感染症と人類

概要
人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。
この物語について
病が大量に人を殺すようになったのは、病が強くなったからではない。人の住み方と動き方が変わったからになる。
人類の歴史の大半、人は数十人ほどの群れで移動しながら暮らしていた。そうした暮らしにも病はあったが、はしかや天然痘のように、一度かかれば免疫ができる病は、小さな群れの中では生き延びられない。全員がかかり終えれば、次にうつす相手がいなくなるからだ。はしかが絶えずに回り続けるには、数十万人の人口が要ると見積もられている。農耕が始まり、人が村に定住し、やがて都市に何万人も住むようになって、初めてこうした病は人の間に居着いた。
家畜も病を運んできた。人は牛や豚、鶏と同じ屋根の下で暮らし、動物の病原体が人にうつる機会が増えた。はしかは牛の病気から分かれたと考えられ、インフルエンザは鳥や豚とのあいだを行き来する。文明の始まりは、病の始まりでもあった。
記録に残る最初の大きな流行の一つは、紀元前430年のアテネである。スパルタとの戦争のさなか、城壁の内側に農村の人びとが逃げ込んで密集したところへ、正体の分からない病が広がった。歴史家トゥキュディデスは自らかかって生き延び、その症状と、人びとが神も法も恐れなくなっていく様子を書き残した。指導者ペリクレスもこの病の流行の中で死んだ。同じ頃、医師ヒッポクラテスの名を冠した医書は、病を神の罰ではなく、気候や食べ物、暮らし方から説明しようとしていた。

541年、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルをペストが襲った。ユスティニアヌス帝の時代のこの流行は、エジプトから船で運ばれたとされ、その後200年にわたって地中海の世界に繰り返し現れた。墓から採った遺骨のDNAの分析で、のちの黒死病と同じペスト菌によるものだったことが確かめられている。日本でも735年から737年にかけて天然痘が大流行し、政権を握っていた藤原氏の四兄弟が相次いで死んだ。人口の3割前後が失われたとする推計もある。都の人びとはこれを、数年前に自害に追い込まれた長屋王の祟りだとささやいた。
病がいちばん遠くまで、速く動いたのは、人の移動が大きく広がった直後だった。13世紀、モンゴル帝国の拡大がユーラシアの東西を一つの交通圏にまとめた。駅伝の道と隊商の道を通って、人と物と、そして病が行き来した。1340年代、ペストは中央アジアから黒海の港へ達し、1347年、そこから出た船がシチリアに着いた。

黒死病は、数年のうちにヨーロッパ全土に広がり、人口の3分の1から半分ほどを奪ったと推計される。高い熱と、リンパ節の腫れ、皮膚の黒ずみ。フィレンツェでは、町を逃れた若者たちが郊外の館で物語を語り合うという形で、ボッカッチョが『デカメロン』を書いた。その序には、死者を葬る人手も足りなくなった町の様子が描かれている。病の原因が分からないなか、ユダヤ人が井戸に毒を入れたという噂が広まり、各地で虐殺が起きた。
生き残った人びとの暮らしは変わった。働き手が減ったために賃金が上がり、西ヨーロッパでは農民を土地に縛りつける仕組みが緩んでいった。一方で人びとは、病を防ぐ方法も手探りで見つけ始めた。1377年、アドリア海の港町ラグーサは、疫病の出た土地から来た船と人を町の外に一定期間とどめ置く決まりを作った。この期間がのちに40日になり、イタリア語で40を意味する言葉から「検疫(クアランティン)」という語が生まれた。
1492年に大西洋が渡られると、病は新しい大陸へ渡った。旧大陸の病に一度も触れたことのない南北アメリカの人びとは、天然痘やはしか、インフルエンザに対して免疫を持っていなかった。1520年、天然痘はアステカの都を襲い、翌年のテノチティトランの陥落に先立って、多くの住民と指導者を殺した。インカでも、スペイン人が来る前に天然痘が広がって皇帝が死に、跡目をめぐる内戦が起きていた。どれほどの人が死んだかは推計の幅が大きいが、多くの地域で一世紀のうちに人口の大半が失われたとみられる。征服の数百人の兵より、目に見えない病のほうがはるかに多くを殺した。逆向きに、梅毒はアメリカから持ち帰られたという説が有力だが、これには異論もある。

反撃の最初の一手は、18世紀の末に来た。イギリスの医師エドワード・ジェンナーは、牛の病気の牛痘にかかった乳搾りの女性は天然痘にかからない、という農村の言い伝えに注目した。1796年、彼は牛痘のうみを少年に植え、その後に天然痘をうつしても発病しないことを確かめた。ジェンナーの種痘は、それまで使われていた天然痘そのものを植える方法よりはるかに安全で、またたく間に世界へ広がった。日本にも19世紀の半ばに伝わり、各地に種痘所が作られている。
19世紀には、交通の発達が新しい病を世界に運んだ。インドのベンガル地方の風土病だったコレラは、1817年から何度も世界的な流行を起こし、蒸気船と鉄道に乗って各地の都市を襲った。日本でも安政5年(1858年)に江戸で大流行し、多くの死者を出した。1854年、ロンドンの医師ジョン・スノウは、死者の住まいを地図に落とし、一つの井戸のポンプに集まっていることを突き止めて、ポンプの柄を外させた。病の原因が分からなくても、数えて地図に描けば、防ぐ手が打てることが示された。

病の正体が分かったのは、その少し後だった。フランスのルイ・パスツールは、首を白鳥のように曲げたフラスコを使って、肉汁が腐るのは空気中の微生物が入るからだと示した。ドイツのロベルト・コッホは、1882年に結核菌を、翌年にはコレラ菌を見つけた。1892年、ハンブルクでコレラが流行したとき、川の水をそのまま配っていたハンブルクでは多くの死者が出たが、隣のアルトナでは濾過した水を使っていたため、死者はわずかだった。上水と下水を分け、水を濾過する都市の仕組みは、薬より先に多くの命を救った。コッホのもとで学んだ北里柴三郎は、破傷風の毒を打ち消す血清療法を開いた。
だが、知識が増えても、人の動きはそれを上回った。第一次世界大戦の末期の1918年、兵士を満載した船と列車が世界中を行き交うなかで、スペイン風邪が広がった。当時の世界の人口の3分の1ほどが感染し、死者は少なくとも2000万人、推計によっては5000万人を超えたとされる。戦争の死者を上回る数である。若い大人がとくに多く死んだことも、この流行の特徴だった。日本でも数十万人が亡くなっている。各国は戦時の検閲で流行を伏せたが、中立国のスペインでは報道が自由だったため、スペインの名が付いた。

20世紀の半ばには、抗生物質とワクチンが次々に生まれた。1955年にはソークのポリオワクチンが実用になり、子どもの手足を麻痺させてきた病は多くの国から姿を消していく。そして1980年、世界保健機関は天然痘の根絶を宣言した。ジェンナーの種痘から184年、人類が自分たちの手で一つの病を地上から消した、今のところ唯一の例である。
それでも、新しい病は現れ続けた。2002年から翌年にかけては重症急性呼吸器症候群(SARS)が、2014年からは西アフリカでエボラ出血熱が流行した。そして2019年の暮れ、中国の武漢で確認された新しいコロナウイルスは、飛行機に乗って数週間で各大陸に届いた。COVID-19の世界的流行は数か月で世界の都市を止め、各国が国境を閉ざした。報告された死者だけで数百万人にのぼり、統計に表れない死者を含めればさらに多いとみられる。一方で、遺伝子の情報からワクチンを作る新しい技術により、1年足らずでワクチンが実用化された。

人が密集し、遠くまで動くほど、病もまた速く、遠くへ動く。モンゴルの道、大西洋の帆船、戦時の兵員輸送船、そして飛行機。文明が新しい道を開くたびに、病はその道を通ってきた。病と人の歴史は、人がどこに住み、どう動いてきたかの歴史でもある。次の流行がいつ来るかは分からないが、来ること自体は、ほぼ確かである。
この物語が起きた場所
筋(135)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ヒッポクラテス人物BC460年頃 – BC370年頃病を神罰でなく自然の現象として扱った。医の倫理を説いた誓いに名が残る。
- アテナイの疫病できごとBC430年記録に残る最古の流行ペロポネソス戦争の2年目、城壁の中に避難民が詰め込まれたところへ来た。ペリクレスも死ぬ。トゥキュディデスが自分も罹った上で症状を書き残した。アテナイ

- ヒポクラテス集典と医の誓いできごとBC400年頃病を神罰でなく自然の現象として扱ったエーゲ海の島コスの医師たちが残した60編ほどの文書の束。一人の著者のものではない。病は神の罰でも祟りでもなく、自然の原因を持つ、と書いた(『神聖病について』は、てんかんを神の病と呼ぶのは無知の言い訳だと言う)。観察と記録を重んじ、患者ごとの経過を書き留めた。「誓い」は、害をなさないこと、毒を与えないこと、患者の秘密を守ることを誓わせる。医が職業倫理を持つという考えが、ここから来る。コス島
- ヴェスヴィオ火山の噴火できごと79年8月24日(近年は10月説が有力)街が一瞬で消えるということポンペイとヘルクラネウムが埋まった。小プリニウスの書簡が当時の様子を伝える唯一の同時代記録。ポンペイ

