キリスト教のひろがり

概要
迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。
この物語について
一つの信仰であろうとするたびに、線の外に出る人が生まれた。広がる歴史は、そのまま割れる歴史になる。では、迫害される小さな集団は、なぜ300年で帝国の宗教になれたのか。そしてなぜ、一つであろうとするたびに割れていったのか。

始まりは、ローマに支配されたユダヤの地だった。紀元30年ごろ、ガリラヤ出身の説教者イエスは、エルサレムでローマの総督ピラトゥスの命により十字架にかけられた。弟子たちは、彼が復活したと信じ、その教えを伝え始める。はじめはユダヤ教の中の一派にすぎなかったが、パウロらが地中海の都市を回り、割礼を受けなくても信者になれるとしたことで、ユダヤ人以外にも広がった。70年、ユダヤの反乱を鎮めたローマ軍がエルサレムの神殿を破壊すると、ユダヤ教とキリスト教はしだいに別の道を歩むようになる。
ローマの神々や皇帝への礼拝を拒むキリスト教徒は、たびたび迫害された。64年のローマの大火のあと、ネロ帝は彼らに罪を着せて処刑したとタキトゥスは書いている。3世紀半ばのデキウス帝の時代には、帝国全体で神々への供犠が命じられ、拒む者が罰せられた。303年に始まるディオクレティアヌス帝の大迫害は、最も激しいものだった。それでも信者は都市の住民のあいだで増え続けた。病人や貧しい人の世話をする互助の網と、身分を問わずに迎え入れる共同体が、人を引きつけたと考えられている。
転機は4世紀に来た。312年、コンスタンティヌスはローマ近郊のミルウィウス橋の戦いの前に、天にしるしを見たと伝えられ、勝利のあと翌313年にミラノ勅令でキリスト教を公認した。325年には皇帝自らニケーアに司教たちを集め、キリストは父なる神と同じ本質を持つとして、それを否定するアリウスの説を退けた。だがアリウス派はその後も長く残り、ゴート人などに伝わっていく。そして380年、テオドシウス帝はニケーアの信仰を帝国の正統と定め、やがて異教の祭儀を禁じた(キリスト教の国教化)。ミラノの司教アンブロシウスが、市民を虐殺させた皇帝に罪を悔いるまで聖堂に入らせなかったという話は、教会が皇帝に意見する時代が来たことを示している。

広がったのは、ローマの都合だけではなかった。アルメニアは4世紀の初めに国としてキリスト教を受け入れたとされ、その時期を301年とする伝承がある。エチオピア高原のアクスム王国でも、同じ4世紀にエザナ王が改宗した(アクスムのキリスト教化)。王の貨幣の図柄は、太陽と月のしるしから十字架に変わっている。エチオピアの教会は、その後千年以上、地中海世界からほとんど切り離されながら独自の伝統を守り、12世紀から13世紀には、岩山を掘り抜いたラリベラの教会群が作られた。
教えの中身をめぐる争いが、最初の大きな分かれ目を作った。431年のエフェソス公会議では、マリアを「神の母」と呼ぶことに反対したネストリウスが退けられ、その流れをくむ東方の教会はペルシアから中央アジアへ進み、唐の長安にも達した。451年のカルケドン公会議は、キリストが神としての本性と人としての本性を併せ持つと定めたが、エジプトやシリア、アルメニアの教会の多くはこれを受け入れなかった。コプト教会、エチオピア教会、アルメニア使徒教会など、このとき分かれた教会はいまも別々に続いている。「一つの信仰」を定めるたびに、そうでない人が線の外に出る。

西では、ローマ帝国が崩れたあと、教会が古代の文字と学問を引き継いだ。ヒエロニムスがラテン語に訳した聖書は、千年以上西方の標準となる。ベネディクトの定めた修道院の規則は、祈りと労働と写本を軸にした暮らしを各地に広げた。5世紀にはパトリキウスがアイルランドに渡り、597年には教皇グレゴリウス1世の送った修道士アウグスティヌスがイングランドのケントに上陸した。フランク王クローヴィスがカトリックの洗礼を受けたのは政治的な選択でもあり、800年、教皇がその後継者カール大帝に帝冠を授けて、教皇と西の皇帝の結びつきが形になる。
東では、コンスタンティノープルの教会が北のスラヴ世界へ信仰を送った。863年ごろに始まるスラヴ語への伝道で、キュリロスとメトディオスの兄弟は、聖書と典礼をスラヴの言葉に訳すために文字そのものを作った。988年ごろにはキエフ大公ウラジーミルが洗礼を受ける。西からは、966年にポーランドのミェシュコ1世が、1000年ごろにハンガリーのイシュトヴァーン1世がローマの教会に入った。どちらの教会に入るかで、その後の文字と文化の行き先が決まった。ポーランドはラテン文字、ロシアはキリル文字の国になる。

ローマとコンスタンティノープルは、言葉も礼拝の作法も、教皇の権威の重さについての考えも、しだいに離れていった。1054年、教皇の使節と総主教が互いを破門する(東西教会の分裂)。当時は一時の衝突と見られたが、1204年に十字軍がコンスタンティノープルを略奪すると、東の人々の西への不信は決定的になった。
西では、教会と王の力くらべが続いた。1077年、教皇グレゴリウス7世に破門された皇帝ハインリヒ4世は、北イタリアのカノッサの城の門の前で雪の中に三日立って許しを請うた(カノッサの屈辱)。聖職者を誰が任命するかをめぐるこの争いは、1122年のヴォルムス協約で一応の決着を見て、教会の権威と世俗の権力が分かれていく道筋がついた。1095年、教皇ウルバヌス2世は聖地の奪回を呼びかけ、4年後に十字軍はエルサレムを占領して住民を虐殺した。教皇の力の頂点は13世紀だったが、14世紀には教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移され、さらに二人、一時は三人の教皇が並び立つ分裂も起きた。イングランドのウィクリフは聖書を英語に訳させ、ボヘミアのフスは教会を批判して1415年に焼かれた。

1517年、ドイツのヴィッテンベルクの修道士ルターは、罪の罰が免じられるとして売られていた贖宥状を批判する95か条の論題を示した。人は善い行いや教会の権威ではなく、信仰によって救われる、と彼は説いた。それまでの批判者と違ったのは、活版印刷があったことである。ルターの文書とドイツ語訳の聖書は大量に刷られ、たちまち広がった。スイスではツヴィングリやカルヴァンが改革を進め、イングランドでは王ヘンリ8世が離婚問題から教皇と縁を切って、自らを教会の首長とした。それを認めなかったトマス・モアは処刑された。
カトリックの側も変わった。1545年からのトレント公会議は教義を固め、聖職者の教育を立て直し、以後400年のカトリックの形を決めた。1540年に認可されたイエズス会は、学校を作り、海を越えて布教に出た。だが割れた信仰は、血を流させた。1572年のパリでのサン・バルテルミの虐殺ではプロテスタントが殺され、フランスは1598年のナントの勅令でようやく信仰の自由を認めたが、87年後に取り消された。ドイツでは三十年戦争が国土を荒廃させた。
広がりは航路の話でもあった。スペインとポルトガルの船とともに、宣教師はアメリカ大陸、アフリカ、アジアへ渡った。1549年、イエズス会のザビエルは鹿児島に上陸した(ザビエルの来日)。日本ではやがて数十万人ともいわれる信者が生まれたが、豊臣秀吉と江戸幕府は禁教に転じ、1637年の島原の乱のあと、信仰は潜伏して守られることになる。フィリピンではスペインの支配とともにカトリックが根づき、アフリカのコンゴ王国では王アフォンソ1世が16世紀にキリスト教を受け入れたが、同じポルトガル人との関係はしだいに奴隷の取引へ変わっていった。
その後も、教会は割れ、広がり続けた。18世紀からはメソジストなどの新しい運動が起き、19世紀には欧米の宣教師がアフリカやアジアに大勢渡った。日本でも内村鑑三が教会の制度にとらわれない「無教会」を唱えている。いま世界のキリスト教徒は20億人を超え、その多くはヨーロッパではなく、アフリカ、中南米、アジアに住む。2013年に選ばれた教皇フランシスコは、アメリカ大陸から出た初めての教皇だった。迫害される小集団として始まった信仰は、一つであろうとしては割れることを繰り返しながら、翻訳と航路を通って、世界で最も信者の多い宗教になった。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(249)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 出エジプト(伝承)できごとBC1250年頃(伝承)三つの宗教の始まりの物語モーセに率いられたヘブライ人がエジプトを出て、海を渡り、シナイで律法を受けた。考古学の証拠はなく、いつ、どれだけの人が、そもそも起きたか、分からない。だが三つの宗教が、これを自分たちの始まりの物語にした。シナイ山

- ダビデのエルサレムできごとBC1000年頃メシアはその子孫から出るとされた羊飼いから王になった、と聖書は語る。エルサレムを取って都にした。考古学で確かめられるのは名前の刻まれた石碑一つで、王国の規模は議論がある。エルサレム
- ダビデ人物? – BC970年頃羊飼いの末の子が、巨人を倒し、王に嫌われて逃げ、王になった。エルサレムを都にした。詩篇の作者とされ、メシアはその子孫から出るとされた。
- ソロモンの神殿できごとBC960年頃ティルスの職人と杉材で建てた、と聖書は記す。BC586年に壊され、第二神殿がAD70年に壊され、いまその場所には岩のドームが建つ。エルサレム

- オムリのサマリア建設できごとBC880年頃北イスラエルの王が丘を買って都を建てた。息子アハブがフェニキアの王女イゼベルを娶り、預言者エリヤと争う。アッシリアの碑文は、この国を「オムリの家」と呼びつづけた。サマリア
- イザヤの預言できごとBC740年頃苦難の僕ウジヤ王の死んだ年、神殿で炭火に唇を触れられた。「剣を鋤に、槍を鎌に」。アッシリアが北を滅ぼす年に、南で語った。第40章以降は別人が200年ほど後に書いたとされ、そこに「苦難の僕」がある。キリスト教が最も引く預言書。エルサレム
- イスラエル王国の滅亡できごとBC722年アッシリアが北の王国を滅ぼし、住民を各地へ移した。南のユダだけが残る。ユダヤ教が一神教としてまとまっていくのは、この生き残った側でのことになる。サマリア
- ウェスタの火できごとBC7世紀頃ローマの中心に、屋根のある丸い建物があり、そこで火が燃え続けていた。神像は置かず、火そのものを祀る。守るのは六人の巫女で、十歳前後で選ばれ、三十年を務め、その間は結婚できない。火を絶やせば鞭で打たれ、貞潔を破れば生き埋めにされた。三月一日に一度だけ、木を擦って新しい火を起こし、改めて灯し直す。火を保つことが国家の存続そのものと結ばれていた。西暦394年、テオドシウスがこの火を消させ、千年以上続いた炉が閉じられた。ローマ
- ヨシヤの改革できごとBC622年申命記の元神殿の修理で「律法の書」が見つかった。王は衣を裂き、地方の聖所を全部壊し、礼拝をエルサレム一か所にし、過越を祝わせた。見つかった書は申命記の元と考えられている。13年後、王はエジプト軍の前に出て死んだ。エルサレム
- エレミヤの預言できごとBC609年頃滅びを語りつづけて、同胞から憎まれた預言者。神殿があるから安全だという考えを否定し、井戸に投げ込まれた。都は本当に落ちた。エルサレム
- 乳香の道できごとBC400年頃神殿で焚き、遺体に塗る乳香と没薬は、アラビア半島南端のごく限られた地域にしか生えない木の樹脂である。切り傷から滲み出た涙を集め、乾かす。神殿で焚き、遺体に塗り、薬にした。年に3000トンが北へ運ばれたという推計がある。ラクダの隊商が、2000キロ以上を60日以上かけて進んだ。その道の要にあったのがナバテア人のペトラである。彼らは水の乏しい岩山に貯水の仕組みを作り、通行税を取って富を築いた。海路が開けると、道は衰えた。ペトラ
- マカバイの反乱できごとBC167年ハヌカーセレウコス朝の王が神殿にゼウスの祭壇を置き、割礼と安息日を禁じた。祭司マタティアが村で王の役人を殺し、5人の息子が山へ。ユダ・マカバイが3年で神殿を取り戻した。その日を祝う灯がハヌカー。ユダヤの独立王国が80年続く。モディイン
- イエス人物BC4年頃 – AD30年頃一行の文書も残さなかった開祖ローマの支配下にあったガリラヤの大工の家に育ったとされる。洗礼者ヨハネのもとに現れたのち、神の国が近づいたと説いて村々を回った。貧しい者、病む者、罪人とされた者と食事をともにし、律法の守り方をめぐって宗教の指導者たちと対立する。エルサレムで捕らえられ、ローマの総督の命で十字架にかけられた。弟子たちは彼が復活したと信じて教えを広め、そこからキリスト教が生まれた。本人は一行の文書も残していない。
- パウロ人物AD5年頃 – AD65年頃割礼を求めずに異邦人へ説いたキリスト教徒を捕らえて回っていた律法学者が、ダマスクスへの道で回心した。割礼を求めずに異邦人へ説き、地中海を三度回った。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。
- イエスの処刑できごとAD30年頃処刑の道具が、信仰の印になった過越の祭りでエルサレムに人が集まる頃、ガリラヤから来た教師イエスが捕らえられた。神殿の商人を追い払い、祭司たちの怒りを買っていたとされる。ユダヤの最高法院で取り調べられたのち、ローマの総督ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出され、反逆の罪で十字架刑を言い渡された。十字架は、ローマが奴隷や反乱者に科した見せしめの刑である。弟子たちは散り散りになったが、やがて師が復活したと告げ始める。処刑された一人の教師が、のちに世界最大の宗教の中心になった。エルサレム
- ステファノの殉教できごとAD34年頃最初の殉教者エルサレムの教会の7人の執事の一人が、「あなたたちは預言者を殺した」と最高法院で語り、石で打たれた。最初の殉教者。石を投げる人々の上着を、タルソスの若者サウロが預かっていた。サウロは信徒を捕えに行く道で倒れ、パウロになった。エルサレム
- ステファノ人物? – AD34年頃12月26日ギリシア語を話すユダヤ人。「聖霊に満ちた人」。7人の執事の一人。説教。「あなたたちは頑固で、心に割礼がなく、聖霊に逆らう」。「天が開いて、人の子が神の右に」。石。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。最初の殉教者。12月26日。
- パウロの伝道旅行できごとAD47年ユダヤ教の一派から世界宗教へユダヤ教の枠を越えて、割礼を求めずに異邦人へ説いた。地中海を三度回り、手紙を書いた。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。エフェソス
- エルサレム神殿の破壊できごとAD70年ユダヤ戦争の末に神殿が焼かれた。ユダヤ教は神殿のない宗教へ形を変えていく。エルサレム

