ、内戦の火種になった。
いまの国連の加盟国は190を超え、その大半はこの百年ほどのあいだに独立した国である。世界でいちばん新しい国の一つ、東ティモールが独立したのは2002年、南スーダンは2011年だった。一方で、イギリスの法と英語、フランス語圏のつながり、鉄道の線路の向き、そして人の移動の流れは、帝国の時代に作られたまま残っている。数十年で塗られた地図は数十年で戻ったが、その数十年に引かれた線は、いまも消えていない。
この物語が起きた場所
筋(325)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- アッシュルナツィルパル2世のカルフ遷都できごとBC879年恐怖も統治の道具だった新しい都の落成に7万人を招いて10日宴を開いた、と碑文が人数と献立まで記す。宮殿の壁の浮き彫りに、反乱者の皮を剥ぐ場面を刻んだ。恐怖も統治の道具だった。カルフ(ニムルド)
- アッシリアの強制移住できごとBC744年征服した民を丸ごと別の土地へ移し、混ぜて住まわせた。反乱の芽を絶つ統治術で、450万人が動かされたと推定される。帝国という形の発明の一つになる。ニネヴェ
- タハルカ人物? – BC664年ヌビアから出てエジプト全土を治めたナイル上流のクシュから出て、エジプト全土を治めた。旧約聖書にも名が出てくる。アッシリアに追われて南へ退く。
- メディア王国とエクバタナできごとBC612年バビロニアと組んでニネヴェを落とし、イラン高原の最初の大国になった。70年後、属国だったペルシアに取って代わられる。エクバタナ
- ペルシアの駅伝できごとBC500年頃帝国の広さは命令が届く速さで決まるスーサからサルディスまで2500キロ。一日で行ける距離ごとに宿駅を置き、馬と人を待たせる。書簡が着けば、次の者が受け取って走る。ヘロドトスが書いている。「雪も雨も暑さも夜の闇も、定められた行程を全速で走り抜くことを妨げない」。徒歩なら90日の道を、1週間ほどで伝えたと推定される。帝国の広さは、命令が届く速さで決まる。この一文が、20世紀にニューヨークの中央郵便局(1914年開館)の壁に刻まれ、アメリカの郵便配達員の非公式の標語になった。スーサ
- チャンドラグプタ人物BC340年頃 – BC297年頃インド亜大陸で最初の広域帝国インド亜大陸で初めて広域の帝国を作った。セレウコスと講和して象500頭を渡し、その象がイプソスの戦いを決める。
- スーサの集団結婚できごとBC324年1万人の兵にペルシアの妻王とマケドニアの将校80人が、一日でペルシアの貴族の娘と結婚した。二つの民を一つにする構想だったが、王の死後、将校の多くは妻を捨てた。スーサ

- ペルディッカスの死できごとBC321年帝国を一つに保とうとした最後の男王の指輪を託された摂政が、王の遺体をプトレマイオスに奪われてエジプトを攻め、ナイルを渡ろうとして2000人を鰐と流れに失った。夜、部下のセレウコスとアンティゲネスが天幕で刺した。帝国を一つに保とうとした最後の男。それから40年、将軍たちは分け合った。ペルシウム
- ポントス王国国BC281年(ミトリダテス1世の自立) – BC63年(ミトリダテス6世の死)ミトリダテスが25年ローマと戦った黒海の南岸に、ペルシア系の王家が建てた国。ギリシア風の都市と、内陸の山の民を抱えた。ミトリダテス6世が25年ローマと戦い、その死で属州になる。
- アンティオコス4世エピファネス人物BC215年頃 – BC164年砂に描かれた円ローマに人質だった王子が帰って甥を殺して王になった。「顕現した神」と名乗り、「狂人(エピマネス)」と呼ばれた。エジプトを取りかけてローマの使者に砂に円を描かれて退き、エルサレムの神殿にゼウスを置いた。東方遠征中に病死。
- ユダ・マカバイ人物? – BC160年鉄槌「鉄槌」。祭司マタティアの三男。ゲリラで4度セレウコス軍を破り、神殿を清めた。ローマと同盟した最初のユダヤ人。エラサで800人で大軍と戦って死んだ。弟たちが王朝を作る。ヘンデルがオラトリオにした。「見よ、勇者は帰る」。
- パルティアのセレウキア占領できごとBC141年ローマの東はそこで止まったミトリダテス1世がメディアからメソポタミアへ下り、セレウコス朝の都を取った。のちの王たちは「王の中の王」を名乗る。ティグリスの対岸に冬の陣を置いた。クテシフォン。ギリシアの街とイランの遊牧民の陣が向かい合って、400年。ローマの東は、そこで止まった。セレウキア
- 南越の征服できごとBC111年ベトナムは1000年趙佗が建てた南越は5代93年。丞相呂嘉が漢に服そうとした王と太后を殺し、武帝が10万で攻めた。番禺が焼けた。九郡。広東、広西、ベトナム北部が漢の郡になった。ベトナムは1000年、中国だった。趙佗の墓は分からず、孫の墓が1983年に広州のホテルの工事で出た。番禺(南越)
- 元首政の始まり(アウグストゥスの称号)できごとBC27年1月16日皇帝という語はまだないオクタウィアヌスが元老院で「すべての権限を返す」と言い、元老院が「受け取ってほしい」と頼み、属州の半分と軍を10年預けた。3日後、「アウグストゥス」。「尊厳ある者」。共和政の形を残して、一人が治める。「プリンケプス」、第一の市民。皇帝という語はまだない。ローマ
- クルスス・プブリクスできごとBC20年頃命令が届く速さが帝国の大きさを決めるアウグストゥスが整えた、帝国の公用の逓送制度である。街道沿いに一日行程ごとに宿駅を置き、馬と車と宿を用意した。使者は乗り継いで走り、一日に約80キロ、急使は数倍を進んだ。使えるのは通行証を持つ官人だけで、私信は運ばない。維持の費用は沿道の都市と住民が負う。速さは道の質と宿駅の密度で決まる、という原理をそのまま体現した仕組みで、以後の帝国はどこもこれに似たものを持った。ローマ
- クラウディウス人物BC10年8月1日 – AD54年10月13日ブリタニアゲルマニクスの弟。どもり、足を引きずり、家族に「馬鹿」と隠された。カリグラが殺されたとき、カーテンの後ろで見つかり、近衛兵が皇帝にした。歴史を書いた。ブリタニア。解放奴隷に行政を。妻メッサリナは彼の留守に結婚式を挙げて処刑された。次の妻アグリッピナに毒キノコで殺され、ネロが。
- ウィギレスできごとAD6年百万都市で、木と日干し煉瓦の集合住宅が密集し、灯りは炎である。アウグストゥスは、それまで私的な奴隷の組と有志に任されていた消火を、常設の部隊にした。七つの大隊、各千人、市の十四区を二区ずつ受け持つ。夜通し街を巡回する。装備はバケツ、酢に浸した毛布、斧、手押しポンプ、そして延焼を止めるための破壊具である。解放奴隷が主で、六年勤めれば市民権を得られた。警察と、夜警と、消防を兼ねた。ローマ
- クラウディウスのブリタニア征服できごとAD43年400年の属州カエサルの100年後。どもりで足を引きずる皇帝が、凱旋のために4個軍団を送った。象を連れて自分で16日いた。カムロドゥヌムでカラタクスの側を破った。カラタクスは8年戦って、ローマに送られ、「これほどの街を持ちながら、なぜ我々の小屋を」と言って赦された。360年あまりの属州。カムロドゥヌム(コルチェスター)
- アクスム王国国AD1世紀頃 – AD940年頃(衰退と滅亡には諸説ある)紅海の交易で栄え、独自の文字と貨幣を持った。4世紀にキリスト教を国の宗教にする。ローマ・ペルシア・中国と並ぶ「世界の四大国」とペルシアの著述家が書いた。
- ダキア戦争できごとAD106年ルーマニアトラヤヌスが二度遠征し、王デケバルスを追い詰めて自死させた。金鉱と50万人の奴隷。ローマの記念柱に2662人が彫られ、いまも見られる。ダキアはローマの最後の大きな属州で、165年後に放棄され、ラテン語だけが残った。ルーマニア。サルミゼゲトゥサ
- チャンパ国AD192年(林邑の自立) – AD1832年(阮朝による併合)北から押されて少しずつ南へ縮んだベトナム中部の沿岸に、1500年続いた海の国。インドの神々を祀り、煉瓦の塔を建て、宋と日本と交易した。北から大越に押されて、少しずつ南へ縮む。
- アントニヌス勅令できごとAD212年市民と属州民の区別が消えたカラカラが帝国の自由人全員にローマ市民権を与えた。属州民も。「神々に感謝する者を増やすため」と勅令は言い、ディオは「相続税を取るため」と書いた。市民と属州民の区別が消え、「ローマ人」が地中海の人全部の名になった。ローマ

- ササン朝ペルシア国AD224年(アルダシール1世がパルティアを破る) – AD651年(ヤズデギルド3世の死)パルティアに代わってイラン高原を取り、ゾロアスター教を国の宗教として整えた。400年にわたってローマ・東ローマと戦い、最後は消耗しきったところへイスラム勢力が来る。
- 軍人皇帝時代の始まりできごとAD235年元老院に来なかった皇帝トラキアの農民出身の巨漢マクシミヌスが、兵に担がれてセウェルス・アレクサンデルを殺した。元老院に来なかった皇帝。3年後、兵に殺された。238年は6人が皇帝。50年で26人。ほとんどが殺された。ペルシア、ゴート、疫病、インフレ。帝国が割れかけた。ローマ
- グプタ朝国AD320年(チャンドラグプタ1世の即位) – AD550年頃サンスクリットの古典期サンスクリット文学と数学の古典期。ゼロを含む記数法、カーリダーサの戯曲、アジャンターの壁画がこの時代になる。フン系の侵入で崩れた。
- サムドラグプタ人物? – AD375年頃アショーカの柱に自分の戦績を刻んだ北インドの王たちを次々に従え、南へも遠征した。その戦績はアショーカの石柱の空いた面に刻まれている。琵琶を弾く姿の金貨が残る。
- 東ローマ帝国国AD395年(テオドシウスの死による東西分割) – AD1453年(コンスタンティノープル陥落)西が消えたあとも1000年続いた、ローマの東半分。自分たちはずっとローマ人と名乗っていた。版図は縮みつづけ、最後は城壁の内側だけになる。
- チャンパとミーソンできごとAD4世紀から14世紀にかけてベトナム中部にあった、ヒンドゥーを奉じる海洋国家になる。赤煉瓦の塔が谷に並ぶ。ベトナム戦争の爆撃で多くが失われた。チャム人はいまも少数民族として暮らしている。ミーソン
- フランク王国国AD481年(クローヴィスの即位) – AD843年(ヴェルダン条約による三分割)西の再編。三分割がいまの西欧の元になるローマが消えた西で、その跡地をまとめ直した。カール大帝が800年に皇帝の冠を受け、843年に三つに割れる。その割れ方が、いまのフランス・ドイツ・イタリアの元になった。
- ホスロー1世の改革できごとAD531年税を土地の測量に基づく定額にし、軍を国が養う騎兵に変えた。ササン朝の最盛期で、アテナイを追われた哲学者を受け入れ、インドから『パンチャタントラ』とチェスを得た。クテシフォン
- カラクムルとティカルの戦争できごとAD562年130年碑を建てなかったマヤの二つの超大国。「蛇の王国」(当時の都はジバンチェで、のちカラクムルへ移る)が562年にティカルを破り、130年、ティカルは碑を建てなかった。695年、ティカルの王ハサウ・チャン・カウィールが仕返しした。同盟と結婚と戦争。二つとも9世紀に捨てられた。カラクムル
- ハルシャ王人物AD590年 – AD647年北インドを一時的にまとめた最後の王グプタ朝の崩壊後、北インドを一時的にまとめた。玄奘が訪れて宮廷を記録している。戯曲も書いた。
- ハルシャ王の北インド統一できごとAD606年グプタ朝の崩壊後、北インドを一時的にまとめた。玄奘が訪れて、その宮廷と大規模な施しの会を記録している。死後、統一はまた崩れる。カナウジ
- メッカの征服できごとAD630年1月行け、お前たちは自由だヒジュラから8年。フダイビーヤの休戦をメッカが破り、ムハンマドが1万で来た。メッカは戦わなかった。「行け、お前たちは自由だ」。カアバの360の偶像を倒し、黒石だけ残した。アブー・スフヤーンが改宗した。2年後、ムハンマドは死んだ。メッカ

- 第一次ブルガリア帝国国AD681年(ビザンツとの条約) – AD1018年(バシレイオス2世による併合)シメオンはコンスタンティノープルを脅かした草原から来たブルガールがスラヴ人の上に建て、ビザンツから改宗し、キリル文字を育てた。シメオンはコンスタンティノープルを脅かし、バシレイオス2世に滅ぼされる。
- ガーナ帝国国AD8世紀頃 – AD1240年頃(マリに吸収される)西アフリカで最初の大きな国。南の金と北の塩を交換する場所を押さえ、王は金の飾りを付けた犬を飼っていたとアラビア語の史料が書く。今のガーナとは場所が違う。
- バグダードの建設できごとAD762年平安の都マンスールがティグリスの岸に円い都を作った。「平安の都」。直径2キロ、三重の壁、4つの門、中央にモスクと宮殿。10万人の職人。占星術師が着工の日を選んだ。50年で世界最大の都市になり、500年後にモンゴルが焼いた。バグダード
- ジャヤーヴァルマン2世人物AD770年頃 – AD835年アンコールの600年を起こしたクーレン山で「唯一の王」を宣言し、クメールを一つにまとめた。アンコールの600年がここから始まる。
- ランゴバルド王国の滅亡できごとAD774年教皇領の形が決まったカールが教皇の求めでアルプスを越え、パヴィアを9か月囲んで王デシデリウスを修道院に送った。「ランゴバルドの王」を兼ねた。妃はデシデリウスの娘だった。離縁していた。200年の王国が終わり、フランクがイタリアに入り、教皇領の形が決まった。パヴィア
- ヴェルデンの虐殺できごとAD782年30年の戦争ザクセン戦争の10年目。ヴィドゥキントの反乱でフランク軍が全滅したあと、カールはアラー川の岸でザクセン人4500人を一日で斬った、と『フランク王国年代記』は書く。「洗礼を受けなければ死刑」。30年の戦争。ナチスがヴィドゥキントを英雄にし、この場所に記念の石を並べた。ヴェルデン
- クメール帝国国AD802年(ジャヤーヴァルマン2世の即位) – AD1431年(アユタヤによるアンコール陥落)水を溜めて配る仕組みの上に建った。アンコールは当時おそらく世界最大の都市域で、そこにアンコール・ワットとバイヨンが残る。
- サーマッラーへの遷都できごとAD836年4人がトルコ兵に殺されたムウタスィムはトルコ人の奴隷兵(マムルーク)を数千人買い、バグダードの民と兵が衝突し、新しい都をティグリスの上流に建てた。「見る者が喜ぶ」。50年。9人のカリフのうち4人がトルコ兵に殺された。螺旋のミナレット。街は一直線に40キロ。サーマッラー
- ストラスブールの誓いできごとAD842年2月14日翌年ヴェルダンルートヴィヒの兄弟が、長兄ロタールに対して同盟した。ルートヴィヒはロマンス語(古フランス語)で、シャルルは古高ドイツ語で、互いの兵に分かるように誓った。書き残されたフランス語の最古の文。翌年、ヴェルダンで帝国を三つに分けた。ストラスブール

