明治

概要
藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。
この物語について
新政府がまず手をつけたのは、自分たちを担いだ武士を消すことだった。作る前に、壊さなければならないものがあった。
明治元年(1868年)、幕府を倒した新政府が実際に治めていたのは、旧幕府の領地だけだった。全国の土地の大半は、なお二百数十の藩が持ち、それぞれに兵と税を握っていた。明治2年、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主が領地と領民を朝廷に返す願いを出し、ほかの藩もこれに続いた。これが版籍奉還だが、藩主はそのまま知藩事として残り、中身はほとんど変わらなかった。

本当の転換は明治4年(1871年)7月に来た。新政府は薩長土の兵約1万を御親兵として東京に集め、その武力を背に、全国の藩をいっせいに廃して県を置いた。廃藩置県である。知藩事は東京へ移るよう命じられ、代わりに中央から役人が送られた。反乱は起きなかった。多くの藩は戊辰戦争の出費で借金を抱えており、その借金を新政府が引き受けたことが大きいとされる。
その年の暮れ、政府の中心にいた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが、横浜からアメリカへ向けて旅立った。岩倉使節団は百人を超える一行で、6歳の津田梅子ら五人の少女も留学生として乗っていた。最初の目的だった条約改正の交渉は、アメリカですぐに行き詰まる。一行は予定を大きく延ばし、1年10か月をかけて欧米の工場、議会、学校、軍隊を見て回った。持ち帰ったのは成果ではなく、何をどれだけ作らねばならないかという見取り図だった。

留守を預かった政府も、手を止めていたわけではない。明治5年には全国に小学校を置く学制が出され、新橋と横浜の間に鉄道が走った。その年の12月3日を明治6年1月1日とする太陽暦への切り替えもこのときで、閏月のある年の給料を一か月分払わずに済むという台所の事情もあったと、大隈重信が後に回想している。そして明治6年、徴兵令と地租改正が出た。二十歳の男子は身分にかかわらず兵役を負い、税は米ではなく、地価の3%を現金で納める。戦うことと、年貢を受け取ることという武士の二つの役目が、どちらも取り上げられた。
改革は暮らしの隅々にまで及んだ。明治5年には全国同じ様式の戸籍が作られ、それが徴兵と課税と学校の土台になった。明治8年には、それまで許すだけだった平民の苗字を、名乗るよう義務づけている。徴兵の名簿を作るのに、名字の無い者がいては困ったからである。髷を切るのも刀を差さないのも自由とされ、牛肉を食べ、洋服を着ることが「文明開化」と呼ばれた。人力車が走り、ガス灯がともり、正午には大砲の音が時を告げた。
使節団が帰国した明治6年の秋、政府は割れた。留守を守っていた西郷隆盛らは、国交を拒む朝鮮へ西郷自身を使節として送ることを決めていたが、大久保や岩倉は内政が先だとしてこれを覆した。征韓論政変で西郷、板垣退助、江藤新平らが政府を去る。翌年、板垣らは選挙で選ばれた議会を開けと求める民撰議院設立建白書を出し、言論で政府と争う自由民権運動が始まった。一方で、武力で争う道を選んだ者もいた。
明治9年、廃刀令が出され、士族への俸禄も公債に切り替えて打ち切られた。熊本、秋月、萩で士族が次々に立ち上がり、明治10年、鹿児島の私学校の生徒たちが西郷を担いで挙兵した。西南戦争は七か月あまり続き、政府軍は徴兵した兵を中心に数万を送り込んだ。熊本城の籠城と田原坂の激戦を経て、西郷は9月、鹿児島の城山で自刃した。百姓の子の兵が、最強とうたわれた薩摩の士族に勝った。この戦いの後、武力で政府に抗う者は出なくなる。
その翌年の5月、大久保は東京の紀尾井坂で、石川の士族らに襲われて殺された。木戸は西南戦争のさなかに病で死んでいた。倒幕を主導した三人が、わずか一年のあいだに全員いなくなったのである。政府の中心は、伊藤博文や大隈重信ら次の世代に移った。
