できごと

リストと独奏会の誕生

Liszt invents the recital
AD1840年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1840年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1840年の版図を描いています(22勢力)。

概要

それまで演奏会は、複数の演奏者が交互に出る寄せ集めだった。リストは一人で全部を弾き、ピアノを客席に横向きに置いて横顔を見せ、暗譜で弾いた。「リサイタル」という語をこのとき使った。熱狂は「リストマニア」と呼ばれ、女性が手袋やハンカチを奪い合った。彼は稼いだ金をベートーヴェン記念碑とハンガリーの水害の被災者に投じ、35歳で演奏活動をやめ、後に僧籍に入った。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

フランツ・リストAD1811年10月22日–AD1886年7月31日 · はじめた

本文

1830年代までのヨーロッパの演奏会は、いまの形とはずいぶん違っていた。一晩の演目は寄せ集めである。管弦楽の序曲で始まり、協奏曲の一つの楽章、歌手のアリア、ピアノの独奏、別の歌手の歌、即興の変奏、そしてまた合奏で締めくくる。舞台には何人もの演奏者が入れ替わり立ち替わり現れた。一人のピアニストが一晩を全部弾き通すことはなかった。そんなことをすれば、聴衆が飽きて耐えられないと考えられていた。

演奏者は楽譜を見て弾くのがふつうで、何も見ずに弾くのは、記憶力をひけらかす、作曲者に対して不遜な振る舞いと受け取られることさえあった。ピアノを舞台のどの向きに置くかにも、決まったやり方はなかった。

フランツ・リストの肖像
フランツ・リストの肖像Wikimedia Commons Franz Hanfstaengl · CC0

これらを一つずつ変えていったのが、ハンガリー生まれのピアニスト、フランツ・リスト(1811〜1886年)である。神童として少年のころからウィーンとパリで名を知られていたが、彼の進む道を決めたのは、1832年の春にパリで聴いたイタリアのヴァイオリン奏者パガニーニの演奏だった。悪魔に魂を売ったと噂されたほどの超絶的な技巧に、二十歳のリストは打ちのめされた。友人への手紙に、何という男、何というヴァイオリン、何という芸術家、あの四本の弦の中にどれほどの苦しみと悲惨があることか、と書いている。ピアノで同じことをしてみせる、と彼は決めた。それから数年、一日に何時間も練習を重ね、ピアノの技巧を根本から作り直していった。

1839年から1847年までの八年あまり、リストはヨーロッパ中を演奏して回った。西はリスボンとダブリン、東はモスクワとイスタンブール、北はスコットランドから南はスペインまで。その数は千回ほどにのぼるとされる。鉄道が通り始めたばかりの時代で、多くは馬車の旅だった。

リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期)
リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期)Wikimedia Commons Artist not credited. · Public domain

この巡演の中で、彼はいくつもの新しいことを始めた。一つは、一人で一晩を弾き通す演奏会である。1839年、ローマで初めてそれを試みた彼は、知人への手紙で、これは「音楽の独白」だと書いた。1840年6月9日、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで開かれた演奏会の告知には、「ピアノフォルテによるリサイタル」という言葉が刷られた。この言葉を考えたのは、ロンドンの楽譜出版業者だったとも言われる。もともと「朗唱する」という意味の語で、楽器の演奏に使うのは耳慣れない言い方だった。なぜ一人で、と首をかしげる批評も出た。

二つ目は、ピアノの置き方である。リストはピアノを客席に対して横向きに置き、開いた蓋が客席の側へ音を反射するようにした。音がよく届き、そして聴衆からは演奏者の横顔がよく見えた。三つ目は、楽譜を置かずに弾くことである。暗譜で弾く彼の姿は、演奏者と音楽が一つになったように見えた。どちらも、いまではピアノの独奏会の当たり前の姿になっている。

1884年フランツ・リストと生徒たち
1884年フランツ・リストと生徒たちWikimedia Commons Louis Held (1851–1927) · Public domain

曲目にも工夫があった。自作の超絶技巧の曲だけでなく、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのソナタ、フランツ・シューベルトの歌曲をピアノに移した編曲、人気のオペラの旋律を使った幻想曲を並べた。まだあまり演奏されていなかったベートーヴェンの後期の作品を広く聴かせたのも、彼の功績である。演奏の姿も劇的だった。長い髪を振り乱し、鍵盤に覆いかぶさるように弾く。当時のピアノは彼の激しい打鍵に耐えられず、弦が切れ、ハンマーが壊れることもあったため、舞台に予備のピアノを置いたと伝えられる。

聴衆の熱狂は、それまでの演奏家に向けられたものとは違っていた。詩人ハイネは1844年、この熱狂を、はやり病になぞらえて「リストマニア」と呼んだ。女性たちが舞台に押し寄せ、彼の手袋やハンカチを奪い合った。ちぎれたピアノの弦や、彼が吸った葉巻の吸い殻を拾って大事に持ち帰った者がいた、飲み残したコーヒーの滓を小瓶に入れて身に着けた者がいた、という話も伝わっている。演奏家が、いまで言うスターになったのは、これが最初だったと言ってよい。

フランツ・リスト(ヘルマン・ビオウ撮影、1843年)
フランツ・リスト(ヘルマン・ビオウ撮影、1843年)Wikimedia Commons Herman Biow · Public domain

リストは、その熱狂を存分に利用したが、得た金には執着しなかった。1838年、故郷のハンガリーでペシュトの町がドナウ川の大洪水に襲われると、ウィーンで慈善の演奏会を開いてその収益を送った。ボンでは、ベートーヴェンの記念像を建てる計画が資金不足で行き詰まっていたが、リストが足りない分の大半を出し、1845年の除幕にこぎつけた。ケルン大聖堂の工事や、ハンガリーの音楽学校の設立にも寄付を重ねた。

そして、1847年9月、今のウクライナにあるエリザヴェトグラードの町で開いた演奏会を最後に、彼は金を取って弾くことをやめた。三十五歳、名声の頂点だった。以後、慈善のためを除いて、ピアニストとして入場料を取ることは二度となかった。

リストの父アダム・リスト
リストの父アダム・リストWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

翌年からはドイツのヴァイマルの宮廷に楽長として腰を据え、指揮者、作曲家として生きた。1850年には、革命に加わって国外に逃れていたリヒャルト・ワーグナーの歌劇『ローエングリン』を初演している。作者のワーグナーは、その初演を聴くことができなかった。リストは管弦楽で詩や絵の内容を描く「交響詩」という形を作り、十三曲を書いた。ロ短調のピアノ・ソナタも、この時期の作品である。弟子をとって教えることにも熱心で、生涯に教えた弟子は数百人にのぼるが、謝礼は受け取らなかったという。

1865年、リストはローマで下級の聖職の位を受け、「アッベ(神父)・リスト」と呼ばれるようになった。娘のコジマは指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったが、のちにワーグナーのもとへ去って結婚し、リストはしばらく娘と口をきかなかった。

14-15歳頃のフランツ・リスト(ジャン・ヴィニョー画、1826年)
14-15歳頃のフランツ・リスト(ジャン・ヴィニョー画、1826年)Wikimedia Commons Jean Vignaud · Public domain

1886年7月31日、リストはワーグナーの楽劇を上演する音楽祭が開かれていたバイロイトで、肺炎のため亡くなった。七十四歳だった。娘のコジマは、亡き夫の音楽祭の運営に追われていた。ピアノの独奏会という形、ピアノを横向きに置く舞台、暗譜で弾く演奏家の姿、そして熱狂する聴衆。いま私たちが当たり前に思っている演奏会の姿の多くは、この人から始まっている。

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