- チョーラ朝国AD848年頃(ヴィジャヤーラヤの復興) – AD1279年南インドの海の帝国南インドの海の帝国。セイロンを取り、ベンガル湾を渡ってシュリーヴィジャヤを攻めた。青銅のシヴァ像と巨大な寺院を残し、村の自治を石に刻んで記録した。
- マケドニア朝の始まりできごとAD867年9月24日189年の王朝アルメニア系の農民の子が、馬の調教で皇帝ミカエル3世に気に入られ、共同皇帝になり、酔った皇帝を寝室で殺した。バシレイオス1世。189年の王朝。法典、征服、文芸復興。ビザンツで最も長く、最も強い時代を、殺人で始めた。コンスタンティノープル
- トゥールーン朝の自立できごとAD868年税を送らなくなったトルコ人の奴隷兵の息子アフマドがエジプトの総督になり、税をバグダードに送らなくなった。シリアも。フスタートの北に新しい街と、いまも残るモスク。アッバース朝からエジプトが離れた最初。37年で戻され、60年後にファーティマ朝が来た。フスタート

- キエフ・ルーシ国AD882年(オレグのキエフ占領) – AD1240年(モンゴルによるキエフ陥落)ヴァリャーグ(北欧人)が水運を握り、スラヴの地に諸公国のゆるい連合ができた。988年にビザンツからキリスト教を受け入れる。ロシア・ウクライナ・ベラルーシがそろって自分の起点と見なしている。
- マジャール人のパンノニア定住できごとAD895年言葉は変えなかった草原から来た騎馬の民が、ドナウの平原に落ち着いた。大モラヴィアを潰し、50年ヨーロッパを荒らし、キリスト教に改宗してハンガリーになる。カルパチア盆地(位置は特定されていない)

- 呉権人物AD897年 – AD944年千年の中国支配から離した白藤江で南漢を破り、1000年におよぶ中国の支配を終わらせた。ベトナム独立の起点とされる。
- ファーティマ朝の成立できごとAD909年200年シーア派の帝国ムハンマドの娘ファーティマの子孫を名乗るイスマーイール派の指導者が、ベルベルのクターマ族を得てアグラブ朝を倒し、チュニジアでカリフを名乗った。アッバースと並ぶ第二のカリフ。60年後にエジプトを取り、カイロを建て、200年、シーア派の帝国だった。ラッカーダ
- 白藤江の戦いできごとAD938年千年の中国支配から離れた干潮を利用して杭で船を沈めた。1000年におよぶ中国の支配が終わり、ベトナムが独立する。白藤江(位置は特定されていない)
- トンガ海上帝国国AD10世紀頃 – AD15世紀頃(影響圏の縮小)海の上に版図を持つという形数千キロ離れた島々を、婚姻と貢納と航海でつないだ。海の上に版図を持つという形が、太平洋にはあった。石の三門(ハアモンガ)がその時代に残る。
- バシレイオス2世人物AD958年 – AD1025年12月15日彼の死でビザンツは最大で5歳で共同皇帝、18歳で親政、49年。結婚せず、本を読まず、戦った。ブルガリアを30年かけて滅ぼし、クレイディオンで1万5000人の捕虜の目を潰して100人に1人だけ片目を残して帰した。「ブルガリア人殺し」。ルーシに妹を嫁がせ、ウラジーミルを改宗させた。彼の死でビザンツは最大で、それから衰えた。
- 神聖ローマ帝国国AD962年(オットー1世の戴冠) – AD1806年(フランツ2世の退位)皇帝を選挙で選び、都を持たなかった帝国皇帝は選挙で選ばれ、決まった都を持たなかった。数百の領邦の連合体で、ヴォルテールに「神聖でもローマでも帝国でもない」と言われる。それでも844年続いた。
- ポーランド王国国AD966年(ミェシュコ1世の受洗) – AD1569年(ルブリン合同)ピャスト家が966年にキリスト教を受け入れて始まった。分裂と再統一を繰り返し、ヤギェウォ家の下でリトアニアと結んで、ヨーロッパ最大級の国になる。
- ボレスワフ1世人物AD967年 – AD1025年ポーランド最初の王皇帝オットー3世をグニェズノに迎え、対等の扱いを受けた。キエフを一時取り、死の直前に王冠を戴く。ポーランドが王国になった最初の年になる。
- 大越国AD968年(丁部領が大瞿越を称する) – AD1802年(阮朝が成立し、国号が越南になる)千年の中国支配を脱して自立し、以後800年かけて南へ伸びた。チャンパを併し、最後はメコン・デルタに達する。細長い国の形は、この南進の結果になる。
- マフムード・ガズナウィー人物AD971年 – AD1030年北インドへ17回遠征し、寺院の富を持ち帰ってガズナを学芸の都にした。インドでは略奪者として、ペルシア語圏では庇護者として記憶されている。
- ラージェーンドラ1世人物AD971年頃 – AD1044年ガンジスの水を壺に入れて持ち帰った艦隊を仕立ててベンガル湾を越え、シュリーヴィジャヤの港を攻めた。インドの王朝が海の向こうへ軍を出した、数少ない例になる。
- フランス王国国AD987年(ユーグ・カペーの即位) – AD1792年(王政の廃止)パリ周辺だけの弱い王家から始まり、800年かけて六角形を埋めた。国王の権力を強くしていった果てに、その国王が革命で処刑される。
- ハンガリー王国国AD1000年(イシュトヴァーン1世の戴冠) – AD1541年(ブダ陥落。オスマンとハプスブルクに分割される)草原から来た人びとがキリスト教の王国になった草原から来たマジャール人が、キリスト教の王国になった。教皇から王冠を受け、モンゴルに一度潰され、オスマンにモハーチで敗れる。言葉は変えなかった。
- クレイディオンの戦いできごとAD1014年7月29日4年後にビザンツの州にバシレイオス2世が30年の戦争の決着をつけた。谷の柵を裏から回って、1万5000人を捕えた。100人ごとに片目を残して、他は両目を潰して、サムイルの所へ帰した。サムイルは列を見て倒れ、2日後に死んだ。4年後、ブルガリアはビザンツの州になった。クレイディオン

- セルジューク朝国AD1037年(トゥグリル・ベグの自立) – AD1194年(最後のスルタンの戦死)トルコ系の遊牧民がイランを取り、バグダードのカリフを保護下に置いた。マンジケルトでビザンツを破ってアナトリアを開き、マドラサを各地に建てる。ニザームルムルクが行政を整えた。
- パガン朝国AD1044年(アノーヤターの即位) – AD1287年(元の侵攻により崩壊)ビルマ人が最初に平原をまとめた国。上座部仏教を国の宗教にし、250年で1万を超える仏塔を建てた。そのうち2000あまりが今も立っている。
- フリードリヒ1世(バルバロッサ)人物AD1122年頃 – AD1190年6月10日赤髭の皇帝赤髭の皇帝。イタリアに六度遠征し、ミラノを壊し、レニャーノで負け、教皇と和解した。第三回十字軍に出て、アナトリアの川で溺れ死んだ。山の中で眠り、いつか目覚めるという伝説になった。
- スーリヤヴァルマン2世人物? – AD1150年頃アンコール・ワットを建てたアンコール・ワットを建てた王。ヴィシュヌに捧げられた、当時世界最大級の宗教建築になる。
- リチャード1世(獅子心王)人物AD1157年9月8日 – AD1199年4月6日在位10年でイングランドに半年10年の在位のうちイングランドにいたのは半年。フランス語で話し、十字軍でサラディンと戦い、帰りに捕えられて身代金で戻った。城攻めの最中に弩の矢を受けて死んだ。射た少年を赦した、と伝わる。
- プリトヴィーラージ3世人物AD1166年頃 – AD1192年ヒンドゥーの側の最後の王デリーとアジメールのラージプート王。タラーインで一度勝ち、翌年負けて殺された。ヒンドゥーの側の最後の王として、叙事詩と映画で語られ続けている。
- ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トムできごとAD1181年最後の大王チャンパにアンコールを焼かれた4年後、王が奪い返して仏教徒の王になった。城壁の都アンコール・トム。中央にバイヨン。四面の顔が200。病院102、宿駅121。「民の病は王の病」。クメールの最大版図で、最後の大王。アンコール
- 奥州合戦できごとAD1189年(文治5年)東国を全部義経を匿った藤原泰衡が、頼朝に迫られて義経を殺し、それでも頼朝は大軍(『吾妻鏡』は28万と書く)で攻めた。阿津賀志山。泰衡は逃げて家臣に殺された。100年の平泉が終わり、頼朝は東国を全部持った。翌年、京へ上った。平泉

- デリー・スルタン朝国AD1206年(クトゥブッディーン・アイバクの即位) – AD1526年(第一次パーニーパットの戦い)五つの王朝が入れ替わりながら320年続いた。奴隷出身の王が多く、一人だけ女性のスルタンがいる。ペルシア語の宮廷文化がインドに根づき、ウルドゥー語の元になった。
- チャガタイ汗国国AD1225年頃 – AD1680年頃(東部のモグーリスタンの終わり)次男チャガタイの家が継いだ中央アジア。西半分はティムールが乗っ取り、東半分はモグーリスタンとして17世紀まで続く。ウイグルの文字と文化が、ここでトルコ語の書き言葉になった。
- 陳興道人物AD1228年頃 – AD1300年モンゴル軍を三度退けた将。白藤江に杭を沈めて艦隊を沈めた戦術で知られる。
- マリ帝国の成立できごとAD1235年スンジャタが建てた。その物語は文字ではなく語り部によって伝えられ、いまも西アフリカで演じられている。ニアニ(位置は特定されていない)
- マリ帝国国AD1235年(キリナの戦い) – AD1610年頃(三つに分かれる)金と塩の交易でニジェール川上流から大西洋岸までを収めた。マンサ・ムーサのメッカ巡礼はカイロの金相場を10年狂わせたと伝わる。
- リトアニア大公国国AD1236年(ミンダウガスの統一) – AD1569年(ルブリン合同)バルト海から黒海の近くまでヨーロッパ最後の異教の国が、東スラヴの土地を呑み込んでバルト海から黒海の近くまで広がった。1386年に大公がポーランド女王と結婚して改宗し、二つの国が一人の君主の下に並ぶ。
- キプチャク汗国国AD1242年(バトゥの西征の終わり) – AD1502年(大オルダの滅亡)チンギスの長男ジョチの家が継いだ、帝国の西の端。ルーシの諸公国を250年従え、その間にモスクワが徴税の代行で力をつけた。ヴォルガの都サライは交易で栄えた。
- 『鷹狩りの技術』できごとAD1240年代神聖ローマ皇帝で、シチリア王でもあったフリードリヒ二世は、何より鷹狩りを好んだ。南イタリアの宮廷には、アラブやペルシアの鷹匠が仕え、彼は鷹と獲物の鳥を何十年も見続けた。そうして書いた六巻の本は、鷹の育て方と使い方の手引きであると同時に、鳥の骨格、羽の生え方、渡りの仕方を、自分の目で確かめて書いたものだった。アリストテレスの書いたことでも、見て違えば違うと書いた。王侯の遊びのための本が、古い書物の権威より目の前の鳥を信じるという、のちの博物学のやり方を先取りしていた。フォッジャ
- マムルーク朝国AD1250年 – AD1517年(オスマンによる征服)血縁ではなく実力で次のスルタンが決まる奴隷として買われ、兵として育てられた者たちの国。血縁ではなく実力で次のスルタンが決まる。モンゴルを止め、十字軍を追い出し、香辛料の道を握って270年続いた。
- スンジャタ・ケイタ人物? – AD1255年頃マリ帝国を建てた王。口承の叙事詩として語り継がれ、いまも西アフリカで演じられている。
- イル汗国国AD1256年(フレグのイラン入り) – AD1335年(アブー・サイードの死)バグダードを落としたフレグの家が、イランを治めた。7代目のガザンがイスラームに改宗し、宰相ラシード・アッディーンが『集史』を編む。80年で血統が絶えて割れた。
- エチオピア・ソロモン朝の成立できごとAD1270年ソロモンとシバの女王の子孫を名乗る王朝が立った。1974年まで700年続く。ラリベラ
- エチオピア帝国国AD1270年(ソロモン朝の成立) – AD1974年(皇帝ハイレ・セラシエの廃位)アフリカで唯一、植民地にならずに残ったソロモンとシバの女王の子孫を名乗る王朝が700年続いた。アフリカで唯一、ヨーロッパの植民地にならずに残る。1896年のアドワでイタリア軍を破った。
- ゲディミナス人物AD1275年頃 – AD1341年ヴィリニュスを都にした異教の大公異教のままヨーロッパ各地に手紙を送り、商人と職人を招いた。ヴィリニュスを都にし、東スラヴの土地を呑み込んでいく。子と孫が、リトアニアとポーランドの王になる。
- スコータイ朝とタイ文字できごとAD1283年タイ文字が作られたと碑文が伝える。上座部仏教を柱とする国の形がここで定まる。スコータイ
- ガジャ・マダ人物AD1290年頃 – AD1364年群島をまとめると誓った宰相マジャパヒトの宰相。群島の統一を果たすまで香辛料を口にしないと誓ったと伝わる。いまインドネシアの国民的な英雄になっている。
- マジャパヒト国AD1293年(元軍を追い返して成立) – AD1527年(ドマクのイスラム勢力に滅ぼされる)東部ジャワから海へ出た。宰相ガジャ・マダが群島の統一を誓い、宮廷詩はスマトラからニューギニア西部までを支配下と数える。実態は朝貢と交易の網に近い。
- アルギルダス人物AD1296年頃 – AD1377年キエフを取り、モスクワを三度囲んだゲディミナスの子。青水でキプチャク汗国を破り、キエフを取った。三度モスクワを囲み、落とせなかった。異教のまま死に、馬と共に火葬されたと伝わる。
- オスマン帝国の始まりできごとAD1299年頃600年36代ビザンツとルーム・セルジュークの境の、ソユトの小さなトルコ人の首長オスマンが、独立を宣言した、と1299年に置く。夢で、へそから木が生えて世界を覆った、とシャイフ・エデバリが解いた。1326年、息子オルハンがブルサを取った。ガーズィー(信仰の戦士)と、農民と、ビザンツの脱走者。600年、36代。1922年に終わった。ソユト
- オヨ王国国AD14世紀頃 – AD1836年(イロリンの離反による崩壊)森林地帯には珍しく騎兵を主力にした。王が専横になると、貴族会議が空の瓢箪を送って自死を求める仕組みがあった。奴隷貿易の供給側でもあった。
- エドワード3世人物AD1312年11月13日 – AD1377年6月21日百年戦争を始めた父を廃した母と愛人を、17歳でクーデターで倒した。フランス王位を主張して百年戦争を始め、クレシーで勝ち、ガーター騎士団を作った。50年治め、晩年は愛人に指輪を抜かれて死んだ。
- エドワード黒太子人物AD1330年6月15日 – AD1376年6月8日騎士道の花16歳でクレシー、26歳でポワティエでフランス王を捕えた。騎士道の花と呼ばれ、リモージュで住民3000人を殺した。黒い鎧の名は死後200年のもの。赤痢で父より先に死に、息子リチャード2世が10歳で王になった。
- ヴィジャヤナガル王国できごと1336年南インドのヒンドゥー王国。訪れた外国人が「ローマに匹敵する」と書き残した都を持つ。ハンピ