- マサダの陥落できごとAD73年ローマ軍が数か月かけて土の斜道を築いて岩山の砦に達したとき、籠城していた者はほぼ全員死んでいた。ヨセフスは集団自決と書き、考古学は遺体を数十体しか出していない。マサダ
- マルキオン人物AD85年頃 – AD160年頃最初の正典シノペの司教の子、船主。140年頃ローマへ。20万セステルティウス。144年、追放され、金は返された。二つの神。旧約を捨てた。「福音書はルカだけ、それも削って」。『対立命題』。「最初の正典を作った男」。教会は彼に答えるために、自分の正典を。
- ユスティノス人物AD100年頃 – AD165年ソクラテスもキリスト者ネアポリス(ナブルス)生まれ。ストア、ペリパトス、ピュタゴラス、プラトンを渡り、海辺で老人にキリストを聞いた。『第一弁明』『トリュフォンとの対話』。哲学とキリスト教は一つの真理の二つの形。ソクラテスもキリスト者だった、と言った。
- アクスム王国国AD1世紀頃 – AD940年頃(衰退と滅亡には諸説ある)4世紀に国の宗教にした紅海の交易で栄え、独自の文字と貨幣を持った。4世紀にキリスト教を国の宗教にする。ローマ・ペルシア・中国と並ぶ「世界の四大国」とペルシアの著述家が書いた。
- エイレナイオス人物AD130年頃 – AD202年頃ヨハネの孫弟子スミルナで聖ポリュカルポスの説教を聞いて育ち、ガリアのリヨンへ。177年の迫害で司教ポティヌスが殺され、跡を継いだ。グノーシスと戦い、四福音書を定め、ローマ司教の継承表を書いた。「神の栄光は、生きている人間」。伝承では殉教。
- バル・コクバの乱できごとAD132年ユダヤがパレスティナになったハドリアヌスがエルサレムをローマの街に建て直そうとして、ユダヤ人が三年半戦った。指導者は「星の子」と呼ばれ、メシアとされた。鎮圧のあと、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを禁じられ、属州の名がユダヤからパレスティナに変えられた。エルサレム
- バル・コクバ人物? – AD135年メシアと呼ばれた本名はシメオン・ベン・コシバ。「星の子」と呼ばれ、ラビ・アキバにメシアと認められた。三年半ローマと戦い、貨幣を打ち、死海の洞窟に手紙を残した。ベタルの砦で死んだ。後世のラビは「偽りの子」と呼び変えた。
- マルキオンの正典できごとAD144年旧約を捨てたシノペの船主の子が、ローマの教会に大金を寄付して、追放された。「旧約の神は、正義で残酷。イエスの神は、愛。別の神」。ルカ福音書とパウロの10通を削って、自分の聖書を作った。教会はそれに答えて、自分の正典を決め始めた。彼の教会は300年続いた。ローマ
- テルトゥリアヌス人物AD155年頃 – AD220年頃ラテン語で書いた最初の教父カルタゴの法律家で、ラテン語で書いた最初のキリスト教著述家。「アテナイがエルサレムと何の関わりがあるか」と哲学を退け、「不合理ゆえに信ず」と言ったとされる。晩年は厳格なモンタノス派に移り、正統からは外れた。
- ユスティノスの殉教できごとAD165年哲学者の外套のままサマリア生まれの哲学者が、キリスト教を「真の哲学」として皇帝に弁明書を送り、ローマで学校を開いた。「私は哲学者の外套を着たまま、キリスト者になった」。哲学者クレスケンスに密告され、6人の弟子と斬られた。ローマ
- モンタノス派できごとAD170年頃預言は終わったフリギアの男が「私は聖霊」と言い、二人の女預言者プリスキラとマクシミラが続いた。終末は近い、ペプザに新しいエルサレムが降る。断食、殉教、女の預言。テルトゥリアヌスが入った。教会は「預言は終わった」と決めた。それで教会は教会になった。ペプザ

- エイレナイオス『異端反駁』できごとAD180年頃福音書は四つリヨンの司教が、グノーシス派を5巻で論駁した。「福音書は四つ。風が四方から吹くように」。使徒からの継承と、信仰の規準。正典と正統と司教という、教会の三つの柱を最初に組んだ人。ポリュカルポスの弟子で、ヨハネの孫弟子。ルグドゥヌム(リヨン)

- オリゲネス人物AD185年頃 – AD253年頃死後300年で異端にされた父が殉教した17歳で、アレクサンドリアの教理学校を継いだ。自分で去勢したと伝わる。旧約の六つの本文を並べた『ヘクサプラ』、体系的神学の最初『諸原理について』。デキウスの迫害で拷問され、その傷で死んだ。死後300年で異端にされた。
- テルトゥリアヌス『護教論』できごとAD197年殉教者の血は種であるカルタゴの法律家が、ラテン語でキリスト教を弁護した。「殉教者の血は種である」の言葉はここから。三位一体という語を最初に使った人でもある。晩年は正統の教会から離れた。カルタゴ
- プロティノス人物AD204年頃 – AD270年アウグスティヌスが読んだエジプトで学び、ペルシアの哲学を知ろうと遠征軍に加わり、ローマで教えた。肉体を恥じて誕生日を祝わず、肖像を残させなかった。
- オリゲネス『諸原理について』できごとAD230年頃体系としての神学の最初キリスト教の神学を体系として書いた最初の本。神、世界、自由意志、聖書の読み方。すべての魂は最後に神に帰る、と書いた。その部分が300年後に異端にされ、本はラテン語訳でしか残っていない。アレクサンドリア
- デキウスの迫害できごとAD250年教会が割れた帝国中の住民に神々への犠牲を命じ、証明書(リベルス)を持たせた。エジプトからその証明書が何十枚も出土している。従った信徒と逃げた信徒をどう扱うかで、教会が割れた。ローマ

- ティリダテス3世人物AD250年頃 – AD330年頃猪に変えられた王父がペルシアの手で殺され、ローマで育ち、ローマの兵で王位に戻った。父を殺した男の息子グレゴリオスを13年穴に入れ、狂気にかかり、その男に癒されて洗礼を受けた。伝説では猪に変えられた。アルメニアの最初のキリスト教徒の王。
- 啓蒙者グレゴリオス人物AD257年頃 – AD331年頃13年穴の中父はアルメニア王を暗殺したパルティア人。カッパドキアで洗礼を受けて育ち、王に仕え、王を癒し、王と国を改宗させ、エチミアジンに大聖堂を建てた。「啓蒙者」。息子と孫が総主教を継ぎ、右手の遺骨で新しい総主教が祝別される。
- 砂漠の修道制の始まりできごとAD270年頃修道院という制度がここから生まれるエジプトの若者が財産を配り、砂漠へ入った。アントニオスの伝記が広まり、修道院という制度がここから生まれる。アレクサンドリア
- アルメニアのキリスト教国教化できごとAD301年(伝承)国としては最初王ティリダテスが13年獄に入れた男に癒され、洗礼を受けた。国としてキリスト教を採った最初。ローマの12年前。アルメニアはそれから、ペルシアともローマとも別の教会を持ち、自分の文字を作り、1700年その信仰で残った。エチミアジン
- ディオクレティアヌスの大迫害できごとAD303年2月23日それが終わって10年で皇帝が改宗する教会を壊し、聖書を焼き、聖職者を投獄し、翌年、全員に犠牲を命じた。10年続き、東方で厳しかった。最後で最大の迫害。それが終わって10年で、皇帝がキリスト教徒になる。ニコメディア

- ミルウィウス橋の戦いできごとAD312年10月28日キリスト教の皇帝の始まりコンスタンティヌスがローマの北の橋でマクセンティウスを破った。前夜、空にしるしを見て、兵の盾にキリストの印を描かせたと伝わる。マクセンティウスはテヴェレに落ちて溺れた。翌年、ミラノ勅令。キリスト教の皇帝の始まり。ローマ

- ミラノ勅令できごとAD313年キリスト教を含むすべての信仰を認めた。300年続いた迫害が終わる。メディオラヌム

- 休む日を決めるできごとAD321年3月7日宗教の慣わしが、国の休みとして法に書かれたキリスト教徒は日曜に集まって礼拝していた。321年、コンスタンティヌス帝は、都市の裁判所と工房をこの日に休ませる布告を出す。文面は「太陽の尊ぶべき日」と書かれており、キリスト教とも、太陽神の信仰とも読める言い方になっていた。農作業は例外とされた。宗教の慣わしが、国の休みとして法に書かれたのはこれが早い例になる。以後、休日は信仰の側の理由と、働かせる側の都合とで、何度も引き直されていく。週に一度必ず休む、という形はここから広がった。ローマ
- ニケーア公会議できごとAD325年皇帝が招集し、教義の統一が図られた。信仰の内容を国家が決める前例になる。ニカイア

