概要
南フランスの丘の町。もとは皮なめしの産地だった。なめした革は臭う。16世紀、革手袋に香りを付けることが流行し、この町が香料の栽培と加工に転じた。ジャスミン、バラ、チュベローズ、ラベンダー、オレンジの花。花は摘んですぐ処理しなければ香りが失われるので、畑と工房が隣り合う必要がある。冷浸法で油脂に香りを移し、アルコールで抽出する。19世紀、合成香料が現れ、天然にない香りが作れるようになった。
場所
43.66°N 6.92°E · フランス・アルプ=マリティーム県
本文
**革の町**。
**グラース**。南フランス、ニースの北の丘の町。
中世から、**皮なめし**の産地だった。
(近くに水があり、なめしに使うタンニンを含む植物があった。)
**問題**。
**なめした革は、臭う**。
(当時のなめしには、**動物の糞尿**と、**尿**が使われた。脱毛と、繊維の軟化のためである。
そして、その臭いが、完成した革にも残る。)
**16世紀**。
**革手袋**が、貴族の間で流行した。
そして——**香りを付けた手袋**が、さらに流行した。
(カトリーヌ・ド・メディシスが、イタリアからこの風習を持ち込んだ、とされる。
彼女の香水師**レナート・ビアンコ**〈フランス名ルネ・ル・フロランタン〉が、パリで店を開いた。
——彼は、**毒殺の疑い**をかけられた人物でもある。香水と毒は、同じ技術の産物である。)
グラースの職人は、既に手袋を作っていた。そこに、周囲の丘で採れる花の香りを付けた。
**1614年**、国王が「**手袋商・香水商**」の同業組合を認可した。
**転換**。
17世紀後半、**手袋への課税**が重くなり、そして流行も去った。
グラースは、**香料そのものへ**転じた。
**なぜ、この町か**。
**(1)気候**。
地中海性気候。冬が温暖で、夏が乾く。丘の斜面で、日当たりがよい。
**(2)花が育つ**。
- **ジャスミン**(グランディフローラム種)——最も高価。 - **センティフォリア・ローズ**(キャベツ・ローズ、五月薔薇)。 - **チュベローズ**。 - **ラベンダー**、**ミモザ**、**オレンジの花**(ネロリ)、**スミレ**。
**(3)そして、決定的な理由**。
**花は、摘んだ瞬間から、香りが失われていく**。
ジャスミンは、**夜明け前に、手で摘む**(日が昇ると、香りが飛ぶ)。
そして、**数時間以内に、処理しなければならない**。
**だから、畑と、工房が、隣り合っていなければならない**。
(香料の産地が、花の産地でなければならない理由が、これである。輸送できない。)
**方法**。
**(1)水蒸気蒸留**。
熱に強い花(ラベンダー、ローズ)に使う。
蒸気を通し、精油を含む蒸気を冷やして、油と水を分ける。
(副産物として、**フローラル・ウォーター**〈ローズウォーター、オレンジフラワーウォーター〉が得られる。中東と地中海の菓子に、いまも使われる。)
**(2)アンフルラージュ**(冷浸法)。
**熱に弱い花**——ジャスミン、チュベローズ——に使う。
- ガラスの板に、**精製した無臭の獣脂**(牛と豚の脂を混ぜたもの)を、薄く塗る。 - その上に、**花を並べる**。 - 木枠に挟んで、積み上げる。 - **24〜72時間**置く。 - 花を取り除き、**新しい花を並べる**。 - これを、**20〜30回、繰り返す**。
(脂が、香りを吸う。)
- 香りで飽和した脂(**ポマード**)を、**アルコール**に溶かす。 - アルコールを飛ばすと、**アブソリュート**(純粋な香料)が残る。
**極めて手間がかかる**。
(1kgのジャスミンのアブソリュートを得るのに、**約700万〜800万個の花**が必要とされる。
——だから、値段が、金より高くなる。)
(この方法は、20世紀後半、**溶剤抽出**(ヘキサンなどを使う)に、ほぼ置き換えられた。安く、効率がよい。
アンフルラージュは、いまも、ごく一部で行われている。)
**19世紀の転換**。
**合成香料**。
- **1868年**、**ウィリアム・パーキン**(モーヴの人)が、**クマリン**を合成した。
(新しく刈った干し草の香り。天然にはトンカ豆などに含まれる。)
- **1874年**、**バニリン**の合成(ハールマンとティーマン)。
(バニラの主成分。バニラの莢は、当時、極めて高価だった。手で受粉させ、長い発酵の工程を要する。
——合成バニリンは、その値段を、桁違いに下げた。)
- **1888年**、**ムスク・バウア**(合成ムスク)。
(天然の麝香は、**ジャコウジカの雄の腺**から採る。一頭から数十グラム。そのために、鹿が殺された。
合成品が現れて、この殺戮が減った。〈完全には、なくなっていない。〉)
- **1898年**、**イオノン**(スミレの香り)。
(スミレの花からの抽出は、収率が極端に低く、非現実的だった。合成品が、それを可能にした。)
**そして、1921年**。
**シャネルNo.5**。
**エルネスト・ボー**(調香師。ロシア生まれ)が、ココ・シャネルのために作った。
**革新**——**アルデヒド**を、大量に使った。
(脂肪族アルデヒド。天然の花にはない、抽象的で、金属的で、そして石鹸のような清潔感のある香り。
——それまでの香水は、「**薔薇の香り**」「**スミレの香り**」——自然にあるものを模倣した。
No.5は、**自然界のどこにもない香り**だった。「花の香りではなく、女性の香り」とシャネルは言った。)
(有名な逸話——助手が、アルデヒドの量を桁違いに間違えて入れた、とされる。
**これは、後の脚色である**可能性が高い。ボーは、意図的に使ったと考えられている。)
**現在**。
グラースは、いまも「**香水の都**」を名乗っている。
ただし——
- 花の栽培面積は、20世紀に**激減した**。
(土地の値段が上がり、宅地になった。そして、より安い産地〈エジプト、インド、モロッコ、ブルガリア〉から輸入するほうが安い。)
- 現在、グラースで作られているものの中心は、**花そのものではなく、調合と、技術と、そして「香料産業の本社機能」**である。
(**ジボダン**、**フィルメニッヒ**、**IFF**、**シムライズ**——世界の香料の大半を作る数社が、この地域に拠点を持つ。
そして、彼らが作るのは、香水だけではない。**洗剤、シャンプー、柔軟剤、食品の香料**——その市場のほうが、はるかに大きい。)
- 一方、**シャネル**が、グラースの農家と長期の契約を結び、ジャスミンとローズの畑を維持している。
(No.5のために、この土地の花を使い続けるという方針である。)
**2018年**、**グラースの香水の技術**が、ユネスコの**無形文化遺産**に登録された。
登録されたのは、三つの技能である。
**香料の原料の栽培**、**天然の原料の知識と加工**、そして——**香りを調合する技術**。
**調香師**。
フランス語で **nez**(**鼻**)。
(訓練に、**10年前後**を要するとされる。数千の香料の素材を、嗅ぎ分け、名を言い、そして頭の中で組み合わせられるようになるまで。
世界に、数百人しかいない、と言われる。)