- ヴィジャヤナガル王国国AD1336年 – AD1646年南インドのヒンドゥー王国。都は当時世界で二番目に大きい都市だったと訪れたポルトガル人が書いている。1565年の敗戦で都は放棄され、廃墟がハンピに残る。
- クレシーの戦いできごとAD1346年8月26日長弓が騎士を倒したイングランドの長弓兵が、フランスの騎士とジェノヴァの弩兵を丘の上から射倒した。騎士の時代の終わりの始まり。16歳の黒太子が前線で戦い、父は「息子に拍車を得させよ」と援軍を送らなかった。クレシー

- ヴィタウタス人物AD1350年頃 – AD1430年10月27日リトアニアを最大にしたヨガイラの従兄弟で、争い、組み、リトアニアを最大にした。黒海まで達し、グルンヴァルトで騎士団を破る。王冠を求めて、戴冠の直前に死んだ。
- アユタヤ朝の成立できごとAD1351年交易で栄え、400年続いた。日本人町も置かれ、山田長政が仕えたのはこの王朝。アユタヤ
- アユタヤ朝国AD1351年(ウートン王の即位) – AD1767年(コンバウン朝ビルマによる陥落)チャオプラヤーの河口に近い中洲に建ち、海の交易で栄えた。日本町もあり、山田長政がここで官位を得ている。417年続いて、ビルマに焼かれて終わる。
- ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)人物AD1352年頃 – AD1434年6月1日ヤギェウォ家の祖異教のリトアニア大公が、洗礼を受けてポーランド女王と結婚し、二つの国の君主になった。グルンヴァルトでドイツ騎士団を破る。その家が200年、両国を治める。
- ランサーン王国できごとAD1353年「百万頭の象の国」という意味になる。メコン中流に350年続いた。海に出ない内陸の国で、上座部仏教と交易路の中継で成り立っていた。分裂した後、シャムとフランスに呑まれる。ルアンパバーン
- ポワティエの戦い(1356年)できごとAD1356年9月19日フランス王を捕虜に黒太子がフランス王ジャン2世を捕虜にした。王はロンドンに連れて行かれ、身代金は300万エキュ、フランスの二年分の歳入。息子が人質を逃がすと、王は自分で戻って、ロンドンで死んだ。ポワティエ

- ティムール朝国AD1370年(ティムールのサマルカンド掌握) – AD1507年(ウズベクによるヘラート占領)モンゴルの後継を名乗りながら、チンギスの血を引かないので自らはハンを称さなかった。サマルカンドを飾り、征服の先々で職人だけは連れ帰った。
- ヤドヴィガ人物AD1373年 – AD1399年7月17日「王」として戴冠した少女10歳で「王」として戴冠した。女王ではなく王の称号で。婚約者を捨てて、国のために異教の大公と結婚する。クラクフ大学を再建し、25歳で産褥で死んだ。聖人になっている。
- クレヴォの合同できごとAD1385年8月14日二つの国が一人の君主の下にリトアニア大公が、洗礼を受けてポーランドの11歳の女王と結婚する約束をした。ヨーロッパ最後の異教の国が改宗し、二つの国が一人の君主の下に並ぶ。クレヴォ

- グルンヴァルトの戦いできごとAD1410年7月15日ドイツ騎士団が攻める側でなくなるポーランドとリトアニアの連合軍が、ドイツ騎士団を破った。騎士団の総長が戦死する。バルト海への布教と征服を続けてきた騎士団が、以後衰える。グルンヴァルト(タンネンベルク)

- ポルトガル帝国国AD1415年(セウタ攻略) – AD1999年(マカオの返還)アフリカ西岸を少しずつ南下し、喜望峰を回り、インド洋の交易路に割り込んだ。人口100万の小国が、点の連なりとして地球を一周する網を作った。
- パチャクテク人物AD1418年頃 – AD1471年頃タワンティンスーユ小さな王国を帝国に変えた。マチュ・ピチュを築き、道路網でアンデス全域を結ぶ。
- 黎朝の大越できごとAD1428年明の支配を20年で終わらせた。以後、独自の法典を持つ国として続く。ハノイ
- アステカ国AD1428年(三国同盟) – AD1521年(テノチティトラン陥落)メキシコ盆地の三つの都市が結んだ同盟。征服した土地を直接治めず、貢納を取る形で広げた。100年足らずでスペイン人と天然痘に倒れる。
- インカ帝国国AD1438年(パチャクテク即位) – AD1533年(アタワルパの処刑)文字を持たないまま、南北4000kmを道と結縄(キープ)で束ねた。95年で最大になり、内戦の直後に180人足らずのスペイン人に倒される。
- パチャクティの拡大できごとAD1438年30年で村が帝国にチャンカ族がクスコを攻め、王は逃げ、息子が残って勝った。「世界を変える者」。パチャクティ。父を退けて王になり、クスコをピューマの形に作り直し、チチカカからチャンチャンまで取った。30年で村がタワンティンスーユになった。クスコ
- チューニョと倉できごとAD15世紀アンデスの高地では、昼は日が照り、夜は凍る。人々はジャガイモを地面に広げて夜の寒さで凍らせ、昼に足で踏んで水を絞り出し、また日に干した。こうしてできたチューニョは、軽く、何年も腐らない。インカの国は、山の斜面に石の倉を何百、何千と並べ、チューニョや干し肉やトウモロコシを蓄えた。倉は風通しのよい高みに建てられ、中は涼しく乾いている。蓄えは、道を行く兵と役人を養い、不作の年には民に配られた。文字を持たない国が、結び目の紐で数を記し、食べ物を貯めて、広い領土を治めていた。クスコ
- インカ道できごとAD15世紀インカの国は、山脈に沿って南北四千キロに伸びていた。それを結んだのが、総延長三万キロを超える道の網である。車輪も馬も無い。人が歩き、リャマが荷を負う。険しい斜面には石の階段を刻み、谷には草を編んだ吊り橋を架け、毎年架け替えた。道沿いには一定の間隔で宿が置かれ、食料と衣類が備えられている。走る飛脚は区間ごとに交代し、クスコから海岸の魚を数日で運んだと伝えられる。文字を持たない国が、紐の記録と、この道で、広大な領土を動かしていた。クスコ
- クリシュナデーヴァラーヤ人物AD1471年 – AD1529年ヴィジャヤナガルの最盛期の王。北のスルタン諸国を押し返し、詩人を集め、自らテルグ語の叙事詩を書いた。ポルトガルから馬を買っている。
- コンゴ王国とポルトガルの接触できごとAD1483年奴隷貿易が国を内側から壊す対等な国どうしとして始まり、王は洗礼を受けて使節を送った。だが奴隷貿易が国を内側から壊していく。ンバンザ・コンゴ
- ボズワースの戦いできごとAD1485年8月22日テューダーの始まりリチャード3世が沼地で馬を失い、「馬を、馬を、私の王国を馬と引き換えに」はシェイクスピア。スタンリー家が途中で寝返った。王冠が茂みから拾われた。薔薇戦争の終わり、テューダーの始まり。遺骨は2012年、レスターの駐車場の下から出た。ボズワース

- ソンニ・アリ人物? – AD1492年川の船団と騎兵でトンブクトゥとジェンネを取り、ソンガイを帝国にした。ウラマーを弾圧したため、イスラームの年代記では暴君として書かれている。
- スペイン帝国国AD1492年(グラナダ陥落とコロンブスの航海) – AD1898年(米西戦争で最後の海外領土を失う)アメリカ大陸の銀を運び、太平洋を横断する定期航路を持った最初の帝国。その銀は中国まで流れ、世界の物価を動かした。19世紀に大陸の領土をほぼ失う。
- カール5世人物AD1500年2月24日 – AD1558年9月21日19歳で皇帝ハプスブルク、ブルゴーニュ、カスティーリャ、アラゴンの相続人。19歳で皇帝。スペインとドイツと新大陸を一人で持ち、ルター、フランス、オスマン、教皇と40年戦い、フランス王を捕え、給料の出ない彼の兵がローマを略奪した。疲れて退位し、時計を分解して過ごした。
- サファヴィー朝国AD1501年(イスマーイール1世のタブリーズ入城) – AD1736年(ナーディル・シャーの即位)十二イマーム派を国の宗教に定め、いまのイランの宗教的な形を決めた。オスマンとは西で、ムガルとは東で、200年にわたって境を争う。
- セリム1世のエジプト征服できごとAD1517年1月22日8年で倍に父を退位させ、兄弟を殺し、チャルディラーンでサファヴィー朝を破ったセリムが、マルジュ・ダービクとリダーニーヤでマムルーク朝を鉄砲で潰した。マムルークは鉄砲を卑怯だと言った。最後のスルタン、トゥーマーン・バイはカイロの門に吊るされた。シリア、エジプト、メッカとメディナ。アッバース朝のカリフの称号を得た、と伝える。8年で領土を倍にした。「冷酷者(ヤヴズ)」。カイロ

- ムガル帝国の成立できごとAD1526年バーブルが北インドを制した。以後300年、南アジアの中心となる。デリー
- モハーチの戦いできごとAD1526年8月29日取り返しのつかない負けの代名詞スレイマン1世の軍が、2時間でハンガリー軍を潰した。20歳の王が逃げる途中で沼に沈んだ。ハンガリーは三つに割れ、150年オスマンの下に置かれる。モハーチ

- ムガル帝国国AD1526年(第一次パーニーパットの戦い) – AD1857年(インド大反乱の敗北による廃位)ティムールの子孫がインドに建てた。アクバルはヒンドゥーへの人頭税をやめて諸宗教の議論の場を作り、アウラングゼーブはそれを覆して南へ広げた。広げた先で財政が破綻する。
- フェリペ2世人物AD1527年5月21日 – AD1598年9月13日日の沈まぬ帝国父の帝国の半分と、ポルトガルとフィリピンを継いだ。「日の沈まぬ帝国」の王で、エスコリアルの机で世界を書類で治めた。レパントで勝ち、ネーデルラントを失い、アルマダを失い、4度破産した。イングランド女王メアリの夫でもあった。
- イヴァン4世(雷帝)人物AD1530年8月25日 – AD1584年3月28日最初のツァーリ3歳で大公、8歳で母を失い、貴族が宮廷で殺し合うのを見て育った。1547年、16歳で「全ロシアのツァーリ」として初めて戴冠。前半は改革(法典、地方自治、全国会議、常備の銃兵隊)。1560年に妻アナスタシアが死んでから変わった。オプリーチニナ、ノヴゴロド、リヴォニア戦争の敗北。1581年、息子イヴァンを杖で打って殺した(レーピンの絵)。「グロズヌイ」は「恐ろしい」より「畏怖させる」。
- アスキア・ムハンマド人物? – AD1538年ソンガイを最大にし、トンブクトゥの学問を保護した。晩年は息子に退位させられ、島に幽閉される。
- ロシア帝国国AD1547年(イヴァン4世の戴冠) – AD1917年(ロシア革命)モスクワ大公国がツァーリを称し、ヴォルガを下り、毛皮を追ってシベリアを横断した。80年で太平洋に着き、その後は西と南へ向かう。1917年の革命で終わる。
- カザン攻略できごとAD1552年10月2日支配された側が後継国を併合イヴァン4世が15万と大砲150門でカザン・ハン国を囲み、坑道に火薬を詰めて城壁を吹き飛ばした。ジョチ・ウルスの後継の一つが消えた。モンゴルに支配された側が、モンゴルの後継国を併合した最初。ヴォルガが全部ロシアのものになり、東はシビル、ウラル、シベリアへ。赤の広場の聖ワシリイ大聖堂は、この勝利の記念に建てられた。カザン
- カール5世の退位できごとAD1555年10月25日修道院に引きこもった皇帝スペイン、ネーデルラント、ナポリ、新大陸を息子フェリペに、帝位を弟フェルディナントに分けて、皇帝は修道院に引きこもった。「日の沈まぬ帝国」は、その日から二つになった。息子の側が、日の沈まない側だった。ブリュッセル
- オプリーチニナできごとAD1565年犬の首と箒イヴァン4世は突然モスクワを出て「貴族の裏切りに疲れた」と退位を宣言し、民衆が戻るよう請願すると、条件として国を二つに割った。オプリーチニナ(自分の直轄地)とゼムシチナ。黒衣に犬の首と箒を鞍につけた親衛隊オプリーチニキが、貴族を殺し、土地を奪った。1570年、ノヴゴロドを「裏切り」の疑いで襲い、数千人を殺した。1572年に廃止。ロシアの貴族は折れ、皇帝の下に平らになった。モスクワ