- ガレノス人物AD129年 – AD216年頃アントニヌスの疫病を診たペルガモンの剣闘士の医者から、皇帝の侍医へ。猿と豚の解剖で人体を論じ、その誤りごと1500年の権威になった。
- 張仲景人物AD150年頃 – AD219年頃一族の三分の二を疫病で失い、その経験から『傷寒雑病論』を書いた。病の段階と処方を結びつける考え方が、漢方の骨格になる。
- アントニヌスの疫病できごと165年記録に残る最初の帝国規模の流行東方遠征から戻った軍が持ち帰った。天然痘とされる。帝国の人口の1割前後が死に、マルクス・アウレリウスの治世の背景になる。ローマ

- 『傷寒論』できごとAD200年頃一族の三分の二を疫病で失った医者が書いた熱病の経過を段階に分け、段階ごとに処方を定めた。一族の三分の二を疫病で失った医者が書いた。漢方の処方の多くがここから来ている。南陽
- キプリアヌスの疫病できごと249年三世紀の危機のさなか、帝国全体で十数年続いた。ローマで一日5000人が死んだと伝わる。病名は分かっていない。カルタゴ

- ヴァーラーナシーの火葬できごとAD500年頃薪が買えない者ガンジス河畔のこの町で死ねば輪廻から解脱できる、という信仰がある。マニカルニカー・ガートでは、薪の火が数百年、絶えたことがないとされる。遺体は布に包まれて川で清められ、薪の上で焼かれ、灰は川へ流される。墓は作らない。体は器であって、残すものではないという考え方である。焼く薪の量は一体に300キロ前後で、貧しい者には払えない。焼き切れなかった体が川へ流されることが、いまも問題になっている。ヴァーラーナシー
- グレゴリウス1世人物AD540年頃 – AD604年3月12日疫病の年に教皇に選ばれたローマの市長官から修道士になり、疫病の年に教皇に選ばれた。ランゴバルドと自分で交渉し、教会の領地で飢えたローマを養い、イングランドに宣教師を送った。「神の僕たちの僕」と自分を呼んだ最初の教皇。聖歌にその名がついた。
- 長屋王の変できごとAD729年(神亀6年)長屋王の祟り天武の孫、左大臣長屋王が「密かに左道を学んで国家を傾ける」と密告され、兵に囲まれて妻子と共に自殺した。藤原の四兄弟が光明子を皇后にするために。8年後、四兄弟は天然痘で同じ年に死に、「長屋王の祟り」と言われた。1988年、邸宅跡から木簡が出た。平城京
- 天平の疫病できごと735年日本の人口の3割前後大宰府から入った天然痘が都に達し、藤原四兄弟が全員死んだ。人口の3割前後が失われたとする推計がある。大仏の造立はこの直後になる。平城京
- ラーズィー『天然痘と麻疹について』できごとAD900年頃二つの発疹を分けた二つの病を初めて区別して書いた。発疹の出方、熱の経過、看護の方法。ガレノスに無い病気を、自分で見て書いた。ラテン語に訳され、18世紀まで読まれた。レイ
- モンゴル帝国の拡大できごと1206年ユーラシアが一つの交通圏になった史上最大の陸上帝国。ユーラシアが一つの交通圏になり、人も物も疫病も東西を往復する。カラコルム
- モンゴルの站赤できごとAD1234年疫病も同じ速さで移動したオゴデイが整備した駅伝の網。25から45キロごとに站を置き、馬、食料、宿、そして替えの人を常備させる。牌子(パイザ)を持つ使者は、どの站でも馬を替えられる。金の牌を持つ者は最優先。急使は一日に300キロ以上進んだとされる。マルコ・ポーロが、その規模に驚いて詳しく書いている。ユーラシアの東西が、初めて一つの通信網で結ばれた。同時に、この街道を、14世紀の疫病が同じ速さで移動した。カラコルム
- 黒死病できごと1347年その直後にヨーロッパの3分の1が死ぬヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- 『デカメロン』できごとAD1353年黒死病の目撃の記録黒死病のフィレンツェから逃げた十人の男女が、十日で百の話をする。序文の疫病の記述は目撃の記録として読まれる。ラテン語でなくトスカーナ語の散文で、俗な話を上品に書いた。チョーサーがこれを写す。フィレンツェ

- ジャックリーの乱できごとAD1358年百年戦争でフランス王がイギリスに捕らえられ、黒死病で人が減り、傭兵くずれの兵が村を荒らした。そのうえ領主たちは、身代金と戦費のために農民から取り立てを重ねる。1358年の春、パリの北のボーヴェ地方で農民が蜂起し、城館を焼いて貴族を殺した。貴族が農民を呼んだ蔑称から、ジャックリーと呼ばれる。反乱は数週間で貴族の軍に鎮められ、何千人もの農民が殺された。記録を残したのは貴族の側で、農民の言い分はほとんど残っていない。ボーヴェ
- ラグーサの検疫できごとAD1377年7月27日最初の検疫の法黒死病の30年後、アドリア海の商業都市が、疫病の地から来た船と人を島に30日留めると決めた。世界で最初の検疫の法。ヴェネツィアが40日にして「クアランタ」から「クアランティン」。病の原因を知らずに、隔てることで防ぐことを覚えた。ドゥブロヴニク(ラグーサ)
- ワット・タイラーの乱できごとAD1381年6月黒死病の30年後。人手が減った側が力を持った黒死病で人手が減り、賃金を抑える法と人頭税に農民が怒った。ロンドンを占拠し、王と会い、指導者は殺された。それでも農奴制は崩れていく。ロンドン

- ラザレットできごとAD1423年病んだ者と、病んでいるかもしれない者を別々に置いたヴェネツィアは、ペストが船で来ることを知っていた。到着した船を沖に留め置く仕組みは、すでにあった。1423年、共和国は潟の島に、病人だけを収容する常設の施設を置く。世界で最初の恒久的な隔離病院とされる。四十五年後には、もう一つの島に、発病していない乗員と積荷を留め置く施設を作った。病んだ者と、病んでいるかもしれない者を、別々に扱う。四十日という期間から、隔離を意味する言葉が生まれた。都市が病を止めるには、港を閉じるのではなく、島を用意して時間を稼ぐ。この発想が、のちの検疫の原型になる。ヴェネツィア
- コロンブスの到達できごとAD1492年10月12日大西洋が渡られた二つの大陸が結ばれた。人・作物・家畜・病原体が行き来し、両側の世界が作り替えられる。サン・サルバドル島(位置は特定されていない)
- 梅毒の流行できごとAD1495年ナポリ病とフランス病フランス王シャルル8世がナポリを囲んだ軍の中で新しい病が出た。傭兵がヨーロッパ中に運んだ。フランスは「ナポリ病」、イタリアは「フランス病」と呼んだ。コロンブスの船員がアメリカから持ち帰ったという説と、前からあったという説が、いまも決着していない。ナポリ
- コロンブス交換できごとAD1500年頃人口が9割減った1492年を境に、1万年ぶりに二つの生物界が繋がった。アメリカからヨーロッパ・アジア・アフリカへ、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ、トマト、唐辛子、カカオ、落花生、タバコ。逆向きに、小麦、米、サトウキビ、コーヒー、馬、牛、豚、羊、そして天然痘・麻疹・インフルエンザ。旧世界の人口は新作物で増え、新世界の人口は病で9割減った。イタリア料理のトマトも、四川の唐辛子も、この交換の産物である。メキシコシティ
- 天然痘のアメリカ大陸上陸できごとAD1520年免疫のない大陸に病が渡ったスペイン人より先に、病が帝国を崩した。免疫を持たない大陸で、人口の大半が一世紀のうちに失われる。テノチティトラン
- テノチティトランの陥落できごとAD1521年人を殺したのは武器ではなく疫病だったアステカが滅びた。決め手は武器よりも、持ち込まれた疫病だった。テノチティトラン

