できごと

コルドバの大モスク

Great Mosque of Córdoba
AD785年(着工)
重要度 3
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)北極圏の海獣狩猟民サハラの遊牧民西アフリカの穀作農民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民サーミ東ローマ帝国フランク王国原スラヴ系の人びと後ウマイヤ朝スウェーデン系の人びとKryvichsBaltsアヴァールガーナ王国アクスム王国第一次ブルガリア帝国マクリアHejazMauriWarsenisアルワLombard principalitiesNeustriaAuresNobatiaBegaMagyarsBarghawataPolanesCantiaブレンミュエスSeveriansサクソン人West GetaesCzechsFrisiansAD785年(着工)コルドバ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD785年(着工)の版図を描いています(37勢力)。

概要

西ゴートの教会の跡に建てはじめ、200年かけて広げた。レコンキスタのあと、その真ん中に大聖堂が建て込まれる。

場所

コルドバ
37.89°N -4.78°E · スペイン・アンダルシア州

関わった人(1)

アブド・アッラフマーン1世AD731年–AD788年 · 命令

本文

750年、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が倒れた(アッバース革命)。新しいアッバース朝は、旧王家の一族を宴に招いて皆殺しにしたと伝えられる。その難を逃れた若い王子が一人いた。のちのアブド・アッラフマーン1世である。ユーフラテス川を泳いで渡り、追っ手をかわしながら北アフリカを5年かけて西へ逃れ、母の一族のベルベル人の助けも得て、755年にイベリア半島へ渡った。半島はその40年あまり前にイスラームの軍が西ゴート王国を倒して支配していた土地で、アラブ人とベルベル人の勢力が争っていた。アブド・アッラフマーンは翌756年にコルドバを取ってアミール(君主)を名のり、後ウマイヤ朝を開いた(後ウマイヤ朝)。

785年、彼はコルドバに大きなモスクを建てはじめた。場所は、西ゴート時代の聖ビセンテの教会があったところとされる。伝承によれば、征服のあとしばらく、この教会の建物はキリスト教徒とムスリムが半分ずつ分けて使っていた。アブド・アッラフマーンはキリスト教徒の側から残りの半分を買い取り、建物を取り壊して、新しい礼拝の場を建てたという。発掘では、床下から西ゴート時代の建物の跡が見つかっている。

コルドバのメスキータ(大モスク)
コルドバのメスキータ(大モスク)Wikimedia Commons Jim Gordon · CC BY 2.0

工事は急いだらしく、最初のモスクは1年あまりで形になった。柱には、周辺のローマ時代や西ゴート時代の建物から運んできた大理石や花崗岩の円柱を使った。拾い集めた柱は太さも高さもまちまちで、そのままでは天井が低くなる。そこで建築家たちは、柱の上にもう一段の柱を立て、下には馬蹄形のアーチを、上には半円のアーチを、二段に重ねて天井を持ち上げた。アーチは赤い煉瓦と白い石を交互に組んで縞模様にした。二段のアーチは、イベリア半島に残るローマの水道橋に学んだものとも言われる。こうして、紅白の縞のアーチが何重にも奥へ連なる、森のような礼拝の空間が生まれた。

モスクは、王朝が栄えるにつれて三度広げられた。9世紀にアブド・アッラフマーン2世が南へ延ばし、10世紀にはカリフを名のったアブド・アッラフマーン3世(コルドバのカリフ宣言)の子のハカム2世が、さらに南へ延ばした。ハカム2世の増築部分には、金色のモザイクで飾られたミフラーブ(メッカの方角を示す壁の窪み)がある。モザイクの職人と材料は、東ローマ皇帝が送ってよこしたと伝えられる。最後に、宰相として実権を握ったマンスールが東へ大きく広げ、モスクは2万平方メートルを超える広さになった。柱の数は1000本を超えていたとされる。マンスールは北のキリスト教国を何度も攻め、サンティアゴ・デ・コンポステーラから奪った鐘を、捕虜に担がせてコルドバへ運ばせ、モスクの灯火の台にしたという話も残る。

メスキータのオレンジの中庭
メスキータのオレンジの中庭Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Morinpat assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

10世紀のコルドバは、西ヨーロッパで並ぶもののない大都市だった。舗装された道と街灯と公衆浴場があり、ハカム2世の図書館には40万巻の書物があったと伝えられる(数は誇張とする見方が多い)。郊外には壮麗な宮殿都市メディナ・アッザフラーが築かれた。しかし11世紀の初めに内乱でカリフの政権は崩れ、イベリアのイスラーム勢力は小国に分かれていく。

1236年、カスティーリャ王フェルナンド3世がコルドバを取った。モスクは壊されず、清められてそのまま大聖堂として使われた。マンスールが運ばせた鐘は、今度はムスリムの捕虜に担がせてサンティアゴへ返されたと伝えられる。モスクの壁際には礼拝堂がいくつも設けられたが、柱の森そのものは300年近く残った。

モスク創建当初部分の柱と二重アーチ。柱と柱頭は古い建物からの転用材
モスク創建当初部分の柱と二重アーチ。柱と柱頭は古い建物からの転用材Wikimedia Commons Nicolas Vollmer from Munich [Allemagne] · CC BY 2.0

1523年、司教座聖堂の参事会は、建物の真ん中に壮大な礼拝堂と聖歌隊席を建てることを決めた。市の議会はこれに強く反対し、工事を止めようとしたが、国王カール5世が工事を許した。数年後に完成途中の礼拝堂を見た王は、「どこにでもあるものを建てるために、世界に一つしかないものを壊してしまった」と言ったと伝えられる。この言葉は後の記録に見えるもので、本当に言ったかどうかは確かでない。工事は以後200年以上かけて続けられ、柱の森の中央から、ルネサンスとバロックの高い天井が突き出す、今の姿になった。いま柱は850本あまりが残っている。

1984年、この建物は世界遺産に登録された。正式な名前は「聖母被昇天大聖堂」で、カトリック教会が管理し、毎日ミサが行われている。モスクとしての礼拝は認められていない。二つの宗教が重なり合ったこの建物を、モスクと呼ぶか大聖堂と呼ぶか、その呼び名そのものが、スペインではいまも議論になっている。

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