- ターリコータの戦いできごとAD1565年1月26日都が放棄され、廃墟が残るデカンのスルタン諸国が連合してヴィジャヤナガルを破った。都は略奪されて放棄され、廃墟がハンピに残る。ターリコータ
- メルカトルの図法できごとAD1569年グリーンランドが大きすぎる球を平面にすると、必ずどこかが歪む。メルカトルは、角度を正しく保つほうを選んだ。緯線を等間隔にせず、高緯度ほど引き伸ばす。すると、地図の上で直線を引けば、それが「羅針盤の針を一定に保って進む針路」(等角航路)になる。船乗りにとって、これ以上ないものだった。代償として、面積が壊れた。グリーンランドがアフリカと同じ大きさに見える。この歪みは、後に政治の議論になった。デュースブルク
- ポーランド・リトアニア共和国国AD1569年(ルブリン合同) – AD1795年(第三次分割)一人の反対で議決が流れる仕組みを持っていた王を選挙で選び、議会の一人が反対すれば議決が流れる(リベルム・ヴェト)。ヨーロッパで最大級の版図を持ちながら、その仕組みのために動けなくなり、三度に分けて隣国に分割された。
- アクバルの宗教討論できごとAD1575年宮廷に「信仰の館」を建て、イスラーム、ヒンドゥー、ジャイナ、ゾロアスター、そしてイエズス会の宣教師を招いて議論させた。文字を読めない皇帝が、聞いて判断している。ファテープル・シークリー
- ネーデルラント連邦共和国国AD1581年(廃位布告) – AD1795年(フランス軍の侵入による崩壊)王を戴かない共和国が海運の半分を握った王を戴かない共和国が、80年戦ってスペインから独立した。人口200万の国が、17世紀の世界の海運の半分を握る。株式会社と証券取引所と中央銀行が、ここでほぼ同時に生まれた。
- イェルマークのシビル汗国征服できごとAD1582年60年で太平洋へストロガノフ家が雇ったコサック840人が、火縄銃でウラルを越え、シビル汗国の都を取った。イェルマークは3年後に川で溺れた。鎧が重かった。ロシアはそのあと60年で太平洋に着いた。毛皮を追って。シベリアの名は、この汗国から。カシュリク(シビル)
- ンジンガ女王人物AD1583年 – AD1663年12月17日40年にわたってポルトガルの奴隷貿易に抵抗した。外交と軍事を使い分け、オランダとも同盟を結んだ。
- トンディビの戦いできごとAD1591年3月13日火縄銃がサハラを越えたモロッコ軍が砂漠を越え、火縄銃でソンガイを破った。西アフリカの大帝国の時代がここで終わる。トンディビ(位置は特定されていない)
- グスタフ2世アドルフ人物AD1594年12月9日 – AD1632年11月16日軽い大砲と横に薄い隊列で、三十年戦争の戦い方を変えた。「北方の獅子」と呼ばれ、リュッツェンの霧の中で死ぬ。
- 大英帝国国AD1607年(ヴァージニアの入植) – AD1997年(香港の返還)会社の商館から始まり、七年戦争でフランスを退け、19世紀に世界の陸地の4分の1を占めた。二つの大戦で疲れ、20年ほどでほとんどを手放す。
- スウェーデン帝国国AD1611年(グスタフ2世アドルフの即位) – AD1721年(ニスタット条約)人口100万の国がバルト海を内海にした人口100万の国が、三十年戦争でヨーロッパの主役になった。バルト海を内海にし、100年で失う。ポルタヴァで敗れた王は、オスマンへ逃げて5年帰らなかった。
- ロマノフ朝の始まりできごとAD1613年動乱の果てに選ばれた十六歳の皇帝イヴァン4世の血筋が絶えると、ロシアは動乱の時代に入った。飢饉で人口が減り、本物の皇子を名乗る偽者が次々に現れ、ポーランドの軍がモスクワを占領する。商人と民兵が立ち上がってポーランド軍を追い出し、1613年、全国会議が十六歳のミハイル・ロマノフを皇帝に選んだ。こうして始まったロマノフ朝は、三百年あまり続く。最後の皇帝の一家は、1918年、革命政府の手で銃殺された。モスクワ
- アウラングゼーブ人物AD1618年11月3日 – AD1707年3月3日ムガルの版図を最大にした。同時に人頭税を復活させ、各地の反発で帝国は内側から割れていく。
- バンダ諸島の虐殺と香辛料の独占できごとAD1621年ナツメグの木が世界でここにしか無かった。オランダ東インド会社が独占のために島民1万5000人のほとんどを殺すか奴隷にし、空いた土地に農園を作った。バンダ諸島(位置は特定されていない)
- ンジンガのポルトガル抵抗できごと1624年奴隷貿易に40年抗った40年にわたって奴隷貿易に抗った。外交と軍事を使い分け、オランダとも組んでポルトガルを牽制する。ンドンゴ(位置は特定されていない)
- カリブの砂糖プランテーションできごと1640年砂糖革命小さな島が、世界で最も利益の出る土地になった。砂糖のために数百万人が大西洋を運ばれ、ヨーロッパの食卓に甘さが日常として入る。工場に似た労働の管理も、ここで先に生まれた。バルバドス(位置は特定されていない)
- アウラングゼーブの治世できごと1658年イギリスが来る前の、インドの側の帝国版図は最大になり、財政と宗教政策で各地が離れた。最大に広がった時が、崩れはじめる時でもある。デリー
- カール12世人物AD1682年6月17日 – AD1718年11月30日ポルタヴァで敗れ、オスマンに5年留まった15歳で即位し、18歳でナルヴァに勝った。ロシア奥地への遠征でポルタヴァに敗れ、オスマンで5年過ごし、帰ってノルウェーの塹壕で撃たれた。
- ネルチンスク条約できごとAD1689年9月6日初めて対等な条約ロシアと清が、アムール川の流域で衝突して、初めて対等な条約を結んだ。イエズス会士のペレイラとジェルビヨンがラテン語で仲介した。ロシアはアムールを諦め、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を境に。代わりに北京での交易が認められた。中国が西洋の国と結んだ最初の条約で、170年、破られなかった。1727年のキャフタ条約で、モンゴル方面の国境と、恒常的な交易の場が決まった。ネルチンスク

- カルロヴィッツ条約できごとAD1699年1月26日領土を割譲した最初第二次ウィーン包囲の失敗から16年、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの神聖同盟にオスマンが負け続けて、ハンガリー、トランシルヴァニア、ポドリア、ペロポネソスを失った。オスマンが領土を割譲した最初の条約。イギリスとオランダが仲介した。ここから220年、オスマンは縮み続けた。「東方問題」。カルロヴィッツ

- アシャンティ王国できごとAD1701年黄金の椅子が天から降りてきて、国の魂が宿ったとされる。誰も座らない。英国が19世紀にその椅子の引き渡しを求めたことが、戦争の引き金になった。クマシ
- アシャンティ王国国AD1701年(オセイ・トゥトゥの即位) – AD1902年(イギリスによる併合)黄金の椅子に国の魂が宿るとされ、王でさえ座らない。金と交易で栄え、イギリスと四度戦った。19世紀の西アフリカで最も強い国だった。
- ポルタヴァの戦いできごとAD1709年7月8日バルト海の主が入れ替わったスウェーデンの遠征軍がロシアに壊滅した。王はオスマンへ逃げて5年帰らない。バルト海の主が、この一戦で入れ替わる。ポルタヴァ

- ユトレヒト条約できごとAD1713年一国が強くなりすぎない均衡スペインの王が跡継ぎなく死ぬと、フランスのルイ14世は孫を王位に就けた。フランスとスペインが一人の家に握られることを恐れたイギリスとオーストリアとオランダが戦いを挑み、戦争は十年以上続く。1713年、ユトレヒトで結ばれた講和で、孫の王位は認めるが、フランスとスペインの王冠は決して一つにしない、と定められた。イギリスはジブラルタルと、スペイン領アメリカへ奴隷を売る権利を得る。一国が強くなりすぎないように均衡をとる、という考えがヨーロッパの外交の原則になった。ユトレヒト
- ベーリングの海峡できごとAD1728年ロシアのアラスカピョートルが死ぬ3週間前に命じた。「アジアとアメリカはつながっているか」。デンマーク人がカムチャツカで船を造り、北へ。霧で向こう岸は見えなかった。1741年、二度目でアラスカを見て、帰りに島で壊血病で死んだ。海峡、海、島に名が残った。ロシアがアラスカを持つ始まり。ベーリング海峡
- タークシン人物AD1734年4月17日 – AD1782年4月7日アユタヤ陥落から15年で再統一した焼かれたアユタヤから逃れ、7か月でビルマ軍を追い出して国を建て直した。最後は錯乱したとされて処刑される。
- アーサー・フィリップ人物AD1738年10月11日 – AD1814年8月31日報復を禁じたロンドンのドイツ人の語学教師の子。海軍。第一船団の司令官で、初代ニューサウスウェールズ総督。8か月の航海で、囚人の死者は48人(当時としては非常に少ない。野菜と清潔に気を配った)。飢えかけた最初の3年を耐えた。先住民との関係を穏やかに保とうとして、槍で肩を刺されても報復を禁じた。ベネロンを友人にして、イギリスへ連れて行った。
- オーストリア継承戦争できごとAD1740年女性の相続を各国が認めないと言い出した女性の相続を各国が認めないと言い出し、8年の戦争になった。プロイセンがシュレージエンを取り、マリア・テレジアは帝位以外を守り切る。ウィーン

- クリケットの決まりできごとAD1744年十八世紀のイングランドで、クリケットは村の遊びから、貴族が大金を賭ける勝負になった。賭けるなら、勝ち負けの決め方が村ごとに違っていては困る。1744年、ロンドンのクラブが決まりを書き上げ、印刷された。両端の柱(ウィケット)の間の長さは二十二ヤード。これは当時の測量に使う鎖一本の長さである。球の重さ、柱の高さ、審判の立つ場所まで決めた。書かれた決まりがあれば、知らない村どうしでも試合ができ、賭けの揉め事も収まる。のちにローズのクラブがこの決まりを引き継ぎ、帝国の広がりとともに、決まりごと世界へ運ばれていった。ロンドン
- ティプー・スルタン人物AD1751年11月20日 – AD1799年5月4日虎として1日ハイダル・アリーの子。「マイソールの虎」。フランス人の将校を雇い、ロケット部隊を作り、絹と紙と貨幣を整え、暦を作った。フランス革命政府に使者を送り、ジャコバン・クラブの会員になった。ナポレオンがエジプトから手紙を書いた。4回の戦争。1799年、セリンガパタムの門で刀を持って死んだ。「羊として100年生きるより、虎として1日」。インドの民族主義の英雄で、ヒンドゥー教徒の弾圧者とも言われる。
- コンバウン朝の成立できごとAD1752年三度の戦争で削られていくアラウンパヤーがビルマを再統一し、アユタヤを落とすまでになった。三度の戦争でイギリスに敗れ、1885年に王は牛車で宮殿を出され、インドへ送られる。シュエボー
- 七年戦争できごと1756年戦場がヨーロッパの外まで広がった最初の戦争ヨーロッパから北米・インドまで戦場になった。最初の世界規模の戦争と呼ばれ、英仏の勝敗が両大陸を決める。
- プラッシーの戦いできごとAD1757年6月23日東インド会社がベンガルを手に入れた。会社が領土を統治するという異様な形で、インド支配が始まる。プラッシー(位置は特定されていない)

- ジェームズ・モンロー人物AD1758年4月28日 – AD1831年7月4日好感情の時代ヴァージニア。独立戦争でトレントンで負傷。ジェファーソンの弟子。フランス公使としてルイジアナ購入を交渉した。5代大統領。「好感情の時代」。ミズーリ協定(1820年、奴隷州と自由州を1対1で)、フロリダ購入、モンロー宣言。宣言を書いたのは国務長官ジョン・クインシー・アダムズ。7月4日に死んだ(ジェファーソンとアダムズと同じ日)。
- メイソン=ディクソン線できごとAD1767年ペンシルベニアとメリーランドの領主が八十年争った境界を、決着させるために、二人のイギリス人が呼ばれた。天文学者チャールズ・メイソンと測量士ジェレマイア・ディクソンは、星の位置から緯度を出し、西へ三百キロ以上、直線を刻んでいった。一マイルごとに石を据え、五マイルごとに紋章入りの石を置く。作業は先住民の案内人が同行し、彼らが「ここから先は行けない」と言った地点で止まった。地形とも川とも関係のない線である。それが後に、奴隷制のある側と無い側を分ける言葉になった。フィラデルフィア
- テ・ラウパラハ人物AD1768年頃 – AD1849年11月27日マスケット銃を早くに取り入れ、ニュージーランドの勢力図を塗り替えた。彼の作ったハカがいまも歌われている。
- 家に番号を振るできごとAD1770年番地は、郵便より先に、徴兵のために生まれた七年戦争でプロイセンに敗れたハプスブルク家は、兵をどこから何人集められるかを、正確に知りたかった。マリア・テレジアは1770年、領内の男と家畜を数え上げる調査を命じ、そのためにすべての家の壁に番号を書かせた。それまで家は、持ち主の名や屋号や、どの領主に属するかで呼ばれていた。番号は、それを村ごと、町ごとの通し番号に置き換える。役人と兵が戸口を一軒ずつ回り、数字を塗っていった。家に番号が付くと、そこに住む人は、国から見つけられる人になる。番地は、郵便より先に、徴兵のために生まれた。ウィーン
- メッテルニヒ人物AD1773年5月15日 – AD1859年6月11日洗濯物の籠ラインラントの貴族。フランス革命で故郷を失った。オーストリアの外相36年、宰相27年。ナポレオンにマリー・ルイーゼを嫁がせ、ナポレオンを倒す側に回り、ウィーン会議を仕切った。正統主義と勢力均衡。「私はヨーロッパを統治した。ときにはヨーロッパのために」。1848年、ウィーンの群衆に追われて、洗濯物の籠に隠れてロンドンへ逃げた。
- アメリカ合衆国国AD1776年(独立宣言) – (続く)13の植民地から始まり、買収と戦争と条約で100年かけて大陸を横断した。その拡大は、先に住んでいた人びとの土地を取り上げる過程でもあった。
- アグスティン・デ・イトゥルビデ人物AD1783年9月27日 – AD1824年7月19日10か月の皇帝スペイン軍の将校として独立派を10年討った。1820年、スペインで自由主義革命が起き、保守派が独立を選んだ。イトゥルビデは反乱軍のゲレーロと組んで「イグアラ綱領」。独立、カトリック、平等。1821年、メキシコシティに入った。1822年、皇帝アグスティン1世。10か月。サンタ・アナに追われてイタリアへ。翌年、戻って、上陸したところで撃たれた。
- シャカ・ズールー人物AD1787年頃 – AD1828年9月22日戦術と組織を作り変え、小さな氏族を強大な王国にした。その激動は南部アフリカ全体を揺らす。
- 第一船団のボタニー湾到着できごとAD1788年1月26日侵略の日アメリカを失って、囚人を送る先がなくなったイギリスが、クックの報告した土地へ11隻を送った。囚人778人、海兵と家族、8か月の航海。ボタニー湾は水が悪く、北のポート・ジャクソン(シドニー湾)へ移って、1月26日に旗を立てた。「オーストラリア・デー」。先住民にとっては「侵略の日」。80年で16万人の囚人が送られ、天然痘と土地の収奪で先住民の人口は激減した。シドニー
- 傷の重い順に診るできごとAD1792年フランス革命軍のライン方面軍に配属された若い軍医ドミニク=ジャン・ラレーは、シュパイアーの戦いのあと、負傷兵が戦場に一昼夜以上置き去りにされ、救護が来る前に死んでいくのを見た。救護の車は戦闘が終わってから、軍の後ろからやって来る。彼は騎馬砲兵の軽い車台を借りて、戦闘のさなかに前線まで入る「飛ぶ救急車」を作った。そして運び込まれた者を、階級の順でも、着いた順でもなく、傷の重さと急ぎの度合いの順に診ると決めた。敵兵も同じ列に並べた。待たせる順番を、身分ではなく容体で決めるという考えが、のちにトリアージと呼ばれる。シュパイアー
- マカートニー使節団できごとAD1793年9月イギリスが通商を求めて送った使節を、乾隆帝は熱河の離宮で会い、「天朝は何も欠いていない」と退けた。傲慢の例として語られてきたが、当時の清はまだ世界最大の経済だった。熱河(承徳)

