フリーダ・カーロ
概要
事故の後遺症と向き合いながら、自画像ばかりを描いた。「私は自分をいちばんよく知っている」と言っている。
関わったできごと(1)
フリーダ・カーロの自画像AD1939年 · 制作本文
1907年7月6日、メキシコ市の南の町コヨアカンに生まれた。生家は青く塗られた壁から「青い家」と呼ばれ、いまは彼女の博物館になっている。父ギジェルモはドイツから移ってきた写真家で、母マティルデはメキシコ生まれの先住民とスペイン人の血を引く女性だった。本人はのちに、生まれた年を1910年と言うようになる。メキシコ革命が始まった年で、自分は革命とともに生まれた、と言いたかったのだという。

6歳でポリオにかかり、右脚が細く短くなった。学校では「棒脚のフリーダ」とからかわれた。父は娘にサッカーや水泳、ボクシングまでさせて脚を鍛えさせ、写真の仕事も手伝わせた。娘のなかで、父といちばん気が合ったという。
1922年、メキシコで最も名高い国立予科高等学校に入った。2000人の生徒のうち、女子は35人ほどだった。医者になるつもりで、生物や解剖を学んだ。いたずら好きの仲間たちと学校を騒がせていたころ、校舎の壁には画家ディエゴ・リベラが壁画を描いていた。
1925年9月17日、恋人と乗っていたバスが路面電車と衝突した。バスの手すりの鉄の棒が、腹部から骨盤を貫いた。背骨は三か所で折れ、骨盤は砕け、右脚は11か所を骨折し、右足はつぶれた。助かると思った人は少なかった。18歳だった。
何か月も寝たきりの暮らしになった。母は、横になったまま描けるように特製の画架を作らせ、ベッドの天蓋の裏に鏡を取り付けた。毎日、鏡に映る自分の顔を見て描いた。医者になる夢はここで終わり、絵が残った。生涯に30回を超える手術を受け、体を締めつけるコルセットを何十も着けることになる。

1928年、20歳あまり年上のディエゴ・リベラを訪ね、自分の絵を見せて意見を求めた。メキシコの壁画運動(壁に描かれた歴史)の中心にいた画家である。翌年、二人は結婚した。大柄なリベラと小柄なフリーダを、彼女の母は「象と鳩の結婚」と呼んだ。二人とも共産党に加わり、メキシコの先住民の文化を誇りとしていた。フリーダは、南部テワンテペクの女性たちの色鮮やかな民族衣装を好んで身に着けた。
結婚生活は穏やかではなかった。リベラの女性関係は絶えず、フリーダの妹とも関係を持った。フリーダも、女性とも男性とも恋をした。1937年には、ソ連を追われた革命家トロツキーが夫妻の招きで青い家に身を寄せ、フリーダと短い恋に落ちている。アメリカで暮らした時期には流産を経験し、その苦しみをそのまま絵にした。何度も子どもを望んだが、事故で傷ついた体はそれを許さなかった。

作品はおよそ200点で、その3分の1ほどが自画像である(フリーダ・カーロの自画像)。「私は独りでいることが多く、自分がいちばんよく知っている題材だから、自分を描く」と語っている。描かれるのは、太くつながった眉、首に巻きついた茨、割れた背骨の代わりに体を貫く石の柱、血管でつながった二人の自分。痛みと、引き裂かれた心と、メキシコという国が、一枚の中に並ぶ。
1938年、ニューヨークで初めての個展を開いた。シュルレアリスムを率いたフランスの詩人ブルトンは、その絵を「爆弾に巻かれたリボン」と評し、自分たちの仲間として迎えようとした。翌年にはパリで展覧会が開かれ、ルーヴル美術館が一点を買い上げた。だがフリーダは、シュルレアリストと呼ばれることを拒んだ。「私は夢を描いたことがない。自分の現実を描いた」。

1939年にリベラと離婚し、翌年、再び同じ相手と結婚した。体はしだいに悪くなり、1950年には一年近く入院した。1953年4月、メキシコで初めての個展が開かれた。医者から外出を止められていた彼女は、ベッドごと救急車で会場に運び込まれ、横たわったまま客を迎えた。同じ年の夏、右脚を膝の下から切断した。日記には「足なんて何のためにいるの。私には飛ぶための翼がある」と書いた。
1954年7月13日、青い家で亡くなった。47歳だった。死因は肺の塞栓とされたが、薬の飲み過ぎを疑う声もある。最後の日記には、「この外出が楽しいものでありますように。そして二度と戻らずにすみますように」とあった。

生前の評価は、偉大な壁画家リベラの妻としてのものが大きかった。再び光が当たったのは1970年代以降である。女性の体と痛みを隠さずに描いた画家として、またメキシコ系の人々の誇りとして、伝記や映画が作られた。いまでは、その顔は世界中の雑貨や衣服にまで刷られている。小さな画布に自分だけを描き続けた画家が、20世紀でもっとも知られた顔の一つになった。