千利休
概要
茶の湯を簡素の美として大成した。秀吉に切腹を命じられる。
所属
日本関わったできごと(1)
侘び茶の大成AD1580年頃 · 当人本文
1522年、和泉の堺に生まれた。家は魚問屋を営む商人で、幼名を与四郎といった。堺は当時、海外との交易で栄えた自治の町で、会合衆と呼ばれる豪商たちが町を治めていた。豪商たちのあいだでは、茶の湯が教養であり、商いのつきあいの場でもあった。与四郎も10代で茶を学び始め、のちに堺の茶人、武野紹鷗に学んだとされる。京都の大徳寺で禅を学び、宗易と名乗った。

茶の湯には、その前の時代からの流れがあった。15世紀の末、村田珠光と侘び茶に始まり、紹鷗へと受け継がれた「侘び茶」である。中国から渡ってきた高価な唐物の道具を飾って楽しむ華やかな茶に対して、質素な道具と小さな空間で、心の静けさを求める茶だった。宗易は、この流れを突き詰めていく。
織田信長が堺を支配下に置くと、宗易は信長の茶頭、つまり茶の湯を取り仕切る役の一人になった。織田信長は名物の茶道具を集め、手柄を立てた家臣に与えたり、茶会を開く許しを与えたりした。茶の湯は、政治の道具になっていた。1582年の本能寺の変で信長が倒れると、宗易は豊臣秀吉に仕える。

秀吉のもとで、宗易の地位はさらに高まった。1585年、秀吉が宮中で正親町天皇に茶を献じたとき、宗易はそれを助け、このとき「利休居士」の号を授かった。1587年には、秀吉が京都の北野天満宮で、身分を問わず誰でも参加できる大茶会を開き、利休はその中心にいた。豊臣政権の大名たちは、利休を通じて秀吉に取り次ぎを頼むこともあった。茶の師であると同時に、政権の内側にいる人物になっていた。
利休が完成させた茶の湯は、徹底して簡素だった(侘び茶の大成)。京都の山崎に残る茶室「待庵」は、利休の作と伝えられ、広さはわずか二畳しかない。入口は「にじり口」と呼ばれる小さな戸で、刀を外し、身をかがめないと入れない。中に入れば、武将も商人も同じ高さに座る。道具も、唐物の名物ではなく、日常の雑器や、瓦職人の長次郎に作らせた黒い楽茶碗を使った。飾りのない、手の中にすっぽり収まる茶碗である。

足りないことに美を見出す。ただ、それは偶然の「足りなさ」ではなく、高度に考え抜かれ、作り込まれた「足りなさ」だった。利休の朝顔の逸話はそれをよく示している。庭の朝顔が見事だと聞いた秀吉が茶会に来ると、庭の朝顔はすべて摘み取られていて、茶室の床にただ一輪だけが生けてあった、という話だ。後の時代の書物に見える話で、史実かは分からない。
秀吉が金箔を張った「黄金の茶室」を作らせたことは、利休の侘び茶と正反対のものとしてよく並べて語られる。だが、組み立て式のこの茶室の設計にも、利休が関わったと考えられている。華やかさと簡素さは、秀吉と利休のあいだで、必ずしも対立するものではなかった。

1591年、利休は突然、秀吉の怒りを買った。堺へ追放され、京都に呼び戻されたうえで、切腹を命じられた。数えで70歳。屋敷は上杉家の兵に囲まれていたと伝えられる。理由とされたのは二つ。大徳寺の山門の上層を寄進したとき、そこに自分の木像を置かせたため、その下を秀吉がくぐることになる、というもの。そして、茶道具を不当に高く売って私腹を肥やした、というものだった。木像は引きずり下ろされ、京都の一条戻橋で、首とともにさらされたという。
本当の理由は分かっていない。朝鮮への出兵(のちの文禄・慶長の役)に反対したため、娘を秀吉に差し出すのを拒んだため、政権内の派閥争いに巻き込まれたため、など多くの説が語られてきたが、決め手は無い。

利休の茶は、弟子の古田織部や細川忠興らに受け継がれた。孫の宗旦が家を再興し、その子たちから表千家・裏千家・武者小路千家の三つの家が生まれて、いまに続いている。二畳の空間で、身分を外して向き合う。戦国の終わりに一人の商人が形にした茶の湯は、400年あまりたったいまも、日本人の美の感覚の土台の一つになっている。