概要
セビリア。24歳でフェリペ4世の宮廷画家になり、37年、王のそばにいた。王と、王女と、道化と、小人と、そして『ブレダの開城』と『織女たち』。2度イタリアへ行き、教皇インノケンティウス10世を描いた(教皇は「あまりに真実だ」と言った)。晩年は宮廷の儀典長の職務に追われた。死の直前、サンティアゴ騎士団に列せられた。
関わったできごと(1)
ベラスケス『ラス・メニーナス』AD1656年 · 描いた本文
1599年6月6日(洗礼)、セビリア。ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス。父はポルトガル系の下級貴族を称した。母の姓ベラスケスを名乗った(アンダルシアの慣習)。
11歳、フランシスコ・パチェーコの工房に6年の徒弟。パチェーコは画家として凡庸だったが、教養があり、セビリアの文人の集まりの中心にいて、宗教画の図像の検閲官も務めた。1618年、19歳のベラスケスは、師の娘フアナと結婚した。
初期。セビリア時代の「ボデゴン」(厨房と居酒屋の場面)。『卵を焼く老婆』(1618年)、『セビリアの水売り』(1620年)。庶民の顔と、素焼きの壺と、水滴。カラヴァッジョの影響(版画と模写を通して知った)。
1622年、マドリードへ。認められず、帰った。1623年、再訪。宰相オリバレス伯公(セビリア出身)の口利きで、フェリペ4世の肖像を描いた。王は18歳、ベラスケスは24歳。王は気に入り、「今後、私を描くのは彼だけとする」と定めた。以後37年。
1628年、ルーベンス(外交使節としてマドリードに9か月滞在)に会った。ルーベンスは50歳、宮廷画家であり、外交官であり、8か国語を話し、王侯と対等に交際していた。ベラスケスは、画家がそこまで行けることを見た。ルーベンスは彼にイタリア行きを勧めた。
1629〜31年、第一次イタリア。ヴェネツィア、フェラーラ、ローマ、ナポリ。ティツィアーノとティントレットを見た。筆が変わった(輪郭が溶け、絵具が薄くなった)。
宮廷での仕事。王と、王妃と、王子バルタサール・カルロス(8歳から騎馬像を描いた。17歳で死んだ)と、王女たち。オリバレス。狩猟の姿。そして、宮廷に仕えていた道化と小人たち——セバスティアン・デ・モーラ、ディエゴ・デ・アセド、フランシスコ・レスカーノ。彼らを、見世物としてでなく、一人の人間の顔として描いた。
『ブレダの開城』(1634〜35年)。オランダの都市の降伏。敗軍の将ユスティヌス・ファン・ナッサウが鍵を差し出し、勝者スピノラが彼の肩に手を置いて、跪かせない。背後に、勝者の槍の林と、敗者の乱れた列。「槍(ラス・ランサス)」。
1648〜51年、第二次イタリア。王のために絵と彫刻を買い集める任務。ローマで『教皇インノケンティウス10世』。教皇の疑り深い目と、赤い衣。教皇は「troppo vero(あまりに真実だ)」と言った、と伝わる。同じローマで、フアナ・パチェーカという女性との間に子を作った(帰国後も知らせ続けた記録がある)。
1652年、宮内配室長(アポセンタドール・マヨール)。王宮の部屋割り、家具、王の旅の宿の手配。絵を描く時間が減った。
1656年、『ラス・メニーナス』。
1659年、サンティアゴ騎士団。審査に2年かかった(先祖に商人や職人がいないこと、そして本人が「手仕事で報酬を得ていない」ことを証明する必要があった。画家という職業が、障害だった。教皇の特免と、王の裁定で通った)。
1660年、フランス王ルイ14世とマリー・テレーズ王女の婚儀。ピレネー山中のフェザン島の会場の設営を、彼が指揮した。7月、マドリードへ戻り、熱を出して、8月6日に死んだ。61歳。妻フアナが8日後に死んで、隣に葬られた。
作品は120点ほど。多くはプラド美術館にある(王室コレクションがそのまま美術館になったので、彼の絵は散らばらなかった)。
19世紀、マネがプラドで彼の絵を見て「画家の中の画家」と呼んだ。印象派が、彼の筆触の分離を先例と見た。