国の形を決めることは、国境を引くことでもあった。明治7年、政府は琉球の漁民が殺されたことを理由に台湾出兵を行い、翌年にはロシアとのあいだで樺太を渡して千島列島を得る条約を結んだ。明治12年には琉球王国を廃して沖縄県を置き、北では開拓使が北海道の開発を進めた。それまであいまいだった周辺の土地が、この十年ほどで線の内と外に分けられていく。線の内側に入れられた人びとに、そのことを尋ねた者はいなかった。
自由民権運動は、各地で演説会や結社を生み、憲法の私案がいくつも書かれた。政府はいずれ議会を開くこと自体は避けられないと見ていたが、その時期と形をめぐって内部でも争った。明治14年、早くの国会開設を主張した大隈を政府から追い出し、同時に10年後の国会開設を約束する。明治十四年の政変と呼ばれるこの決着で、議会は政府が主導して用意するものになった。伊藤はヨーロッパへ渡り、君主の権限が強いプロイセンの憲法を学んで帰った。
その間、大蔵卿の松方正義は、西南戦争の戦費で膨らんだ紙幣を整理し、日本銀行を作って通貨を立て直した。物価は下がったが、現金で地租を払う農民は苦しみ、土地を手放す者が相次いだ。明治17年の秩父事件では、借金に苦しむ農民が困民党を名乗って立ち上がり、軍隊に鎮められている。近代の仕組みの代金は、まず農村が払った。
明治18年、太政官に代わって内閣が置かれ、伊藤が最初の総理大臣になった。明治22年2月11日、大日本帝国憲法の発布の式典が宮中で行われた。憲法は主権を天皇に置き、軍の指揮を内閣の外に置いたが、法律と予算には議会の同意が要ると定めた。発布の朝、文部大臣の森有礼が自宅で刺されている。翌年開かれた第一回帝国議会の衆議院議員を選べたのは、直接国税を15円以上納める25歳以上の男子で、人口のおよそ1%だった。それでもアジアで初めて、憲法に基づく議会が開かれた。同じ年、学校で読み上げられる教育勅語も出ている。

外に向けての最大の課題は、幕末に結んだ不平等な条約を改めることだった。鹿鳴館で舞踏会を開いても、外国人の裁判に日本人の判事を加える案を出しても、改正は進まなかった。明治27年(1894年)、外務大臣の陸奥宗光がイギリスとのあいだで領事裁判権の撤廃を取り付ける。関税を自分で決める権利の回復は、さらに17年後の明治44年になった。
イギリスとの条約が結ばれた直後、朝鮮をめぐって清と戦争になった。日清戦争に勝った日本は、下関条約で台湾と遼東半島、多額の賠償金を得たが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で遼東半島を返させられる。ロシアは数年後、その遼東半島の旅順と大連を借り受けた。日本では「臥薪嘗胆」が合言葉になり、賠償金の多くが軍備の拡張に回された。

明治35年、日本はイギリスと同盟を結び、明治37年(1904年)、ロシアと開戦する。日露戦争では、旅順の要塞を落とすのに半年近くかかり、多くの死者を出した。翌年5月の日本海海戦でバルチック艦隊をほぼ全滅させたが、陸軍は兵も弾も尽きかけていた。戦費の多くは外国での借金でまかなっていた。アメリカの仲介で結ばれたポーツマス条約に賠償金はなく、勝ったと信じていた人びとは東京の日比谷で暴動を起こした。政府には、もう戦えないと国民に言うことができなかった。
40年で列強と肩を並べるところまで来たのは確かだった。民間では渋沢栄一が銀行や紡績など数百の会社の設立に関わり、福沢諭吉の本が読まれ、夏目漱石や森鷗外が新しい日本語で小説を書いた。その一方で、足尾銅山の鉱毒は渡良瀬川の流域を荒らし、田中正造は天皇に直訴しようとした。北海道ではアイヌの人びとが土地と言葉を奪われ、明治43年には韓国が併合された。同じ年、天皇の暗殺を企てたとして幸徳秋水ら多くの社会主義者が逮捕され、翌年、十二人が処刑された。
明治45年(1912年)7月、明治天皇が死去する。藩を消し、身分を消し、憲法と議会を持ち、二つの戦争に勝った国が残った。ただ、その勝ち方がどれほど危うかったかは、国民にはほとんど知らされなかった。軍が内閣の外に立つ仕組みと、勝利の記憶だけが引き継がれていく。私たちが「近代化の成功」と呼ぶものは、その代償とひと続きのものとして見たほうが、たぶん正確である。