- インカ帝国の滅亡できごとAD1533年内戦で弱っていたところを、200人足らずのスペイン人に崩された。クスコ
- 風呂が消えた二百年できごとAD16世紀湯は毛穴を開いて病を入れる、と説かれた中世のヨーロッパの町には、蒸し風呂と湯屋があり、人々はよく通っていた。それが十六世紀から次々に閉じられる。理由は一つではない。梅毒が広まり、風呂屋が売春と結びついていると見られた。薪が高くなった。そして医学が、湯は毛穴を開いて悪い空気を体に入れると説いた。代わりに広まったのが、体を拭くことと、白い下着をこまめに替えることである。清潔とは、洗うことではなく、布を替えることだとされた。水で体を洗う習慣が戻るのは、十九世紀に衛生の考え方が変わってからになる。パリ
- タバコの伝播できごとAD1560年頃死罪にしても止まらなかったアメリカ大陸原産。先住民が儀礼と医療に使っていた。コロンブスの一行が持ち帰り、当初は薬として広まった。フランス大使ジャン・ニコがカトリーヌ・ド・メディシスに勧めたことから、ニコチンの名が付いた。100年でユーラシア全域に達した。オスマン、ムガル、明、そして日本。各地の君主が禁じ、破れば死罪とした例もある。誰も止められなかった。植民地の主要な換金作物になり、ヴァージニアの奴隷制の基礎になった。セビリャ
- 産科鉗子と、出産の職の交代できごとAD1600年頃100年の秘密が救わなかった命出産は、長く女性の領分だった。産婆が取り上げ、男は部屋に入らない。ユグノーの亡命者チェンバレン家が、難産で赤子を引き出す鉗子を考案した。彼らは、それを100年以上、家族の秘密にした。金箔を貼った大きな箱で運び込み、産婦の目を布で覆い、他の者を部屋から出して使った。器具を持つ男性の外科医が、次第に産婆の仕事を奪った。器具は命を救ったが、その独占が、どれだけの死を放置したかは分からない。1813年、家の床下から、古い鉗子が見つかった。ロンドン
- カリブの砂糖プランテーションできごと1640年運ばれた人と一緒に、黄熱病とマラリアも渡った小さな島が、世界で最も利益の出る土地になった。砂糖のために数百万人が大西洋を運ばれ、ヨーロッパの食卓に甘さが日常として入る。工場に似た労働の管理も、ここで先に生まれた。バルバドス(位置は特定されていない)
- 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年疫病の年の異常ロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
- ロンドン大火できごとAD1666年9月2日鼠が焼けたという俗説プディング・レーンのパン屋から、日曜の未明。東風。木の家、狭い道、乾いた夏。4日。市壁の内側の8割、1万3200軒、教会87、セント・ポール大聖堂。死者は記録では6人(実際はもっと多いはず)。ピープスが日記に書いた。ペストの翌年で、鼠が焼けて疫病が終わった、という話は俗説。レンが51の教会と新しいセント・ポールを建てた。建物は煉瓦と石に。ロンドン

