概要
パルマ近郊の宿屋兼雑貨屋の子。ミラノ音楽院の入学を年齢超過で断られた。25歳で妻と二人の子を2年の間に失った。『ナブッコ』で立ち直り、以後、26のオペラ。『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』、そして79歳の『ファルスタッフ』。統一イタリアの下院議員を短く務めた。財産で、老いた音楽家のための家(カーサ・ヴェルディ)をミラノに建てた。「私の作品の中で最も美しいものだ」。
関わったできごと(1)
ヴェルディ『ナブッコ』AD1842年3月9日 · 作曲した本文
1813年10月10日、パルマ公国のロンコレ(ブッセート近郊)。家は宿屋兼雑貨屋。フランス帝国の統治下だったので、出生の記録はフランス語で「ジョゼフ・フォルテュナン・フランソワ」。
村の教会のオルガンを弾いた。10歳でブッセートの町へ。商人アントニオ・バレッツィが彼を家に置いて、支援した。18歳、ミラノ音楽院を受験。年齢超過(規定は14歳まで)と、ピアノの構えが悪いことを理由に、不合格。私費で、スカラ座の楽長助手ラヴィーニャに個人で習った。
1836年、バレッツィの娘マルゲリータと結婚。ブッセートの音楽監督。
1838年、ミラノへ。同じ年、娘が死んだ。1839年、息子が死んだ。1840年、妻が死んだ(脳炎、26歳)。同じ年、契約していた喜劇が失敗した。
1842年、『ナブッコ』。
「ガレー船の年月」(彼自身の言葉)。1842年から1853年まで、11年で16のオペラ。各地の劇場と契約して、期限までに書き、初演を指揮し、次の町へ行く。『エルナーニ』『二人のフォスカリ』『ジャンヌ・ダルク』『アッティラ』『マクベス』(1847年。シェイクスピアを生涯敬愛した)『群盗』『イル・コルサーロ』『レニャーノの戦い』『ルイザ・ミラー』『スティッフェリオ』。
1848年、革命。ミラノの「5日間」の報せをパリで聞き、駆けつけた。マッツィーニに頼まれて愛国的な賛歌を書いた。『レニャーノの戦い』(1849年、ローマ共和国の下で初演。ロンバルディア同盟が皇帝を破る話。客が総立ちになった)。
1851〜53年。『リゴレット』(1851年、ヴェネツィア。ユゴーの戯曲。王が女たらしとして描かれるため、検閲で舞台をマントヴァに移した。「女心の歌」の旋律を、初演の直前まで歌手に渡さず、街で歌われるのを防いだ)。『イル・トロヴァトーレ』(1853年)。『椿姫』(1853年、ヴェネツィア。デュマ・フィスの『椿姫』。同時代の話で、娼婦が主人公。初演は失敗した——ヒロイン役の歌手が太っていて、結核で死ぬ場面が笑われた、と伝える。1年後、別の劇場で成功)。
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ。『ナブッコ』の初演でアビガイッレを歌ったソプラノ。私生児を数人産んだ過去があり、声を失って引退していた。1847年から一緒に暮らし、1859年に結婚した。ブッセートの町の人が、二人の同棲を非難した(彼はそれを生涯、恨んだ)。
サンタガタ。ブッセート近郊に買った農地。彼は自分を「農民」と呼び、地所を経営し、家畜と作物と灌漑に本気で取り組んだ。オペラの間隔が、この頃から長くなる。
政治。1859年、カヴールに請われて、パルマ議会の代表としてトリノへ。1861〜65年、統一イタリア王国の下院議員(カヴールへの敬意から引き受け、彼の死後、興味を失った)。
後期。『シチリア島の夕べの祈り』(1855年、パリ)。『シモン・ボッカネグラ』(1857年)。『仮面舞踏会』(1859年。国王暗殺の話が検閲に引っかかり、舞台をボストンに移した)。『運命の力』(1862年、ペテルブルク)。『ドン・カルロス』(1867年、パリ。シラーの戯曲。父と子、権力と信仰、大審問官)。『アイーダ』(1871年、カイロの歌劇場のために。エジプトの副王の依頼)。
1873年、マンゾーニ(『いいなづけ』の作者。イタリア語の散文の父であり、統一運動の精神的な支柱)が死んだ。ヴェルディは葬儀に出られず(人前で泣くのを恐れた)、1周忌のために『レクイエム』を書いた。
以後16年、オペラを書かなかった。
アッリーゴ・ボーイト(作曲家で詩人。若い頃、ヴェルディを批判する詩を書いて、彼に嫌われていた)が、台本作家として近づいた。リコルディ社の仲介で和解した。
1887年2月5日、スカラ座、『オテロ』。73歳。1893年2月9日、『ファルスタッフ』。79歳。最後の場面、全員が舞台に並んでフーガを歌う。「Tutto nel mondo è burla(世の中はすべて冗談だ)……最後に笑う者が、よく笑う」。
1897年、ジュゼッピーナが死んだ。
1901年1月21日、ミラノのグランド・ホテルで脳卒中。1月27日に死んだ。87歳。市は、ホテルの前の通りに藁を敷いて、馬車の音を消した。
遺言。葬儀は簡素に、音楽なしで、夜明けか日暮れに。それは守られた。しかし1か月後、遺体を音楽家の家の礼拝堂へ移すとき、30万人が沿道に立ち、トスカニーニの指揮で、「行け、我が想いよ」が歌われた。