この物語が起きた場所
筋(119)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 岩倉具視人物1825年 – 1883年公家から討幕を画策し、王政復古の大号令を実現させた。
- 西郷隆盛人物1828年 – 1877年自ら作った新政府に、最後は背いた薩長同盟を結び、討幕軍を率いた。維新後は新政府に背き、西南戦争で死ぬ。
- 大久保利通人物1830年 – 1878年中央集権化を冷徹に進めた西郷の幼馴染。維新後は中央集権化を冷徹に進め、暗殺された。
- 木戸孝允人物1833年 – 1877年桂小五郎。長州を代表して薩長同盟に臨み、五箇条の御誓文の草案に関わった。
- 福沢諭吉人物1835年 – 1901年幕府の使節として欧米を見て回り、『学問のすゝめ』で新しい世の考え方を広めた。
- 岩崎弥太郎人物AD1835年1月9日 – AD1885年2月7日三菱土佐の地下浪人の子。藩の商社を引き継いで三菱にし、台湾出兵と西南戦争の輸送を請け負って海運を独占した。政府と組んで大きくなり、政府に潰されかけ、胃癌で死んだ。「三菱」は土佐藩の三つ柏と岩崎の三階菱。
- 榎本武揚人物AD1836年10月5日 – AD1908年10月26日樺太千島交換条約幕臣。オランダに5年留学し、開陽丸で帰り、江戸開城のあと艦隊を率いて箱館へ。五稜郭で降伏し、黒田清隆が助命した。獄から出て北海道開拓、駐露公使で樺太千島交換条約、逓信・文部・外務・農商務大臣。
- 板垣退助人物1837年 – 1919年民撰議院設立建白書を出し、自由民権運動の口火を切った。
- 山県有朋人物1838年 – 1922年徴兵令を敷いて国民皆兵の軍を作った。軍と官僚に長く影響力を保つ。
- 大隈重信人物1838年 – 1922年早期の国会開設を求めて政府を追われ、政党を作って対抗した。早稲田を創立する。
- 渋沢栄一人物1840年 – 1931年国家ではなく会社の側から近代を作った幕臣から新政府へ移り、銀行と会社の仕組みを日本に根づかせた。生涯で500社に関わる。
- 伊藤博文人物1841年 – 1909年松下村塾に学び、憲法を起草して初代内閣総理大臣になった。ハルビンで暗殺される。
- 田中正造人物AD1841年12月15日 – AD1913年9月4日天皇に直訴した下野の名主の子で、栃木県議、衆議院議員。足尾の鉱毒で「亡国に至るを知らざれば之即ち亡国」と演説し、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村に住み込んで、村と共に消えた。遺品は小石と聖書と日記。
- 陸奥宗光人物AD1844年8月20日 – AD1897年8月24日カミソリ紀州藩士の子で、海援隊で龍馬と働き、西南戦争のとき政府転覆を企てて5年獄にいた。出てから欧州に学び、外相として条約改正と日清戦争と三国干渉をさばいた。「カミソリ」。回想録『蹇蹇録』を結核の床で口述した。
- 森有礼人物AD1847年8月23日 – AD1889年2月12日憲法発布の朝に刺された薩摩の密航留学生で、廃刀を建議して罷免され、明六社を作り、契約結婚をし、英語を国語にと言った。初代文部大臣として学校令を出した。憲法発布の朝、伊勢神宮で不敬をしたという噂で刺された。41歳。
- 東郷平八郎人物AD1848年1月27日 – AD1934年5月30日東洋のネルソン薩英戦争を砲台の側で見て、イギリスに7年留学した。日本海海戦で「敵艦見ゆとの警報に接し」の信号を上げ、丁字戦法で勝った。「東洋のネルソン」。晩年は軍縮に反対して海軍を割った。国葬。
- 乃木希典人物AD1849年12月25日 – AD1912年9月13日二人の息子を旅順で失った西南戦争で連隊旗を奪われ、生涯それを恥じた。旅順で6万人の死傷者を出し、二人の息子を南山と旅順で失い、帰国して天皇に「切腹したい」と言い、「私が死んでからにせよ」と言われた。学習院長として昭和天皇を育て、明治天皇の大喪の日に妻と自刃した。