- レーウェンフックの微生物できごとAD1676年細菌が見えたデルフトの織物商が、自分で磨いた玉のようなレンズ(倍率270倍)で、雨水と、歯垢と、精液と、胡椒水を覗いた。「小さな動物(ディールケンス)」が泳いでいた。ロンドンの王立協会に、オランダ語の手紙で報告した。誰も信じず、フックが確かめて、認められた。細菌、原生動物、精子、赤血球、筋肉の横紋。レンズの作り方は誰にも教えず、死んだ。細菌がもう一度見られるまで100年かかった。デルフト
- メアリー・ウォートリー・モンタギュー人物AD1689年5月15日 – AD1762年8月21日公爵の娘。父の書斎で独学しラテン語を身につけた。決められた縁談を拒んで駆け落ちした。1715年に天然痘にかかり、顔に痕が残り、まつ毛を失った。弟は同じ病で死んでいる。夫の大使赴任でイスタンブールに住み、現地の女性が行う接種を見て、五歳の息子に施した。帰国後、娘にも施し、宮廷を説得して普及させた。書簡集は当時の紀行文学として高く評価され、東方の女性を憐れむ視線への反論にもなっている。
- クロード・ブルジュラ人物AD1712年11月27日 – AD1779年1月3日リヨンの裕福な家に生まれ、法律を学び、弁護士を経て、騎兵隊に入った。除隊後、リヨンの乗馬学校を引き継ぎ、馬の解剖と運動を研究した。ディドロとダランベールの百科全書に、馬術と馬の項目を書いている。繰り返す牛疫を見て、家畜の医学を教える学校の必要を説き、財務総監ベルタンの支援で1761年に認可を得た。教育は厳格で、蹄鉄工の徒弟ではなく、解剖から学ばせた。校長として、パリのアルフォール校も指導した。
- マルセイユのペストできごとAD1720年絹を早く売りたかったレバノンから来た船が検疫を短縮された。商人が絹を早く売りたかった。2年で街の半分、5万人が死んだ。周りの州は壁を築いて閉じ込め、越えた者は死刑。西ヨーロッパで最後の大きなペスト。壁はいまも山の中に残っている。マルセイユ
- 人痘接種できごとAD1721年8月9日軽くかからせて重い病を防ぐ天然痘の膿を、健康な人の皮膚に入れる。軽く済ませて、以後かからなくする。中国では鼻から粉を吸わせる方法が明代から行われ、オスマン帝国では腕を切って入れた。イスタンブール駐在の英国大使夫人メアリー・ウォートリー・モンタギューがそれを見て、自分の息子に施し、帰国後に広めた。1721年、ニューゲート監獄の死刑囚六人で公開の試験が行われ、全員が生き延びた。危険は残る。接種された者の約2%が死に、その間は人に感染させた。それでも、かかったときの死亡率は三割だった。ロンドン
- 体内時計できごとAD1729年負のフィードバックの仕組み天文学者ドゥ・メランが、オジギソウの葉が朝に開き夜に閉じることに気づいた。そして、その鉢を暗い戸棚に入れた。光が来なくても、葉は同じ周期で開閉を続けた。生物の中に、時計がある。この観察が正しく理解されるまで200年以上かかった。1970年代、ショウジョウバエで周期を狂わせる遺伝子が見つかった。1984年、その遺伝子が単離された。仕組みは、タンパク質が自分の合成を抑える、約24時間の負のフィードバックである。2017年、ノーベル賞。パリ
- 理髪師と外科医が分かれるできごとAD1745年同じ道具を持つ仕事が、知識の側と手の側に分かれた髭を剃る者が、瀉血もし、歯も抜き、傷も縫った。刃物を扱う職として同じ組合に属していたからである。大学で学んだ内科医は手を汚す仕事を見下し、外科は職人の技だった。1745年、ロンドンの理髪外科医組合が分かれ、外科医が独立する。解剖の知識を積み、やがて学位と試験の体系に入っていった。理髪師には髪と髭が残る。赤白の三色柱は、瀉血の時代の名残である。同じ道具を持つ二つの仕事が、知識の側に付くか手の側に付くかで身分を分けた。ロンドン
- エドワード・ジェンナー人物AD1749年 – AD1823年牛痘を使う種痘を確かめた。人類が病を根絶できると初めて示す。
- 獣医学校できごとAD1762年十八世紀のヨーロッパで、牛疫が繰り返し流行した。一度来ると、その地方の牛が全滅する。国家の税収と食料が、直接、打撃を受けた。それまで家畜の治療は蹄鉄工と経験者が担い、体系だった知識が無かった。乗馬学校の教師クロード・ブルジュラが、王の認可を得てリヨンに学校を開く。解剖と、病理と、飼育を、教える。3年後にアルフォールにも作られ、以後、ヨーロッパ各国が真似た。獣医が、職業として制度になった最初である。リヨン
- 水洗便所とS字トラップできごとAD1775年悪臭の逆流を水で止める水洗の便器は1596年にジョン・ハリントンが考案していたが、広まらなかった。下水管から悪臭と害虫が逆流するからである。1775年、時計職人アレクサンダー・カミングスが、排水管をS字に曲げて水を溜める仕組みを特許にした。溜まった水が蓋になる。翌年、ジョセフ・ブラマーが弁を改良した。この単純な曲がりが、家の中に便所を置くことを可能にした。上下水道の整備と合わせて、19世紀後半、都市の家の間取りが変わった。ロンドン
- 乳母と捨て子できごとAD1780年頃半数が死んだ地域18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。パリ
- 拷問の廃止できごとAD1780年半分の証拠を埋めるためにローマ法を継受した大陸の刑事手続きでは、死刑にするには自白か2人の目撃証人が要った。証拠が半分しかないとき、残りを埋めるために拷問が制度化されていた。18世紀、これが次々に廃止される。プロイセン1754年、スウェーデン1772年、トスカーナ1786年、フランスは1780年に予備拷問を、1788年に処刑前の拷問を廃した。理由は人道だけではない。状況証拠から裁判官が心証で判断してよい、という証拠法の転換が並行していた。パリ
- ルネ・ラエンネック人物AD1781年2月17日 – AD1826年8月13日ブルターニュ、カンペールの生まれ。母を五歳で結核により亡くし、医師の叔父に育てられた。革命下のナントで、十代から病院を手伝う。パリでコルヴィザールに学び、解剖と臨床を突き合わせる方法を身につけた。1816年、聴診器を考案。1819年『間接聴診法について』。肝硬変と腹膜炎の記述にも名を残す。ブルトン語を話し、笛を吹き、故郷に土地を買って過ごすことを好んだ。自らも結核にかかり、甥に自分の胸を聴かせて診断させ、四十五歳で死んだ。
- パリの地下納骨堂できごとAD1786年200万体の墓地を閉じるサンティノサン墓地は、1000年近く使われ、200万体が埋まっていた。地面が数メートル盛り上がり、隣家の地下室の壁が腐乱した死体の重みで破れる事件が起きた。1780年、閉鎖。市は、石灰岩を掘り出した後の地下坑道へ、遺骨を移すことにした。夜、松明を掲げた行列が、荷車で骨を運んだ。移送は数十年続き、600万体分が納められた。骨は種類ごとに積み上げられ、壁として整えられた。入口に「止まれ、ここは死の帝国である」と刻まれている。パリ
- 第一船団のボタニー湾到着できごとAD1788年1月26日天然痘アメリカを失って、囚人を送る先がなくなったイギリスが、クックの報告した土地へ11隻を送った。囚人778人、海兵と家族、8か月の航海。ボタニー湾は水が悪く、北のポート・ジャクソン(シドニー湾)へ移って、1月26日に旗を立てた。「オーストラリア・デー」。先住民にとっては「侵略の日」。80年で16万人の囚人が送られ、天然痘と土地の収奪で先住民の人口は激減した。シドニー
- ジェンナーの種痘できごとAD1796年人が病に反撃できると初めて示した牛痘で天然痘を防げると確かめた。人類が病を根絶できると初めて示す。バークリー(グロスターシャー)
- ジョン・スノウ人物AD1813年3月15日 – AD1858年6月16日取っ手のないポンプヨークの労働者の家。14歳で外科医の徒弟。麻酔の草分けで、ヴィクトリア女王の8番目と9番目の出産にクロロホルムを使った(王室が使ったことで麻酔への抵抗が消えた)。コレラは水で伝わると考え、1849年に論文を書き、1854年に地図で示した。菜食で、酒を飲まず、45歳で脳卒中。1866年、政府が彼の説を認めた。ロンドンのパブ「ジョン・スノウ」の前に、取っ手のないポンプが立っている。
- イグナーツ・ゼンメルワイス人物AD1818年7月1日 – AD1865年8月13日手を洗えと言った男ブダの商家。ウィーンで産科。友人が解剖のとき指を切って、産褥熱と同じ症状で死んだのを見て、「死体の粒子」が原因だと考えた。手洗いで死亡率を10分の1に。論文をなかなか書かず、書いたときは同僚を「殺人者」と呼ぶ調子だった。ウィーンを追われ、ブダペストで成果を上げ、精神を病み、精神病院に入れられて、看守に殴られ、2週間で死んだ。同じ年、リスターが石炭酸を使い始めた。
- ヘンリー・トンプソン人物AD1820年8月6日 – AD1904年4月18日自分の遺体も焼かれたサフォークの雑貨商の子。24歳まで家業を手伝い、遅れて医学を志した。泌尿器の外科で名を成し、ベルギー王レオポルド1世とナポレオン3世の膀胱結石を手術した。天文学、絵画(王立美術院に出品した)、陶磁器の収集、そして「オクターヴ」と呼ぶ8人8品の晩餐会。1874年、火葬協会を設立し、20年かけて合法化と施設の建設を進めた。彼自身の遺体も焼かれた。
- ルイ・パスツール人物AD1822年12月27日 – AD1895年9月28日病の原因が目に見えない生きものだと分かる腐敗も病気も目に見えない生きものの仕業だと示した。ワクチンと低温殺菌はここから来ている。手を洗うという習慣の根拠でもある。
- チャドウィックの報告できごとAD1842年救貧を担当していたエドウィン・チャドウィックは、貧しい者が病で死ぬから遺族が救貧の対象になる、と考えた。死因を減らせば、費用が減る。1842年、労働者の住む地区の衛生状態を数字で並べた報告を出す。都市の労働者の平均死亡年齢が十六歳という地区もあった。汚物と病の関係を瘴気で説明した点は誤っていたが、下水と給水を公共が担うべきだという結論は残る。1848年の公衆衛生法につながった。慈悲ではなく費用の計算から、衛生の行政が始まっている。ロンドン
- ロベルト・コッホ人物AD1843年12月11日 – AD1910年5月27日菌ごとに証明した田舎医者が妻に贈られた顕微鏡で炭疽菌を見た。1882年、結核菌。1883年、コレラ菌。「コッホの原則」。病気が菌で起きることを、菌ごとに証明した。ツベルクリンは治療に失敗した。1905年ノーベル賞。北里柴三郎の師。
- アイルランドのジャガイモ飢饉できごと1845年作物の病が人口を四分の一削ったアンデス原産の作物と、アメリカから来た疫病菌が、島の人口を四分の一減らした。飢えた年も、食料は輸出され続けている。ダブリン
- ゼンメルワイスの手洗いできごとAD1847年5月自分たちが殺していたウィーン総合病院の産科は、医師の病棟の産褥熱の死亡率が10%を超え、助産婦の病棟は4%だった。ゼンメルワイスは、医師が朝の解剖から手を洗わずに分娩に来ることに気づいた。晒し粉の水で手を洗わせた。死亡率が1%台に落ちた。同僚は「自分たちが殺していた」と言われたに等しく、認めなかった。彼は職を追われ、精神病院で、看守に殴られた傷の敗血症で死んだ。47歳。細菌はまだ知られていなかった。ウィーン
- 万能薬の時代できごとAD19世紀何が入っているかを書かせることが、規制の出発点になった新聞が広告で成り立つようになると、いちばん多く広告を出したのは薬だった。咳にも、疲れにも、赤ん坊の夜泣きにも効くと書かれ、中身は公表されない。実際には阿片やモルヒネ、アルコールが入っているものが多く、子どもを静かにさせる水薬で死ぬ例も出た。効かなくても害があっても、売る側は責任を問われない。表示の義務が無いからである。記者が成分を調べて連載し、世論が動いた。何が入っているかを書かせること。それが、いまの医薬品の規制の出発点になる。ニューヨーク
- 北里柴三郎人物AD1853年1月29日 – AD1931年6月13日ベルリンで破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を確立した。第1回のノーベル賞では共同研究者のベーリングだけが受けている。
- 女王の無痛分娩できごとAD1853年4月7日ヴィクトリア女王が八人目の子を産むとき、ジョン・スノウがクロロホルムを与えた。布に垂らし、陣痛のたびに嗅がせる。女王は「あの祝福されたクロロホルム」と日記に書いた。出産の痛みを消すことには強い反対があった。産みの苦しみは創世記に定められたものであり、取り去るのは神への背きだという主張である。医学の側からも、痛みは分娩を進める力だと言われた。女王が使ったことで、その議論は事実上終わった。誰が痛みを引き受けるべきかは、医学ではなく地位が決めた。ロンドン
- スクタリの野戦病院できごとAD1854年死因は戦傷ではなかったクリミア戦争。イスタンブール対岸の兵舎病院に、38人の看護婦を連れて着いた。傷病兵は床に並び、下水が床下に溜まり、換気がなく、包帯も食事も足りない。死因の大半は戦傷ではなく、チフス、コレラ、赤痢だった。彼女は掃除と換気と洗濯と食事を整えさせ、そして数を数えた。死因別の死亡者を月ごとに示す「鶏頭図」を描き、政治家に見せた。統計を説得の道具にした最初期の例。スクタリ
- ジョン・スノウのコレラ地図できごとAD1854年9月8日ポンプの取っ手を外したロンドンのソーホーで、3日で127人が死んだ。麻酔医ジョン・スノウは、死者の家を地図に点で打った。ブロード・ストリートの井戸の周りに集まっていた。離れた場所の死者は、その井戸の水を好んで運ばせていた。近くの救貧院とビール工場(自前の井戸)では死者が出なかった。9月8日、彼はポンプの取っ手を外させた。「悪い空気」でなく水だという説は、10年後に認められた。疫学が始まった。ソーホー(ブロード・ストリート)
- クリミア戦争できごとAD1854年9月14日死者のほとんどが病気聖地の管理権でロシアとフランスが争い、ロシアがオスマンに攻め、イギリスとフランスがオスマンについた。セヴァストポリ包囲、349日。バラクラヴァの軽騎兵の突撃。電信で新聞が戦争を伝え、写真が撮られた最初の戦争。ナイチンゲールがスクタリの病院で死亡率を42%から2%にした。死者は両方で75万人、ほとんどが病気。ロシアは負けて、農奴解放へ。ウィーン体制が終わった。セヴァストポリ