- ジェームズ・ポーク人物AD1795年11月2日 – AD1849年6月15日明白なる運命テネシー。ジャクソンの弟子。「ダークホース」で11代大統領。4つの目標を掲げた。関税引き下げ、独立国庫、オレゴン、カリフォルニア。全部やった。オレゴンはイギリスと北緯49度で分け、カリフォルニアはメキシコと戦争して取った。「明白なる運命」。1期で辞めて、3か月後にコレラで死んだ。53歳。大統領の中で最も仕事をして、最も短く生きた。
- ニコライ1世人物AD1796年7月6日 – AD1855年3月2日ヨーロッパの憲兵アレクサンドル1世の弟。デカブリストの銃声で始まった治世。「正教・専制・国民性」。第三課(秘密警察)、検閲、大学の制限。ポーランドの反乱(1831年)とハンガリー革命(1849年)を潰した。「ヨーロッパの憲兵」。ロシアの鉄道と法典と貨幣を整えた。クリミアで負けている最中に死んだ。「私は息子に、望んだのと違う国を残す」。
- ヴィルヘルム1世人物AD1797年3月22日 – AD1888年3月9日ビスマルクの下で皇帝プロイセン王、初代ドイツ皇帝。軍人。1848年にベルリンの群衆を撃たせて「散弾の王子」と呼ばれ、イギリスへ逃げた。1861年、64歳で王。軍制改革で議会と対立し、ビスマルクを呼んだ。「ビスマルクの下で皇帝であるのは難しい」と言った。ビスマルクの言うことを聞いた。90歳。次の息子は99日で死に、孫のヴィルヘルム2世がビスマルクを辞めさせた。
- ナポレオンのエジプト遠征できごと1798年軍と一緒に160人あまりの学者が上陸した。軍事的には失敗したが、測り、写し、分類した成果は『エジプト誌』全24巻になる。東洋を研究することと支配することが、ここで結びついた。カイロ
- セリンガパタムの陥落できごとAD1799年5月4日ティプーの虎マイソールのティプー・スルタンは4回イギリスと戦った。フランスと組み、ナポレオンがエジプトから手紙を書いた。ロケット弾でイギリス兵を驚かせた(コングリーヴがそれを真似た)。1799年、ウェルズリー兄弟が囲み、ティプーは城壁の門で戦って死んだ。「ティプーの虎」(イギリス兵を虎が食う仕掛けのオルガン)はロンドンの博物館にある。シュリーランガパトナ(セリンガパタム)
- 阮朝の成立できごとAD1802年ベトナム最後の王朝。フランスの保護国となり、20世紀まで名目上続く。フエ
- インド大三角測量できごとAD1802年半トンの経緯儀を担いで山へ東インド会社が、インド全土を三角測量で測る事業を始めた。ラムトンが起こし、ジョージ・エベレストが引き継いだ。半世紀以上かかった。測量士は、マラリアと虎と、そして半トンの経緯儀を担いで山を登った。死者が多く、ある年には隊員の半数が死んだ。1852年、計算室の主任ラダナート・シクダールが、ある山の高さが世界最高であると算出した。地元にチョモランマとサガルマータの名があったが、測量局は前任者の名を付けた。エベレスト本人は、それに反対した。チェンナイ
- トラファルガーの海戦できごとAD1805年10月21日以後百年、海はイギリスのものナポレオンはイギリスへの上陸を狙い、そのためにはドーヴァー海峡の制海権が要った。1805年10月21日、スペイン南岸のトラファルガー岬の沖で、ネルソンの率いるイギリス艦隊が、フランスとスペインの連合艦隊に二列の縦隊で突っ込み、列を断ち切った。連合艦隊の半数以上を失わせる大勝だったが、ネルソンは狙撃されて戦死する。イギリスへの上陸はあり得なくなった。以後百年、海はイギリスのものになった。トラファルガー岬
- テカムセの部族連合できごと1808年部族の枠を越えた連合で入植を止めようとした。土地は誰か一人が売れるものではない、という主張だった。プロフェッツタウン(位置は特定されていない)
- ナポレオン3世人物AD1808年4月20日 – AD1873年1月9日小ナポレオンナポレオンの甥。2度クーデターに失敗して、要塞に6年、ロンドンに亡命。1848年、大統領。1851年、クーデター。皇帝。パリの大改造(オスマン)、鉄道、銀行、クリミア、イタリア、メキシコ(失敗)、自由貿易。労働者に近づき、農民に愛された。スダンで捕まり、イギリスで死んだ。「小ナポレオン」とユゴーが呼んだ。
- メリナ王国のマダガスカル統一できごと1810年高地の王国が、イギリスから銃を得て島の大半をまとめた。宣教師を招いて文字を導入し、奴隷貿易をやめる代わりに武器を受け取る取引をした。アンタナナリボ
- ナポレオンのロシア遠征できごとAD1812年6月24日60万で入り、数万で帰った60万で渡り、モスクワに入り、そこには誰もいなかった。街が焼け、冬に退いた。帰り着いたのは数万人になる。モスクワ

- シャンプーという語できごとAD1814年シャンプーは、押す・揉むを意味するヒンディー語から来ている。インド生まれのセイク・ディーン・マホメドは、東インド会社の軍を経てイギリスへ渡り、1814年にブライトンで蒸気浴と揉み療治の施設を開いた。国王の侍医を名乗るまでになる。彼はロンドンで最初期のインド料理店も開いていた。植民地から来た人が、故郷の技法を売り物にして受け入れられる。やがて語だけが残り、髪を洗う石鹸を指すようになった。言葉は移動するが、持ってきた人の名は残りにくい。ブライトン
- ズールー王国の勃興できごと1816年戦術と組織の刷新で小氏族が強大な王国になった。その激動は南部アフリカ全体を動かす。ウルンディ
- ズールー王国国AD1816年(シャカの即位) – AD1897年(ナタールへの併合)シャカが軍の編成と短い槍で周辺を呑み込み、10年で小さな首長国を王国にした。その移動の波が南部アフリカを組み替える。1879年にイギリス軍を一度破り、その年に敗れた。
- イギリスの金本位制できごとAD1816年世界の通貨が金で結ばれた長く、銀と金の両方が貨幣だった。ニュートンが造幣局長だった1717年、金と銀の交換比率を定めたところ、金を高く評価しすぎて銀が国外へ流出し、事実上の金本位になった。ナポレオン戦争の間、兌換は停止された。1816年の貨幣法で金を唯一の本位と定め、1821年に兌換を再開した。1870年代、ドイツ、アメリカ、北欧などが続き、日本も1897年に加わって、世界の通貨が金で結ばれた。為替が安定し、貿易と投資が国境を越えた。同時に、各国は金の量に縛られた。ロンドン
- 第三次マラーター戦争できごとAD1818年6月3日インドの大半をマラーター同盟は18世紀にムガルを抑えてインドの半分を持っていた。1803年にウェルズリー(のちのウェリントン)が破り、1817年、ペーシュワーが最後に立った。プネーが落ち、ペーシュワーは降伏して年金をもらい、北インドの町に住んだ。その養子が1857年の大反乱の首謀者ナーナー・サーヒブ。東インド会社は、インドの大半を持った。プネー

- ラッフルズのシンガポールできごとAD1819年2月6日海峡に線を引いたマラッカ海峡の南端の、人口1000人の島。東インド会社のラッフルズがジョホールの王位争いに介入して、条約で商館を置いた。自由港。関税なし。5年で人口1万、中国人、マレー人、インド人、アラブ人。オランダは抗議し、1824年の英蘭条約で線が引かれ、海峡の北がイギリス、南がオランダになった。マレーシアとインドネシアの境。シンガポール
- ムフェカネできごとAD1820年頃新しい国が生まれた「粉砕」。1810年代から20年、南部アフリカの内陸で、社会が壊れて作り直された。シャカのズールーが軍制を変え(短い突き槍、年齢別の連隊、牛の角の陣形)、周りを併呑した。逃げた集団が別の集団を襲い、連鎖した。数十万人が死に、モショエショエのバソト、ムジリカジのンデベレ、ソシャンガネのガザなど、新しい国が生まれた。ボーア人が入ったのは、その後の空白の地だった。ブラッド・リバー

- ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世人物AD1820年3月14日 – AD1878年1月9日祖国の父サルデーニャ王、初代イタリア王。1849年、父が退位して継いだ。憲法を守った唯一のイタリアの君主。カヴールに任せ、ガリバルディからナポリを受け取った。「祖国の父」。粗野で、狩りと女が好きで、フランス語で話した。1870年、ローマに入った。ローマのヴィットーリアーノ(巨大な白い記念碑)は、彼のため。
- キニーネを取り出すできごとAD1820年薬が、ヨーロッパ人を熱帯の奥へ入れたアンデスのキナの木の皮が熱病に効くことは、十七世紀にイエズス会士を通じてヨーロッパに伝わっていた。だが皮は効き目が一定せず、偽物も多い。1820年、パリの薬学者ペルティエとカヴァントゥが、皮から有効な成分を結晶として取り出し、キニーネと名付けた。量を測って与えられる薬になる。十九世紀、ヨーロッパ人が熱帯アフリカの奥へ入れるようになった理由の一つがこれである。やがてオランダがジャワのキナ農園で世界の供給を握った。パリ
- ブラジルの独立できごとAD1822年9月7日本国の王子が自ら皇帝となって独立した。南米で唯一、帝政として始まる。リオデジャネイロ

- モンロー宣言できごとAD1823年12月2日ヨーロッパの植民の対象ではないラテンアメリカが独立し、スペインとその同盟が取り戻しに来るかもしれなかった。モンロー大統領の年次教書。「アメリカ大陸はヨーロッパの植民の対象ではない。ヨーロッパの干渉は合衆国への敵対とみなす。合衆国もヨーロッパに干渉しない」。実際に守ったのはイギリスの海軍だった。80年後、ローズヴェルトが「合衆国が干渉する」に読み替えた。ワシントンD.C.

- イェニチェリの廃止できごとAD1826年6月15日砲で兵舎をイェニチェリは14世紀にキリスト教徒の少年を徴集して作った常備歩兵で、19世紀には結婚し、商売をし、改革に反対して、スルタンを何人も殺していた。マフムト2世は新軍を作って、イェニチェリが反乱すると、砲で兵舎を撃った。6000人。「吉祥事件」。450年の軍団が1日で消えた。それから、タンジマート。コンスタンティノープル

- ケチワヨ人物AD1826年頃 – AD1884年2月8日シャカの甥で、ズールーの最後の独立した王。イギリスの最後通牒を拒み、イサンドルワナで勝ち、ウルンディで敗れた。ロンドンへ連れていかれ、群衆に歓迎されている。
- ロンドン動物園できごとAD1828年王の獣舎から研究施設へ王侯の見世物としての動物のコレクションは古い。ロンドン塔の獣舎は600年続いた。1826年、スタンフォード・ラッフルズらがロンドン動物学会を作り、1828年、リージェンツ・パークに「動物学的庭園」を開いた。当初は会員だけの研究施設で、一般公開は1847年から。zoological garden が略されて zoo という語になった。ダーウィンは1838年、ここでオランウータンのジェニーを観察し、その表情と癇癪を記録している。彼が人と動物の連続性を確信した場面の一つとされる。ロンドン

- サモリ・トゥーレ人物AD1830年頃 – AD1900年6月2日西アフリカでフランスに16年抗った。自前で銃を作らせ、退きながら国ごと移動する戦い方をとる。
- ジャワの強制栽培制度できごとAD1830年耕地の5分の1ジャワ戦争(1825〜30年)とベルギー独立で財政が傾いたオランダが、総督ファン・デン・ボスの案で、ジャワの村に、耕地の5分の1でコーヒー・砂糖・藍を作り、政府に決まった値で売ることを課した。実際には5割を超える村も、田が減って飢えた村もあった。オランダ本国の歳入の3分の1がジャワから来た年がある。1860年、『マックス・ハーフェラール』が告発し、1870年に緩んだ。プリアンガン(西ジャワ)
- チャールズ・ゴードン人物AD1833年1月28日 – AD1885年1月26日命令に従わなかった工兵将校。クリミア、そして中国(太平天国を鎮圧した「常勝軍」を率いて「チャイニーズ・ゴードン」)。エジプトのスーダン総督として奴隷交易を取り締まった。信仰が篤く、規律が厳しく、命令に従わなかった。1884年、住民の撤退のために送られて、残った。10か月の籠城の後、宮殿の階段で死んだ。ロンドンは彼を殉教者にし、その世論がスーダン征服を求めた。
- ウォードの箱できごとAD1833年帝国の植物の移動は、硝子の箱が可能にした植物を船で運ぶと、たいてい死んだ。潮風、塩水、日照りのない船倉。運べた苗は二十本に一本とも言われる。ロンドンの医師ナサニエル・ウォードは、蓋をした硝子の瓶の中で植物が育ち続けることに気づく。水は蒸発して硝子につき、また土へ戻る。密閉した箱が小さな循環になっていた。1833年、この箱に苗を入れてシドニーへ送る試みが成功した。以後、茶、ゴム、キナが大陸を越えて移された。帝国の植物の移動は、この硝子の箱が可能にしている。ロンドン
- レオポルド2世人物AD1835年4月9日 – AD1909年12月17日生涯コンゴへ行かなかったベルギー国王。国が植民地を欲しがらないので、自分で持つことにした。スタンリーを雇い、地図の上に線を引き、ベルリン会議で列強に「自由貿易の慈善国家」として承認させた。象牙、そしてゴム。ベルギー本国には収奪を隠し、ブリュッセルに凱旋門と王宮とアフリカ博物館を建てた。生涯、コンゴへ行かなかった。葬列に、群衆が野次を飛ばした。
- グレート・トレックできごとAD1836年奴隷制廃止から逃げたイギリスがケープを取り(1806年)、英語を公用語にし、1834年に奴隷制を廃止した。オランダ系の農民(ボーア人)1万5000人が、牛車で内陸へ移った。ドラケンスバーグを越えて、ズールー王ディンガーンと衝突し、1838年のブラッド・リバーで、円陣を組んだ470人が数千のズールー兵を銃で撃った。川が赤くなった。オレンジ自由国とトランスヴァール。アパルトヘイトの神話の一つになった。ケープタウン
- リリウオカラニ人物AD1838年9月2日 – AD1917年11月11日ハワイ最後の君主。米国系の勢力に退位させられ、流血を避けるために抵抗しなかった。『アロハ・オエ』の作者。
- ワイタンギ条約できごとAD1840年2月6日英語版とマオリ語版で意味が違う条約英語版とマオリ語版で意味が食い違ったまま結ばれた。その解釈は現在も争われている。ワイタンギ

- ヘンリー・モートン・スタンリー人物AD1841年1月28日 – AD1904年5月10日コンゴ自由国ウェールズの私生児。救貧院。ニューオーリンズの商人の名を取った。南北戦争で両軍に。ニューヨーク・ヘラルドの記者。リヴィングストンを見つけ、コンゴを源から河口まで下り、レオポルド2世のためにコンゴ自由国を作った。「岩を砕く男」。
- メネリク2世人物AD1844年8月17日 – AD1913年12月12日アドワでイタリアを破り、アフリカ分割のなかで独立を守り抜いた。
- 輪ゴムできごとAD1845年3月17日生のゴムは、夏にはべたつき、冬には固くなる。硫黄を加えて熱すると、暑さ寒さで性質が変わりにくくなることが分かり、ゴムは工業の材料になった。1845年3月17日、ロンドンの文具業者スティーヴン・ペリーが、ゴムの輪で紙や手紙を束ねる品の特許を取る。紐を結んでほどく手間がなくなった。安く、どこでも使え、誰が考えたかは忘れられた。ゴムの木の産地では、その需要が恐ろしい強制労働を生むことにもなる。ロンドン
- 米墨戦争できごとAD1847年9月14日領土の半分テキサスの併合と、リオ・グランデかヌエセス川かの境界の争い。ポーク大統領は戦争を欲しがっていた。ヴェラクルスに上陸したスコットがメキシコシティに入った。1848年、グアダルーペ・イダルゴ条約。メキシコは領土の半分、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコを1500万ドルで渡した。グラントは「強い国が弱い国にした、最も不正な戦争」と回想した。メキシコシティ