- アクスムのキリスト教化できごとAD330年頃ローマとほぼ同時。ローマの都合だけで広がったのではないローマとほぼ同時期に国教とした。エチオピア教会は以後1700年続き、いまも生きている。アクスム
- バシレイオス(カイサリアの)人物AD330年頃 – AD379年1月1日病院と貧民の街カッパドキアの富裕な家に生まれ、アテナイでナジアンゾスのグレゴリオスと学び、財産を貧者に分け、修道の規則を書き、司教になった。飢饉の年に炊き出しをし、病院と孤児院と貧民の街「バシレイアス」を建てた。皇帝の脅しに「私は炎と剣しか恐れない」。
- ユリアヌス人物AD331年 – AD363年6月26日一族を殺されて育った皇族の学者が、皇帝になって古い神々を戻そうとした。2年でペルシアの戦場に死ぬ。「背教者」の名は勝った側が付けた。
- コンスタンティヌスの洗礼と死できごとAD337年5月22日13人目の使徒としてキリスト教を公認した皇帝は、死の床で初めて洗礼を受けた。アリウス派の司教から。白い衣で死に、自分が建てた都の使徒教会に、12使徒の棺に囲まれて葬られた。13人目の使徒として。息子三人が帝国を分け、親族を殺し合った。ニコメディア
- アンブロシウス人物AD339年頃 – AD397年4月4日皇帝を聖堂の外に立たせた属州総督としてミラノの司教選挙を鎮めに行き、群衆に「アンブロシウスを司教に」と叫ばれて、洗礼も受けていないのに司教になった。皇帝を聖堂の外に立たせ、賛美歌を作り、アウグスティヌスに洗礼を授けた。
- テオドシウス1世人物AD347年1月11日 – AD395年1月17日キリスト教を国教にヒスパニアの将軍の子。ゴートと講和して帝国の中に住まわせ、キリスト教を国教にし、異教の神殿を閉じ、オリンピアの競技を終わらせた。死ぬとき帝国を二人の息子に分け、それきり一つに戻らなかった。
- ヒエロニムス人物AD347年頃 – AD420年9月30日ヘブライの真理に戻ったダルマティア生まれ。ローマで学び、砂漠で修行し、ヘブライ語を学び、ローマの貴婦人たちに聖書を教え、噂で追われてベツレヘムに移った。ラテン語聖書を訳し、論争で誰とでも喧嘩した。絵では獅子と髑髏と一緒に描かれる。
- ウルフィラのゴート語聖書できごとAD350年頃列王記は訳さなかったゴート人の司教が、ギリシア文字を元に文字を作り、聖書を訳した。「列王記」は好戦的な民には毒だと訳さなかった。ゴート人はこれでアリウス派になり、ローマの正統と一世紀半ずれたまま帝国に入ってくる。ニコポリス・アド・イストルム(位置は特定されていない)
- アウグスティヌス人物AD354年11月13日 – AD430年8月28日北アフリカの司教。ローマが略奪された衝撃に答えて『神の国』を書き、中世の思考の枠を作った。
- エザナ王人物? – AD360年頃アクスムをキリスト教国にした。ローマとほぼ同時期の改宗で、エチオピア教会はいまも続く。
- ユリアヌスの異教復興できごとAD361年以後の皇帝は全員キリスト教徒になるキリスト教徒として育てられた皇帝が、即位すると古い神々の祭祀を戻した。2年後にペルシア遠征で死に、以後の皇帝は全員キリスト教徒になる。コンスタンティノープル
- カッパドキア教父できごとAD370年頃三位一体の言葉を定めたバシレイオス、弟のニュッサのグレゴリオス、友人のナジアンゾスのグレゴリオス。三人がニカイアの「同一本質」をアリウス派から守り、三位一体の言葉を定めた。バシレイオスは病院と貧民の街を建て、東方の修道の規則を書いた。カイサリア(カッパドキア)
- キリスト教の国教化できごとAD380年テオドシウス帝がニケーア信条を国家の信仰と定めた。他の祭祀は禁じられていく。
- パトリキウス(聖パトリック)人物AD385年頃 – AD461年頃さらわれた少年が司教になって戻ったブリタニアの助祭の子で、16歳で海賊にさらわれ、アイルランドで6年羊を飼った。夢で船を見て逃げ、司教になって戻った。『告白』を自分で書き、「私は最も無学な者」と繰り返す。三つ葉のクローバーで三位一体を教えた話は後世のもの。
- ネストリウス人物AD386年頃 – AD451年頃神の母か、キリストの母かアンティオキアの修道士からコンスタンティノープル総主教になり、マリアは「神の母」ではなく「キリストの母」だと説いて断罪された。エジプトの砂漠に流されて死んだ。自分では正統だと最後まで言い、その派はペルシアから中国まで広がった。
- アウグスティヌスの回心できごとAD386年8月取って読めミラノの庭で泣いていた修辞学の教師が、隣の家の子の「取って読め」という声を聞き、パウロの手紙を開いた。「酒宴と酩酊、淫乱と好色をやめ」。母モニカに告げた。翌年の復活祭にアンブロシウスから洗礼。『告白』の第8巻。ミラノ
- テオドシウスの謝罪できごとAD390年教会が皇帝を裁いた最初テッサロニキで暴動の報復に7000人を殺した皇帝を、ミラノ司教アンブロシウスが聖堂に入れなかった。皇帝は帝衣を脱いで公の場で悔い改めた。教会が皇帝を裁いた最初になる。ミラノ
- 東ローマ帝国国AD395年(テオドシウスの死による東西分割) – AD1453年(コンスタンティノープル陥落)西が消えたあとも1000年続いた、ローマの東半分。自分たちはずっとローマ人と名乗っていた。版図は縮みつづけ、最後は城壁の内側だけになる。
- ヒエロニムスのウルガタできごとAD405年1000年、西方の聖書はこれ一つベツレヘムの洞窟で20年、ヘブライ語から直接ラテン語に聖書を訳した。ギリシア語訳から重ねて訳す習慣を捨て、「ヘブライの真理」に戻った。以後1000年、西方の聖書はこれ一つだった。ベツレヘム
- 『神の国』できごと413年ローマが略奪されたのはキリスト教のせいだ、という非難に答えて書かれた。地上の国と神の国を分ける。ヒッポ・レギウス

- 西ゴート王国国AD418年(アクィタニアへの定住) – AD711年(グアダレーテの戦い)アリウス派からカトリックへ改宗したローマを略奪した部族が、そのローマから土地をもらってガリアに落ち着いた。フランクに追われてイベリアへ移り、300年治める。711年、イスラム軍に一戦で倒れた。
- エフェソス公会議できごとAD431年ネストリウス派は東へ逃げたマリアを「神の母」と呼ぶかで争い、アレクサンドリアのキュリロスが、相手のネストリウスが着く前に会議を開いて断罪した。ネストリウス派は東へ逃げ、ペルシアを経て唐まで届く。景教。エフェソス
- パトリキウスのアイルランド布教できごとAD432年(伝承)ローマの軍なしでキリスト教に16歳でアイルランドの海賊にさらわれて奴隷になったブリタニアの少年が、逃げ帰り、司教になって戻った。ローマの外の島が、ローマの軍なしでキリスト教になった。アーマー
- カルケドン公会議できごとAD451年ここで分かれた教会がいまも別々に続いているキリストの神性と人性をどう言うかを決めた。これを受け入れなかったエジプトとシリアの教会が分かれ、いまも別々に続いている。カルケドン

- クローヴィス1世人物AD466年頃 – AD511年フランクをまとめ、カトリックを選んだ。西ヨーロッパの王権と教会が結びつく起点になる。
- ボエティウス人物AD480年頃 – AD524年哲学の慰めローマの貴族。執政官。テオドリックの下で「官職の長」。アリストテレスの論理学をラテン語に訳した。中世が知るアリストテレスは、彼の訳だけ。反逆の疑いでパヴィアの獄。『哲学の慰め』。棍棒で殺された。「最後のローマ人、最初のスコラ学者」。
- クローヴィスの改宗できごとAD496年頃(508年説もある)政治的な選択としての洗礼フランク王がカトリックを選んだ。ほかのゲルマン諸王が異端とされる宗派を採った中で、これが後々効いてくる。ランス
- コルンバ人物AD521年12月7日 – AD597年6月9日写本の争いが戦争になったアイルランドの王族に生まれた僧。写本の所有をめぐる争いが戦争になり、その償いに故郷を出て、アイオナに修道院を建てたと伝わる。ピクト人の王を改宗させ、ネス湖の怪物を退けたと伝記にある。
- ボエティウス『哲学の慰め』できごとAD524年死刑を待つ牢で書いた。運命の車輪は回り、本当の幸福は失われないものの中にある、と。中世を通じて最もよく読まれた本の一冊になる。パヴィア

- ベネディクトの戒律できごとAD529年頃写本を通じて古代の書物が生き延びる器になった後世「祈り、かつ働け」とまとめられる、修道院という暮らし方の設計図になり、写本を通じて古代の書物が生き延びる器にもなった。モンテ・カッシーノ

- グレゴリウス1世人物AD540年頃 – AD604年3月12日神の僕たちの僕ローマの市長官から修道士になり、疫病の年に教皇に選ばれた。ランゴバルドと自分で交渉し、教会の領地で飢えたローマを養い、イングランドに宣教師を送った。「神の僕たちの僕」と自分を呼んだ最初の教皇。聖歌にその名がついた。
- コルンバヌス人物AD543年 – AD615年11月23日私はヨーロッパ人レンスターの生まれ。バンゴール。50歳で「巡礼」。ブルグント。リュクスイユ。王の妾の子を祝福せず、追われた。ライン、ボーデン湖、アルプス、ボッビオ。『修道規則』『懺悔規定』。「私はヨーロッパ人」と教皇への手紙に書いた最初の人と言われる。
- コルンバのアイオナ修道院できごとAD563年ケルズの書の島アイルランドの王族の僧が、12人と小舟でスコットランドの小島に渡り、修道院を建てた。ピクト人を改宗させ、ここからノーサンブリアへ布教が延びる。『ケルズの書』はこの島で書かれ始めたとされる。アイオナ島
- 西ゴートのカトリック改宗できごとAD589年トレドの教会会議王レカレドが第三回トレド教会会議でアリウス派を捨てた。ゴートの支配層と、ローマ系の住民の宗教が一つになる。250年ずれていた信仰が揃い、以後、トレドの教会会議が国を動かす。トレド
- グレゴリウス1世の即位できごとAD590年教皇が都市の統治者になった始まり疫病のさなかに、修道士だった貴族が教皇になった。ロンバルドと交渉し、穀物を配り、イングランドへ宣教師を送る。教皇が都市の統治者になった始まりで、聖歌に名が残る。ローマ
- アウグスティヌスのケント布教できごとAD597年カンタベリーの始まりグレゴリウス1世が送った40人の修道士が、ケント王エゼルベルトを改宗させた。王妃はすでにフランクのキリスト教徒だった。カンタベリーに司教座が置かれ、いまもイングランド国教会の首座になる。カンタベリー
- コルンバヌスのボッビオできごとAD614年12人と大陸へアイルランドの修道士が12人と大陸へ。リュクスイユ、ブレゲンツ、ボッビオ。王を叱り、教皇に手紙を書き、アイルランドの復活祭を守った。厳しい戒律。彼の弟子が100の修道院を作り、ボッビオは中世で最も本の多い図書館になった。『薔薇の名前』のモデルの一つとも言われる。ボッビオ
- ウィットビー教会会議できごとAD664年イングランドはローマの側についたノーサンブリア王が、復活祭の日付をアイルランド式にするかローマ式にするかを決めた。ローマ式。「天国の鍵はペテロが持っている」という一言で。アイオナから来た僧は島へ帰り、イングランドはローマの側についた。ウィットビー
- ベーダ人物AD672年 – AD735年5月26日尊者7歳で修道院に預けられ、60年、ジャロウで暮らした。『教会史』。「時の計算について」。復活祭の日を計算するために、暦と天文を書いた。「尊者」。ダンテが天国に置いた唯一のイングランド人。
- 第一次ブルガリア帝国国AD681年(ビザンツとの条約) – AD1018年(バシレイオス2世による併合)キリル文字を育てた草原から来たブルガールがスラヴ人の上に建て、ビザンツから改宗し、キリル文字を育てた。シメオンはコンスタンティノープルを脅かし、バシレイオス2世に滅ぼされる。
- カール・マルテル人物AD688年頃 – AD741年アラブ軍を止めた鉄槌宮宰の庶子で、獄から逃げてフランクを取った。トゥールとポワティエの間でアラブ軍を止め、「鉄槌」と呼ばれた。教会の土地を家臣に配って騎兵を養った。王ではなかったが、その子が王になり、孫がカール大帝。
- 岩のドームできごとAD691年ビザンツの職人がアブドゥルマリクが、アブラハムがイサクを捧げ、ムハンマドが天に昇った岩の上に建てた。八角形、金のドーム、240メートルの碑文。「神は子を持たない」。最初のイスラームの建築。ビザンツの職人が作った。メッカがイブン・アッズバイルに取られていた年。エルサレム
- ピピン3世(小ピピン)人物AD714年 – AD768年教皇領の始まり宮宰として、教皇に「力のない王と力のある者、どちらが王であるべきか」と問い、答えを得て、最後のメロヴィング王を修道院に送った。イタリアに二度遠征してランゴバルドから土地を取り、教皇に寄進した。
- リンディスファーンの福音書できごとAD715年頃ケルトの渦巻きとゲルマンの組紐とローマの文字が一つの写本になった。一人の修道士が数年かけて書き、その名が奥書に残っている。リンディスファーン

- 聖像破壊論争できごと726年像を拝むのは偶像崇拝かをめぐって100年争った。西方教会との溝が深まり、1054年の分裂につながる。コンスタンティノープル
- ベーダ『イングランド教会史』できごとAD731年アングル人の教会史ノーサンブリアの修道士が、ローマの来襲からその年まで、5巻。「アングル人の教会史」。イングランドが一つの民だと最初に書いた本。年をキリスト生誕から数えた。「AD」が広まったのは彼から。生涯のほとんどを修道院で過ごした。死ぬ日までヨハネ福音書を訳していた。ジャロウ

- カール大帝人物AD748年頃 – AD814年西ヨーロッパの大半をまとめ、教皇から皇帝の冠を受けた。古典の写本を集めさせ、学問を復興させる。
- ピピンの寄進できごとAD756年教会が領主になったフランク王がランゴバルドから奪った土地を教皇に渡した。教皇領が生まれ、教会が領主になる。ローマ

