蓄音機の発明
概要
錫箔を巻いた円筒に、針で溝を刻む。電話の実験の副産物だった。エジソンが最初に吹き込んだのは「メリーさんの羊」。それまで、音は、鳴った瞬間に消えるものだった。この機械が、死んだ人の声を残し、遠い土地の音楽を運び、演奏を商品にした。彼は用途の第一に「遺言と口述筆記」を挙げ、音楽は第四に置いた。1887年、ベルリナーが円盤に変え、複製ができるようになった。
場所
40.55°N -74.33°E · アメリカ・ニュージャージー州
関わった人(1)
トーマス・エジソンAD1847年2月11日–AD1931年10月18日 · 発明した本文
人類の長い歴史の中で、音は鳴った瞬間に消えるものだった。言葉は文字に、景色は絵に、建物は石に残る。だが声の響きや演奏の音色は、その場にいた人の記憶の中にしか残らなかった。19世紀の半ば、フランスの印刷工レオン・スコットは、音の振動を煤を塗った紙の上に波の線として描き取る装置を作った(1857年に特許)。音の姿を目に見える形で記録することには成功したが、それを再び音として鳴らす方法はなかった。彼の記録が音として再生されたのは、150年後の2008年、コンピュータによってである。
1877年、ニュージャージー州メンローパークの研究所で、30歳のトーマス・エジソンは、電信と電話の改良に取り組んでいた。前年にベルが電話の特許を取り(ベルの電話)、エジソンはより大きくはっきりした声を送る送話器の開発を請け負っていた。同時に、電信の信号を紙のテープに凹凸として刻んで記録し、あとで高速で送り直す装置も作っていた。そのテープを速く走らせると、刻み目を読み取る針が、人の話し声のような音を立てることに彼は気づいた。

それなら、声の振動そのものを刻んでおけば、あとで声として取り出せるのではないか。7月、彼は電話の振動板の中心に針を付け、蝋を塗った紙のテープの上を走らせて、声を吹き込んでみた。テープを引き戻して針でなぞると、かすかに声らしいものが聞こえた。7月18日付の研究ノートには、その手応えが書き留められている。
秋のうちに構想はまとまり、11月の末、エジソンは研究所の機械工ジョン・クルージに、簡単な図面を渡して製作を頼んだ。表面に螺旋の溝を切った真鍮の円筒を、手回しのハンドルで回す。円筒に薄い錫の箔を巻き、振動板に付けた針を当てて、声の振動で箔に凹凸を刻む。針を戻して円筒をもう一度回せば、刻まれた凹凸が針と振動板を揺らし、声がよみがえる。クルージは、それが何をする機械なのかよく分からないまま作業を進めたと、のちに語っている。

12月の初め、機械ができあがった。エジソンは送話口に向かって、童謡の一節、メリーさんの羊、その毛は雪のように白かった、と大声で歌った。針を戻し、ハンドルを回すと、機械が、甲高くかすれた声で、同じ言葉を繰り返した。居合わせた者たちは息をのんだ。エジソン自身、これほど驚いたことはないと語っている。
12月7日、エジソンは機械を携えてニューヨークの雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』の編集部を訪れ、机の上に置いてハンドルを回した。機械が編集者たちに挨拶し、ご機嫌いかが、蓄音機はお気に召しましたか、と話しかけると、編集部は騒然となった。記事が出ると、評判はたちまち広がり、新聞はエジソンを「メンローパークの魔術師」と呼んだ。12月下旬に出願した特許は、翌1878年2月に認められた。過去に例のない発明だったため、審査で競合する先行例が見つからなかったという。

エジソンはこの機械を何に使うつもりだったのか。1878年、彼は雑誌に寄稿して、蓄音機の用途を10項目挙げた。第一は、速記者を使わずに手紙や口述を記録することだった。続いて、目の不自由な人のための朗読の本、話し方の教育、そして第四に音楽の再生が来る。家族の思い出として、死にゆく人の最後の言葉を残すこと、おもちゃやオルゴール、時を告げる時計、言葉の発音の保存、授業の記録、電話と結びつけた通信の記録が続く。彼の頭の中では、蓄音機はまず事務の機械だった。
錫箔の蓄音機には限界があった。箔は数回再生すると潰れてしまい、録音を写して増やすこともできない。音も小さく、雑音だらけだった。見世物としての熱が冷めると、エジソンは白熱電球と発電の事業(エジソンの白熱電球)に没頭し、蓄音機は10年近く放っておかれた。そのあいだに、ベル(アレクサンダー・グラハム・ベル)の設けたヴォルタ研究所の技術者たちが、錫箔の代わりに蝋を塗った円筒に溝を彫る改良型を作り、「グラフォフォン」と名づけて事業化を始めた。危機感を抱いたエジソンも研究に戻り、蝋の円筒を使う改良型を送り出した。

決定的な転換は、ドイツから移り住んだエミール・ベルリナーがもたらした。彼は1887年、円筒ではなく平たい円盤に、溝を深さではなく左右の揺れとして刻む方式を特許にし、「グラモフォン」と名づけた。円盤なら、原盤から金属の型を作り、それを押し当てて同じ録音を何千枚でも安く作ることができる。音は初めて、大量に複製して売れる商品になった。
20世紀に入ると、録音は音楽のあり方を変えていった。1902年、イタリアのテノール歌手エンリコ・カルーソーの録音が大きな売れ行きを示し(カルーソーの録音)、一流の演奏家たちもこぞってレコードに吹き込むようになった。1917年には最初のジャズのレコードが出た(ジャズの最初のレコード)。アメリカ南部の農村で歌われていたブルース(デルタのブルース)も、レコードを通じて都市へ、さらには海の向こうへ届いた。ある土地でしか聞けなかった音楽が、土地を離れて旅を始めたのである。演奏は一回限りの出来事であることをやめ、何度でも同じように聞けるものになった。

録音は学問も生んだ。1890年、アメリカの人類学者ジェシー・ウォルター・フュークスは、メイン州の先住民パサマクォディの人々の歌や語りを蝋管に録音した。これが、民族の音楽や言葉を現地で録音した最初期の例とされる。以後、多くの研究者が録音機を背負って各地を歩き、消えゆく歌や言語を記録していった。民族音楽学という分野は、蓄音機なしには成り立たなかった。
皮肉なことに、エジソン自身は耳がひどく悪かった。少年時代から聴力が衰え、晩年にはほとんど聞こえなかったという。彼は蓄音機の木の箱に歯を立てて噛みつき、骨を伝わる振動で音を確かめていた、と伝えられる。