- サナトリウムできごとAD1854年治せない病に、生活の型を与えた場所結核は十九世紀のヨーロッパで、死因の上位を占め続けた。治す薬はない。ドイツの医師ヘルマン・ブレーメルは、自分が患い、山で過ごして回復した経験から、高地の澄んだ空気と、休息と、十分な食事で治せると考えた。1854年、シレジアの谷に療養所を建てる。患者は決まった時刻に寝椅子に横たわり、寒い日も毛布にくるまって外気に当たった。この型は各地に広がり、ダボスの療養地も同じ考え方で作られる。効果がどこまであったかは議論があるが、病んだ人を町から離して長期間置く場所が、ここで制度になった。ゲルベルスドルフ(ソコウォフスコ)
- 発酵は生き物の仕事であるできごとAD1857年当時の化学の主流は、発酵を純粋な化学反応と見ていた。糖が勝手に分解する、と。リールの砂糖大根から酒精を作る工場が、なぜか腐敗すると相談を持ち込んだ。パストゥールは顕微鏡で、正常な樽には丸い酵母が、傷んだ樽には棒状の別の微生物がいることを見た。発酵は生き物の営みであり、混入する別の生き物が腐敗を起こす。加熱で殺せば止まる。ここから低温殺菌が生まれ、病気は微生物が起こすという考えに、道が続いた。リール
- 安政のコレラできごとAD1858年(安政5年)三日コロリ長崎に入港したアメリカの軍艦から広がり、夏の江戸で3万とも10万とも。「三日コロリ」。棺桶が足りず、火葬場が順番待ち。開港の年で、異国が持ち込んだ病として攘夷の理由になった。緒方洪庵が『虎狼痢治準』を書いた。江戸
- 白鳥の首フラスコできごとAD1861年首を曲げた瓶では、煮沸した液が空気に触れていても腐らない。生きものが無から湧くという説がここで退けられ、細菌説の土台になった。パリ
- ロンドンの下水道できごとAD1865年コレラが消えた1858年の夏、テムズが悪臭を放ち、議会が石灰を浸した布を窓に垂らした。「大悪臭」。18日で法案が通り、ジョゼフ・バザルジェットが132キロの主要下水管と1800キロの支管を作った。汚水を川へ直接流さず、下流へ運ぶ。彼は必要な管の径を計算し、それを2倍にした(「予想外のことは必ず起きる」)。コレラが消えた。堤(エンバンクメント)が造られ、その下に下水管と地下鉄が通った。150年、いまも使われている。ロンドン
- カラウパパの隔離地できごとAD1866年崖と海に囲まれた半島へ送られた人々ハワイ王国は、外から持ち込まれた病の広がりに苦しんでいた。1865年の法で、ハンセン病と診断された者はモロカイ島の北、三方を海、一方を高い崖に囲まれた半島へ送られることになった。家族と引き離され、多くは二度と戻らない。初期の入植地には建物も食料の供給もなく、送られた人々が自分たちで作るしかなかった。1873年、ベルギー人の神父ダミアンが志願して住み込み、家を建て、傷を洗い、棺を作った。彼自身も感染して1889年に死ぬ。隔離の法が解かれるのは1969年で、それでも帰る場所のない人々はそこに住み続けた。モロカイ島カラウパパ
- リスターの消毒法できごとAD1867年外科が体の中を開けられるようにグラスゴーの外科医は、手術は成功しても半分近くが感染で死ぬのを見ていた。パスツールの「腐敗は空気中の微生物が起こす」を読んで、下水の消毒に使われていた石炭酸を、傷と器具と手と、手術室の空気に使った。彼の病棟の切断手術の死亡率が45%から15%に落ちた。『ランセット』の5本の論文。「消毒」から「無菌」へ。外科が体の中を開けられるようになった。グラスゴー
- 三十七度できごとAD1868年熱があるかどうかは、額に手を当てて決めていた。ライプツィヒの内科医カール・ヴンダーリヒは、入院患者の体温を来る日も来る日も測り、紙に点を打って線で結んだ。一尺ほどある温度計を脇に二十分挟む作業を、二万五千人分積み上げたという。そこから、健康な人の体温はおよそ三十七度に収まること、そして病気ごとに熱の上がり下がりの形が違うことを示した。熱は病気そのものではなく、体が出している合図である。手のひらの感じが、紙の上の線に置き換わった。ライプツィヒ
- 近代の火葬できごとAD1874年都市の墓地が満杯になったヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。ロンドン
- インド大飢饉できごとAD1876年自然災害が、政策によって規模を変えた南インドを中心に、550万から1000万人が死んだとされる。同じ期間、インドから英国への穀物輸出は続いていた。救済の是非が、本国で経済学の議論として扱われた。チェンナイ
- 野口英世人物AD1876年11月9日 – AD1928年5月21日黄熱病の病原体を見つけたと言った会津の農家に生まれ、囲炉裏で左手を焼いた。手術で動くようになった手で医者になり、金を借りて渡米し、ロックフェラー研究所で梅毒スピロヘータを脳から見つけた。黄熱病の病原体を見つけたと言い、それは間違いで、ガーナで黄熱病で死んだ。千円札。
- 狂犬病のワクチンできごとAD1885年7月6日発症してからでは間に合わない病に、間に合う手段ができた狂犬病は、発症すればほぼ確実に死ぬ。犬に噛まれた者は、数週間の猶予のあとに来るものを待つしかなかった。パスツールは、感染した兎の脊髄を乾かして毒性を弱める方法にたどり着く。1885年7月6日、犬に噛まれた九歳のジョゼフ・マイステルに、弱めたものから順に注射した。少年は生き延びる。医師の資格を持たないパスツールにとって、失敗すれば刑事責任を問われかねない賭けだった。発症してからでは間に合わない病に、噛まれたあとから間に合う手段ができた。パリ
- 血清療法の確立できごとAD1890年破傷風菌を純粋培養し、その毒素に対する抗体を持つ血清が病を治すことを示した。第1回ノーベル賞は共同研究者のベーリングだけが受けている。ベルリン
- アフリカの牛疫できごとAD1890年頃手つかずの自然に見えた草原は、十年前まで人の土地だった1887年頃、インドかアラビアから連れてこられた牛とともに、牛疫がアフリカの角に入った。免疫の無い大陸を、十年で南端まで駆け抜けた。牛の八割から九割が死んだ地域がある。バッファローとヌーとキリンも死んだ。牧畜で生きる人々が、生活の基盤を一度に失い、飢饉と天然痘が重なった。人口が激減した土地に草が茂り、ツェツェバエが広がった。無人になった草原を、ヨーロッパ人が手つかずの自然として見出し、そこに保護区を設けた。ナイロビ
- ハンブルクのコレラできごとAD1892年8月通りの向かいで死者が分かれたエルベ川の水をろ過せずに飲んでいた港町で、10週間に8600人。隣のアルトナはろ過していて、通りの向かいで死者が分かれた。コッホが来て「私はヨーロッパにいることを忘れる」と言った。ドイツ最後のコレラ。翌年、ろ過場。ハンブルク
- 第三次ペスト大流行できごと1894年菌が見つかった雲南から広州、香港へ出て、蒸気船で世界に広がった。香港でイェルサンと北里が菌を見つけ、黒死病の正体が1500年後にようやく分かる。香港
- 白い制服の清掃隊できごとAD1895年十九世紀末のニューヨークの道は、馬糞と灰と生ごみで埋まっていた。清掃の仕事は政治の分け前として配られ、誰も働かない。1895年、市長は南北戦争の元大佐ジョージ・ワーリングに清掃局を任せた。彼は職員を白い制服と白い帽子で揃え、路上を持ち場ごとに割り当て、成績を公表した。白ずくめの姿は「ホワイト・ウィングス」と呼ばれ、市民が拍手する行進まで行われた。道は数年で見違え、病の発生も減った。誰かがやる仕事を、見える仕事に変えたことが効いた。ニューヨーク
- 蚊の胃の中にできごとAD1897年8月20日標的が、空気から一匹の虫に変わったマラリアは悪い空気から来ると考えられ、名前もイタリア語の悪い空気に由来する。インド医務局の軍医ロナルド・ロスは、蚊が運ぶという説を確かめようと、何年も蚊を解剖し続けた。1897年8月20日、患者の血を吸ったハマダラカの胃の壁に、原虫の袋を見つける。翌年には鳥のマラリアで一巡りの経路を示した。人の経路を示したイタリアの研究者たちと、手柄を争うことにもなる。病を防ぐ標的が、空気から一匹の虫に変わった。セカンデラバード
- サローテ・トゥポウ3世人物AD1900年3月13日 – AD1965年12月16日乳児死亡率を大きく下げたトンガを47年治めた女王。1953年のロンドンで、雨のなか幌を上げずに手を振りつづけて記憶された。
- 白粉の毒できごとAD20世紀初め肌を白く見せる化粧品には、長く鉛の化合物が使われた。伸びがよく、よく付き、艶が出る。ヨーロッパでも日本でも、上流の装いの定番だった。だが鉛は皮膚から入る。手足のしびれ、貧血、そして子への害。明治の日本では、舞台で濃く塗る役者やその子に中毒が出て問題になった。無鉛の白粉が売り出されても、付きが悪いと嫌われ、置き換えは進まない。国が鉛入りの製造を禁じたのは1934年である。危険が分かってから、習慣と商品が入れ替わるまでに、数十年かかった。東京
- 黄熱と蚊できごとAD1900年蚊を絶ってから、運河を掘ったキューバの医師カルロス・フィンレイは、1881年から黄熱は蚊が運ぶと唱えていたが、信じられなかった。米西戦争のあと、アメリカ陸軍の委員会がハバナで確かめる。委員の一人ジェシー・ラジアーは蚊に刺されて死んだ。委員会は志願者を募り、蚊に刺させる実験と、患者の汚れ物の中で眠らせる実験を比べた。志願者には危険を書いた同意書に署名させている。蚊が運ぶことが確かめられると、ハバナの黄熱は翌年ほぼ消え、その方法がパナマへ持ち込まれた。ハバナ
- 血液型の発見できごとAD1901年合う血を選ぶ輸血は17世紀から試みられ、しばしば患者を殺した。ラントシュタイナーは、同僚と自分の血を組み合わせ、混ぜると固まる組と固まらない組があることに気づいた。A、B、C(後のO)。翌年、弟子がABを見つけた。合う血を選べば輸血は安全になる。第一次大戦で輸血が実用になり、クエン酸ナトリウムで凝固を止め、冷やして運ぶ「血液銀行」が生まれた。彼は1930年にノーベル賞。後にRh因子も見つけた。ウィーン
- 腸チフスのメアリーできごとAD1907年症状が出ないまま人にうつす人がいるニューヨークの裕福な家庭で料理人として働いていたメアリー・マロンの行く先々で、腸チフスが出た。衛生技師のソーパーが記録を突き合わせ、彼女自身は発症しないまま菌を持ち続けていることを突き止める。本人は認めなかった。自分は病気ではない、と。1907年、当局は彼女を川の島の施設に隔離した。三年後にいったん解かれたが、名前を変えてまた台所に戻り、再び感染を出して連れ戻される。以後二十三年、死ぬまで島にいた。健康なまま人にうつす人がいる。この事実は、病気を症状で見分けてきた社会に、新しい線引きの問題を突きつけた。ニューヨーク
- 水道に塩素できごとAD1908年寿命を延ばしたものの多くは、医療ではなく水道濾過だけでは腸チフスが減らない。1908年、ジョン・リールがジャージーシティの水道に次亜塩素酸カルシウムを入れた。市民に知らせずに始めたため、裁判になる。法廷でリールは、水は安全で純粋になったと主張し、認められた。以後、塩素消毒は世界中の水道の標準になる。アメリカの腸チフスによる死亡は数十年で激減した。二十世紀に人の寿命を延ばしたものの多くは、医療ではなく水道である。反対に、消毒の副産物や塩素の匂いは、いまも議論の対象であり続けている。ジャージーシティ
- 脚気とビタミンの発見できごとAD1910年白米ばかりの兵食白米ばかりを食べる海軍と陸軍で、脚気が猛威をふるった。明治の日本では、これを細菌の病と考える東大・陸軍と、食事の問題と考える海軍軍医の高木兼寛が対立した。高木が兵食に麦と洋食を混ぜて発症を止めても、原因物質は分からない。1910年、鈴木梅太郎が米糠から有効成分を取り出し、のちにオリザニンと名づけた。論文が日本語だったため、翌年ポーランドのフンクが独立に見つけた「ビタミン」の名が世界に残った。東京
- 第一次世界大戦できごと1914年軍隊が世界中を移動したサラエヴォの一発から、同盟の連鎖で世界が巻き込まれた。塹壕と機関銃と毒ガスで1000万人が死ぬ。サラエヴォ