- ランゴバルド王国の滅亡できごとAD774年教皇の求めでカールが教皇の求めでアルプスを越え、パヴィアを9か月囲んで王デシデリウスを修道院に送った。「ランゴバルドの王」を兼ねた。妃はデシデリウスの娘だった。離縁していた。200年の王国が終わり、フランクがイタリアに入り、教皇領の形が決まった。パヴィア
- 十分の一税できごとAD779年国家より先に、教会が全国の徴収網を持っていた収穫の十分の一を神に納めるという習わしは、聖書に根がある。長く自発的な献納だったものを、779年、カール大帝が王国の法として義務づけた。教会は徴収の権利を得て、穀物を納める大きな納屋を各地に建てる。取り立ては厳しく、麦の束を数えて十束目に印を付けた。中世を通じて、農民にとって領主への年貢と並ぶ重い負担であり、一揆や宗教改革のたびに槍玉に挙がった。国家が税を集める仕組みを持つ前に、教会が全国規模の徴収網を持っていたことになる。ヘルスタル
- アーヘンの宮廷学校できごとAD782年小文字の書体カール大帝がヨークからアルクィンを招き、宮廷に学校を置いた。古典の写本が集められ、読みやすい小文字の書体が作られた。いまのローマ字の小文字は、この書体から来ている。アーヘン
- ヴェルデンの虐殺できごとAD782年洗礼か死刑かザクセン戦争の10年目。ヴィドゥキントの反乱でフランク軍が全滅したあと、カールはアラー川の岸でザクセン人4500人を一日で斬った、と『フランク王国年代記』は書く。「洗礼を受けなければ死刑」。30年の戦争。ナチスがヴィドゥキントを英雄にし、この場所に記念の石を並べた。ヴェルデン
- コルドバの大モスクできごとAD785年(着工)西ゴートの教会の跡に建てはじめ、200年かけて広げた。レコンキスタのあと、その真ん中に大聖堂が建て込まれる。コルドバ
- グレゴリオ聖歌の成立できごとAD800年頃鳩が耳に囁いたという絵名はグレゴリウス1世(在位590〜604)に由来するが、彼が作ったのではない。カロリング朝が、フランク王国の礼拝をローマ式に統一しようとして、ローマの聖歌とガリアの聖歌が混ざり、9世紀に一つの体系になった。「聖霊が鳩の姿で教皇の耳に囁いた」という絵が、権威づけのために描かれた。単旋律、無伴奏、ラテン語、拍節がない。この膨大な旋律を覚えるために、記譜法が生まれた。パリ
- メトディオス人物AD815年 – AD885年4月6日スラヴ語の典礼テッサロニキの官吏の子。弟キュリロスと大モラヴィアへ。スラヴ語の典礼。ドイツの司教に3年幽閉された。教皇が救い、モラヴィアの大司教に。聖書をスラヴ語に訳し終えて死んだ。弟子はブルガリアへ追われ、そこでキリル文字を作った。
- キュリロス人物AD827年頃 – AD869年2月14日兄メトディオスとスラヴ人に伝道し、そのために文字を作った。キリル文字に名が残る。
- 大モラヴィア国国AD833年 – AD907年頃(マジャール人による崩壊)キュリロスとメトディオスを招いた西スラヴ人の最初の国。フランクとビザンツの間で揺れ、キュリロスとメトディオスを招いてスラヴ語の典礼を得た。マジャール人に潰されて100年に満たずに消える。
- 大モラヴィア国できごとAD833年スラヴ語の文字はここから始まった西スラヴ人の最初の国。フランクとビザンツの間で揺れ、ビザンツからキュリロスとメトディオスを招いた。マジャール人に潰されて消える。モラヴィア(位置は特定されていない)

- スラヴ語への伝道できごとAD863年訳すために文字を作った聖書をスラヴの言葉に訳すために、新しい文字が作られた。のちのキリル文字の元になる。モラヴィア(位置は特定されていない)
- ブルガリアの改宗できごとAD864年ローマとコンスタンティノープルを天秤にかけたボリス1世がビザンツから洗礼を受け、ローマとコンスタンティノープルを天秤にかけて自前の教会を得た。スラヴ語の典礼がここで育つ。プリスカ

- キエフ・ルーシ国AD882年(オレグのキエフ占領) – AD1240年(モンゴルによるキエフ陥落)988年にビザンツから受け入れたヴァリャーグ(北欧人)が水運を握り、スラヴの地に諸公国のゆるい連合ができた。988年にビザンツからキリスト教を受け入れる。ロシア・ウクライナ・ベラルーシがそろって自分の起点と見なしている。
- ボリス1世人物? – AD907年教皇に106の質問を送ったビザンツから洗礼を受け、ローマと交渉して自前の大主教を得た。キュリロスの弟子を受け入れ、スラヴ語の典礼を育てる。退位して修道院に入り、反乱した息子の目を潰した。
- ファーティマ朝国AD909年(イフリーキヤでの成立) – AD1171年(サラーフッディーンによる廃止)シーア派のカリフを名乗り、バグダードのカリフと並び立った。カイロを建て、アズハルを開く。地中海とインド洋の交易をつなぐ位置にあった。
- クリュニー修道院の創立できごとAD910年領主ではなく教皇に直属する修道院として作られた。ここから教会を世俗の手から取り戻す運動が広がる。クリュニー
- ミェシュコ1世人物AD930年頃 – AD992年自分から入って教会の独立を保ったピャスト家の最初の記録に残る君主。966年に洗礼を受け、ドイツの皇帝と戦ったり従ったりしながら、国をまとめた。死ぬ前に国を教皇に献じた文書が伝わる。
- オットー1世の戴冠できごとAD962年2月2日教皇から帝冠を受けた。のちに神聖ローマ帝国と呼ばれる枠組みが、ここから800年以上続く。ローマ
- イェリングのルーン石碑できごとAD965年頃デンマーク人をキリスト教徒にしたデンマーク王ハーラル青歯王が、両親のために立てた石に「デンマーク人をキリスト教徒にした」と刻んだ。「デンマーク」という国の名が刻まれた最初。ブルートゥースの名とロゴは、この王の名とルーン文字から取った。イェリング
- ポーランドの受洗できごとAD966年ポーランドの最初の年ピャスト家のミェシュコがボヘミアの王女を娶り、洗礼を受けた。ドイツからの宣教を待たず、自分から入ることで教会の独立を保つ。ポーランドの歴史の最初の年になる。グニェズノ

- ポーランド王国国AD966年(ミェシュコ1世の受洗) – AD1569年(ルブリン合同)966年の受洗から始まるピャスト家が966年にキリスト教を受け入れて始まった。分裂と再統一を繰り返し、ヤギェウォ家の下でリトアニアと結んで、ヨーロッパ最大級の国になる。
- イシュトヴァーン1世人物AD975年頃 – AD1038年8月15日ハンガリーの聖王異教の首長の子として生まれ、洗礼を受け、教皇から王冠を受けた。異教に戻ろうとした親族を退け、司教区と県を置いた。死後、聖人になる。その右手がいまも祀られている。
- キエフ・ルーシの改宗できごとAD988年東方正教を選んだことで、この地域はビザンツの文化圏に入った。ロシア・ウクライナ双方が起源とする。キーウ

- 神の平和できごとAD989年教会が騎士の暴力を縛る10世紀の末、王の力が衰えたフランスでは、城を構えた騎士たちが互いに争い、教会や農民の家畜を奪った。989年、フランス西部のシャルーの修道院に司教たちが集まり、教会を襲う者、農民や貧しい者から家畜を奪う者、武器を持たない聖職者を打つ者を、教会から締め出すと宣言した。聖人の遺物が野に運び出され、大勢の民衆の前で騎士たちが誓わされた。11世紀には、決まった曜日や祭りの季節には戦ってはならないという「神の休戦」が加わる。戦いそのものをなくすのではなく、戦ってよい相手と時を限る試みだった。シャルー
- オーラフ2世(聖オーラフ)人物AD995年頃 – AD1030年7月29日ノルウェーの永遠の王ヴァイキングとして育ち、ノルウェーを取って、力で改宗させた。クヌートに追われて逃げ、戻ってスティクレスタで農民に殺された。1年後に棺を開けたら髪と爪が伸びていたとされ、聖人になった。ノルウェーの永遠の王。
- イシュトヴァーン1世の戴冠できごとAD1000年(1001年説あり)教皇から冠を受けたマジャール人の首長が、教皇から王冠を受けてキリスト教の王になった。異教の親族を退け、司教区を置き、県を作る。ハンガリーという国がここから数えられる。エステルゴム
- アイスランドのキリスト教受容できごとAD1000年戦争なしで宗教が変わったアルシングで異教徒とキリスト教徒が別々の法を持つと言い出し、法の語り手ソルゲイルが一日一晩、外套をかぶって考えて、「一つの法、一つの信仰」と告げた。キリスト教。ただし馬肉を食べることと子捨てと、隠れて神々に供えることは許す。戦争なしで宗教が変わった。シングヴェトリル

- ハンガリー王国国AD1000年(イシュトヴァーン1世の戴冠) – AD1541年(ブダ陥落。オスマンとハプスブルクに分割される)教皇から王冠を受けた草原から来たマジャール人が、キリスト教の王国になった。教皇から王冠を受け、モンゴルに一度潰され、オスマンにモハーチで敗れる。言葉は変えなかった。
- 東西教会の分裂できごとAD1054年ローマとコンスタンティノープルが互いを破門した。ヨーロッパが二つの信仰圏に分かれる。コンスタンティノープル
- アレクシオス1世コムネノス人物AD1057年 – AD1118年8月15日十字軍を通したマンジケルトから10年、帝国は崩れかけていた。1081年、24歳で帝位を取った。ノルマンにデュラキオンで負け、ペチェネグに負け、レヴニオンで勝ち、十字軍を通し、ニカイアを取り戻した。37年。娘アンナが『アレクシアス』を書いた。コムネノス朝100年の始まり。
- カノッサの屈辱できごとAD1077年皇帝が雪のなか三日間立ち、教皇に赦しを乞うた。世俗の権力と教会の力関係を示す場面として残る。カノッサ

- レヴニオンの戦いできごとAD1091年4月29日4年後に十字軍ペチェネグがトラキアを荒らし、コンスタンティノープルに迫った。アレクシオス1世は敵の草原の民クマンを雇い、一日で潰した。「一つの民が、一日で消えた」。20年、負け続けたビザンツの最初の勝ち。4年後、アレクシオスは教皇に兵を頼み、十字軍が来た。レヴニオン

- 十字軍の呼びかけできごとAD1095年教皇が聖地の回復を呼びかけた。以後200年、ヨーロッパと西アジアが繰り返しぶつかる。クレルモン

- ヒルデガルト・フォン・ビンゲン人物AD1098年 – AD1179年9月17日修道院長・作曲家・薬草学者。幻視を書き記し、教皇に認められた。女性が公に神学を語れた稀な例。
- シトー会の創設できごとAD1098年3月21日戒律を字の通りに自ら建てたモレーム修道院がゆるんだと、院長ロベールが21人と沼地へ。「戒律を、字の通りに」。白い衣。飾りのない教会。自分で耕す。「祈りと労働」。14年後にベルナールが30人を連れて来て、50年で350の修道院。ヨーロッパの荒地を開き、羊毛と鉄で富んだ。シトー
- 第1回十字軍のエルサレム占領できごとAD1099年7月15日住民が大量に殺された。この記憶が双方に残る住民が大量に殺された。この記憶が、以後900年にわたって双方の側で引かれることになる。エルサレム

- エルサレム王国国AD1099年(エルサレム占領) – AD1291年(アッコン陥落)ヨーロッパの封建制を海の向こうに持ち込んだ第一回十字軍が建てた。ヨーロッパの封建制をそのまま持ち込み、200年海の向こうにあった。ヒッティーンのあとは沿岸の帯だけになり、アッコンの陥落で消える。
- 『ロランの歌』できごとAD1100年頃異教徒は間違っていて778年、シャルルマーニュの後衛がピレネーのロンスヴォーでバスク人に襲われて全滅した。300年後、それがサラセン人との戦いになって、4002行の歌になった。ロラン、オリヴィエ、大司教テュルパン、裏切り者ガヌロン、角笛オリファン、剣デュランダル。「異教徒は間違っていて、キリスト教徒は正しい」。武勲詩の最初で最高。ヘイスティングズの前に、ノルマンの吟遊詩人が歌った、と伝える。オックスフォードの写本。ロンスヴォー

- エンリコ・ダンドロ人物AD1107年頃 – AD1205年第四回十字軍を帝都へ向けさせた90歳を過ぎた盲目のドージェが、第四回十字軍の船賃を払えない騎士たちをコンスタンティノープルへ向けさせた。帝都の略奪で、ヴェネツィアは海の帝国になる。
- アベラールとエロイーズできごとAD1117年頃去勢パリで最も人気の哲学教師が、参事会員の姪の家庭教師になり、子を作り、秘密に結婚した。叔父が人を雇って教師を去勢させた。彼は修道士に、彼女は修道女に。20年後の手紙。「妻より愛人と呼ばれたい」。二人はペール・ラシェーズに一緒にいる。ノートルダム
- トマス・ベケット人物AD1119年頃 – AD1170年12月29日3年で聖人になったロンドンの商人の子で、王の大法官として親友だった。大司教にされると教会の側に立ち、王と争い、6年フランスに逃げ、帰って4週間後に大聖堂で殺された。3年で聖人になり、墓は宗教改革まで巡礼の目的地だった。
- ヴォルムス協約できごとAD1122年司教を誰が任命するかをめぐる50年の争いが妥協で終わった。教会と世俗の権力が分かれていく。ヴォルムス