- 明治天皇人物1852年 – 1912年15歳で即位し、王政復古から近代国家の成立までを名において担った。
- 小村寿太郎人物AD1855年10月26日 – AD1911年11月26日ねずみ公使飫肥藩の下級武士の子で、第一回の文部省留学生としてハーバードで法律を学んだ。小柄で「ねずみ公使」。日英同盟を結び、ポーツマスで賠償金を諦め、帰国して石を投げられた。関税自主権を回復して、その年に死んだ。
- 内村鑑三人物AD1861年3月26日 – AD1930年3月28日二つのJ高崎藩士の子で、札幌農学校で洗礼を受け、アメリカで学んだ。教育勅語に頭を下げず、足尾鉱毒を書き、日露戦争に反対し、教会を持たない「無教会」を説いた。「二つのJ」、イエスと日本。墓に「I for Japan, Japan for the World」。
- 郵便局で貯めるできごとAD1861年労働者が金を預ける先は乏しかった。銀行は少額の口座を嫌い、貯蓄組合は潰れることがある。1861年、イギリスは郵便局で預金を扱う制度を始めた。全国に窓口があり、破綻の心配が無く、少額から預けられる。政府にとっては、集まった資金を国債で運用できる利点があった。日本も1875年に同じ制度を入れる。前島密が英国の仕組みを写したものである。貯金という習慣が、制度として上から広められた。集まった巨額の資金をどこへ流すかは、その後ずっと、政治の問題であり続けている。ロンドン
- 森鷗外人物AD1862年2月17日 – AD1922年7月9日石見人森林太郎として津和野の藩医の子で、19歳で東大医学部を出て、ドイツに4年。帰ってすぐ『舞姫』を書いた。脚気の原因を細菌だと言い張り、日露戦争では第二軍の軍医部長として兵を死なせた(のち軍医総監)。晩年は歴史小説。「石見人森林太郎として死せんと欲す」。
- 新渡戸稲造人物AD1862年9月1日 – AD1933年10月15日太平洋の橋盛岡の生まれ、札幌農学校で内村と同期。アメリカで英語で『武士道』を書き、ローズヴェルトが読んだ。台湾の砂糖を作り、一高の校長、国際連盟の事務次長。「太平洋の橋になりたい」。満洲事変の弁明に出てカナダで死んだ。五千円札。
- 岡倉天心人物AD1863年2月14日 – AD1913年9月2日アジアは一つ横浜の生糸商の子で、フェノロサと古寺を回り、東京美術学校を作って追われ、日本美術院を作った。ボストン美術館の東洋部長。英語で『東洋の理想』『茶の本』を書いた。「アジアは一つ」。
- 津田梅子人物AD1864年12月31日 – AD1929年8月16日6歳で岩倉使節団に同行して渡米した。帰国後、女性のための高等教育の学校を作る。
- 信徒発見できごとAD1865年3月17日開国のあと、長崎の外国人居留地にフランス人の神父が教会を建てた。1865年3月17日、浦上の村人十数人が教会を訪れ、一人の女性が神父に、私たちの胸はあなたと同じです、とささやいた。二百五十年近く、神父なしでひそかに祈りを伝えてきた潜伏キリシタンだった。だが信仰を明かした浦上の信徒は、明治の新政府に捕らえられ、各地に流されて多くが死ぬ。欧米の抗議を受けて禁教の高札が下ろされたのは、1873年である。長崎
- 夏目漱石人物AD1867年2月9日 – AD1916年12月9日則天去私江戸の名主の末子で、養子に出され、戻された。英語教師としてロンドンに2年いて神経衰弱になった。帰って猫の話を書き、朝日新聞に入り、『三四郎』『それから』『こころ』。胃潰瘍で49歳。「則天去私」。
- 正岡子規人物AD1867年10月14日 – AD1902年9月19日写生松山の生まれ。俳句と短歌を「写生」で作り直し、「月並み」を退けた。結核で脊椎が崩れ、寝たきりで『病牀六尺』を新聞に書いた。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。野球を愛し、「ベースボール」を「野球」と訳した一人。34歳。
