ジョット
概要
羊飼いの子が石に羊を描いているのをチマブーエが見た、という伝説。アッシジ、パドヴァ、フィレンツェ。人が地に足をつけ、悲しみが顔に出る絵を描いた。ダンテが『神曲』で名を出し、フィレンツェの鐘楼を設計した。
関わったできごと(1)
ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂AD1305年 · 画家本文
ジョット・ディ・ボンドーネは、1267年頃、フィレンツェの北東、ムジェッロ地方のヴェスピニャーノで生まれたとされる。フィレンツェ市内の生まれとする記録もある。家は農民だったという。

その少年時代について最もよく知られているのは、16世紀にジョルジョ・ヴァザーリが『芸術家列伝』に書いた話である。10歳ほどの羊飼いの少年が、平らな石に尖った石で羊を描いていた。通りかかった画家チマブーエがその出来に驚き、父親に頼んで弟子にした、という。チマブーエが描いた人物の鼻に弟子のジョットが蠅を描き加え、師が本物と思って何度も手で払おうとした、という話もヴァザーリにある。どちらも史実としては確かめられず、才能を語るための逸話とみるのがよい。
ジョット以前のイタリアの絵は、ビザンティン風の、金地に平たく人物を並べる様式が主だった。ジョットは人物に重さを与えた。体は衣の下に肉と骨を持ち、足は地面を踏み、悲しみや驚きは顔と身ぶりに表れる。見る人がその場に立ち会っているように感じる空間を、画面の中に作った。

彼の名と結びつく最初の大仕事は、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の上堂に描かれた、アッシジのフランチェスコの生涯を描く28の場面である。1290年代の作とされるが、これがジョットの手によるものかどうかは100年以上論争が続いており、「アッシジ問題」と呼ばれる。イタリアの研究者にはジョット説が多く、英語圏などには別の画家とみる説も根強い。
確かな代表作は、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画である(ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂)。1305年頃に完成し、聖母とキリストの生涯を壁一面に描いた。フィレンツェでは、1310年頃の「オニサンティの聖母」(いまはウフィツィ美術館)で、玉座の聖母の膝が布の下にあることがはっきり分かる重みを描いた。1320年代にはサンタ・クローチェ聖堂のバルディ家とペルッツィ家の礼拝堂に、聖フランチェスコや洗礼者ヨハネらの物語を描いている。ローマ、ナポリ、ミラノでも仕事をした。ナポリではアンジュー家のロベルト王に仕え、宮廷の一員として遇された。
ジョットは生前から有名だった。ダンテ・アリギエーリは『神曲』煉獄篇の第11歌で、地上の名声のはかなさを語る例として、絵ではチマブーエが一番だと思われていたが、いまはジョットがもてはやされ、チマブーエの名は陰ってしまった、と書いた(『神曲』)。生きている画家の名が詩に詠まれるのは異例である。ボッカッチョは『デカメロン』の一話で、醜い顔のジョットが法律家の友人と雨に降られて泥だらけになり、互いに「これでは誰も君を画家(法律家)とは思うまい」と冗談を言い合う場面を書き、自然が作るものなら何でも本物と見紛うほどに描けたと褒めている。

ヴァザーリにはもう一つ有名な話がある。教皇の使いが腕前の見本を求めると、ジョットはコンパスを使わずに一筆で完全な円を描いて渡した、という。また、記録からは、彼が織機を高い賃料で貸すなどして財産を増やした、抜け目のない人物でもあったことがうかがえる。
1334年、フィレンツェ市はジョットを大聖堂の工事の責任者に任じた。彼は大聖堂の脇に立つ鐘楼を設計し、工事が始まった。いま「ジョットの鐘楼」と呼ばれる塔である。しかし1337年1月8日に死に、完成したのは下の部分だけだった。工事は弟子のアンドレア・ピサーノらが引き継いだ。遺体は大聖堂の前身のサンタ・レパラータ聖堂に葬られたと伝わる。20世紀にその跡の発掘で、背が低く頑丈な男の骨が見つかり、本人ではないかと話題になったが、確証はない。

弟子のタッデオ・ガッディらはジョットの様式を受け継ぎ、「ジョッテスキ」と呼ばれた。だが14世紀後半には、黒死病の打撃もあって、絵はむしろ装飾的な方向へ戻っていく。15世紀の初め、マサッチオがジョットの重さと空間を受け継ぎ、遠近法と結びつけたことで、イタリア・ルネサンスの盛期の絵画が始まった。若いミケランジェロはジョットの壁画の人物を素描で写しており、その紙はいまルーヴル美術館にある。