ボッカッチョ
概要
商人の庶子でナポリで育ち、フィレンツェに戻って黒死病を見た。『デカメロン』。晩年はペトラルカに従ってラテン語の学問に戻り、自分の俗語の本を焼こうとして止められた。ダンテの最初の伝記を書き、『神曲』を公開講義した。
関わったできごと(1)
『デカメロン』AD1353年 · 作者本文
ジョヴァンニ・ボッカッチョは1313年、フィレンツェか、その近くの町チェルタルドで生まれた。父ボッカッチーノは、フィレンツェの大銀行バルディ家のもとで働く商人で、ボッカッチョは父が正式な妻ではない女性との間にもうけた子だった。のちに、母はパリの高貴な女性だったという伝説が生まれたが、確かな根拠は無い。父はこの子を引き取って育て、商人にしようとした。

1327年頃、父の仕事の都合で、少年のボッカッチョはナポリへ移った。ナポリはアンジュー家のロベルト王が治める華やかな宮廷の町で、バルディ家は王に金を貸していた。ボッカッチョは父の命じるまま商売と教会法を学んだが、どちらにも身が入らなかった。彼が夢中になったのは、王の図書館の古典と、宮廷の詩人や学者たちとの交わりだった。ナポリ時代に、彼は恋愛物語『フィローコロ』や、八行で一連をなす詩の形で書いた物語詩『フィロストラート』『テセイダ』を書いた。のちにイギリスのジェフリー・チョーサーは、これらを下敷きにして作品を書いている。作品の中でボッカッチョが歌った恋人「フィアンメッタ」が実在の誰かだったのかは、分かっていない。
1340年頃、父の事業が傾き、ボッカッチョはフィレンツェに戻った。バルディ家の銀行は、イングランド王への貸し付けが返されなかったことなどから、まもなく破綻した。フィレンツェでの暮らしは苦しかったが、彼は書き続け、恋に捨てられた女性が自分の心の動きを語る『フィアンメッタの哀歌』を書いた。
1348年、黒死病がフィレンツェを襲い、町の人口の半分以上が死んだとも言われる。父もこの頃に亡くなった。その惨禍を目の当たりにした後、ボッカッチョは代表作『デカメロン』を書いた(『デカメロン』)。疫病を逃れて郊外の館に集まった7人の女性と3人の男性が、10日間にわたって一人一話ずつ物語を語る、という枠組みで、全部で100の話が収められている。商人、修道士、貴婦人、農民、恋する若者たちが、機知と欲望と運命に翻弄される姿を、生き生きとした俗語のイタリア語で描いた。冒頭には、疫病に襲われた町の凄惨な様子が詳しく描かれ、黒死病の記録としても読まれている。

1350年、ボッカッチョは、尊敬する詩人ペトラルカと初めて会った。ペトラルカがローマへ巡礼に向かう途中にフィレンツェに立ち寄り、ボッカッチョが自宅に迎えたのである(ペトラルカの桂冠)。以後、二人は20年以上にわたって親しく手紙を交わし、ボッカッチョはペトラルカを師と仰いだ。ペトラルカの影響で、ボッカッチョは古代ギリシア・ローマの学問に打ち込むようになり、ラテン語で学術的な著作を書くようになった。ギリシア語の学者を家に住まわせてホメロスの叙事詩をラテン語に訳させたのも、ボッカッチョの働きによるもので、西ヨーロッパで初めてのホメロスの全訳だった。ギリシアの神々の系譜を集大成した本や、古今の名高い女性100人余りの伝記を集めた本は、後の時代に広く読まれた。
1362年、ある修道士から、死が近いので俗な書物を捨てて悔い改めよ、という警告を受けたボッカッチョは、動揺して自分の本を焼き、蔵書を売り払おうとした。それを手紙でいさめ、学問を捨てるなと説いたのはペトラルカだった。
ボッカッチョは、一世代前の詩人ダンテ・アリギエーリを深く敬い、ダンテの最初の伝記を書いた。ダンテの『喜劇』を「神聖な」と呼んだのもボッカッチョで、これが『神曲』という題名のもとになったと言われる(『神曲』)。1373年秋、フィレンツェ市の依頼で、ボッカッチョは教会で『神曲』の公開講義を始めた。市が報酬を払っての講義だった。しかし病のために、講義は地獄篇の第17歌で途切れた。

1374年7月、ペトラルカが亡くなった。ボッカッチョはその死を悼む手紙を書き、それから1年半後の1375年12月21日、チェルタルドで62歳の生涯を閉じた。晩年の彼は、若い頃の俗語の作品を恥じるそぶりを見せたが、それでも1370年頃、自らの手で『デカメロン』を写し直している。その自筆の写本は、いまベルリンの図書館に残っている。ダンテ、ペトラルカと並んで「三つの冠」と呼ばれるボッカッチョの『デカメロン』は、ヨーロッパの散文の物語の出発点となった。