人物

ルーミー

Rumi
AD1207年9月30日 – AD1273年12月17日(享年66)
ルーム・セルジューク朝重要度 4

概要

ペルシア語の神秘詩人。800年後のいまも、英語圏で最も読まれる詩人の一人になっている。

所属

ルーム・セルジューク朝

関わったできごと(1)

ルーミー『精神的マスナヴィー』AD1270年頃 · 書いた

本文

本名はジャラールッディーン・ムハンマド。ルーミーとは「ルームの人」、つまりかつてローマ(ビザンツ)の領土だったアナトリアに住んだ人、という意味である。トルコでは「われらの師」を意味するメヴラーナの名で呼ばれる。

挿絵付き『シャムセ・タブリーズ詩集』(1502-1503年作成)
挿絵付き『シャムセ・タブリーズ詩集』(1502-1503年作成)Wikimedia Commons Unknown · Public domain

1207年9月30日、いまのアフガニスタン北部のバルフに生まれたとされる(タジキスタンのヴァフシュとする説もある)。父バハーウッディーン・ワラドは名の知れた神学者で、説教師だった。ルーミーがまだ少年の頃、一家は故郷を離れて西へ向かう。モンゴル帝国の拡大の軍が中央アジアに迫る直前のことで、モンゴルを避けたとも、土地の君主との不和のためともいわれる。バルフはまもなくモンゴル軍に破壊された。

一家は、メッカへの巡礼を経て、シリアやアナトリアを転々とした。途中のニーシャープールで、老いた神秘詩人アッタールが少年のルーミーを見て、この子はいつか世界の心に火をつけるだろう、と言ったという話があるが、後世の伝説とされる。やがてセルジューク朝の流れをくむルーム・セルジューク朝の都コンヤに落ち着いた。1231年に父が亡くなると、20代半ばのルーミーがその後を継いで、神学と法学の教師になった。父の弟子のもとで神秘主義の修行も積み、アレッポやダマスカスで学んでもいる。多くの弟子を持つ、尊敬される学者だった。

集団で旋回しながらサマーウを行うメヴレヴィー教団の修行風景
集団で旋回しながらサマーウを行うメヴレヴィー教団の修行風景Wikimedia Commons myself · Public domain

1244年、37歳のとき、コンヤにシャムス・タブリーズィーという放浪の修行者が現れた。二人がどう出会ったかについては、いくつもの話が伝わる。確かなのは、ルーミーがこの年長の男にすっかり心を奪われたことである。何か月も二人きりで語り合い、講義も弟子もほうっておいた。弟子たちは嫉妬し、シャムスを憎んだ。シャムスは一度コンヤを去り、ルーミーは息子をダマスカスへやって連れ戻させた。だがまもなく、シャムスはふたたび姿を消し、二度と戻らなかった。弟子たちに殺されたという説があるが、確かではない。

この喪失のあとから、ルーミーは詩を書き始めた。それまで学問の人だったルーミーは、別れの痛みと神への愛を、溢れるように言葉にした。回りながら詩を口ずさんだとも伝えられる。抒情詩を集めた詩集は数万行に及び、自分の名ではなく、シャムスの名を冠して残された。詩の中で、失った友と神とが、しばしば区別がつかなくなる。

ルーミーの肖像(フセイン・ベフザード画)
ルーミーの肖像(フセイン・ベフザード画)Wikimedia Commons Hossein Behzad · Public domain

晩年の大作が『精神的マスナヴィー』である(ルーミー『精神的マスナヴィー』)。弟子フサームッディーン・チャラビーの勧めで、ルーミーが語る詩を弟子が書き留めていった。6巻、2万5千行ほどに及ぶ。冒頭は、葦原から切り取られた葦笛が、もとの場所から引き離された別れを嘆いて鳴る、という場面で始まる。人の魂もまた、神から離れたことを嘆いている、という比喩である。物語や寓話、クルアーンの解釈を織り交ぜたこの作品は、のちに「ペルシア語のクルアーン」とまで呼ばれた。

ルーミーが生きたのは、平穏な時代ではない。1243年、ルーム・セルジューク朝はモンゴル軍に敗れて属国になり、1258年にはアッバース朝の都が落ちた(バグダードの陥落)。イスラーム世界が大きく揺れるなかで、彼の詩は宗派や民族の境を越える愛を語った。神への愛を詩にした女性神秘家ラービア以来の(ラービアと神への愛)、イスラーム神秘主義の流れの頂点の一つとされる。

バグダードの陥落に関わる図版:Bagdad1258
バグダードの陥落Wikimedia Commons Sayf al-vâhidî et al. · Public domain

1273年12月17日、コンヤで亡くなった。66歳だった。葬列にはムスリムだけでなく、キリスト教徒やユダヤ教徒も加わったと伝えられる。弟子たちは、この日を神との合一の日として「婚礼の夜」と呼び、いまもコンヤでは毎年この日に追悼の儀礼が行われる。緑の円屋根の廟は、現在は博物館になっている。

死後、息子のスルタン・ワラドが弟子たちを教団にまとめた。これがメヴレヴィー教団で、白い衣の裾を広げて回り続ける旋舞(セマー)の儀礼で知られる。教団はのちのオスマン帝国で大きな力を持ったが、1925年、トルコ共和国が教団を禁じた。セマーはいまは文化行事として演じられている。

スーフィーの神秘主義者たちを集めるルーミー
スーフィーの神秘主義者たちを集めるルーミーWikimedia Commons Public domain

20世紀の終わり、英語の自由な訳詩が出ると、ルーミーはアメリカで最も売れる詩人の一人になった。ただ、その訳の多くはイスラームの言葉や背景を薄めており、原作から離れすぎているとの批判もある。800年前のペルシア語の詩が、別の言葉で、別の読者に読まれ続けている。

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