- ヒルデガルトの『スキヴィアス』できごと1141年修道女が幻視を書き記し、教皇に認められた。女性が公に神学を語れた、この時代では稀な例。ビンゲン
- カトワーンの戦いできごとAD1141年9月プレスター・ジョン遼の王族耶律大石が西へ逃げて建てた西遼(カラ・キタイ)が、サマルカンドの北でセルジューク朝のサンジャルを破った。イスラームの軍が東の異教徒に負けた。ヨーロッパに「東方のキリスト教の王が来る」と伝わり、プレスター・ジョンの伝説になった。カトワーン
- エデッサ伯領の陥落できごとAD1144年12月24日第2回十字軍を呼んだ知らせ十字軍が最初に建てた国が、ザンギーに奪われた。イスラーム側にとっては反撃の始まりで、ヨーロッパ側にとっては第2回十字軍を呼ぶ知らせになる。エデッサ
- ラリベラ人物AD1162年頃 – AD1221年頃行けなくなったエルサレムを、岩を掘って作った岩を上から掘り下げて11の教会を作らせた。エルサレムへ行けなくなった巡礼のために、こちらにエルサレムを作るという考えだったと伝わる。
- トマス・ベケットの殺害できごとAD1170年12月29日大聖堂で斬られた大司教王が「誰かこの厄介な司祭を片づけてくれぬのか」と漏らし、四人の騎士が大聖堂で大司教を斬った。王は裸足で墓に詣でて鞭を受けた。墓はチョーサーの巡礼の目的地になる。カンタベリー

- ドミニコ人物AD1170年 – AD1221年8月6日撒けば実るカスティーリャのカレルエガ。パレンシアで学び、飢饉のとき本を売って貧民に与えた。オスマの参事会員。1203〜06年、司教と共にデンマークへ使いして、トゥールーズの宿で、カタリ派の宿主と一晩議論して改宗させた。ラングドックに残った。プルイユに改宗した女の修道院(1206年)。アルビジョワ十字軍の中で、剣でなく説教で。1215年、トゥールーズで6人と。1216年、認可。1217年、弟子を散らした(「穀物は蓄えれば腐り、撒けば実る」)。パリ、ボローニャ、ローマ。ボローニャで死んだ。ロザリオを作ったという伝承。
- アイユーブ朝国AD1171年 – AD1250年(マムルークによる交代)エルサレムを取り戻した側サラーフッディーン(サラディン)が建てた。エジプトとシリアを一つにし、1187年にエルサレムを取り戻す。十字軍の側からも敵として敬われた、数少ない人物になる。
- アッシジのフランチェスコ人物AD1181年 – AD1226年10月3日太陽の讃歌布商人ピエトロの子。若い頃は宴と歌。捕虜と病気。サン・ダミアーノの十字架が「私の教会を直せ」。父の服を脱いだ。ハンセン病者に口づけした。鳥。狼。スルタンに会いに行った。「太陽の讃歌」。手足に傷が出た。44歳。2年後に聖人。
- ヒッティーンの戦いできごとAD1187年7月4日3か月後にエルサレムが開城する水の無い丘に十字軍の主力を誘い込み、一日で壊滅させた。3か月後、エルサレムが開城する。ヒッティーン

- シャルトル大聖堂できごとAD1194年聖母の衣6月の火事で街と聖堂が焼け、聖母の衣が地下室から無事に出てきた。「聖母が建て直せと」。26年で建った。飛び梁、ステンドグラス176枚、青。ゴシックの完成形。二つの塔は形が違う。北は300年後に建った。シャルトル
- ラリベラの岩窟教会できごとAD1200年頃岩山を上から掘り下げて造った11の教会。十字軍で聖地へ行けなくなった代わりの巡礼地とされる。ラリベラ

- ノートルダム楽派できごとAD1200年頃聖歌の上に声を重ねる建設中のノートルダム大聖堂で、レオニヌスとペロティヌスが、聖歌の上に別の声部を重ねた。オルガヌム。下の声部が一つの音を長く伸ばし、その上で新しい旋律が動く。声部は2つ、やがて3つ4つ。同時に鳴る音の関係を書き分ける必要から、音の長さを表す記譜法(モーダル記譜)が生まれた。西洋音楽が、時間を刻んで書けるものになった。石の建築と、音の建築が、同じ場所で同時に立ち上がった。パリ
- 第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪できごとAD1204年同じ信仰の側が都を略奪した聖地へ向かうはずの十字軍が、同じキリスト教の都を略奪した。ビザンツはこれ以後立ち直れない。コンスタンティノープル
- 第四回十字軍できごとAD1204年4月12日聖ソフィアに娼婦エジプトへ行くはずが、ヴェネツィアへの船賃を払えず、ザラを落とし、ビザンツの亡命皇子に雇われ、コンスタンティノープルを3日略奪した。聖ソフィアに娼婦を座らせた。四頭の馬はヴェネツィアへ。ラテン帝国57年。ビザンツは1261年に戻ったが、二度と大きくならなかった。コンスタンティノープル

- アルビジョア十字軍できごとAD1209年7月22日神が選り分ける南フランスのカタリ派に対して、教皇が十字軍を呼んだ。ベジエ。「全員殺せ。神が自分の者を選り分ける」。2万人。北の騎士が南の土地を取った。20年。トゥールーズは王のものになり、オック語の文化は終わり、異端審問が制度になった。ベジエ

- フランチェスコ会の認可できごとAD1209年父の服を脱いだ布商人の息子が父の前で服を脱いで捨て、「私の父は天の父だけ」。何も持たず、乞食をし、鳥に説教した。11人でローマへ。インノケンティウス3世が口頭で認めた。10年で5000人。金を持たない修道会が、中世で最も金の集まる修道会になった。アッシジ
- 少年十字軍できごとAD1212年信仰だけを頼りに聖地へ1212年、フランスとドイツで、聖地エルサレムを取り戻すため、武器ではなく信仰の力で東へ向かおうという若者たちの群れが現れた。フランスでは羊飼いの少年ステファヌスが王に会いに行き、ドイツではケルンの少年ニコラウスが数千人を率いてアルプスを越え、イタリアのジェノヴァに着いた。海が二つに割れて聖地へ渡れると信じていたが、海は割れず、群れは散り散りになった。帰る途中で飢えや病で倒れた者も多い。後の年代記は、奴隷として売られた子どもたちの話を伝えるが、確かではない。「少年」と記された人々の多くは、子どもではなく、貧しい若者だったとも考えられている。ジェノヴァ
- 神明裁判の終わりできごとAD1215年神の保証が消えた被告に熱した鉄を握らせ、傷の治り方で有罪を決める。水に沈めて浮けば有罪。決闘で決める。中世ヨーロッパの裁判は、神が正しい者を守るという前提で成り立っていた。1215年の第4ラテラノ公会議が、聖職者がこの儀式に立ち会うことを禁じた。神の保証が消えた。代わりに、人が事実を認定しなければならなくなる。イングランドは陪審へ、大陸は職権による審理と自白の重視、そして拷問へ向かった。同じ年、マグナ・カルタが署名されている。ローマ
- ドミニコ会の認可できごとAD1216年12月22日主の犬カスティーリャの司祭ドミニコが、ラングドックでカタリ派に会って、説教で戻すには、彼らのように貧しく、彼らより学んでいなければならない、と考えた。「説教者修道会」。托鉢、学問、都市、大学。パリとボローニャ。アルベルトゥス、トマス・アクィナス。1231年から、教皇の異端審問官はドミニコ会士が多かった。「主の犬(ドミニ・カネス)」。トゥールーズ
- シャルトルの青できごとAD1220年頃1194年の火災の後、四半世紀ほどで再建された大聖堂に、176の窓が入った。中世の窓としては、これほどまとまって残っている例が他に無い。ガラスは溶かす段階で金属を混ぜて色を付ける。青はコバルト、赤は銅である。とりわけ12世紀の青は、後の時代に再現できなかった。文字を読めない者に聖書を見せる絵だと説明されるが、高い窓の細部は地上から見えない。窓の下部には、寄進した同業組合の職人が働く姿が描かれている。シャルトル
- フランシスコ会則の認可できごとAD1223年11月29日福音を生きる1209年、フランチェスコと11人がインノケンティウス3世に口頭で認められた(教皇は夢でラテラノ大聖堂を支える貧しい男を見た、と伝える)。14年で数千人。1223年、教皇ホノリウス3世が「勅書会則」を認可した。清貧、托鉢、説教、服従。「福音を生きる」。しかし「所有」をどう解釈するかで、フランチェスコの死後、会は割れた(コンヴェントゥアルと聖霊派)。ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカム、ロジャー・ベーコン。ローマ
- トマス・アクィナス人物AD1225年 – AD1274年3月7日天使博士アクィノの伯爵の子。ドミニコ会に入るのを家族が1年幽閉して止めた。「もの言わぬ牛」とパリの学生が呼び、アルベルトゥスが「この牛の声は世界に響く」。『神学大全』『対異教徒大全』。太っていて、机に半円を切った。リヨンへ向かう途中で死んだ。1323年、聖人。「天使博士」。
- ボニファティウス8世人物AD1230年頃 – AD1303年10月11日最初の聖年前の教皇を退位させて自分が選ばれた、という噂を生涯背負った。1300年に最初の聖年を定め、「すべての人は教皇に従わねば救われない」と勅書に書いた。フランス王に捕えられ、その屈辱で死んだ。ダンテは地獄に席を用意した。
- リトアニア大公国国AD1236年(ミンダウガスの統一) – AD1569年(ルブリン合同)ヨーロッパ最後の異教の国ヨーロッパ最後の異教の国が、東スラヴの土地を呑み込んでバルト海から黒海の近くまで広がった。1386年に大公がポーランド女王と結婚して改宗し、二つの国が一人の君主の下に並ぶ。
- モンセギュールの陥落できごとAD1244年3月16日火刑の野ピレネーの麓の岩山の城。カタリ派の最後の砦。500人。10か月の包囲。降伏。棄教すれば助ける、と言われて、完徳者200人以上が拒んで、城の下の野原の柵の中で焼かれた。「火刑の野」。伝説では、宝(聖杯、と言う人がいる)を4人が夜に持ち出した。カタリ派は1321年、最後の完徳者が焼かれて、消えた。モンセギュール
- ケルン大聖堂の起工できごとAD1248年8月15日632年1164年、バルバロッサがミラノから東方三博士の聖遺物をケルンに持って来た。巡礼者。古い大聖堂が1248年に焼けて、大司教が、アミアンを手本に、フランスのゴシックで起工した。内陣は1322年に完成。1473年、金がなくなって、止まった。クレーンが南塔の上に400年立っていた。1842年、プロイセン王が再開して、1880年、完成。632年。高さ157メートル、当時、世界一。1945年の爆撃を、周りが更地になっても、立って耐えた。ケルン
- 第七回十字軍(ダミエッタ)できごとAD1249年6月6日聖人になった王ルイ9世がエジプトへ。ダミエッタを取り、カイロへ向かい、マンスーラで弟が死に、赤痢で軍が崩れ、王が捕虜になった。身代金40万リーヴル。4年、聖地の砦を直して帰った。1270年、チュニスでまた行って死んだ。聖人になった唯一のフランス王。ダミエッタ

- エチオピア帝国国AD1270年(ソロモン朝の成立) – AD1974年(皇帝ハイレ・セラシエの廃位)ソロモンとシバの女王の子孫を名乗る王朝が700年続いた。アフリカで唯一、ヨーロッパの植民地にならずに残る。1896年のアドワでイタリア軍を破った。
- 鍵をかけられた枢機卿できごとAD1271年9月1日決められない者たちを、鍵のかかる部屋に閉じ込めた1268年に教皇が死ぬと、ヴィテルボに集まった枢機卿たちは、フランス寄りとイタリア寄りに割れて決められなかった。一年たち、二年たっても決まらない。町の人々と役人は、枢機卿たちを館に閉じ込め、食べ物をパンと水に減らし、屋根まで剥がしたと伝えられる。空位はほぼ三年に及び、ようやく選ばれたグレゴリウス十世は、自ら規則を作った。枢機卿を鍵のかかる部屋に閉じ込め、決まらなければ日を追って食事を減らす。「鍵とともに」を意味するコンクラーヴェの名は、ここから来ている。決められない者たちから、ほかの選択肢を取り上げる仕組みである。ヴィテルボ
- トマス・アクィナス『神学大全』できごとAD1274年頃五つの道ドミニコ会士がアリストテレスでキリスト教を体系にした。3部、512の問題、2669の項目。「信仰と理性は矛盾しない」。神の存在の五つの道。1273年12月、ミサの後で書くのをやめた。「私が見たものに比べれば、藁のようだ」。3か月後に死んだ。未完。パリ

- イェクノ・アムラク人物? – AD1285年ソロモン王とシバの女王の子孫を名乗ってザグウェ朝に代わった。この王統は1974年まで続くので、700年もった建国の物語になる。
- アッコンの陥落できごとAD1291年5月18日海の向こうの王国の終わりマムルーク軍が6週間囲み、城壁を崩した。十字軍国家の最後の都市が落ち、200年の海の向こうの王国が終わる。逃げる船に乗れた者は少なかった。アッコン

