リストと独奏会の誕生
概要
それまで演奏会は、複数の演奏者が交互に出る寄せ集めだった。リストは一人で全部を弾き、ピアノを客席に横向きに置いて横顔を見せ、暗譜で弾いた。「リサイタル」という語をこのとき使った。熱狂は「リストマニア」と呼ばれ、女性が手袋やハンカチを奪い合った。彼は稼いだ金をベートーヴェン記念碑とハンガリーの水害の被災者に投じ、35歳で演奏活動をやめ、後に僧籍に入った。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
フランツ・リストAD1811年10月22日–AD1886年7月31日 · はじめた本文
1830年代までのヨーロッパの演奏会は、いまの形とはずいぶん違っていた。一晩の演目は寄せ集めである。管弦楽の序曲で始まり、協奏曲の一つの楽章、歌手のアリア、ピアノの独奏、別の歌手の歌、即興の変奏、そしてまた合奏で締めくくる。舞台には何人もの演奏者が入れ替わり立ち替わり現れた。一人のピアニストが一晩を全部弾き通すことはなかった。そんなことをすれば、聴衆が飽きて耐えられないと考えられていた。
演奏者は楽譜を見て弾くのがふつうで、何も見ずに弾くのは、記憶力をひけらかす、作曲者に対して不遜な振る舞いと受け取られることさえあった。ピアノを舞台のどの向きに置くかにも、決まったやり方はなかった。

これらを一つずつ変えていったのが、ハンガリー生まれのピアニスト、フランツ・リスト(1811〜1886年)である。神童として少年のころからウィーンとパリで名を知られていたが、彼の進む道を決めたのは、1832年の春にパリで聴いたイタリアのヴァイオリン奏者パガニーニの演奏だった。悪魔に魂を売ったと噂されたほどの超絶的な技巧に、二十歳のリストは打ちのめされた。友人への手紙に、何という男、何というヴァイオリン、何という芸術家、あの四本の弦の中にどれほどの苦しみと悲惨があることか、と書いている。ピアノで同じことをしてみせる、と彼は決めた。それから数年、一日に何時間も練習を重ね、ピアノの技巧を根本から作り直していった。
1839年から1847年までの八年あまり、リストはヨーロッパ中を演奏して回った。西はリスボンとダブリン、東はモスクワとイスタンブール、北はスコットランドから南はスペインまで。その数は千回ほどにのぼるとされる。鉄道が通り始めたばかりの時代で、多くは馬車の旅だった。

この巡演の中で、彼はいくつもの新しいことを始めた。一つは、一人で一晩を弾き通す演奏会である。1839年、ローマで初めてそれを試みた彼は、知人への手紙で、これは「音楽の独白」だと書いた。1840年6月9日、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで開かれた演奏会の告知には、「ピアノフォルテによるリサイタル」という言葉が刷られた。この言葉を考えたのは、ロンドンの楽譜出版業者だったとも言われる。もともと「朗唱する」という意味の語で、楽器の演奏に使うのは耳慣れない言い方だった。なぜ一人で、と首をかしげる批評も出た。
二つ目は、ピアノの置き方である。リストはピアノを客席に対して横向きに置き、開いた蓋が客席の側へ音を反射するようにした。音がよく届き、そして聴衆からは演奏者の横顔がよく見えた。三つ目は、楽譜を置かずに弾くことである。暗譜で弾く彼の姿は、演奏者と音楽が一つになったように見えた。どちらも、いまではピアノの独奏会の当たり前の姿になっている。

曲目にも工夫があった。自作の超絶技巧の曲だけでなく、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのソナタ、フランツ・シューベルトの歌曲をピアノに移した編曲、人気のオペラの旋律を使った幻想曲を並べた。まだあまり演奏されていなかったベートーヴェンの後期の作品を広く聴かせたのも、彼の功績である。演奏の姿も劇的だった。長い髪を振り乱し、鍵盤に覆いかぶさるように弾く。当時のピアノは彼の激しい打鍵に耐えられず、弦が切れ、ハンマーが壊れることもあったため、舞台に予備のピアノを置いたと伝えられる。
聴衆の熱狂は、それまでの演奏家に向けられたものとは違っていた。詩人ハイネは1844年、この熱狂を、はやり病になぞらえて「リストマニア」と呼んだ。女性たちが舞台に押し寄せ、彼の手袋やハンカチを奪い合った。ちぎれたピアノの弦や、彼が吸った葉巻の吸い殻を拾って大事に持ち帰った者がいた、飲み残したコーヒーの滓を小瓶に入れて身に着けた者がいた、という話も伝わっている。演奏家が、いまで言うスターになったのは、これが最初だったと言ってよい。

リストは、その熱狂を存分に利用したが、得た金には執着しなかった。1838年、故郷のハンガリーでペシュトの町がドナウ川の大洪水に襲われると、ウィーンで慈善の演奏会を開いてその収益を送った。ボンでは、ベートーヴェンの記念像を建てる計画が資金不足で行き詰まっていたが、リストが足りない分の大半を出し、1845年の除幕にこぎつけた。ケルン大聖堂の工事や、ハンガリーの音楽学校の設立にも寄付を重ねた。
そして、1847年9月、今のウクライナにあるエリザヴェトグラードの町で開いた演奏会を最後に、彼は金を取って弾くことをやめた。三十五歳、名声の頂点だった。以後、慈善のためを除いて、ピアニストとして入場料を取ることは二度となかった。

翌年からはドイツのヴァイマルの宮廷に楽長として腰を据え、指揮者、作曲家として生きた。1850年には、革命に加わって国外に逃れていたリヒャルト・ワーグナーの歌劇『ローエングリン』を初演している。作者のワーグナーは、その初演を聴くことができなかった。リストは管弦楽で詩や絵の内容を描く「交響詩」という形を作り、十三曲を書いた。ロ短調のピアノ・ソナタも、この時期の作品である。弟子をとって教えることにも熱心で、生涯に教えた弟子は数百人にのぼるが、謝礼は受け取らなかったという。
1865年、リストはローマで下級の聖職の位を受け、「アッベ(神父)・リスト」と呼ばれるようになった。娘のコジマは指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったが、のちにワーグナーのもとへ去って結婚し、リストはしばらく娘と口をきかなかった。

1886年7月31日、リストはワーグナーの楽劇を上演する音楽祭が開かれていたバイロイトで、肺炎のため亡くなった。七十四歳だった。娘のコジマは、亡き夫の音楽祭の運営に追われていた。ピアノの独奏会という形、ピアノを横向きに置く舞台、暗譜で弾く演奏家の姿、そして熱狂する聴衆。いま私たちが当たり前に思っている演奏会の姿の多くは、この人から始まっている。