人物

ネサワルコヨトル

Nezahualcoyotl
AD1402年4月28日 – AD1472年(享年70・推定)
テスココ重要度 3

概要

三国同盟の一角の王であり、詩人であり、技師でもあった。堤防を築いて湖の塩水と真水を分けている。

関わったできごと(1)

テスココ湖の堤防AD1449年 · 設計

本文

1402年4月28日、メキシコ盆地の湖の東岸にあった都市テスココで、王イシュトリルショチトルの子として生まれた。名はナワトル語で「飢えたコヨーテ」を意味する。母はテノチティトランを治めるメシカ(アステカ)の王家の娘だった。当時の盆地では、湖の西岸のアスカポツァルコを本拠とするテパネカ族が最も強く、その王テソソモクが周りの都市を従えようとしていた。

ネサワルコヨトル(『イシュトリルショチトル文書』による)
ネサワルコヨトル(『イシュトリルショチトル文書』による)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1418年、テパネカの軍がテスココを攻め、父王は殺された。16歳の王子は木の上に隠れ、父が討たれるのを見ていた、と伝えられる。テスココは征服され、王子は追われる身となった。各地に身を潜め、のちには母の縁でテノチティトランに身を寄せた時期もある。命を狙われて逃げ延びた話が、後世多く語られている。

1426年頃、テソソモクが死に、跡を継いだマシュトラが周りの都市への締めつけを強めた。ネサワルコヨトルは、テノチティトランの王イツコアトル、そしてトラコパンの勢力と手を結んだ。1428年、連合軍はアスカポツァルコを攻め落とす。この三つの都市の同盟が、のちに「アステカ帝国」と呼ばれるものの骨組みになった(アステカ)。1431年頃、ネサワルコヨトルはテスココの王位を取り戻した。

ネサワルコヨトル
ネサワルコヨトルWikimedia Commons Akapochtli · CC BY 3.0

王としてのテスココは、同盟の中で、とりわけ法と学芸の都として知られた。彼は法を定め、裁きの場を整え、音楽や学問を司る評議会を置いたとされる。王宮には書記や職人が集められ、絵文字の文書が作られた。後世、テスココは「アナワクのアテネ」と呼ばれる。

同時に、技師でもあった。テノチティトランの建設以来、湖の中の島に広がったテノチティトランは、しばしば洪水に苦しんだ。テスココ湖の東側の水は塩気を含み、雨季には水位が上がって都を浸した。1449年頃の大水のあと、ネサワルコヨトルはテノチティトランの王モテクソマ1世の求めに応じて、湖を南北に横切る長さ16キロほどの堤防を築かせた(テスココ湖の堤防)。杭を打ち、石と土で固めたこの堤は、都を洪水から守り、同時に西側の湖を真水に保って、湖上の畑(チナンパ)を塩害から守った。チャプルテペクの泉から都へ水を引く水道の工事にも関わったとされる。テスココの近くの丘テツコツィンコには、岩を刻んだ水路と浴槽を持つ庭園を造らせている。

テスココの宮殿(キナツィン絵文書)
テスココの宮殿(キナツィン絵文書)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

そして、詩を残している。正確には、彼の作とされる詩が伝わっている。花と歌、そして命のはかなさを歌うもので、「われらは永遠にこの地にあるのではない、ただひととき、ここにあるだけだ」という趣旨の句がよく知られる。これらの詩はスペインによる征服の後、16世紀に修道士たちがラテン文字で書き留めた歌の集にあり、どれが本当に彼の作かは分からない。

人身供犠に消極的で、「知られざる神」、目に見えず形も無い至高の神に捧げる神殿を建て、そこに像を置かなかった、とも伝えられる。ただ、この話を伝えるのは、17世紀に彼の子孫フェルナンド・デ・アルバ・イシュトリルショチトルが書いた歴史書である。キリスト教徒となった子孫が、自分の祖先を、キリスト教の唯一神に近づいていた賢王として描いた可能性が指摘されている。

1472年に死去した。テスココの王位は息子のネサワルピリが継いだ。父と同じく賢王として知られる王である。それから半世紀後、スペイン人がメキシコに来る。テノチティトランは1521年に陥落し(テノチティトランの陥落)、三国同盟の世界は崩れた。ネサワルコヨトルの築いた堤防も、のちに湖の干拓とともに姿を消した。

テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
テノチティトランの陥落Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

それでも、詩人であり技師であった王の名は、メキシコで特別な位置を占めている。100ペソ紙幣にはその肖像と詩が刷られていた。征服される前の世界にも、法があり、詩があり、技術があった。そのことを示す人物として、彼は記憶されている。

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