『ラプソディ・イン・ブルー』

概要
ニューヨークのイオリアン・ホール。「現代音楽の実験」と題した演奏会。ガーシュウィンは3週間で書き、ピアノの部分は本番で即興した。冒頭のクラリネットの滑り上がりは、リハーサルで奏者がふざけて吹いたのを、そのまま採用したもの。ジャズの語法を管弦楽に持ち込んだ。ロシア系ユダヤ移民の子で、15歳で学校をやめ、楽譜出版社で新曲を弾いて聞かせる仕事に就いた。38歳、脳腫瘍で死んだ。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ジョージ・ガーシュウィンAD1898年9月26日–AD1937年7月11日 · 作曲した本文
1924年1月3日の夜、ニューヨークのブロードウェイのビリヤード場で、二十五歳のジョージ・ガーシュウィンが球を突いていた。そばで兄のアイラが翌朝付けの新聞を読んでいて、一つの記事に目を留めた。楽団の指揮者ポール・ホワイトマンが2月に開く演奏会の予告で、そこには、ジョージ・ガーシュウィンがその演奏会のためにジャズの協奏曲を書いている、とあった。
ガーシュウィンには寝耳に水だった。ホワイトマンから話を持ちかけられたことはあったが、彼は引き受けたつもりがなかった。翌朝電話をかけると、ホワイトマンは、対抗する楽団が同じような企画を準備していて、先に発表する必要があったのだと説明したとされる。記事を出してしまえば断れなくなる、とホワイトマンが計算していたとも言われる。演奏会は2月12日。残りは五週間ほどしかなかった。

ホワイトマンの楽団は、ジャズに管弦楽のような整った編曲を施した「シンフォニック・ジャズ」で人気を集めていた。ジャズはジャズの最初のレコードから十年足らずでアメリカ中に広まったが、品のない酒場の音楽と見る人も多かった。ホワイトマンは演奏会に「現代音楽の実験」という題を付け、ジャズを演奏会場で聴くに値する音楽として認めさせようとしていた。
ガーシュウィンは、ボストンで開かれる自作のミュージカルの初演に向かう汽車の中で、曲の形を思いついたと後に語っている。汽車の鋼と鉄が刻むがたがたという響きの中で、曲の組み立てが初めから終わりまで突然聞こえた、という。そこに彼は、アメリカという巨大な坩堝の、音楽の万華鏡を聞いたと言っている。

作曲は三週間ほどで進んだ。ガーシュウィンはまず二台のピアノのための譜を書き、それを楽団用に編曲したのは、ホワイトマン楽団の編曲者ファーディ・グローフェだった。グローフェはガーシュウィンの家に通い、書き上がったページから順に受け取って楽器に割り振っていった。独奏のピアノの部分は、本番までに書き上がらなかった。楽団の譜には、ピアノが即興で弾くあいだ「合図を待て」と書かれた箇所が残っている。初演のピアノを弾いたのはガーシュウィン自身で、その部分は即興で埋めた。
曲は、クラリネットの低いトリルから始まり、そこから一気に高い音へ駆け上がる。楽譜の上では、これは音階として書かれていた。リハーサルの際、ホワイトマン楽団のクラリネット奏者ロス・ゴーマンが、冗談半分にこの音階を、音の切れ目のない滑らかな滑り上がりで吹いた。ガーシュウィンはそれを気に入り、そのまま本番でもそう吹くように頼んだ、と伝えられる。以来、あの滑り上がりはこの曲の顔になった。クラリネットの穴を少しずつ開けながら、唇と息で音程を連続的に引き上げていく奏法で、いまも奏者にとって腕の見せどころである。

1924年2月12日、リンカーンの誕生日にあたる日の午後、マンハッタンのイオリアン・ホールで演奏会が開かれた。演目は二十を超え、会場は暑く、聴衆は長い演奏会に疲れていた。ラプソディは最後から二番目に置かれていた。客席には、作曲家のラフマニノフとイーゴリ・ストラヴィンスキー、ヴァイオリンのハイフェッツとクライスラー、指揮者のストコフスキー、行進曲の王スーザといった顔ぶれが並んでいたとされる。
クラリネットの滑り上がりで、会場の空気が変わった。演奏が終わると、拍手は長く続いた。新聞の批評は割れ、旋律の新しさをたたえる声と、曲の組み立てが素人じみていると難じる声とが並んだ。しかし聴衆の熱狂は本物だった。

楽譜と録音で、曲はたちまち広まった。同じ年のうちにガーシュウィンとホワイトマン楽団による録音が出て、よく売れた。ラジオの放送が始まったばかりの時代で(最初のラジオ放送)、音楽は以前とは比べものにならない速さで国中へ届くようになっていた。ガーシュウィンは、この一曲から最初の十年でおよそ二十五万ドルを得たと言われる。グローフェはその後、より大きな編成のための版を何度か作り、1942年の交響管弦楽の版が、いま最もよく演奏される形になっている。
曲はその後も、さまざまな場面で鳴り続けた。1945年には作曲家の伝記映画『アメリカ交響楽』(原題はこの曲の名)が作られ、1979年のウディ・アレンの映画『マンハッタン』は、冒頭のニューヨークの夜景にこの曲を重ねた。1984年のロサンゼルス五輪の開会式では、八十四台のピアノが一斉にこの曲を弾いている。航空会社の宣伝の音楽として、長く使われてもいる。

これはジャズなのか、クラシックなのか、という問いは、初演のときから繰り返された。ジャズの側からは、即興の要素が少なく、ジャズとは呼べないと言われた。クラシックの側からは、形式が緩く、主題を並べただけだと言われた。ガーシュウィン自身は、その区別にあまり関心がなかったように見える。ロシア帝国から渡ってきたユダヤ系移民の子として、ブルックリンとマンハッタンの下町で、街の流行歌、ハーレムの音、イディッシュの旋律、ヨーロッパの和声を、同じ耳で聞いて育った。十代で学校をやめ、楽譜出版社の店先で客のために新曲を弾く仕事から身を起こした人である。
彼は生涯、和声や管弦楽法をもっと学びたいと願っていた。パリでラヴェルに教えを請うたとき、ラヴェルは、すでに一流のガーシュウィンであるあなたが、二流のラヴェルになる必要はない、と答えたという。ストラヴィンスキーに同じことを頼み、ガーシュウィンの年収を聞いたストラヴィンスキーが、それなら私があなたに習いたい、と返した、という話もある。どちらの逸話も、いくつもの形で伝わっていて、どこまで本当かは分からない。

ガーシュウィンは1937年7月11日、脳腫瘍のためロサンゼルスで亡くなった。三十八歳だった。『ラプソディ・イン・ブルー』を書いてから十三年しか経っていなかった。