- アーサー・バルフォア人物AD1848年7月25日 – AD1930年3月19日ボブは君の叔父さんスコットランドの貴族、ソールズベリー卿の甥(「ボブは君の叔父さん」の語源、と言われる)。哲学者。首相(1902〜05年、教育法、英仏協商)。外相(1916〜19年)。宣言はロイド・ジョージとワイツマン(アセトンの化学者、シオニスト)が動かし、彼が署名した。「ユダヤ人にとって、シオニズムは、パレスチナに住む70万のアラブ人の願望や偏見より深い意味を持つ」と1919年に書いた。1926年、バルフォア報告書(自治領の平等)。
- 硝子の温室できごとAD1848年硝子と鉄で建物を作れるようになると、寒い土地で熱帯の植物を育てられるようになった。1848年、キュー植物園に巨大な温室が完成する。船の竜骨の技術を転用した曲面の骨組みで、柱を立てずに広い空間を覆った。中では、植民地から運ばれた椰子が天井まで伸びる。訪れた人は、行ったことのない土地の空気を歩いて通り抜けた。三年後の万国博覧会の建物も、同じ発想の巨大な硝子の箱である。見世物と研究と植民地経営が、一つの建物に同居していた。キュー
- オーストラリアのゴールドラッシュできごと1851年10年で人口が3倍になった。中国系移民も多く渡り、後の白豪主義の遠因にもなる。メルボルン

- ロンドン万国博覧会できごとAD1851年5月1日産業革命の勝利宣言ハイド・パークに、鉄とガラスで、長さ563メートルの温室。水晶宮。9か月で建て、600万人が来た。イギリスの人口の3分の1。蒸気機関、機関車、電信、コルト拳銃、コ・イ・ヌール、印度の象牙の玉座。「万国の産業の作品」。アルバート公が仕切った。利益で自然史博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館。産業革命の勝利宣言。ロンドン

- ラーマ5世人物AD1853年9月20日 – AD1910年10月23日奴隷制を廃し、制度を近代化した。英仏に領土を割きながら、東南アジアで唯一独立を保つ。
- クリミア戦争できごとAD1854年9月14日ウィーン体制が終わった聖地の管理権でロシアとフランスが争い、ロシアがオスマンに攻め、イギリスとフランスがオスマンについた。セヴァストポリ包囲、349日。バラクラヴァの軽騎兵の突撃。電信で新聞が戦争を伝え、写真が撮られた最初の戦争。ナイチンゲールがスクタリの病院で死亡率を42%から2%にした。死者は両方で75万人、ほとんどが病気。ロシアは負けて、農奴解放へ。ウィーン体制が終わった。セヴァストポリ

- アロー戦争(第二次アヘン戦争)できごとAD1856年10月8日英仏が北京に入り、離宮を焼いた広州で清の役人が、イギリス船籍を名乗る小船アロー号を臨検して乗組員を捕らえた。イギリスはこれを口実に、宣教師の殺害を理由にしたフランスと組んで出兵する。4年にわたる戦いの末、英仏軍は北京に入り、離宮の円明園を略奪して焼いた。北京条約で清は天津を開き、九竜半島の南端を割譲し、外国の使節が北京に住むことを認めた。広州
- インド大反乱できごと1857年これ以後、インドは会社ではなく国王の統治下に入る鎮圧の後、ムガル帝国は名実ともに消え、インドは英国の直接統治下に入る。デリー

- ティーボー王人物AD1859年1月1日 – AD1916年12月19日遺骨は帰っていないコンバウン朝の最後の王。僧院で学んだ穏やかな王子が、宮廷の争いの中で王に立てられ、即位のとき、王族80人以上が殺された(王妃スパヤラットの主導と伝える)。フランスに近づいてイギリスを警戒させた。1885年、王宮を追われ、牛車で川へ。インドのラトナギリで31年、監視の下に暮らして、死んだ。遺骨はビルマに帰っていない。
- 『ソルフェリーノの思い出』できごとAD1859年6月24日北イタリアのソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ軍とオーストリア軍が一日戦い、死傷者は数万にのぼった。商用で通りがかったジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、近くの町の教会に運び込まれた負傷兵が、手当てを受けられずに死んでいくのを見た。軍の衛生隊はわずかしかいない。彼は町の女たちを集め、敵のオーストリア兵も同じように手当てした。女たちは「みな兄弟」と言ったと伝えられる。三年後、彼は自費でその光景を本にし、戦争のたびに負傷者を助ける民間の団体を、平時から各国に作っておくべきだと書いた。ソルフェリーノ
- マニプルのポロできごとAD1859年本国の上流の競技は、辺境の人々から学んだものだった馬に乗って杖で球を打つ遊びは、ペルシアから中国まで古くから行われていたが、多くの土地では廃れていた。インド東北のマニプルでは、小柄な馬に乗って球を追う競技が、人々の暮らしの中に生きていた。隣のアッサムで茶園を営むイギリス人たちは、マニプルの人々の試合を見て夢中になり、1859年、シルチャルに最初のポロのクラブを作った。やがて規則が書かれ、騎兵の将校たちがそれを本国へ持ち帰る。イギリスの上流の競技として知られるポロは、植民地の辺境で、土地の人々から学んだものだった。シルチャル
- ポニー・エクスプレスできごとAD1860年4月3日孤児優先という募集ミズーリ州セントジョセフからカリフォルニアのサクラメントまで3100キロを、10日で運ぶ。15キロごとに中継所を置き、騎手は馬を替えながら100キロ前後を走り、次の騎手に鞍袋を渡す。騎手は体重が軽い若者が選ばれ、「孤児優先」と募集広告にあったと伝えられる。運んだのは軽い書簡だけで、料金は当初半オンスごとに5ドル。18か月で終わった。1861年10月、大陸横断電信が開通し、その二日後に廃業した。セントジョセフ
- ガリバルディの千人隊できごとAD1860年5月11日献上して島に帰った赤シャツの義勇兵1089人がジェノヴァから2隻の船でシチリアへ。マルサラに上陸し、カラタフィーミで両シチリア王国軍を破り、パレルモを取り、海峡を渡ってナポリに入った。5か月で王国を倒し、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に「イタリアの王」と呼んで献上して、カプレーラ島に帰った。カヴールは彼を恐れ、使い、退けた。パレルモ

- ロシアのタシケント占領できごとAD1865年命令を待たずに落とした町19世紀、ロシアは草原を南へ進み、中央アジアのオアシスの国々に迫った。1865年、将軍チェルニャーエフは、命令を待たずに中央アジア最大の商業の町タシケントを攻め落とす。二年後、ここにトルキスタン総督府が置かれ、ブハラとヒヴァは保護国になり、コーカンドは滅ぼされた。ロシアは綿花の畑を広げ、アメリカの南北戦争で途絶えた綿を補った。南のインドを持つイギリスは、ロシアがアフガニスタンを越えて来ることを恐れ、両国の探り合いは「グレート・ゲーム」と呼ばれた。タシュケント
- 大西洋横断電信ケーブルできごとAD1866年98語に16時間1858年、最初のケーブルが繋がり、ヴィクトリア女王とブキャナン大統領が挨拶を交わした。98語の送信に16時間かかり、3週間で切れた。1865年、グレート・イースタン号(当時ずば抜けて巨大な失敗作の客船)が敷設船に転用され、途中で切断。1866年、成功し、落とした前年のケーブルも拾い上げて繋いだ。ロンドンとニューヨークの間の情報の伝達が、10日から数分になった。市場と外交と新聞が、同じ日を共有し始めた。ハーツ・コンテント(位置は特定されていない)

- カナダ連邦の成立できごとAD1867年7月1日南で南北戦争を終えたアメリカが北へ広がるのではないか、という不安が、イギリス領北アメリカの植民地をまとめさせた。1867年7月1日、英語を話すオンタリオ、フランス語を話すケベック、そして東の二つの植民地が一つの連邦となり、カナダ自治領が生まれる。戦争ではなく、議会の話し合いと本国の法律によってできた国だった。やがて西へ広がり、大陸の北半分を覆う。二つの言葉と、先住の人びととの関係は、この国の最初からの課題になった。オタワ
- シャムの近代化できごと1868年緩衝地帯という位置を使って独立を保つ奴隷制を廃し制度を改めた。英仏の緩衝地帯という位置も利用して、東南アジアで唯一独立を保つ。バンコク
- ガンディー人物AD1869年10月2日 – AD1948年1月30日非暴力・不服従で帝国に抗った。独立の翌年、宗教対立のなかで暗殺される。
- スダン(セダン)の戦いできごとAD1870年9月1日皇帝が自分で降伏ビスマルクがエムス電報でナポレオン3世を挑発し、フランスが宣戦した。6週間。モルトケの鉄道と参謀本部。スダンで13万のフランス軍が包囲され、皇帝が自分で降伏した。2日後、パリで共和政が宣言された。皇帝は捕虜になり、イギリスで死んだ。フランスはアルザス・ロレーヌを失い、1914年まで取り返すことを考えた。スダン(セダン)

- スタンリー、リヴィングストンに会うできごとAD1871年11月10日コンゴをレオポルドに新聞社の金で、消息の絶えた宣教師を探して8か月。タンガニーカ湖の岸の村で。「リヴィングストン博士ですね」。言ったかどうか、彼の日記のその日の頁は破られている。リヴィングストンは帰らず、2年後に死んだ。スタンリーはコンゴを下り、レオポルドに売った。ウジジ
- ドイツ帝国国AD1871年1月18日(ヴェルサイユでの帝国宣言) – AD1918年(ヴィルヘルム2世の退位)プロイセンが三度の戦争でまとめ上げ、ヴェルサイユの鏡の間で皇帝が宣された。40年で工業生産がイギリスを抜き、遅れて植民地を取りにいって、第一次世界大戦で解体する。
- 国立公園できごとAD1872年間欠泉と渓谷の写真と絵が議会に届き、1872年、アメリカは広大な土地を「人々の利益と楽しみのため」に保護すると定めた。世界で最初の国立公園とされる。売らず、開発させず、国が持ち続ける。新しい発想だった。一方で、その土地には先住の人々が季節ごとに入り、狩りをしていた。公園には人が住んでいないという前提で線が引かれ、彼らは締め出される。手つかずの自然という考え方自体が、そこに人がいた事実を消すことで成り立っていた。同じ形は、各国の国立公園に引き継がれている。イエローストーン
- 台湾出兵できごとAD1874年1871年、台湾の南部に流れ着いた宮古島の船(首里へ年貢を納めた帰り)の乗員のうち五十人余りが、先住の人びとに殺された。清は、台湾の先住の人びとは自分たちの統治の外にあると答える。1874年、日本は三千の兵を台湾に送り、先住の人びとの村を攻めた。戦いで死んだ者より、マラリアで死んだ兵のほうがはるかに多かった。清は最終的に賠償金を払い、日本の出兵を正当なものと認める形になる。これは、琉球の人びとを日本の国民として扱う根拠にも使われた。明治の日本が初めて行った海外への派兵だった。恒春半島(位置は特定されていない)
- アメリカバイソンの激減できごとAD1875年鉄道と皮のなめし技術19世紀の初め、北アメリカに3000万頭以上いた。1889年、野生の個体は1000頭を割った。鉄道が平原を横切り、なめし技術の改良で皮が工業用ベルトに使えるようになると、狩猟者が押し寄せた。一人で一日100頭を撃った記録がある。骨は肥料に、皮は工場へ。軍がこれを黙認あるいは奨励した面がある。平原の先住民はバイソンに依存していた。獣を絶やせば、彼らは居留地へ来るしかない。「インディアンの糧食庫を殺す」と、ある将軍が書いている。グレートプレーンズ
- ムハンマド・アリー・ジンナー人物AD1876年12月25日 – AD1948年9月11日はじめはヒンドゥーとムスリムの融和を説いた法律家。のちに分離独立を主導し、パキスタンの建国者になる。
- 江華島条約できごとAD1876年2月27日結ばされた国が結ばせた前年、日本の軍艦雲揚号が江華島の砲台を挑発して砲撃を受け、これを口実に開国を迫った。ペリーの手口を、22年後に、日本が使った。朝鮮を「自主の国」と規定し(清の宗主権を否定するため)、釜山・元山・仁川を開き、日本に領事裁判権と、関税自主権の放棄を認めさせた。不平等条約を結ばされた国が、次に、不平等条約を結ばせた。江華島
- 赤い新月できごとAD1876年オスマン帝国は早くにジュネーヴ条約に加わっていた。だが、バルカンでの戦いが始まると、白地に赤い十字の腕章は、兵にとって十字軍の旗に見えた。十字を掲げた救護員が狙われることもあったという。1876年、帝国はスイス政府に、自分たちは十字の代わりに赤い新月を使い、相手の赤十字は尊重すると通知した。ロシアとの戦争では、双方がそれぞれのしるしを認め合った。しるしが中立であるためには、見る側にとっても中立に見えなければならない。赤新月が条約に正式に書き込まれるのは、1929年である。コンスタンティノープル
- 琉球処分できごとAD1879年4月4日脱清人明治政府は1872年に琉球藩を置き、1875年に清への朝貢を禁じ、1879年、松田道之が警官160人と兵400を連れて首里城に入り、沖縄県を置いた。450年の王国が終わった。尚泰王は東京へ。士族の一部は清へ渡って救援を求め(脱清人)、清は抗議し、1880年の分島案(宮古・八重山を清へ)は流れた。日清戦争で決着した。那覇

- サモリ・トゥーレの抵抗できごと1882年西アフリカでフランスに16年抗った。自前で銃を作らせ、退きながら国ごと移動する戦い方をとる。トンブクトゥ
- ウラービー運動できごとAD1882年9月13日一時的な占領が74年スエズ運河の建設と浪費で、エジプトは破産し、英仏が財政を管理した。農民出身の陸軍大佐ウラービーが「エジプト人のエジプトを」と立ち、憲法と議会を求めた。アレクサンドリアがイギリス艦隊に砲撃され、テル・エル・ケビールで夜襲に敗れた。ウラービーはセイロンへ流された。イギリスの「一時的な」占領は74年続いた。テル・エル・ケビール