- 為替手形できごとAD1300年頃利子の禁止を迂回する金貨を持って山を越えれば、盗まれる。ジェノヴァの商人がシャンパーニュの大市で受け取るべき代金を、現地の同業者に払わせ、その分をジェノヴァで清算する。紙の上で債権が動く。教会が利子を禁じていたので、利益は為替の相場に折り込まれた。同じ通貨を貸して利子を取れば高利貸しだが、通貨と場所が違えば、それは為替の差益である。この迂回が、金融の技術を育てた。手形は裏書きで転々と流通し、決済の網が大陸を覆った。ジェノヴァ
- スコーネのニシン市できごとAD14世紀毎年の秋、デンマーク領だったスコーネの沖には、ニシンの大群が押し寄せた。浜には各地の商人の小屋が建ち並び、何万人もの人が集まる。ニシンは脂が多く、すぐに傷む。リューベックの商人たちは、リューネブルクの塩を運んできて、捕れたその日のうちに腹を裂き、樽に塩と交互に詰めた。樽の大きさと詰め方には決まりがあり、印を押した樽は中身を開けずに売り買いされた。四旬節に肉を断つキリスト教徒にとって、塩漬けのニシンは欠かせない食べ物だった。塩と魚と樽を押さえたことが、ハンザの商人たちの力になった。スカーノル(スコーネ)
- アナーニ事件できごとAD1303年9月7日教皇が王の上に立つ時代の終わりフランス王の使者が教皇を故郷の館で捕え、三日拘束した。頬を打ったと伝わる。教皇は解放されて一か月で死んだ。教皇が王の上に立つ時代は、ここで終わる。6年後、教皇庁はアヴィニョンへ移る。アナーニ
- 教皇のアヴィニョン捕囚できごと1309年教皇庁がフランス王の影響下に移った。教会の権威が世俗の力に押される。アヴィニョン
- モンタイユーの異端審問できごと1318年ピレネーの村の住民が、カタリ派の疑いで一人ずつ尋問された。その調書に、羊飼いの恋愛も、隣人の噂も、死後の世界の考えも残った。中世の村の暮らしを内側から読める、ほとんど唯一の史料になる。モンタイユー
- ジョン・ウィクリフ人物AD1328年頃 – AD1384年12月31日宗教改革の明けの明星オックスフォードの神学者。聖書だけが権威、教皇は反キリストになりうる、聖職者は財産を持つな。ランカスター公に守られて生きて死んだ。弟子はロラード派と呼ばれ、フスがその本を読み、ルターがフスを読んだ。「宗教改革の明けの明星」。
- 機械時計と、等しい一時間できごとAD1335年定時の祈りのためにそれまでの時間は、日の出から日の入りまでを等分したものだった。だから、一時間の長さが、夏と冬で違う。日時計も水時計も、そう作られていた。修道院が、定時の祈りのために正確な合図を求め、脱進機を持つ機械が生まれた。1335年、ミラノのサン・ゴッタルド教会の塔で、時刻ごとに自動で鐘を打つ装置が動いた。以後、時間は、天体からではなく、機械の刻みから来るものになった。長さの等しい一時間が、そこから始まる。ミラノ
- マショー『ノートルダム・ミサ』できごとAD1360年頃自分の死後のミサのためにランス大聖堂の参事会員で、ボヘミア王の秘書で、詩人で、作曲家が、ミサの通常文(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、イテ・ミサ・エスト)を、一人で、4声で、一つの作品として作曲した。最初。「アルス・ノヴァ(新しい技法)」。イソリズム。自分と兄の死後のミサのために。ランスで、毎週土曜日、100年歌われた。ランス
- 教会大分裂できごとAD1378年教皇が三人アヴィニョンからローマに戻った教皇が死に、ローマ市民の圧力で選ばれた教皇を枢機卿たちが否認して別の教皇を立てた。二人、のちに三人の教皇が40年並び、ヨーロッパは国ごとにどちらかを選んだ。ローマ

- ウィクリフの英語聖書できごとAD1382年頃骨が掘り出されて焼かれたオックスフォードの神学者が、ウルガタを英語に訳させた。教皇の権威を否定し、化体説を否定し、「貧しい司祭」を各地に送った。死後31年で異端とされ、骨が掘り出されて焼かれ、灰が川に流された。オックスフォード

- クレヴォの合同できごとAD1385年8月14日ヨーロッパ最後の異教の国の改宗リトアニア大公が、洗礼を受けてポーランドの11歳の女王と結婚する約束をした。ヨーロッパ最後の異教の国が改宗し、二つの国が一人の君主の下に並ぶ。クレヴォ

- グルンヴァルトの戦いできごとAD1410年7月15日布教と征服の騎士団の敗北ポーランドとリトアニアの連合軍が、ドイツ騎士団を破った。騎士団の総長が戦死する。バルト海への布教と征服を続けてきた騎士団が、以後衰える。グルンヴァルト(タンネンベルク)

- コンスタンツ公会議できごとAD1414年11月5日教皇が三人教皇が三人いた。皇帝ジギスムントが公会議を開かせ、三人とも辞めさせて一人を選んだ。フスは安全通行証を持って来て、焼かれた。「公会議は教皇の上」。ボヘミアが15年燃えた。コンスタンツ

- 死の舞踏できごと1424年墓地の壁に、骸骨が教皇も王も農民も同じ列に引き込む絵が描かれた。黒死病と戦乱の世紀に、死が身分を平らにするという主題が繰り返し現れる。パリ

- サヴォナローラ人物AD1452年9月21日 – AD1498年5月23日ルターが先駆者と呼んだフェラーラの医者の孫。ドミニコ会。サン・マルコ。「剣が来る」。ロレンツォの死と、フランス軍の到来を「予言」した。メディチが逃げ、彼の共和国。教皇アレクサンデル6世を「偽の教皇」と呼び、破門された。火の試練。拷問。絞首刑と火刑。同じ広場。
- アフォンソ1世人物AD1456年頃 – AD1543年ポルトガル語で読み書きし、対等な国として文通した。人の売買で国が空になると訴える手紙を何通も書き送っているが、止まらなかった。
- ベオグラードの包囲(1456年)できごとAD1456年7月22日農民の十字軍コンスタンティノープルの3年後、メフメト2世がハンガリーの門へ。フニャディ・ヤーノシュと、説教僧カピストラーノが集めた農民の十字軍が退けた。教皇が正午の鐘を命じ、いまも教会は正午に鳴らす。フニャディは3週間後に疫病で死んだ。ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)
- エラスムス人物AD1466年頃 – AD1536年7月12日両方から裏切り者と司祭の私生児で、修道院を嫌って出た。ギリシア語の新約聖書を印刷し、教会を笑い、ルターに「あなたは正しいが、やり方が」と言い、両方から裏切り者と呼ばれた。「ヨーロッパ最初の知識人」。「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」。
- 『魔女に与える鉄槌』できごとAD1487年4万〜6万人ドミニコ会の異端審問官ハインリヒ・クラーマーが、インスブルックで魔女裁判に失敗して司教に追い出され、教皇の勅書を付けて、この本を書いた。魔女は実在する。悪魔と契約し、交わり、天候と作物と男の性器を害する。ほとんどが女である(「女は信仰が弱い(femina=fe minus)」)。訊問と拷問と処刑の手引き。印刷術で30版。魔女狩りは1560年から1630年が頂点で、4万〜6万人が処刑された。シュパイアー

- イグナティウス・デ・ロヨラ人物AD1491年頃 – AD1556年7月31日砲弾と聖人伝バスクの小貴族。宮廷と軍で、決闘と女と博打の日々を送った。1521年、パンプローナの城でフランス軍の砲弾に足を砕かれ、療養中に読む本がキリスト伝と聖人伝しかなかった。マンレサの洞窟で1年、そこから『霊操』が生まれた。33歳で子供に混じってラテン語を学び直し、パリ大学へ。1540年、イエズス会。ローマで16年、総会長として、世界に散った会員に手紙を書き続けた(7000通が残る)。
- フランシスコ・ザビエル人物AD1506年4月7日 – AD1552年12月3日上川島ナバラのバスク貴族。パリ大学でイグナティウス・デ・ロヨラと同室になり、1534年、モンマルトルで7人が誓った。イエズス会。ゴア、マラッカ、モルッカ、日本。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。中国へ渡ろうとして、広州沖の上川島で熱で死んだ。46歳。遺体はゴアにあり、腐らないと言われ、右腕はローマにある。
- サン・ピエトロ大聖堂の建て替えできごとAD1506年最も壮大な建物が、教会を二つに割るきっかけに使徒ペテロの墓の上に建つとされたローマの古い聖堂は、千年以上たって傷んでいた。1506年、教皇ユリウス2世は、これを壊して、世界で最も大きな聖堂を建てることにした。ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロと、設計者は次々に代わり、完成まで百二十年かかる。巨額の費用の一部は、罪の償いを金で軽くする免罪符の売り上げでまかなわれた。その売り方に怒ったドイツの修道士の抗議から、宗教改革が始まる。ローマ
- 95か条の論題できごとAD1517年10月31日ルターの問いかけが印刷術に乗って広がり、西方教会が割れた。宗教改革の始まり。ヴィッテンベルク

- ルターのドイツ語訳聖書できごと1522年9月1521年、ヴォルムスの帝国議会で教えを撤回せず、帝国から追放されたルターは、ザクセン選帝侯にかくまわれ、ヴァルトブルク城に身を隠した。そこで彼は、新約聖書をギリシア語の原典から、わずか11週間ほどでドイツ語に訳した。1522年9月に出版された訳は、数か月で売り切れた。ルターは、学者の言葉ではなく、家の母親や路地の子どもや市場の庶民の口ぶりに耳を傾けて訳したと書いている。1534年には旧約を含む聖書の全訳が出た。誰もが自分の言葉で聖書を読めるようになり、ルターの訳は、方言に分かれていたドイツ語の書き言葉をまとめる土台になった。ヴィッテンベルク
- ツヴィングリのチューリヒ改革できごとAD1523年像とオルガンを教会から出したルターと同じ頃、別に始まった。市の説教師が聖書に無いものを退け、市参事会が公開討論で決め、教会から像とオルガンと祭壇を出した。ルターとは聖餐で合わず、カトリックの州との戦いで戦死した。チューリヒ
- ミュンスターの再洗礼派できごとAD1534年新しいエルサレム再洗礼派が市を取り、財産を共有し、一夫多妻にし、仕立屋のヤンが「新しいエルサレム」の王になった。16か月の包囲のあと、王は鉄の檻に入れられて広場で殺され、檻は教会の塔に吊るされた。いまも吊るしてある。ミュンスター

- 国王至上法できごとAD1534年議会が国王をイングランド教会の首長と定めた。離婚を認めない教皇から切れるためで、教義はほとんど変えていない。変えたのは、誰が上に立つかだった。ロンドン
- トマス・モアの処刑できごとAD1535年7月6日神の僕がその前にある王を教会の首長と認める宣誓を拒んだ。「私は王のよい僕だが、神の僕がその前にある」。首は橋に晒され、娘が引き取った。400年後に聖人になり、「すべての季節の男」と映画になった。ロンドン
- ヴァリニャーノ人物AD1539年 – AD1606年1月20日日本人を司祭にナポリ王国の貴族、パドヴァで法学。イエズス会の東インド巡察師。日本に3度。「日本人は礼儀正しく、ヨーロッパ人が野蛮に見える」。宣教師に日本の作法を守らせ、日本人を司祭に育てる方針。安土のセミナリヨ、天正遣欧使節、活字印刷機(キリシタン版)。秀吉に謁見してインド副王の使節を名乗った。マカオで死んだ。
- イエズス会の創立できごとAD1540年9月27日修道院に籠もらず世界へバスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラが、砲弾で足を砕かれた療養中に聖人伝を読んで転じた。1534年、パリのモンマルトルで7人が誓い、1540年、教皇パウルス3世が認可した。修道院に籠もらず、世界へ出る。教皇への「第四の誓願」。『霊操』による訓練。学校を作った(100年で500校)。ザビエル、リッチ、ヴァリニャーノ、そして南米の布教区。1773年に一度解散させられ、1814年に再興された。ローマ
- カルヴァンのジュネーヴできごとAD1541年長老会が市民の生活を監督する町を作った。救われる者は初めから決まっている、だから与えられた仕事に励む。その考えが商人と職人に広がる。ジュネーヴ(宗教改革期)
- トレント公会議できごとAD1545年12月13日以後400年の形ルターから28年遅れて、カトリックが答えを出した。18年、3期、25回の会議。義認は信仰と行いで、聖書とともに伝統も、ウルガタが正典、七つの秘蹟、司教は自分の教区に住め。以後400年、カトリックの形はこれだった。トレント
- ザビエルの来日できごとAD1549年8月15日(天文18年7月22日)最も優れている民マラッカで会った薩摩の男ヤジロウの案内で、イエズス会のバスク人が鹿児島に着いた。2年3か月。鹿児島、平戸、山口、京都、豊後。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。京都は荒れて天皇にも将軍にも会えず、山口の大内義隆に望遠鏡と時計を贈って布教を許された。中国へ渡ろうとして、広州沖の島で死んだ。鹿児島
- 死者の日できごとAD1550年頃諸聖人の日と死者の日11月1日と2日、死者が帰ってくる。家に祭壇を作り、故人の写真と、好きだった食べ物と、匂いの強い花(センパスチル)を置く。墓地で夜を明かし、そこで食べ、歌う。先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀と、カトリックの諸聖人の日・死者の日が重なってできた。死を隠さず、笑いと結びつける。19世紀末、ポサダが描いた骸骨の風刺画(カラベラ)が、その図像を決定づけた。2008年、ユネスコの無形文化遺産。メキシコシティ
- アウクスブルクの和議できごとAD1555年9月25日カルヴァン派は数に入らなかった「領主の宗教がその領地の宗教」。諸侯がカトリックかルター派かを選び、領民は従うか出ていく。カルヴァン派は数に入らなかった。60年の平和のあと、その穴から三十年戦争が始まる。アウクスブルク