- ジョナス・ソーク人物AD1914年10月28日 – AD1995年6月23日特許を取らなかったニューヨークのユダヤ移民の子。ピッツバーグで不活化ワクチンを作り、自分と家族に打った。特許を取らず、「太陽に特許があるか」。サビンと生涯対立した。ラホヤにソーク研究所。晩年はHIVのワクチンを探した。
- ワイカトの徴兵拒否できごとAD1917年スペイン風邪の病人を集めて看護した第一次大戦の徴兵に、マオリの王家の血を引く女性が拒否を呼びかけた。19世紀に土地を没収されたままの国のために、なぜ死ぬのか、と。アオテアロア(位置は特定されていない)
- スペイン風邪できごと1918年戦死者を上回る数を奪った世界で5000万人以上が死んだとされる。大戦の死者を上回るのに、長く忘れられていた。

- ブロイラーの誕生できごとAD1923年屋内飼育と抗生物質デラウェアの主婦セシル・スティールが、注文した50羽の代わりに500羽の雛を受け取った。返さずに育てて売ったところ儲かった。数年で彼女は数万羽を飼っていた。それまで鶏は卵を取るもので、肉は廃鶏だった。ビタミンDの発見で日光なしに屋内飼育ができるようになり、抗生物質と配合飼料と、1948年の「明日のチキン」品評会による品種改良が続いた。1920年に出荷まで16週・体重1.1kgだったものが、いまは6週・2.7kgである。世界の鶏は230億羽を超える。デルマーバ半島
- ペニシリンの発見できごとAD1928年9月28日感染症で死ぬのが当たり前だった時代休暇から戻ったフレミングが、放置したブドウ球菌のシャーレに青カビが生えて、周りの菌が溶けているのを見た。「面白い」。カビの汁を「ペニシリン」と名づけて、論文を書いて、精製できず、忘れられた。1940年、オックスフォードのフローリーとチェインが精製して、マウスで試し、1941年、人で。アメリカが大量生産して、1944年、ノルマンディーの負傷兵に。感染症で死ぬのが当たり前だった時代が終わった。ロンドン
- カザフの飢饉できごと1930年遊牧民を強制的に定住させ、家畜を集団化した結果、150万人前後が死んだ。カザフ人の人口の4割近くにあたる。長く公には語られなかった。アラル海(位置は特定されていない)
- 電子顕微鏡できごとAD1931年細胞の内部が見えた光の顕微鏡には、原理的な限界がある。光の波長より小さいものは、見えない。おおよそ0.2マイクロメートル。ベルリン工科大学の学生エルンスト・ルスカと、指導者マックス・クノールが、電子の流れを磁界のレンズで曲げる装置を作った。電子の波長は、光よりはるかに短い。1933年、光学顕微鏡を超える倍率に達した。ウイルスが、初めて見えた。細胞の内部の構造が、見えた。ルスカがノーベル賞を受けたのは、55年後の1986年である。ベルリン
- タスキーギ梅毒研究できごとAD1932年40年続いたアメリカ公衆衛生局が、アラバマの黒人小作農399人の梅毒患者を「治療せずに経過を観察する」研究を始めた。参加者には「悪い血」の治療と告げ、無料の食事と埋葬費を与えた。1940年代にペニシリンが治療薬になっても、与えなかった。研究は40年続き、1972年に内部告発で報道されて中止された。死者128人、妻への感染40人、先天梅毒の子19人。1997年、大統領が謝罪した。医学研究への不信が、いまも残っている。タスキーギ
- 産む場所が家から病院へできごとAD1940年代二十世紀の初めまで、子は家で生まれるものだった。アメリカでは1900年に病院で生まれる子は数パーセントだったが、1940年代に半分を超え、1950年代には大半になる。麻酔、輸血、抗生物質、そして帝王切開が使えるのは病院だけだった。母と子の死は大きく減る。同時に、産む人は横たわらされ、家族から離され、決めるのは医師になった。1960年代から、この形への異議が出る。付き添いを認めろ、姿勢を選ばせろ、という要求である。安全と、産む側が決められることをどう両立させるかは、いまも課題として残っている。ワシントンD.C.
- レニングラード包囲できごとAD1941年9月8日100万人の餓死872日。最初の冬、パンは1日125グラム。100万人以上が餓死した。凍ったラドガ湖の上の「命の道」。ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、飢えた楽団が1942年8月に街で演奏した。1944年1月、解かれた。サンクトペテルブルク
- 人工腎臓できごとAD1943年1943年、ドイツに占領されたオランダの小さな町カンペンの病院で、若い医師ウィレム・コルフは、腎臓が働かなくなった患者の血を体の外に引き出し、腸詰めの皮に使うセロハンの管に通して、洗濯の桶のような液に浸し、老廃物を抜いてから体に戻す機械を作った。回転するドラムは、車の部品や缶詰の缶で組み立てた。最初の十数人は助からなかったが、1945年、一人の女性が意識を取り戻して生き延びる。コルフは設計図を無償で世界に配った。人工透析は、いま世界で数百万人の命をつないでいる。カンペン
- 水道にフッ素できごとAD1945年1月25日全員に効くやり方は、全員に選ばせないコロラドの町で、住民の歯に茶色い斑点が出るのに、虫歯がほとんどないという報告があった。原因は井戸水に多く含まれるフッ素だと分かる。濃度を下げれば、斑点を出さずに虫歯だけを減らせるのではないか。1945年、ミシガン州グランドラピッズが、水道にフッ素を加える最初の都市になった。十年後、子どもの虫歯は大きく減った。各国が追随する一方、反対も根強い。本人の同意なしに薬効のあるものを水に入れてよいのか、という問いが残るからになる。公衆衛生が、個人の選択とぶつかる典型的な例である。グランドラピッズ
- 世界保健機関の設立できごとAD1948年4月7日健康は権利である国際連合の専門機関として発足した。憲章の前文に、いまも引かれる定義がある。「健康とは、単に病気や虚弱でないということではなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態である」。そして「到達しうる最高水準の健康を享受することは、すべての人間の基本的権利の一つである」。天然痘の根絶(1980年宣言)を成し遂げ、ポリオを追い、結核とマラリアと戦い、そして加盟国の政治と予算に絶えず縛られてきた。ジュネーヴ
- 喫煙と肺がんできごとAD1950年9月30日20世紀の前半、肺がんで死ぬ人が急に増えていた。道路の舗装や排気ガスのせいだと考える人が多かった。1950年、イギリスの疫学者リチャード・ドールとオースティン・ブラッドフォード・ヒルは、ロンドンの病院の肺がんの患者と、ほかの病気の患者の暮らしを聞き取って比べ、肺がんの患者にたばこを多く吸う人がはるかに多いことを示した。同じ年、アメリカでも同じ結果が出る。ドールは研究の途中で自らたばこをやめた。二人は続いて、イギリスの医師四万人の喫煙と死因を追う研究を始め、喫煙が命を縮めることを確かめた。ロンドン
- ロンドン・スモッグできごとAD1952年12月5日名物の霧が1万人を殺した12月5日から4日間、無風で気温が逆転し、家庭と工場の石炭の煙が地表に留まった。視界が数メートルになり、昼でも暗く、劇場は舞台が見えないので公演を中止した。牛が窒息死し、人が川に落ちた。当時の集計で死者4000人とされたが、後の推計では1万2000人に上る。それまでロンドンの霧は名物であり、風物として描かれてきた。1956年、大気浄化法。無煙燃料への転換と、煙を出す暖房の規制。都市の空気が、政策の対象になった。ロンドン
- DNAの二重らせんできごとAD1953年生物学が分子の言葉で書けるようになる生命の設計図の形が分かった。X線で撮られた「51番写真」が決め手になる。それは撮影者に断りなく見せられた写真だった。ケンブリッジ
- ソークのポリオワクチンできごとAD1955年4月12日太陽に特許があるか180万人の子供で試験した結果が発表された。「安全で効く」。教会の鐘が鳴った。ソークは特許を取らなかった。「太陽に特許があるか」。アメリカのポリオは年5万人から数百人に。サビンの経口ワクチンが続き、2020年にアフリカから野生株が消えた。ピッツバーグ