- アフリカ分割できごと1884年会議の席で線を引いたベルリン会議を機に、ヨーロッパ諸国がアフリカをほぼ全域分け取りした。境界は現在も残る。
- 本初子午線会議できごとAD1884年10月1日科学ではなく船の数で決まった経度をどこから測るか。各国が自国の天文台を基準にしていた。パリ、カディス、フェロー島、リオ、東京。海図が噛み合わない。25か国がワシントンに集まり、グリニッジを本初子午線とすることを決めた(賛成22、反対1=サント・ドミンゴ、棄権2=フランスとブラジル)。理由は科学ではなく、当時の船舶の7割以上がグリニッジ基準の海図を使っていたからである。同時に、グリニッジの真夜中に始まる世界共通の一日を定めたが、時間帯の区分までは決めなかった。フランスは1911年までパリ子午線を使い続けた。ワシントンD.C.
- ベルリン会議とアフリカ分割できごと1884年11月アフリカの代表を呼ばずに分け方を決めたアフリカの代表を一人も呼ばずに、14か国が大陸の分け方を決めた。実効支配していれば領有を認めるという規則が、その後20年の争奪を加速させる。ベルリン

- ハルツームの陥落できごとAD1885年1月26日救援の2日前スーダンの船大工の子ムハンマド・アフマドが「マフディー(導かれた者)」を名乗り、エジプトとイギリスの支配に立った。10か月の包囲。イギリスは撤退のためにゴードンを送り、ゴードンは撤退せずに残った。救援隊の2日前に城が落ち、ゴードンは階段で槍に刺されて死んだ。首はマフディーの前に運ばれた。ロンドンは英雄の物語にした。13年後、キッチナーがオムドゥルマンで機関銃で報復した。ハルツーム

- ビルマの併合できごとAD1885年11月28日11日でマンダレーコンバウン朝は3度イギリスと戦って、南から削られていた。1885年、ボンベイ・ビルマ商会の木材の罰金をめぐる争いを口実に、イギリスは最後通牒を出し、11日でマンダレーに入った。ティーボー王と王妃はインドへ流された。ビルマはインド帝国の一州にされた(王国でなく州にしたことが、後の民族運動の芯になった)。ゲリラの抵抗は5年続いた。マンダレー
- コンゴ自由国できごと1885年植民地の中でも最悪の部類国ではなく、ベルギー王レオポルド2世の私有地だった。ゴムの割当を満たさない村の手を切り落とし、人口の半分近くが失われたとされる。キンシャサ
- 石鹸と広告できごとAD1886年広告が商品だけでなく序列も売った石鹸は長く高価な品だったが、原料の改良と課税の廃止で安くなり、十九世紀末には大量に作られるようになった。売る側は、必要のない人にも買わせなければならない。ピアーズ社は画家ミレーの描いた子どもの絵を買い取り、石鹸を描き加えて広告に使った。清潔であることが、上品さであり、道徳であり、文明であるという語り方が広まる。同じ語り方は植民地にも向けられ、石鹸の広告が「野蛮を洗い落とす」構図で描かれた。体を洗う習慣は、衛生の知識だけでなく、広告によっても作られた。ロンドン
- ジャワハルラール・ネルー人物AD1889年11月14日 – AD1964年5月27日独立インドの初代首相。どちらの陣営にも属さない道を掲げ、バンドン会議の中心にいた。
- ホー・チ・ミン人物AD1890年5月19日 – AD1969年9月2日独立宣言にアメリカ独立宣言の一節を引いた。フランスと戦い、次いでアメリカと戦う。
- シャルル・ド・ゴール人物AD1890年11月22日 – AD1970年11月9日アルジェリアの独立を認めた側ロンドンから抵抗を呼びかけ、戦後に第五共和政を作った。アルジェリアの独立を認めたのもこの人になる。
- ウーンデッド・ニーの虐殺できごとAD1890年12月29日武装解除の最中に発砲が起き、300人近いラコタが殺された。北米先住民との戦争の終わりとされる。ウーンデッド・ニー

- ハイレ・セラシエ1世人物AD1892年7月23日 – AD1975年8月27日イタリアの侵略を国際連盟で訴え、聞き入れられなかった。その演説はいま集団安全保障の失敗の記録として読まれる。
- ハワイ王国の転覆できごとAD1893年1月17日砂糖農園主らが海兵隊の後ろ盾で女王を退位させた。5年後にアメリカが併合する。ハワイ(位置は特定されていない)

- デュランド・ラインできごとAD1893年11月12日緩衝地帯のための線イギリス領インドの外務長官モーティマー・デュランドと、アフガニスタンのアブドゥル・ラフマーン・ハーンが、境界を定める協定に署名した。2600キロ。目的は、ロシアとの間に緩衝地帯を作ることである。線は、パシュトゥーン人の居住域を、真ん中で切った。部族も、村も、時には家族も分かれた。アフガニスタンは、独立後、この線を認めていない。パキスタンは国境と主張する。地図の上の一本の線が、130年、係争であり続けている。カブール
- 東学農民戦争できごとAD1894年日清戦争の引き金崔済愚が創めた東学(「西学=キリスト教」に対する)は、「人が即ち天」と説いて農民に広がった。1894年、全羅道の郡守の収奪に、全琫準が立った。全州を占領し、政府と和約して、村ごとに執綱所を置いて自治を行った。政府が清に援兵を求め、日本も出兵して、日清戦争になった。再蜂起した農民軍は、日本軍の連発銃の前に、公州の牛禁峙で数万が死んだ。全州

- アドワの戦いできごとAD1896年3月1日一方通行ではなかったエチオピアがイタリアを破った。アフリカ分割のなかで独立を守り抜いた唯一に近い例になる。アドワ(位置は特定されていない)

- フィリピン革命できごと1896年アジアで最初の独立宣言。だが統治する側が入れ替わるアジアで最初に植民地からの独立を宣言した。だが直後にアメリカが来て、統治する側が入れ替わる。マニラ

- 指紋による身元確認できごとAD1897年分類法を作ったのは現地の警官指紋が個人ごとに違い、生涯変わらないことは、19世紀に複数の人が指摘した。日本で医師として働いたヘンリー・フォールズが1880年に『ネイチャー』に発表し、犯罪捜査への利用を提案した。実用にするには、数万枚の指紋から一致するものを探し出す分類法が要る。ベンガル警察のアジズル・ハックとヘム・チャンドラ・ボースが、渦と弓と蹄の形で1024の区分に分ける方式を作った。上司の名を取って「ヘンリー式」と呼ばれる。1901年、ロンドン警視庁が採用した。コルカタ
- 蚊の胃の中にできごとAD1897年8月20日マラリアは悪い空気から来ると考えられ、名前もイタリア語の悪い空気に由来する。インド医務局の軍医ロナルド・ロスは、蚊が運ぶという説を確かめようと、何年も蚊を解剖し続けた。1897年8月20日、患者の血を吸ったハマダラカの胃の壁に、原虫の袋を見つける。翌年には鳥のマラリアで一巡りの経路を示した。人の経路を示したイタリアの研究者たちと、手柄を争うことにもなる。病を防ぐ標的が、空気から一匹の虫に変わった。セカンデラバード
- オムドゥルマンの戦いできごとAD1898年9月2日機関銃を持つ軍と持たない軍機関銃を持つ軍が、持たない軍を一方的に破った。技術の差が植民地化の速さを決めた例。オムドゥルマン
- 米西戦争できごとAD1898年独立を助ける戦争で、植民地を持つ国にスペインからの独立を求めるキューバの戦いが続いていた。1898年2月、ハバナの港でアメリカの軍艦メイン号が爆発して沈む。原因ははっきりしなかったが、アメリカの大衆紙はスペインの仕業だと煽り立てた。四月に始まった戦争は、四か月足らずでアメリカが勝つ。スペインはキューバを手放し、プエルトリコとグアムとフィリピンをアメリカに譲った。独立を助けるはずの戦争で、アメリカは海の向こうに植民地を持つ国になった。ハバナ
- マロロス共和国できごとAD1899年1月23日2000万ドルで買われたカティプーナンの蜂起(1896年)と、米西戦争を経て、アギナルドが1898年6月に独立を宣言し、マロロスで憲法をつくった。アジアで最初の共和国憲法。しかしアメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを買い、独立を認めなかった。1899年2月、比米戦争。3年で、フィリピン人の死者は20万人以上。1901年、アギナルド捕縛。1946年まで、アメリカの統治が続いた。マロロス
- ユナイテッド・フルーツと「バナナ共和国」できごと1899年一つの会社が数か国を握った一つの会社が、中米数か国の鉄道と港と土地を握った。1954年、農地改革を進めたグアテマラ政権が、この会社の働きかけを受けたアメリカの介入で倒される。グアテマラシティ
- ボーア戦争できごとAD1899年10月11日女性と子どもを収容所に集めた南アフリカの内陸に、オランダ系の入植者の子孫ボーア人が作った二つの共和国があった。そこで金とダイヤモンドが見つかると、イギリスは支配を狙う。1899年10月に始まった戦争で、ボーア人はゲリラになって抵抗した。イギリス軍は農場を焼き、女性と子どもを収容所に集める。不衛生と飢えで、ボーア人の二万人を超える子どもと女性が死に、隣の収容所に入れられた黒人も多く死んだ。1902年、共和国はイギリスに併合された。プレトリア
- 義和団の乱できごとAD1900年清の権威が地に落ちた外国の宣教師と鉄道と商品が入り込み、干ばつが続く華北の農村で、武術の結社・義和団が、清を助け外国を滅ぼせと唱えて広がった。1900年、彼らは北京に入り、清の朝廷もこれに乗って列国に宣戦する。外国の公使館は二か月近く包囲された。日本を含む八か国の連合軍が北京を占領し、翌年の議定書で清は巨額の賠償金を課され、外国軍が北京に駐留することになった。清の権威は地に落ち、十一年後の辛亥革命へ向かっていく。北京
- オーストラリア連邦の成立できごとAD1901年1月1日六つの植民地が一つの国になった。同時に移民を制限する政策も始まる。メルボルン

- スカルノ人物AD1901年6月6日 – AD1970年6月21日インドネシア独立を宣言し、バンドン会議で第三世界の連帯を掲げた。
- 白豪主義できごとAD1901年連邦の最初の議会が、移民を事実上ヨーロッパ系に限る法を通した。書き取り試験という形で、当人の知らない言語を選んで落とすことができた。シドニー

- イブン・サウードのリヤド奪還できごとAD1902年1月15日30年で王国クウェートに亡命していたサウード家の20代の若者が、40人で夜、リヤドの城壁を越え、夜明けにラシード家の総督を門で殺した。ワッハーブ派の戦士イフワーン。30年で、ナジュド、ハサー、ヒジャーズ(メッカとメディナ)。1932年、サウジアラビア王国。6年後、石油。リヤド
- ヘレロ・ナマ虐殺できごと1904年ドイツ領南西アフリカで、蜂起した人びとが砂漠へ追い込まれた。20世紀最初のジェノサイドと呼ばれる。ヴァーターベルク(位置は特定されていない)

- シベリア鉄道の開通できごとAD1904年東を領土として持てるようにモスクワからウラジオストクまで9289キロ(1904年は満洲の東清鉄道を通り、ロシア領だけの全線は1916年)。1891年、皇太子ニコライがウラジオストクで鍬入れした(大津事件の直後)。囚人と農民と中国人の労働。永久凍土、バイカル湖(初めは船で渡し、1904年に環状線)。日露戦争に間に合わせるために突貫した。ロシアが東を「領土」として持てるようになった。ヨーロッパとアジアを7日で結ぶ、いまも世界最長の鉄道。ウラジオストク
- ナウルの燐鉱石できごと1907年島ひとつが資源として掘られた一時は国民一人当たりの所得が世界有数になった。掘り尽くした後、島の8割が荒地として残る。ナウル
- 英露協商できごとAD1907年8月31日当事者に諮らずに分ける1907年8月31日、イギリスとロシアはサンクトペテルブルクで協定を結び、中央アジアでの争いに区切りを付けた。ペルシアを北のロシアの勢力の範囲、南のイギリスの範囲、その間の中立の地帯に分け、アフガニスタンはイギリスの側とし、チベットには互いに手を出さないと決める。ペルシアの人々には何も諮られなかった。日露戦争で負けたロシアと、ドイツの台頭を恐れるイギリスが手を結んだことで、フランスを加えた三国協商ができ、ヨーロッパは第一次世界大戦へ向かう二つの陣営に分かれていった。サンクトペテルブルク
- クワメ・エンクルマ人物AD1909年9月21日 – AD1972年4月27日サハラ以南で最初に独立を勝ち取った国の指導者。アフリカは一つになるべきだと説き、クーデタで倒される。
- ヴォー・グエン・ザップ人物AD1911年8月25日 – AD2013年10月4日歴史教師から将軍になった。ディエンビエンフーでフランス軍を降伏させ、植民地帝国の終わりを早めた。
- パナマ運河の開通できごとAD1914年8月15日独立運動を支援して承認したフランスのレセップス(スエズの成功者)が1881年に着工し、海面式にこだわり、マラリアと黄熱で2万人以上を失って破綻した。アメリカが引き継ぎ、コロンビアが条件を拒むとパナマの独立運動を支援して新国家を承認し、運河地帯の権利を得た。ゴーガスが蚊を絶ち、閘門式に設計を変え、山を切り、川をせき止めて人造湖を作った。ニューヨークからサンフランシスコへの航路が、およそ1万3千キロ短くなった。1999年、パナマに返還された。パナマ運河
- サイクス・ピコ協定できごとAD1916年5月16日eからkまで線をイギリスのサイクスとフランスのピコが、オスマンの中東を地図の上で分けた。地中海のアッコからペルシアの国境のキルクークまで、「eからkまで線を引く」。北はフランス(シリア、レバノン)、南はイギリス(イラク、ヨルダン)、パレスチナは国際管理。秘密。1917年、ロシア革命でボリシェヴィキが公表した。アラブが裏切りを知った。いまの国境。ロンドン

- イースター蜂起できごとAD1916年4月24日1916年4月24日、復活祭の翌月曜日、ダブリンで千数百人の武装した人びとが中央郵便局などを占拠し、アイルランド共和国の樹立を宣言した。イギリスは大戦のさなかで、蜂起は市民の支持も薄く、六日で降伏する。ところがイギリスが指導者十五人を次々に銃殺すると、世論は一気に独立へ傾いた。1919年から独立戦争が始まり、1922年、アイルランド自由国が生まれる。北の六州はイギリスに残り、その分断はのちの長い紛争の種になった。ダブリン
- バルフォア宣言できごとAD1917年11月2日三つの約束外相バルフォアからロスチャイルド卿への67語の手紙。「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを好意的に見る。ただし、既存の非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的権利を害してはならない」。同じ土地を、フサインにも(1915年)、フランスにも(サイクス・ピコ、1916年)約束していた。「ある民族が、別の民族に、第三の民族の土地を約束した」(ケストラー)。ロンドン

