蘭亭序

概要
曲水の宴で詠まれた詩の序文を、王羲之が酔って書いた。醒めてから何度書き直しても及ばなかったと伝わる。書の手本の頂点とされ、原本は唐の太宗の墓に入ったという。
場所
30.00°N 120.58°E · 中国・浙江省
関わった人(1)
王羲之AD303年–AD361年 · 書いた本文
4世紀の中国は、北を遊牧系の諸王朝に奪われ、漢人の王朝である晋が長江の南へ移って東晋となっていた(東晋の成立)。都は建康(いまの南京)。北から逃れてきた名門の貴族たちは、江南の山水のなかに屋敷を構え、政治の合間に詩を詠み、清談と呼ばれる哲学的な語らいにふけった。王羲之はそうした名門、琅邪の王氏の一人で、会稽(いまの浙江省紹興)の長官を務めていた。
353年の旧暦3月3日、王羲之は会稽の山あいにある蘭亭に、友人や一族を招いた。この日は上巳と呼ばれ、水辺で身を清めて災いをはらう習わしがあった。集まったのは41人とされ、のちに宰相となる謝安、文人の孫綽、王羲之の息子たちもいた。曲がりくねった細い流れのほとりに座り、上流から酒の杯を流す。杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩を作れなければ、罰として酒を飲む。曲水の宴である。この日、二首作った者が11人、一首の者が15人、作れずに罰杯を飲んだ者が16人いたと伝わる。

集まった詩は一巻にまとめられ、王羲之がその序文を書いた。これが『蘭亭序』で、28行、324字。前半は、晩春の晴れた日、高い山と茂った竹林、清らかな流れのそばで、楽器も無いまま一杯の酒と一首の詩で心ゆくまで語り合った喜びを描く。後半で調子が変わる。人は楽しんでいるうちに老いが来るのを忘れるが、楽しみもやがて飽き、命の長短は天に任せるしかなく、いずれは尽きる。昔の人の文章を読むと、いつも自分と同じ嘆きがあって胸が痛む。後の人が今の私たちを見るのも、今の私たちが昔を見るのと同じだろう。だから集まった人々の名と詩を書き連ねておく、と結ぶ。
この序は酔って書いたもので、醒めてから何十回、何百回と書き直したが、最初のものに及ばなかったと伝えられる。繭から作った紙に、鼠の髭の筆で書いたという話もある。文中には「之」の字が20回ほど出てくるが、一つとして同じ形が無いことがよく知られている。書き損じを塗って直した跡もそのまま残る、下書きのような一枚だった。

その真筆は王氏の子孫に伝わり、7世紀、王羲之の七代の子孫にあたる僧の智永を経て、その弟子の弁才の手にあったという。王羲之の書を何よりも愛した唐の太宗は、これを手に入れようとしたが、弁才は持っていないと言い張った。そこで太宗は臣下の蕭翼を書生に変装させて近づかせ、弁才と親しくなったところで盗み出させた、という話が残っている。この話は唐の時代に書かれたもので、どこまで事実かは分からない。
太宗は手に入れた蘭亭序を臣下の書家たちに臨書させ、また専門の職人に精密な写しを作らせた。そして649年に死ぬとき、遺言でこれを自分の墓である昭陵に納めさせたとされる。以来、真筆は誰も見ていない。いま見られるのは、唐で作られた写しや、それを石に刻んで刷った拓本である。北京の故宮博物院にある「神龍本」は、唐の職人が原本の上に紙を置いて写したものとされ、墨の濃淡や筆の割れまで写しとっている。

書の歴史で、蘭亭序は「天下第一の行書」と呼ばれ、王羲之は書聖とされてきた。日本でも奈良時代から王羲之の書が手本として珍重され、正倉院に納められた品の目録にもその名が見える。いまでも行書を習う人は、多くがこの序の臨書を通る。唐の欧陽詢や褚遂良といった名だたる書家たちも、太宗の命でこれを写しており、それぞれの写しがまた別の手本として伝わった。一枚の原本が失われたことで、かえって何通りもの蘭亭序が生まれ、それぞれに流派ができたのである。
書だけでなく、曲水の宴という遊びも海を渡った。日本では奈良時代から宮中で行われた記録があり、いまも京都の城南宮や福岡の太宰府天満宮などで、平安装束の歌人が流れのほとりで歌を詠む行事として再現されている。
ただし疑う声もある。1965年、中国の歴史家郭沫若は、同じ時代の墓から出た文字や王羲之の他の書と比べて書風が新しすぎるとして、蘭亭序は後世の作ではないかと論じ、大きな論争になった。文章そのものも、王羲之の作とする見方が今も多数だが、決着はついていない。原本が墓の中にあるかぎり、確かめるすべは無い。