- スペインのフィリピン支配できごとAD1565年レガスピが恒久的な拠点を築いた。マゼランの到達から44年になる。アジアでは東ティモールと並ぶ、カトリックが多数を占める国になる。国名は、のちのスペイン王フェリペ2世が皇太子だった1543年に、その名から付けられた。セブ
- サン・バルテルミの虐殺できごとAD1572年8月24日王が臣民を殺した王妹とプロテスタントの王子の結婚式に集まったユグノーの貴族が、夜明けの鐘で殺された。パリで3000人、地方で数万。教皇は感謝のミサをし、メダルを打った。国王が自分の臣民を殺した、と歴史は書く。パリ

- 天正遣欧少年使節できごとAD1582年2月20日(天正10年1月28日)4人の少年ヴァリニャーノが、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、13〜14歳の4人を長崎からローマへ送った。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。8年。リスボン、マドリードでフェリペ2世、ローマで教皇グレゴリウス13世。1590年に帰ると、秀吉が宣教師を追放していた。マンショは長崎で病死、ミゲルは棄教、マルチノはマカオへ追放、ジュリアンは1633年に穴吊りで殉教した。長崎

- メノッキオの異端審問できごと1584年村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。本を読み、自分で考え直した男の宇宙論が、審問の記録に残った。二度目の審問のあと火刑になる。フリウリ(モンテレアーレ)
- バテレン追放令できごとAD1587年信仰と交易を切り離す最初の形九州を平定した豊臣秀吉は、1587年、博多で、キリスト教の宣教師に二十日以内に国を出るよう命じた。長崎がイエズス会に寄進されていたこと、大名の改宗が家臣や領民にまで強いられていたこと、日本人が奴隷として海外へ売られていたことが、秀吉を怒らせたとされる。ただし南蛮の貿易は続けたいとしたため、命令は徹底されず、宣教師の多くは潜んで活動を続けた。信仰と交易を切り離そうとする方針の、最初の形だった。博多
- エル・グレコ『オルガス伯の埋葬』できごとAD1588年地上と天クレタ島生まれ、ヴェネツィアとローマで学び、トレドに住んだ画家。下半分は地上の葬儀(トレドの現実の紳士たちが並ぶ)、上半分は天。二つの世界が、雲の帯で分かたれ、上へ行くほど体が引き伸ばされ、色が燃える。同時代の人は「奇矯」と評した。300年後、セザンヌとピカソが、この歪みを自分の絵の先例として見た。トレド
- 二十六聖人の殉教できごとAD1597年2月5日遠い港の丘の十字架土佐に漂着したスペインの船の乗組員が、宣教は領土を奪う前触れだと語ったと伝わり、秀吉は京都と大坂で宣教師と信徒を捕らえさせた。耳をそがれ、市中を引き回されたのち、長崎まで一か月歩かされる。1597年2月5日、長崎の西坂の丘で、外国人の宣教師と日本人の信徒あわせて二十六人が十字架にかけられた。十二歳の少年もいた。彼らは十九世紀に聖人とされ、その殉教の地は、日本のキリスト教の巡礼の場所になっている。長崎
- ナントの勅令できごとAD1598年4月13日87年後に取り消されたプロテスタントからカトリックに改宗した王が、プロテスタントに信仰と礼拝と武装した都市を認めた。36年の宗教戦争を止めた。「パリはミサに値する」。87年後、孫がこれを取り消して、20万人が国を出る。ナント

- 火薬陰謀事件できごとAD1605年11月5日処刑された側の顔が、反逆の印にカトリックへの締めつけを緩めなかった国王ジェームズ1世に絶望した、カトリックの男たちの一団がいた。議会の開会の日に、国王もろとも議事堂を吹き飛ばそうと、地下の貯蔵庫に火薬の樽を運び込む。1605年11月5日の未明、見張っていたガイ・フォークスが捕らえられ、計画は崩れた。首謀者たちは処刑される。イギリスではいまも毎年11月5日の夜、花火を上げ、人形を焼いて、この日を祝う。のちにその仮面は、権力に抵抗する匿名の人びとの象徴にも使われている。ロンドン
- 欽定訳聖書できごとAD1611年英語の言い回しの宝庫1604年、イングランド王ジェームズ1世は、国教会の中の対立を収めるため、新しい英語訳の聖書を作ることを認めた。50人ほどの学者が6つの組に分かれ、ヘブライ語とギリシア語の原典と、それまでの英語訳を突き合わせて訳を練った。とくに、異端とされて処刑されたウィリアム・ティンダルの訳から多くを受け継いだ。1611年に出版された「欽定訳聖書」は、声に出して読まれることを意識した、荘重で響きのよい英語で書かれた。その後三百年近く、英語を話す人々が最も多く読む本になり、「地の塩」「目には目を」など多くの言い回しが英語に根づいた。ロンドン
- キリシタン禁教令できごとAD1614年装いながら伝えられた祈り徳川家康は、はじめ貿易のためにキリスト教の宣教を黙認していたが、信徒たちが領主や幕府より神に従うことを恐れた。1612年に幕府の直轄地で、1614年には全国で、キリスト教を禁じる。教会は壊され、宣教師とキリシタンの大名高山右近らはマニラへ追放された。以後、信徒は改宗を迫られ、拒めば処刑された。島原の乱のあとは取り締まりがいっそう厳しくなる。信仰を捨てたと装いながら、ひそかに祈りを伝え続ける人びとが残った。江戸
- メイフラワー号できごとAD1620年感謝祭の物語の裏に、助けた側のその後イングランドの国の教会に従わない分離派の信徒たちは、オランダに逃れたのち、新大陸に自分たちの共同体を作ろうとした。1620年、百人ほどを乗せたメイフラワー号が大西洋を渡る。上陸の前、男たちは船の上で、自分たちで政治の団体を作り、公正な法に従うという誓約を結んだ。最初の冬に半数が死んだ。生き残れたのは、先住のワンパノアグの人びとがとうもろこしの育て方を教えたからである。その先住民は、半世紀後の戦争で土地を奪われていく。プリマス(マサチューセッツ)
- 天草四郎人物AD1621年頃 – AD1638年4月12日(寛永15年2月28日)16歳益田四郎時貞。小西行長の遺臣の子。16歳。「天から降った童子が現れる」というマルコス神父の予言の子とされ、盲目の少女の目を開けたと言われ、島原と天草の一揆3万7000の総大将に立てられた。原城で3か月。首は長崎で晒された。誰が首か分からず、母に見せて確かめた。
- ラ・ロシェルの包囲できごとAD1628年10月28日海に堤防ユグノーの港。ナントの勅令で自治と要塞を持っていた。イギリスのバッキンガムが援軍を送った。リシュリューは14か月囲み、海に1.5キロの堤防を築いて港を塞いだ。2万7000の住民が5000に。餓死。降伏。ユグノーの政治と軍事の特権が消え、信仰は残された(1685年まで)。『三銃士』の舞台。ラ・ロシェル

- ゴンダールの城群できごとAD1636年エチオピアの皇帝が、移動する宮廷をやめて定住の都を築いた。石造りの城が並ぶ。ポルトガル人の影響とされてきたが、在来の建築の系譜で説明する見方が強い。ゴンダール
- 島原の乱できごと1637年重税とキリシタン弾圧に対する蜂起。鎮圧の後、幕府は禁教と統制をいっそう強める。島原

- チャールズ1世の処刑できごとAD1649年1月30日殉教者にした議会派が内戦に勝って、軍が議会を粛清し(プライドの追放)、残った議員が国王を裁いた。「反逆者、殺人者、国家の公敵」。王は裁判所の権限を認めなかった。1月30日、ホワイトホールのバンケティング・ハウスの窓から足場へ。シャツを2枚着た(震えて怖がっていると思われないように)。斧が落ちると、群衆がうめいた。イングランドは共和国になった。11年。ロンドン

- ミルトン『失楽園』できごとAD1667年清教徒の革命政府に仕えたジョン・ミルトンは、王政が戻ると身を隠し、すでに目も見えなくなっていた。娘や弟子に口述して書き上げた長い叙事詩が、1667年に出版される。神に背いて天から落とされたサタンが、人間を誘惑してエデンの園から追い出させる話である。原稿の権利は、わずか数ポンドで売られた。敗れてもなお誇り高く語るサタンの姿は、のちの詩人たちに、反逆者こそが主人公ではないかと思わせた。ロンドン
- スピノザ『エチカ』できごとAD1677年23歳で破門アムステルダムのユダヤ人共同体から23歳で破門されたレンズ磨きが、死の年に友人が遺稿を出した。幾何学の形式。定義、公理、定理、証明。「神即自然」。実体は一つ。精神と物体はその属性。自由意志はなく、必然を理解することが自由。「永遠の相の下に」。危険な本として100年隠され、ゲーテとヘーゲルとアインシュタインが読んだ。アムステルダム

- セイラムの魔女裁判できごとAD1692年幽霊証拠牧師の娘と姪が発作を起こし、医師が「魔女の仕業」と診断した。少女たちが名を挙げ、告発が連鎖した。200人以上が告発され、19人が絞首、1人が石で圧死、5人以上が獄死した。決め手になったのは「幽霊証拠」——被害者にしか見えない霊が誰の姿をしていたか——である。マサチューセッツ総督が妻を告発されて裁判所を解散させ、幽霊証拠を禁じると、有罪はほぼ止まった。何を証拠と認めるかが、生死を分けた。セイラム

- バッハ『マタイ受難曲』の初演できごとAD1727年毎週カンタータを書く仕事聖金曜日、ライプツィヒの聖トマス教会。二組の合唱と二組の管弦楽が向かい合う。福音書の言葉を語る福音史家、群衆の叫び、そして時間を止めて心情を歌うアリア。バッハはこの町の教会音楽の責任者として、毎週カンタータを書き、学校で少年たちにラテン語も教えていた。当時、この曲は特別扱いされていない。彼の死後、楽譜は使われなくなり、100年、誰も演奏しなかった。ライプツィヒ