- マラリア根絶計画できごとAD1955年消せる病と、抑え続けるしかない病家の壁にDDTを吹きつければ、そこで休む蚊が死ぬ。1955年、世界保健機関はこの方法でマラリアを地上から根絶する計画を始めた。ヨーロッパや北米、カリブの島々では実際に消える。スリランカでは年に数百万人いた患者が、1963年に十数人まで減った。だが散布をやめると数年で数十万人に戻る。蚊は薬に強くなり、アフリカの大部分は最初から対象外だった。1969年、目標は根絶から抑制へ下ろされる。消せる病と、抑え続けるしかない病がある。ジュネーヴ
- 水俣病できごとAD1956年魚に濃縮され胎児に及んだ1956年5月、原因不明の中枢神経の疾患として公式に確認された。手足がしびれ、言葉が不明瞭になり、視野が狭まる。原因は、工場が排出したメチル水銀である。魚に濃縮され、それを食べた人に及んだ。胎盤を通って、胎児にも及んだ。企業は排水を続け、行政は認定を絞り、患者は差別された。公式の確認から国が公害と認めるまで12年かかった。2013年、水銀に関する国際条約が「水俣条約」と名づけられた。水俣
- サリドマイド禍できごとAD1961年動物実験では出なかったつわりに効く安全な睡眠薬として西ドイツで市販され、46か国に広がった。動物実験では毒性が出ず、処方箋なしで買えた国もあった。生まれた子に、腕や脚のない、あるいは極端に短い障害が現れた。世界で約1万人。1961年、ドイツのレンツとオーストラリアのマクブライドが薬との関係を指摘し、回収された。アメリカでは審査官フランシス・ケルシーが承認を保留し続けて被害を防いだ。以後、薬の承認に催奇形性の試験と厳格な手続きが要求されるようになった。ハンブルク

- 公衆衛生局長官の喫煙報告できごとAD1964年1月11日国がたばこを原因と認める1964年1月11日、土曜日。アメリカの公衆衛生局長官ルーサー・テリーは、七千本を超える研究を検討した委員会の報告を発表した。たばこは男性の肺がんの原因であり、慢性の気管支炎の最も大きな原因である、と国として初めて認めたのである。株の市場への影響を避けるため、発表は市場の閉まった土曜日に行われた。当時、アメリカの大人の四割以上がたばこを吸っていた。翌年、たばこの箱に健康への警告を書くことが義務づけられ、テレビとラジオの広告はのちに禁じられる。喫煙を減らす長い取り組みが、ここから始まった。ワシントンD.C.
- 緑の革命できごとAD1965年高収量品種と化学肥料と灌漑で、穀物の生産が倍以上になった。飢饉が消える一方、水を大量に使い、地下水位が下がり、農家の負債が増える。デリー

