セリミエ・モスクの完成
概要
ミマール・スィナンが80代で建て、自ら「親方としての作」と呼んだ。円蓋の直径がハギア・ソフィアをわずかに超える。高さでは及ばなかった。
場所
41.68°N 26.56°E · トルコ・エディルネ県
関わった人(1)
ミマール・スィナンAD1489年頃–AD1588年7月17日 · 設計本文
オスマン帝国の都はイスタンブールだが、このモスクが建ったのは、そこから西へ200キロあまり離れたエディルネである。14世紀の後半からコンスタンティノープルを落とすまで、エディルネは帝国の都だった。バルカンへの遠征の出発点で、スルタンたちが狩りを好んだ町でもある。スレイマン1世の息子セリム2世は、皇子の時代からこの町に親しみ、自分の名を冠するモスクをここに建てさせた。
設計したのは、宮廷の建築家長ミマール・スィナンである。キリスト教徒の家に生まれ、少年の時に徴用されてイェニチェリとなり、工兵として遠征を重ねたのち、50歳ごろ建築家長に任じられた。以後半世紀、モスク、学院、橋、浴場、隊商宿を数百も手がけた。セリミエの工事が始まった1568年ごろ、彼はすでに80歳に近かった。
建てる場所も選ばれた。エディルネの町の中ほどにある小高い丘で、平らなトラキアの野からは、遠くからでも円蓋と4本の塔が見える。町に近づく旅人が最初に目にするのが、このモスクになるように置かれている。
晩年、スィナンは自分の仕事を振り返って三つを挙げたと、自伝に書かせている。イスタンブールのシェフザーデ・モスクは「徒弟の作」、スレイマニエ・モスクは「職人の作」、そしてエディルネのセリミエは「親方の作」である。

スィナンには、越えたい建物があった。千年前にユスティニアヌスが建てたハギア・ソフィアの完成である。自伝には、キリスト教徒の建築家たちが、ムスリムにはあれほどの円蓋は造れないと言っていた、とある。セリミエの円蓋の直径は約31メートルで、ハギア・ソフィアとほぼ同じか、わずかに上回るとされる。古い円蓋は何度も崩れて直され、形が歪んでいるため、測り方で数字が揺れる。高さでは、ハギア・ソフィアに及ばなかった。
構造の工夫は、円蓋を支える8本の太い柱にある。柱は壁際に寄せられ、そのあいだに大きな窓が並ぶ。内部には視線をさえぎる柱がほとんど無く、床のどこに立っても、頭上に一つの円蓋が浮かんで見える。光は数百の窓から入る。円蓋のちょうど真下には、礼拝の呼びかけ役が立つ台が置かれ、その下に小さな泉がある。空間の中心が、そのまま建物の中心になっている。

四角い建物の上に円い屋根を載せるのは、どの時代の建築家にも難題だった。スレイマニエでは、ハギア・ソフィアと同じく大きな半円蓋を前後に添えて重さを逃がした。セリミエでは、それをやめた。四角い壁の内側に8本の柱で八角形を作り、その角を小さな半円蓋でつないで、円蓋を受ける輪にしている。内部が一つの部屋のように感じられるのは、このためである。
外側の四隅には、細いミナレットが立つ。高さは70メートルを超え、イスラーム世界でも屈指の高さである。それぞれにバルコニーが三段あり、中には三本の階段が互いに出会わずに巻き上がっていくものがある。一つの塔の中で、三人の呼びかけ役が顔を合わせずに別々の段へ上れる。

内装には、イズニクの窯で焼かれた色鮮やかなタイルが使われた。とくにスルタンの礼拝席のまわりは、花やチューリップを描いたタイルで埋め尽くされている。イズニクのタイルが最も美しかった時期の作で、オスマンの工芸の頂点の一つとされる。モスクのまわりには学院や施設が並び、のちに参道沿いに市場も加えられた。
工事の費用には、セリム2世の代に征服したキプロスの戦利品が充てられたと伝えられる。同じ代に、帝国の艦隊はレパントの海戦で敗れている。だがセリム2世は、完成を見なかった。1574年の暮れにイスタンブールで死に、モスクは翌年に開かれた。

スィナンは1588年、百歳近くで死んだ。墓は自分が建てたスレイマニエ・モスクの角にある、小さく簡素なものだ。セリミエは2011年に世界遺産に登録され、いまも礼拝の場として使われている。スィナンの肖像とこのモスクは、トルコの紙幣の図柄にも使われた。