概要
ワーグナーは、自分の作品のためだけの劇場を作った。オーケストラを床下に隠し(音が溶け、視界を遮らない)、客席を扇形にして貴賓席をなくし、上演中に客席を暗くした(当時、劇場は明るいままで、社交の場だった)。4夜15時間の『ニーベルングの指環』。26年かけて書いた。第1回の祝祭に、皇帝とブラジル皇帝とリスト、そしてチャイコフスキーが来た。ニーチェは失望して去った。
場所
49.95°N 11.58°E · ドイツ
関わった人(1)
リヒャルト・ワーグナーAD1813年5月22日–AD1883年2月13日 · 建てた本文
リヒャルト・ワーグナーは、既存の劇場に不満だった。オーケストラが見え、客席が明るく、客が社交をし、貴賓席が舞台の脇にあって舞台がよく見えない代わりに客同士がよく見える。歌手は前に出て、客席に向かって歌う。
彼が構想したのは、「総合芸術(ゲザムトクンストヴェルク)」——詩と音楽と演技と舞台美術が一つになったもの。それには、専用の劇場が要った。
1864年、バイエルン王ルートヴィヒ2世(18歳で即位したばかり)が、借金取りから逃げていた51歳のワーグナーを呼び、負債を全部払い、以後、支援し続けた。ミュンヘンに劇場を建てる計画は、王の側近と世論の反対で潰れた。
1871年、ワーグナーはバイロイト(バイエルン北部、人口2万ほどの町)を選んだ。大都市でないこと。既存の劇場文化がないこと。そして、辺鄙で、来る人が「巡礼」になること。
資金。「ワーグナー協会」を各地に作って、会員から集めた。足りず、ルートヴィヒ2世が補填した。
1872年5月22日(彼の59歳の誕生日)、定礎。ベートーヴェンの第九を、彼が指揮した。
1876年8月13日、開場。
劇場(祝祭劇場、フェストシュピールハウス)の設計。
(1)オーケストラ・ピット。舞台の下に沈めて、二重の覆いで隠した。客からは見えない。音が直接でなく、舞台に反射してから客席へ届く。楽器の音が溶け合い、歌が埋もれない。「神秘の淵(ミュスティッシャー・アプグルント)」。
(2)客席。扇形。桟敷を作らず、全ての席が舞台に正対する。身分による席の区別をなくした(後方に王侯用の桟敷を作ったが、視覚的には隅にある)。1900席。座席は木で、狭く、硬い(クッションがない。音響のため、と説明される)。
(3)客席を暗くした。当時、劇場は上演中も明るいのが普通だった。彼は消した。観客が舞台だけを見るように。これが、その後の世界中の劇場の標準になった。
(4)舞台の左右に、複数の額縁(プロセニアム)を重ねて、遠近を強調した。
演目。『ニーベルングの指環』4部作。『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』。上演に4夜、約15時間。
構想から完成まで26年(1848年に台本の元を書き始め、1874年に総譜が完成)。途中、12年、中断して『トリスタンとイゾルデ』と『マイスタージンガー』を書いた。
物語。ラインの黄金から作られた指環。それを持つ者は世界を支配できるが、愛を捨てなければならない。小人アルベリヒが呪いをかけ、神々の長ヴォータンが契約と力の間で崩れ、英雄ジークフリートが生まれ、裏切られて死に、ブリュンヒルデが指環を火に返して、神々の城ヴァルハラが燃える。
1876年8月の第1回。皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世、バイエルン王(一人で予行を見た)、リスト、ブルックナー、サン=サーンス、グリーグ、チャイコフスキー(新聞に批評を書いた。「疲れた」と正直に書いている)、そしてニーチェ。
ニーチェ。10年、ワーグナーの熱烈な支持者だった(『悲劇の誕生』はワーグナーに捧げられた)。バイロイトで、彼は失望した。集まった俗物の観客、興行の空気、そして『パルジファル』(1882年)のキリスト教への傾斜。頭痛を理由に途中で去った。後に『ワーグナーの場合』を書いた。
赤字。第1回で15万マルクの赤字。以後、数年、開けなかった。1882年、『パルジファル』(バイロイトのためだけに書かれ、30年、他所での上演を禁じた)。1883年、ワーグナーがヴェネツィアで死んだ。
その後。妻コジマ(リストの娘)が30年、運営した。息子ジークフリート、孫のヴィーラントとヴォルフガング。1930年代、ヒトラーが常連になり、家族が彼を「ヴォルフおじさん」と呼んだ。ナチスの祝祭として使われた。
1951年、再開。ヴィーラント・ワーグナーが、舞台から一切の装飾を取り去った(円盤と光だけ)。祖父の音楽から、政治の記憶を切り離すために。
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