- ガマール・アブドゥル=ナセル人物AD1918年1月15日 – AD1970年9月28日スエズ運河を国有化し、旧宗主国の出兵を退けた。アラブ世界に「自分たちで決める」という気分を作る。
- アムリトサル虐殺できごとAD1919年4月13日広場に集まった非武装の群衆へ発砲した。この事件が、穏健な協調路線を独立運動へ変える。アムリトサル
- ジュリウス・ニエレレ人物AD1922年4月13日 – AD1999年10月14日独自の社会主義を試みて経済は行き詰まったが、自ら退いた。アフリカで在任中に平和的に権力を手放した早い例。
- 南洋群島の委任統治できごとAD1922年1914年、第一次世界大戦に加わった日本は、赤道の北に散らばるドイツ領の島々(マリアナ・カロリン・マーシャル)を占領した。戦後、国際連盟はここを日本の委任統治領とし、1922年、パラオのコロールに南洋庁が置かれる。サトウキビの畑と製糖の会社が開かれ、沖縄などから移り住んだ日本人は、1930年代の半ばには島の人々の数を上回った。学校では日本語が教えられた。連盟を脱退したあとも日本は島を手放さず、やがて海軍の拠点が築かれて、島々は太平洋の戦場になっていく。コロール
- トルコ共和国の成立できごとAD1923年10月29日解体された帝国の跡に共和国が立った。文字をラテン字に替え、暦も法も服装も入れ替える。アンカラ
- ローザンヌ条約できごとAD1923年7月24日セーヴルを破棄させたセーヴル条約(1920年、オスマンを分割)をケマルが戦争で破棄させた。トルコ共和国の国境。アナトリアとトラキア。治外法権の廃止。ギリシアとトルコの住民交換、宗教を基準に、120万人と40万人。生まれた土地を出た。クルドとアルメニアの国は、なくなった。3か月後、共和国。ローザンヌ

- パトリス・ルムンバ人物AD1925年7月2日 – AD1961年1月17日コンゴ独立の初代首相。首相を2か月余りで解任され、外国の関与のもとで殺された。独立の難しさの象徴になる。
- 塩の行進できごと1930年塩の専売に抗い、380kmを24日かけて歩いた。誰でも真似できる不服従が、帝国を揺さぶる。ダンディ

- イタリアのエチオピア侵攻できごと1935年国際連盟は止められなかった毒ガスが使われた。国際連盟は止められず、集団安全保障が機能しないことがはっきりする。アディスアベバ
- ダライ・ラマ14世人物AD1935年7月6日 – ?国を持たないまま国を代表している2歳で認定され、24歳でインドへ亡命した。60年以上、国を持たないまま国を代表している。
- ハイレ・セラシエの国際連盟演説できごとAD1936年6月30日訴えは聞き入れられなかった侵略された国の元首が直接訴えたが、制裁は解かれた。「今日は我々、明日はあなたたちだ」という一節が残る。ジュネーヴ
- エディ・マボ人物AD1936年6月29日 – AD1992年1月21日「無主の地」という法の建前を裁判で覆した。判決は本人の死の5か月後に出る。
- シンガポール陥落できごとAD1942年2月15日イギリスは、海からの攻撃に備えてシンガポールを難攻不落の要塞と誇っていた。日本軍は、北のマレー半島を自転車も使って南へ駆け下り、陸から迫った。1942年2月15日、イギリス軍の八万を超える将兵が降伏する。チャーチルは、イギリスの軍の歴史で最悪の惨事と呼んだ。アジアの人びとの前で、白人の帝国が敗れた。占領のあと、日本軍は華人の住民を粛清し、多くの人が殺された。シンガポール
- 大東亜会議できごとAD1943年11月5日1943年11月5日、東京に、日本が後ろ盾となった満洲国、南京の中国の政府、タイ、フィリピン、ビルマの代表と、自由インド仮政府の指導者が集まった。欧米の植民地支配からアジアを解き放つ、と宣言が読み上げられる。だが、集まった政府の多くは日本の軍の占領の下にあり、資源と労働は日本の戦争のために取り立てられていた。解放の言葉と、占領の現実のずれは、いまもこの会議の評価を分けている。東京
- インドネシア独立宣言できごとAD1945年8月17日日本の降伏の2日後に宣言し、旧宗主国と4年戦って認めさせた。バタヴィア

- ベトナム民主共和国の独立宣言できごとAD1945年9月2日アメリカ独立宣言の一節を引いて始まる文書だった。だが承認されず、30年の戦争が続く。ハノイ
- セティフの虐殺できごとAD1945年5月8日ヨーロッパの戦勝を祝う日に、独立を求める旗が掲げられ、発砲があった。報復で数千人から数万人が殺される。アルジェリア戦争の起点として記憶されている。セティフ
- ペロン政権の成立できごとAD1946年労働者の支持で政権に就き、南米のポピュリズムの原型になった。いまも評価が割れる。ブエノスアイレス
- フィリピンの独立できごとAD1946年7月4日スペインから独立を宣言した共和国は、アメリカとの戦争に敗れ、半世紀近くアメリカの統治下に置かれた。アメリカは、十年後に独立させると約束していたが、その途中で日本の占領を受け、マニラは市街戦で壊滅する。1946年7月4日、アメリカの独立記念日と同じ日に、フィリピンは独立した。だがアメリカの軍の基地は残り、経済もアメリカに有利な約束に縛られた。のちに独立記念日は、スペインからの独立を宣言した6月12日に移される。マニラ
- インド・パキスタン分離できごとAD1947年引かれた線がそのまま残った独立と同時に線が引かれ、1000万人以上が移動した。数十万から百万が死んだとされる。アムリトサル

- インドの独立できごとAD1947年8月15日非暴力の運動が帝国を退かせた。同時にインドとパキスタンに分かれ、1000万人以上が移動する。デリー

- ラドクリフ・ラインできごとAD1947年8月17日インドへ行ったことのない弁護士インドの分割にあたり、境界の画定を任されたのは、シリル・ラドクリフという弁護士だった。彼はインドへ行ったことがなかった。中立であるという理由で選ばれた。与えられた期間は5週間。彼は古い地図と国勢調査の数字を見て、ベンガルとパンジャーブに線を引いた。線が公表されたのは独立の2日後である。それまで、誰も自分がどちらの国になるか知らなかった。1000万人以上が移動し、数十万人から100万人以上が死んだ。彼は報酬を受け取らず、作業の記録を焼いた。ロンドン
- マラヤ危機できごと1948年独立を約束しながら封じ込めた共産党の武装闘争を、イギリスが50万人の住民を強制移住させて封じ込めた。この方法が、のちにベトナムでアメリカが真似て失敗する。クアラルンプール

- ウィンドラッシュ号できごとAD1948年6月22日戦後のイギリスは人手が足りなかった。1948年6月22日、カリブ海のジャマイカなどから、八百人を超える人を乗せた船ウィンドラッシュ号がロンドン近くの港に着く。彼らは帝国の臣民としてイギリスの国籍を持っていた。病院や交通の仕事を担ったが、部屋を借りようとすると断られることも多かった。2018年、この世代の人びとが書類を持たないとして不法滞在の扱いを受け、職や医療を失い、国外へ送られた例まであったことが明らかになり、大臣が辞任した。ティルベリー
- スターリンの死できごとAD1953年3月5日100万人が収容所からクンツェヴォの別荘で倒れて、側近は12時間、医者を呼ぶのを恐れた。「医師団陰謀事件」の最中で、医者は逮捕されていた。4日。葬儀の群衆で数百人が圧死した。ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ。3月中に収容所から100万人が出た。モスクワ

- アルジェリア戦争できごと1954年入植者が100万人いた土地の独立戦争。拷問の告発がフランス国内を割り、第四共和政が倒れた。アルジェ
- ディエンビエンフーの戦いできごと1954年植民地側が正面から降伏させた植民地側の軍が、正面からヨーロッパの軍を降伏させた。世界中の独立運動がこれを見ている。ディエンビエンフー

- バンドン会議できごとAD1955年どちらの陣営にも属さないという選択アジア・アフリカ29か国が集まり、どちらの陣営にも付かないと宣言した。第三世界という言葉が力を持つ。バンドン

- スエズ危機できごとAD1956年旧宗主国が単独では動けなくなったことがはっきりするエジプトが運河を国有化し、英仏が武力介入して失敗した。旧宗主国の時代が終わったと誰の目にも見える。スエズ運河

- ガーナの独立できごとAD1957年3月6日サハラ以南で最初に独立した。3年後の「アフリカの年」につながる。アクラ
- コンゴ動乱できごと1960年独立の直後に起きたこと独立の直後から内戦と外国の介入が続いた。資源のある国が、独立してなお翻弄される。キンシャサ

- ルムンバの殺害できごとAD1961年1月17日独立が独立で終わらない独立から2か月余りで解任された初代首相が、外国の関与のもとで殺された。独立が独立で終わらないことの例になる。キンシャサ
- ケニアの独立できごとAD1963年12月12日ケニアの高地の肥えた土地は、白人の入植者のものになっていた。土地を奪われたキクユの人びとの反乱を、イギリスは十年近く力で抑え、数万人を収容所に入れた。反乱の指導者とされて投獄されたジョモ・ケニヤッタは、釈放されると独立の交渉の中心に立つ。1963年12月12日、ケニアは独立し、ケニヤッタが首相、のちに大統領となった。彼は入植者に報復せず、和解を説いた。だが土地は、新しい支配層の手に集まっていった。ナイロビ
- シンガポールの独立できごとAD1965年8月9日マレーシアから追い出される形で独立した。資源のない小島が、一世代で先進国になる。シンガポール

- ローデシアの一方的独立宣言できごとAD1965年11月11日アフリカの植民地が次々に独立するなか、イギリスは南ローデシアに、多数派の黒人が政治に加わることを独立の条件とした。人口の一割に満たない白人の政府は、これを拒む。1965年11月11日、首相イアン・スミスは、イギリスからの独立を一方的に宣言した。どの国も承認せず、国連は経済の制裁を科したが、隣の南アフリカなどの支えで、白人の支配は十五年続く。黒人の解放勢力とのゲリラ戦で、数万人が死んだ。ハラレ
- ソ連のアフガニスタン侵攻できごとAD1979年12月24日ソ連は2年後になかったクリスマスイヴ、空挺部隊がカブールに降り、大統領アミンが宮殿で殺された。10年。ソ連兵1万5000人、アフガン人100万人が死んだ。アメリカとサウジとパキスタンがムジャヒディンに金と武器を送った。1989年2月15日、最後の戦車が橋を渡った。ソ連は2年後になかった。カブール
- マルタ会談できごとAD1989年12月2日互いを敵と見ないブッシュとゴルバチョフが嵐の中、ソ連の客船で。「冷戦の終わり」を二人で言った。ヤルタから44年。「ヤルタからマルタへ」。条約はなかった。ゴルバチョフは「我々は互いを敵と見ない」。東欧はもう崩れていた。2年後、ソ連も。マルタ(ヴァレッタ)
- 有害なごみを輸出しないできごとAD1989年3月22日豊かな国で処分すると高くつく有害なごみを、貧しい国へ安く運ぶ商売があった。1988年、ナイジェリアの港町ココで、イタリアから運ばれた有害物質入りのドラム缶数千本が、農家の空き地に置かれているのが見つかる。こうした事件が相次ぎ、1989年3月22日、スイスのバーゼルで、有害な廃棄物を国境を越えて動かすときの取り決めが採択された。相手国の同意なしに送ってはならない。捨てる場所の不平等は、国と国のあいだにもある。バーゼル
- ソ連の解体できごとAD1991年12月25日赤い旗が降りた12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がベロヴェーシの森で「ソ連は存在しない」。21日、アルマアタで11か国がCIS。25日、ゴルバチョフが辞任の演説をし、クレムリンの赤い旗が降りて三色旗が上がった。69年。核のボタンはエリツィンに渡った。モスクワ
- マボ判決できごとAD1992年6月3日「無主の地」という建前が覆るオーストラリアは無主の地だった、という法の建前を最高裁が覆した。原告本人は5か月前に死んでいる。キャンベラ
- 香港返還できごとAD1997年7月1日アヘン戦争でイギリスが奪った香港は、のちに新界を九十九年の期限で借りる形で広がった。期限を前にした交渉の末、1997年7月1日、香港は中国に返された。一つの国に二つの制度を置き、五十年のあいだ香港の資本主義と自由を変えない、と約束される。雨の中で英国旗が降ろされた。だが約束の半分も経たないうちに、選挙と言論の自由は狭められ、国家安全の法律が作られた。香港
- 東ティモールの独立できごとAD2002年5月20日24年の占領と住民投票を経た。21世紀最初の独立国になる。ディリ
- 返す/返さないできごとAD2018年誰の宝を、誰が、どこで見せるのかヨーロッパの博物館にあるアフリカの美術品の多くは、植民地期に軍や行政が持ち出したものである。2018年、フランス大統領の委嘱を受けた報告書が、由来のはっきりしない品は原則として返還すべきだと述べた。翌年から、ベナンやセネガルへの返還が始まる。反対の言い分もある。世界中の品を一か所で比べられることに意味がある、保存の設備が整っていない、収蔵品の来歴を一つずつ調べるのは不可能に近い。ギリシアが1983年から返還を求めているパルテノンの彫刻は、いまもロンドンにある。パリ
重なっているストーリー
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主権はだれのものか41件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。交易路とお金35件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。イスラム世界28件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史24件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。民族移動の時代16件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。都市の歴史13件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。探検と発見12件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。技術と産業12件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。接触前のアメリカ12件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。キリスト教のひろがり12件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。冷戦11件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。ローマ人の物語9件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。草原の帝国9件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。確かめるという方法9件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史9件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。東ローマ千年8件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。『サピエンス全史』で読む歴史8件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。二つの大戦7件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。大航海時代6件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。冷戦のあと6件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『近代世界システム』で読む歴史6件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。差別の歴史6件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。古代オリエント4件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。中国の王朝4件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。感染症と人類4件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。コテンラジオで聞く歴史4件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史4件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『地に呪われたる者』で読む脱植民地4件を共有 / 植民地支配が人の心に何をするかを、精神科医が診察室から書いた。36歳で死ぬ年に口述された本。『交易の世界史』で読む物の流れ4件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ4件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。非株式会社いつかやるで聞く歴史4件を共有 / YouTubeチャンネル「非株式会社いつかやる」が解説した戦い・人物・病の歴史。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。宗教改革と科学革命3件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。インドと仏教3件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。女性の権利3件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。考えることの歴史3件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『大分岐』で読む歴史3件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『オリエンタリズム』で読む歴史3件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。食の歴史3件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史3件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。交通と旅の歴史3件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。アレクサンドロスの東方遠征2件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。共和政の終わり2件を共有 / 500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。朝鮮半島2件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。『ローマ人の物語』で読むローマ2件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ2件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『想像の共同体』で読む歴史2件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『1491』『1493』で読む新大陸2件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『地中海』で読む歴史2件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『リオリエント』で読む世界経済2件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。『黒い皮膚・白い仮面』で読む植民地の心2件を共有 / 支配される側が、支配する側の目で自分を見てしまう。27歳の精神科医が書いた最初の本。『歴史序説』で読む王朝の寿命2件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。戦争と平和の歴史2件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。海の歴史2件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。ヴァイキング1件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。『文明崩壊』で読む歴史1件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍1件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。