- 大覚醒できごとAD1734年回心の熱が植民地を覆う1730年代から40年代にかけて、イギリス領の北アメリカの植民地を、激しい信仰の復興の波が覆った。マサチューセッツの牧師ジョナサン・エドワーズの教会では、罪と地獄を説く説教に、町の人々が次々に回心した。イギリスから来た説教師ジョージ・ホワイトフィールドは、植民地を縦断して野外で説教し、数万人を集めた。信仰は教会の儀式ではなく、一人ひとりが心で体験するものだとされた。教会は新しい流れと古い流れに割れ、新しい大学がいくつも生まれた。植民地を超えて人々が同じ体験を分かち合ったことは、のちの独立への下地の一つになったともいわれる。ノーサンプトン(マサチューセッツ)
- メソジストの始まりできごとAD1738年5月24日心が不思議に温まるイギリス国教会の牧師ジョン・ウェスレーは、オックスフォードの学生のころ、弟チャールズらと規則正しい祈りと奉仕の会を作り、きちょうめんなやり方から「メソジスト」とからかわれた。1738年5月24日、ロンドンのアルダーズゲート通りの集まりで、ルターの書いた文章の朗読を聞いていたとき、彼は心が不思議に温まるのを感じたと日記に書いた。翌年から、教会の外の野原や炭鉱の入口で、労働者に向けて説教を始める。馬で国じゅうを回り、信徒を小さな組に分けて互いに支え合わせた。産業革命で教会から取り残された人々の信仰になり、のちに国教会から分かれた。ロンドン
- ヘンデル『メサイア』初演できごとAD1742年4月13日ハレルヤで王が立った24日で書いた。ロンドンで人気を失って、ダブリンの慈善演奏会で。フィッシャンブル通りの音楽堂。700人。女は輪骨のスカートを、男は剣を、家に置いて来るように言われた。囚人と病院のために400ポンド。ハレルヤ・コーラスで王が立った(ロンドンの1743年、という話は確かでない)。それから毎年、クリスマスに。ダブリン
- デイヴィッド・リヴィングストン人物AD1813年3月19日 – AD1873年5月1日商業と文明をスコットランドの紡績工場の子。10歳から働き、夜学で医学。宣教師として南アフリカへ。改宗させたのは一人。カラハリを越え、ザンベジを下り、ヴィクトリアの滝に名をつけた。「奴隷貿易を止めるには商業と文明を」。ナイルの源を探して、ザンビアの村で跪いて死んだ。心臓は木の下に、体はウェストミンスターに。
- モルモン教の始まりできごとAD1830年4月6日新しい預言者ニューヨーク州の農家の青年ジョセフ・スミスは、天使に導かれて丘に埋まった金の板を見つけ、そこに古代のアメリカの民の歴史が刻まれていたと語った。彼がそれを訳したとする『モルモン書』は1830年3月に出版され、翌月6日、スミスは6人で教会を作った。新しい預言者を戴く教えは周囲の反発を買い、信徒はオハイオ、ミズーリ、イリノイと追われ、スミスは1844年に暴徒に殺された。ブリガム・ヤングに率いられた信徒は、西の荒野を越えてソルトレークの盆地に移り住んだ。一夫多妻をやめたのは1890年で、ユタはその後に州になった。フェイエット(ニューヨーク州)(位置は特定されていない)
- 内村鑑三人物AD1861年3月26日 – AD1930年3月28日無教会高崎藩士の子で、札幌農学校で洗礼を受け、アメリカで学んだ。教育勅語に頭を下げず、足尾鉱毒を書き、日露戦争に反対し、教会を持たない「無教会」を説いた。「二つのJ」、イエスと日本。墓に「I for Japan, Japan for the World」。
- 新渡戸稲造人物AD1862年9月1日 – AD1933年10月15日英語で武士道を書いた盛岡の生まれ、札幌農学校で内村と同期。アメリカで英語で『武士道』を書き、ローズヴェルトが読んだ。台湾の砂糖を作り、一高の校長、国際連盟の事務次長。「太平洋の橋になりたい」。満洲事変の弁明に出てカナダで死んだ。五千円札。
- 信徒発見できごとAD1865年3月17日二百五十年の祈り開国のあと、長崎の外国人居留地にフランス人の神父が教会を建てた。1865年3月17日、浦上の村人十数人が教会を訪れ、一人の女性が神父に、私たちの胸はあなたと同じです、とささやいた。二百五十年近く、神父なしでひそかに祈りを伝えてきた潜伏キリシタンだった。だが信仰を明かした浦上の信徒は、明治の新政府に捕らえられ、各地に流されて多くが死ぬ。欧米の抗議を受けて禁教の高札が下ろされたのは、1873年である。長崎
- 救世軍の始まりできごと1865年7月スープ、石けん、救い1865年7月、メソジストの説教師ウィリアム・ブースは、ロンドンの貧しい東の地区ホワイトチャペルで、天幕を張って伝道を始めた。酒と貧しさにまみれた人々は、立派な教会には足を運ばなかった。ブースは彼らのもとへ出向き、スープと石けんと救いを差し出した。1878年、会は「救世軍」と名を変え、軍隊にならって制服と階級を持ち、楽隊を連れて街を行進した。妻キャサリンをはじめ女性も説教に立った。救世軍は世界に広がり、日本では山室軍平らが、遊郭から逃れたい女性を助ける廃娼の運動に取り組んだ。年末の社会鍋も救世軍に始まる。ロンドン
- 第1バチカン公会議と教皇不可謬できごとAD1870年7月18日教皇は誤りえないイタリアの統一が進み、教皇の領土が削られていくなかで、教皇ピウス9世は、近代の自由主義や合理主義を誤りとして退け、1869年、ローマに世界の司教を集めて公会議を開いた。1870年7月18日、公会議は、教皇が信仰と道徳について教皇の座から正式に宣言するとき、その教えは誤りえないと定めた。反対の司教の多くは採決の前にローマを去っていた。翌日、普仏戦争が始まり、教皇を守っていたフランス軍が引き揚げると、9月にイタリア軍がローマに入った。公会議は中断されたまま終わり、教皇はバチカンに閉じこもった。ローマ
- 文化闘争できごとAD1871年弾圧は、弾圧された側を強くするドイツ帝国ができたばかりの1871年、宰相ビスマルクは、ローマ教皇に従うカトリック教会が国の中の国になることを恐れた。学校の監督を教会から国に移し、イエズス会を追放し、結婚は役所に届け出るものに改め、従わない司教や司祭を投獄する。だが信者たちはかえって結束し、カトリックの政党は議席を増やした。ビスマルクは十年足らずで矛先を社会主義者へ移し、多くの法を緩めた。国家と宗教の境をどこに引くかをめぐる争いだった。ベルリン
- 近代の火葬できごとAD1874年復活の教義と火葬ヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。ロンドン
- サグラダ・ファミリアできごとAD1882年1882年、バルセロナで、信者の寄付による贖罪の教会の工事が始まった。翌年、三十一歳のアントニ・ガウディが設計を引き継ぐ。森の木々のように枝分かれする柱、トウモロコシのような塔。ガウディは後半生をこの建物に捧げ、1926年に路面電車にはねられて死んだとき、完成していたのはごく一部だった。スペイン内戦では図面や模型が焼かれる。その後も寄付と入場料で工事が続き、百四十年を超えて、いまも建てられ続けている。バルセロナ
- ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』できごとAD1905年予定説と不安なぜ資本主義は西ヨーロッパで生まれたのか。マルクスは経済が意識を決めると言った。ウェーバーは、逆の方向も見た。カルヴァン派の予定説——救われるかどうかは既に決まっていて、行いでは変えられない——が、人に不安を与え、その不安が「職業に励み、禁欲し、儲けを使わずに再投資する」生き方を作った。宗教の動機が消えた後も、その生き方だけが残って、機械のように回る。「鉄の檻」。ベルリン
- フランスの政教分離法できごとAD1905年12月9日ライシテナポレオンがローマ教皇と結んだ1801年の取り決め以来、フランスの国は、カトリックの司祭や、プロテスタント、ユダヤ教の聖職者の給料を払ってきた。19世紀の末、共和派とカトリック教会の対立は、ドレフュス事件でいっそう深まった。1905年12月9日に成った法は、国は良心の自由を保障し、礼拝の自由を守るとしたうえで、どの宗教も公認せず、給料も補助金も出さないと定めた。教会の財産の目録づくりは、翌年、各地で信徒との衝突を招いた。国が宗教から距離を置く「ライシテ」は、フランスの共和国の柱の一つになり、いまも公立学校のスカーフなどをめぐって争われている。パリ
- アズサ通りの集会できごと1906年4月ペンテコステ派の誕生1906年4月、ロサンゼルスで、黒人の説教師ウィリアム・シーモアの集まりで、人々が聖霊に満たされたとして、知らない言葉で祈り始めた。集会はアズサ通りの古い建物に移り、それから3年あまり、昼も夜も続いた。人種の分け隔てが法で定められていた時代に、黒人と白人、メキシコ系の人々が同じ床に座り、ともに歌い、祈った。新聞はこれを奇妙な騒ぎとしてからかったが、訪れた人々が各地に持ち帰り、ペンテコステ派と呼ばれる流れが生まれる。聖霊の体験を重んじるこの流れは、20世紀の後半、中南米やアフリカ、韓国などで急速に広がり、いまでは数億人の信徒を持つ。ロサンゼルス
- 死にゆく人の家できごとAD1950年10月7日アルバニア系の修道女テレサは、カルカッタの女学校で教えていたが、路上で死んでいく人びとの間で働くよう召命を受けたと語った。1950年10月7日、新しい修道会が認められる。二年後、路上から運び込んだ人が、看取られて死ねる家を開いた。修道会は世界に広がり、1979年に彼女はノーベル平和賞を受ける。一方で、施設の医療の乏しさや、中絶と避妊への強い反対は批判も受けた。2016年、カトリック教会は彼女を聖人とした。コルカタ
- 第二バチカン公会議できごとAD1962年10月11日教会の窓を開けて、新しい風を1962年10月11日、教皇ヨハネ23世は、世界の司教二千人余りをローマに集め、教会の窓を開けて新しい風を入れる、と語った。三年あまりの会議で、ミサはラテン語ではなく、それぞれの土地の言葉で行えるようになる。イエスの死の責任をユダヤ人全体に負わせることを退け、他の宗教との対話を勧めた。信者の暮らしの中の教会の姿が大きく変わった。一方で、変わりすぎたと嘆く人びとも生み、その評価はいまも分かれている。ローマ
- 解放の神学できごとAD1968年8月26日貧しい人々の側に立つ教会第二バチカン公会議が教会を現代の世界へ開いたあと、1968年、ラテンアメリカの司教たちはコロンビアのメデジンに集まり、この大陸で教会は何をすべきかを話し合った。貧困と独裁と暴力のなかで、司教たちは、貧しさを生む社会の仕組みそのものを「制度化された暴力」と呼び、教会は貧しい人々の側に立つべきだとした。ペルーの神父グスタボ・グティエレスは、この考えを『解放の神学』にまとめた。信徒は村や貧しい地区で小さな共同体を作り、聖書を自分たちの暮らしに引きつけて読んだ。軍事政権はこれを共産主義とみなして弾圧し、エルサルバドルのロメロ大司教はミサの最中に撃たれた。メデジン
- 人民寺院事件できごとAD1978年11月18日アメリカの牧師ジム・ジョーンズが率いる人民寺院は、人種の平等と社会主義を掲げ、サンフランシスコで多くの信徒を集めた。批判の報道が強まると、ジョーンズは信徒を南米ガイアナの密林に開いた村へ移した。1978年11月、信徒の家族の訴えを受けたアメリカの下院議員レオ・ライアンが村を訪れ、帰ろうとした飛行場で、記者らとともに銃撃されて殺された。その日の夕方、ジョーンズは信徒に毒を入れた飲み物を飲ませ、子ども三百人ほどを含む九百人あまりが死んだ。2001年の同時多発テロまで、意図して起こされた事件でアメリカの民間人が最も多く死んだ例だった。ジョーンズタウン(位置は特定されていない)
- ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問できごとAD1979年6月2日1978年、ポーランドのクラクフの大司教カロル・ヴォイティワが、455年ぶりのイタリア人でない教皇に選ばれ、ヨハネ・パウロ2世となった。翌年6月、教皇は共産党が治める祖国を訪れた。ワルシャワの広場で開かれたミサで、教皇は、聖霊よ降りて地の面を新たにしてください、この地の面を、と祈り、群衆は何分も歌い続けた。9日間の訪問で、国民のおよそ三分の一が教皇を直に見た。人々は、国が許さなくても、これほど多くの仲間がいることを知った。翌年の夏、造船所のストライキから自主管理の労働組合「連帯」が生まれた。ワルシャワ
- 教皇フランシスコの選出できごとAD2013年3月13日貧しい人のための貧しい教会600年ぶりに生前退位した教皇のあとに、アメリカ大陸から最初の、イエズス会から最初の教皇が選ばれた。宮殿に住まず、フランシスコの名を選び、「貧しい人のための貧しい教会」と言った。ローマ
- ノートルダム大聖堂の火災できごとAD2019年4月15日850年の屋根が燃えた850年の屋根の木組みが燃え、尖塔が倒れた。世界が中継で見た。荊の冠は消防士が持ち出した。翌日に10億ユーロの寄付が集まり、五年後に再開した。パリ
- モーセ人物十戒ナイルの葦の籠から拾われ、エジプトの宮廷で育ち、同胞を打つ役人を殺して逃げ、燃える柴で名を聞き、民を率いて海を渡り、山で十戒を受け、荒野を40年さまよって、約束の地を見ながら死んだ。三つの宗教の預言者。史料は聖書だけ。
- エリヤ人物洗礼者ヨハネはエリヤギレアデのティシュベ人。毛の衣と革の帯。烏に養われ、寡婦の油を尽きなくし、子を生き返らせ、カルメルで火を呼び、ホレブで「静かにささやく声」を聞いた。死なずに火の戦車で天へ。マラキは「主の日の前にエリヤが来る」と書き、福音書はそれを洗礼者ヨハネとした。
- アーサー王人物聖杯6世紀のブリトン人の指導者、と言えばそこまで。ギルダスは名を書かず、ネンニウスは12の戦いを挙げ、ジェフリー・オブ・モンマスが12世紀に王にし、フランスの詩人が円卓と聖杯とランスロットを足し、マロリーが15世紀に一つにした。実在したかは分からない。物語は実在する。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
考えることの歴史20件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。宗教改革と科学革命17件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。民族移動の時代17件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。表現の歴史17件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。ローマ人の物語16件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。近代と宗教16件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。イスラム世界15件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。東ローマ千年15件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史15件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。古代オリエント12件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。主権はだれのものか12件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。帝国と独立12件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。差別の歴史11件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。都市の歴史10件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。交易路とお金10件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。誰が書き残したか10件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍8件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。ヴァイキング7件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ7件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。武士の700年6件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。女性の権利6件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。探検と発見5件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。技術と産業5件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。『ローマ人の物語』で読むローマ4件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『中世の秋』で読む中世の終わり4件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。老いと死の歴史4件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。性の歴史4件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。明治3件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。草原の帝国3件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。支え合いの歴史3件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。働くことの歴史3件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。法と裁判の歴史3件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。言葉と文字の歴史3件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。感染症と人類2件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。コテンラジオで聞く歴史2件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『サピエンス全史』で読む歴史2件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史2件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙2件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『モンタイユー』で読む中世の村2件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。教育の歴史2件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。お金の歴史2件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。戦争と平和の歴史2件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史2件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。交通と旅の歴史2件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。文明のはじまり1件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『想像の共同体』で読む歴史1件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。子どもの歴史1件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。大学の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。