- 全人的な痛みできごとAD1967年7月シシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。ロンドン
- イタイイタイ病できごとAD1968年富山の神通川の流域で、大正の頃から、中年の女性が骨がもろくなり、わずかな動きで骨が折れて痛みに泣く病が知られていた。痛い、痛いと訴えることから病名がついた。地元の医師・萩野昇は、上流の鉱山から流れるカドミウムが原因だと唱えたが、長く相手にされなかった。1968年、国はこれを公害による病と初めて認める。1971年、患者は鉱山の会社を相手にした裁判に勝った。四大公害の裁判の中で最初の勝訴である。富山
- 経口補水療法できごとAD1968年塩と砂糖と水が救った命コレラや下痢の病で人が死ぬのは、体の水と塩が失われるからである。それまでの治療は、点滴で水を補うことだった。しかし点滴には、器具と清潔な液と、それを扱える人が要る。1960年代、ダッカとカルカッタの研究所で、塩とブドウ糖を決まった割合で水に溶かして飲ませれば、腸がそれを吸収することが確かめられた。1971年、バングラデシュの独立戦争の難民キャンプでコレラが広がったとき、医師ディリップ・マハラナビスはこれを大規模に使い、死者を大きく減らした。安く、誰でも作れるこの方法は、世界で数千万人の子どもの命を救ったとされる。ダッカ
- 四日市ぜんそくできごとAD1972年7月24日1959年、四日市に石油化学の工場群が動き出すと、周りの町で喘息に苦しむ人が増えた。煙突から出る硫黄酸化物が原因だった。1967年、患者たちがコンビナートの六つの会社を訴える。1972年7月24日の判決は、一社ごとの排出が少なくても、並んで操業する会社は共同して責任を負うとした。国は大気汚染の規制を強め、汚染者が被害者に補償する制度を作った。煙突の高さを上げて薄めるのではなく、出す量を減らすことが求められるようになった。四日市
- コールドチェーンできごとAD1974年作ることと、腕に届けることは別の問題であるワクチンは熱で壊れる。製造から接種まで、温度を保ったまま運ばなければならない。1974年、WHOが拡大予防接種計画を始めたとき、最大の障害はこれだった。電気の来ない村へ、二度から八度を保って届ける。灯油とガスで動く冷蔵庫、太陽電池の保冷庫、氷嚢を入れた運搬箱、そして温度が上がると色が変わる標識。天然痘の根絶も、麻疹とポリオの後退も、この鎖が作れたかどうかで決まった。2020年の新型コロナのワクチンで、同じ問題が再び現れた。ジュネーヴ
- 天然痘の根絶宣言できごとAD1980年5月8日人類が病を一つ消した人類が病を一つ、地上から消した。最後の自然感染は1977年のソマリア。20世紀だけで3億人を殺した病が、13年の計画で終わった。ジュネーヴ
- エイズの最初の報告できごとAD1981年6月5日病が差別と重なるとき、対応は遅れる1981年6月5日、アメリカの疾病対策の機関の週報が、ロサンゼルスの若い同性愛の男性五人が、ふつうは健康な人がかからない肺炎になったと報告した。免疫が壊れる新しい病だった。1983年、原因のウイルスが見つかる。患者は偏見にさらされ、政府の対応は遅れた。輸血や血液製剤でも広がり、アフリカでは何百万人もの命を奪う。1996年、複数の薬を組み合わせる治療で、死の病は抑え続けられる病に変わった。それまでに、そして薬の届かない土地では、いまも多くの人が死んでいる。ロサンゼルス
- ボパールの化学工場事故できごとAD1984年12月3日1984年12月2日の夜から3日にかけ、インドのボパールにあるアメリカ系企業の農薬工場から、猛毒のイソシアン酸メチルのガスが漏れ出した。風に乗ったガスは、工場の周りの貧しい人びとの家に流れ込む。眠っていた人びとは目と肺を焼かれ、数千人がその夜のうちに死んだ。その後の死者と後遺症に苦しむ人は数十万人に及ぶとされる。安全装置は止まっていた。会社が払った補償は被害に比べてわずかで、土地の汚染はいまも残っている。ボパール
- チェルノブイリ原発事故できごとAD1986年4月26日死者は31人とも数万人とも午前1時23分、試験中の4号炉が爆発した。黒鉛が10日燃えた。政府は2日黙り、スウェーデンの観測所が気づいた。プリピャチの5万人は36時間後に出た。消防士と「リクビダートル」60万人。死者は31人とも数万人とも。ゴルバチョフは「これが本当のペレストロイカの始まり」と言った。チェルノブイリ
- イベルメクチンの無償提供できごとAD1987年必要な限り無償で西アフリカの川沿いの村々では、ブユに刺されて体に入る寄生虫が、皮膚のかゆみと、やがて失明を引き起こしていた。「河川盲目症」である。日本の化学者大村智は、静岡のゴルフ場の近くの土から新しい菌を見つけ、アメリカの製薬会社メルクと、そこから寄生虫に効くイベルメクチンを作った。1987年、メルクは、この薬を必要とする人々に、必要なだけ、いつまでも無償で提供すると宣言した。年に一度、錠剤を飲むだけでよい。村々に薬が配られ、河川盲目症は多くの地域で消えつつある。大村とウィリアム・キャンベルは2015年、ノーベル賞を受けた。ワガドゥグー
- オキシコンチンできごとAD1996年パーデュー・ファーマが、ゆっくり溶ける被膜をかけたオキシコドンを売り出した。十二時間効くから乱用されにくい、依存は一パーセント未満だと営業は説明した。その数字の出所は、別の文脈で書かれた五行の投書だった。医師に講演料を払い、痛みを第五のバイタルサインと呼ぶ運動を後押しした。錠剤は砕けば一度に効く。二十年で数十万人が過剰摂取で死に、うち多くは処方から始まった。痛みを我慢させないという正しい主張が、売るための言葉として使われた。スタンフォード(コネチカット)
- 薬害エイズできごとAD1996年2月16日知ってから止めるまでの時間が、被害を広げた血が固まりにくい血友病の患者は、輸入された血液製剤で命をつないでいた。1980年代、その製剤にエイズのウイルスが混じる危険が分かっても、加熱して安全にした製剤への切り替えは遅れ、国内の患者のおよそ千四百人が感染した。患者たちは国と製薬会社を訴える。1996年2月16日、厚生大臣は、ないとされていた当時の資料が省内にあったことを明らかにし、原告に謝罪した。まもなく和解が成立する。国の責任が問われた薬害の代表的な例になった。東京
- 狂牛病できごとAD1996年3月20日効率の工夫が、見えない危険を生んだ1980年代のイギリスで、脳がスポンジのようになって死ぬ牛が見つかった。牛の骨や肉を砕いて飼料に混ぜ、草を食べる牛に牛を食べさせていたことが広がりの原因だった。政府は長く、人には移らないと言い続けた。1996年3月20日、若い人に出た新しい型の脳の病が、この牛の病と関係するとみられると認める。イギリスの牛肉は世界から締め出され、数百万頭が処分された。日本でも2001年に見つかる。アメリカで見つかって輸入が止まると、牛丼が店から消えた時期もある。ロンドン
- 堺市のO157集団食中毒できごとAD1996年根拠の無い発表が生産者を潰す1996年7月、大阪府の堺市で、小学校の給食を食べた子どもたちが、次々に激しい腹痛と血の混じった下痢に襲われた。腸管出血性大腸菌O157による食中毒で、患者は九千人を超え、子どもが亡くなった。厚生省は原因としてカイワレ大根の疑いを発表し、カイワレは全国の店から消え、生産者は打撃を受けた。のちに裁判所は、確かな根拠が無いまま発表したとして国に賠償を命じている。この事件のあと、給食の衛生の基準が厳しくされ、食べ物を十分に加熱するという習慣が、家庭にも広まった。堺
- SARSの流行できごとAD2003年あのとき止められた広東で出た新しいコロナウイルスが、香港のホテルの一つの階から世界に散った。29の国と地域、8000人、774人が死んだ。WHOが渡航警告を出し、中国が隠したことが分かった。17年後の新型と同じ仲間。あのとき止められたことが、次は止められなかった。香港
- 薬を練り込んだ蚊帳できごとAD2003年蚊帳に殺虫剤を浸しても、洗えば落ちる。住友化学は、殺虫剤を樹脂の糸に練り込み、表面へ少しずつ染み出す蚊帳を作った。数年のあいだ効き目が続く。2003年、その技術をタンザニアのアルーシャの会社に無償で渡し、現地で作れるようにした。数千人の雇用が生まれる。国際機関の資金で数億張りが配られ、2000年から2015年にアフリカで防げたマラリアの多くは、この蚊帳によると推計されている。寝る場所を守るのが、いちばん効いた。アルーシャ
- スマトラ沖地震と津波できごとAD2004年12月26日津波という言葉を知らない海岸マグニチュード9.1。インド洋の14か国で23万人が死んだ。アチェで17万人。警報の仕組みが無く、津波という言葉を知らない海岸で、水が引いたのを見に行った人が飲まれた。バンダ・アチェ

- 牛疫の根絶できごとAD2011年5月25日人類が根絶させた病は、天然痘とこれだけである牛疫ウイルスは、数千年、ユーラシアとアフリカの牛を殺し続けた。1960年代、ウォルター・プロウライトが、冷蔵を必要としない弱毒生ワクチンを作る。それが決定的だった。電気の来ない土地でも運べる。国際的な接種計画が進み、最後の症例は2001年、ケニアのメル地区で確認された。2011年、国際獣疫事務局とFAOが根絶を宣言する。人類が根絶させた病は、天然痘と、これだけである。家畜の病としては、初めての根絶だった。パリ
- 西アフリカのエボラ流行できごとAD2014年医療従事者が500人死んだギニアの村の2歳の子から始まり、三か国で2万8000人が感染し、1万1000人が死んだ。医療従事者が500人死んだ。国境なき医師団が「制御不能」と宣言してから、世界が動いた。ゲケドゥ

- COVID-19の世界的流行できごと2020年飛行機の時代には数か月で世界が止まる世界が同時に止まった。スペイン風邪から100年、人の移動の速さがそのまま感染の速さになった。武漢
- 武漢の封鎖できごとAD2020年1月23日千百万の都市を丸ごと止めた七十六日2020年1月23日の朝、人口千百万の都市から、出る手段がすべて止められた。空港も、鉄道も、高速道路も、市内の地下鉄とバスも。近代の都市を丸ごと封じるのは、前例のない規模だった。住民は自宅に留め置かれ、食料は区画ごとに配られる。封鎖は七十六日続いた。この方法は各国に広く真似され、同時に、どこまで自由を止めてよいのかという議論を残した。六百年前にヴェネツィアが島で病を止めようとしたのと同じ発想を、都市の規模でやったことになる。武漢
- mRNAワクチンの接種開始できごとAD2020年12月8日設計図だけで作るワクチン2020年12月8日、イギリスのコヴェントリーの病院で、90歳の女性マーガレット・キーナンが、新型コロナウイルスのワクチンを、臨床試験の外で世界で初めて受けた。ウイルスの一部の設計図を、脂の小さな粒に包んで体に入れ、体の細胞にその部分を作らせる、mRNAワクチンである。ウイルスの遺伝子の配列が公開されてから一年足らずで作られた。その土台には、ハンガリー出身の研究者カタリン・カリコらが、研究費も得られないなかで何十年も続けた研究があった。カリコとドリュー・ワイスマンは2023年、ノーベル賞を受けた。コヴェントリー
- 無観客の東京オリンピックできごとAD2021年7月23日二度目の東京オリンピックは、2020年の夏に開かれるはずだった。新しい感染症の世界的な流行で、史上初めて一年延期される。2021年7月23日、開会式は、ほとんど観客のいない競技場で行われた。選手は検査を繰り返し、外との行き来を絞られる。開催に反対する声も強く、組織の幹部の失言や、汚職の事件も続いた。一方で、新しく加わった競技で十代の選手たちが活躍した。五十七年前の大会とは、まったく違う形の祭典になった。東京
重なっているストーリー
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