グイードの記譜法
概要
アレッツォのベネディクト会士が、聖歌を覚えるのに10年かかる修道士のために、線の上に音符を置いた。4本の線(赤いF、黄色いC)。音の高さが、線と間で分かる。「ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」(聖ヨハネ賛歌の各行の最初の音節から)。「グイードの手」(指の関節で音を覚える)。教皇ヨハネス19世が呼んで、自分で聖歌を歌えた。音楽が、耳から目へ。楽譜。
場所
43.46°N 11.88°E · イタリア
関わった人(1)
グイード・ダレッツォAD991年頃–AD1033年頃 · 考えた本文
中世の修道院では、一日に何度も祈りの時があり、その祈りの多くは歌われた。グレゴリオ聖歌である(グレゴリオ聖歌の成立)。教皇グレゴリウス1世が聖霊の鳩に耳もとで旋律を吹き込まれて書き取った、という絵が描かれたこともあるが、実際には8世紀から9世紀に、ローマの聖歌とアルプスの北の聖歌がカロリング朝のもとで混ざり合い、整えられたものと考えられている。一年の祝日ごとに決まった歌があり、その数は数千に及んだ。修道士たちは、それをすべて耳で聞いて覚えた。一人前に歌えるようになるまでに、10年かかったという。
9世紀頃から、歌詞の上に、旋律の動きを示す小さな記号が書き込まれるようになった。ネウマと呼ばれる。上がる、下がる、揺れる、といった動きは分かるが、どの高さからどの高さへ動くのかは示されていない。すでに知っている歌を思い出すための手がかりであって、初めて見る旋律をこれだけで歌うことはできなかった。

この問題を解いたのが、11世紀のベネディクト会の修道士グイード(グイード・ダレッツォ)である。990年頃に生まれたとされ、若い頃はフェラーラの東、アドリア海に近いポンポーザの修道院で、少年たちに歌を教えていた。仲間の修道士ミカエルとともに新しい教え方を試すと、生徒たちは驚くほど短い期間で歌えるようになった。だが、それはかえって周りの修道士たちの妬みを買った。グイードは修道院を去り、1025年頃、トスカーナのアレッツォに移って、司教テオダルドゥスのもとで大聖堂の歌い手たちを育てた。
グイードの工夫の一つは、線である。歌詞の上に横線を引き、その線の上と線の間に音を置けば、音の高さが目で見て分かる。彼は、ファの高さを示す線を赤で、ドの高さを示す線を黄色で描くことを勧めた。どちらの音も、すぐ下の音との間が半音になる。半音の場所さえ分かれば、旋律は迷わずたどれる。線は3本から4本で使われ、のちに5本の線へと広がっていく。グイードは、この方法なら賢い少年は1か月で、それまで聞いたこともない旋律を間違えずに歌えるようになるが、以前は10年かけても簡単な歌ひとつ満足に覚えられなかった、と書いている。

もう一つの工夫は、音の名前である。グイードは、洗礼者ヨハネを讃える古い賛歌に目をつけた。その賛歌の旋律は、各行の始まりの音が、一行ごとに一音ずつ上がっていく。ウト・クエアント・ラクシス、レゾナーレ・フィブリス、ミーラ・ゲストールム、ファムリ・トゥオールム、ソルヴェ・ポルーティ、ラビイ・レアトゥム。各行の最初の音節をつなげると、ウト、レ、ミ、ファ、ソ、ラとなる。この賛歌を覚えておけば、どの音がどの高さかを、口に出して確かめることができる。6つの音の組を、出だしの高さを変えて重ねていけば、聖歌の音域をすべて歌える。のちの17世紀に、歌いにくいウトはドに替えられ、賛歌の最後の行の聖ヨハネの頭文字から、シが加えられた。いまのドレミの起源である。
左手の指の関節と先に音の名前を割り当て、先生が指さすところを生徒が歌う「グイードの手」も有名だが、グイード自身の著作にこの図は無く、後の人々が彼の名を冠して広めたものとされる。

グイードは、1026年頃に音楽の教科書『ミクロログス』をまとめ、司教テオダルドゥスに献じた。音階や旋法の仕組み、旋律の作り方、二つの声部で歌うオルガヌムまでを扱ったこの本は、中世を通じて最も広く写された音楽の本の一つになった。グイードの名声はローマにも届いた。1028年頃、教皇ヨハネス19世は三度も使者を送って彼を招いた。グイードが新しい書き方で記した聖歌集を差し出すと、教皇はそれを珍しい宝物のように眺めて規則を尋ね、その場で、それまで聞いたこともない一節を自分で歌ってみせた。人から聞いても信じなかったであろうことを、教皇は自分で確かめた、とグイードは友人ミカエルへの手紙に誇らしげに書いている。ただ、ローマの夏の空気が体に合わず、冬にまた来ると約束して去った。その後の消息は、ほとんど分かっていない。
音を目に見える形で書けるようになったことは、ヨーロッパの音楽のあり方を大きく変えた。聞いたことのない曲を、紙の上から歌える。遠い土地の、もう死んだ人の作った曲も、書かれたとおりに再現できる。いくつもの声部が別々の旋律を歌う複雑な音楽も、紙の上で組み立てられるようになった。曲を作って書き記す作曲家と、それを演奏する人とが分かれていくのも、この延長にある。ヨーロッパの音楽が多声の方向へ大きく進んだのは、楽譜の発達と切り離せない、とよく言われる。1世紀のちのドイツの修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが作った歌も、こうした記譜の広がりのおかげで今日まで伝わっている。

楽譜はその後も少しずつ形を変えた。12世紀には四角い音符が現れ、13世紀には音の長さを書き分ける方法が工夫される。1501年、ヴェネツィアのペトルッチが楽譜を活字で印刷する本を出し、楽譜は手で写すものから刷って配るものになった(グーテンベルクの活版印刷の半世紀後である)。5本の線と小節の線を使ういまの書き方が定まるのは、17世紀のことである。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの曲も、いまの楽譜も、アレッツォの修道士が引いた一本の赤い線から始まっている。