- 漢字御廃止之議できごとAD1867年(慶応2年12月)幕府の開成所で翻訳の仕事をしていた前島来輔(のちの前島密)は、慶応2年の暮れ、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を差し出したとされる(原本は無く、文面は明治に本人が公表したもの)。国を強くするには国民の教育を広めなければならないが、何千もの漢字を覚えるのに子どもは長い年月を費やし、肝心の知識を学ぶ暇がない。西洋のように、音を表す文字だけで教えるべきだと説き、仮名で書くことを提案した。建白は取り上げられなかったが、前島は明治になって郵便の制度を作り、仮名の新聞も出した。漢字を減らし、あるいはやめようという議論は、ここから戦後まで繰り返されることになる。江戸
- 神仏分離と廃仏毀釈できごとAD1868年仏教の国が、一時、仏を壊す国に千年以上、日本では神と仏は混ざり合い、寺の中に神社があり、神社に僧がいた。1868年、明治の新政府は、天皇を中心とする国作りのため、神社から仏像や仏具を取り除き、神と仏を分けるよう命じる。これをきっかけに各地で、寺や仏像や経典を壊し、焼く動きが広がった。廃仏毀釈である。奈良の興福寺の五重塔が売りに出されたとも伝わる。多くの文化財が失われ、それを惜しんだ外国人が買い取っていった。京都
- 版籍奉還できごと1869年各藩が土地と民を朝廷へ返した。ただし藩主はそのまま知藩事になり、実態はあまり変わらない。京都
- 大村益次郎の暗殺できごとAD1869年10月8日(明治2年9月4日)徴兵制の設計者徴兵制と兵学校の建設を進めた兵部大輔が、京都の旅館で攘夷派の元士族に襲われた。2か月後に敗血症で死んだ。横井小楠の暗殺の8か月後。新政府は、自分の側の攘夷派に二人の設計者を殺された。京都
- 観音埼灯台できごとAD1869年(明治2年)2月11日幕府の約束を引き継いで、最初に灯った開国した日本の海には、夜に船を導く明かりがほとんどなかった。幕府は英米仏蘭の四か国と、八つの洋式灯台を建てる約束を交わしていたが、建てる前に幕府が倒れる。約束は明治政府に引き継がれた。最初に灯ったのが、東京湾の入り口の観音埼である。設計はフランスの技師ヴェルニーで、横須賀の製鉄所で焼いたレンガが使われた。着工した11月1日は、いまも灯台記念日になっている。レンガの塔は大正の地震で崩れ、いまの塔は三代目である。観音埼
- 北海道開拓使できごとAD1869年開拓は、先住の人びとから見れば奪うこと1869年、明治の政府は蝦夷地を北海道と改め、開拓使という役所を置いて本格的な開発を始めた。ロシアの南下に備えることも大きな理由だった。アメリカから農業の顧問を招き、札幌に碁盤の目の町を造り、農学校を開く。本州から多くの人が移り住んだ。そのなかで、そこに暮らしてきたアイヌの人びとの土地は、持ち主のいない土地として取り上げられ、狩りや漁の暮らしも禁じられていった。開拓は、先住の人びとから見れば奪うことだった。札幌
- 人力車できごとAD1870年車輪を入れただけで、同じ人力が運べる距離が数倍になった明治のはじめ、東京府が三人の男に人力車の営業を許した。駕籠を担ぐ代わりに、二輪の車を人が引く。担ぐより軽く、速く、値段も安い。数年で東京だけで数万台に増え、駕籠は姿を消した。やがて中国、インド、東南アジアへ輸出され、それぞれの都市の風景になる。動力はやはり人だが、車輪を入れたことで運べる距離が伸びた。道の舗装が進み、車輪のほうが有利になった時期と、ちょうど重なっている。後の輪タクとタクシーは、この形の延長にある。東京
- 日本の靴できごとAD1870年(明治3年)履物は、家の作りと道の状態に結びついている明治の軍隊は、洋式の軍靴を必要とした。だが、輸入品は日本人の足に合わない。幅が狭く、甲が低い。1870年、西村勝三が築地に製靴の工場を開き、陸軍に納めた。当初は寸法が合わず、返品が相次いだと伝えられる。一般の人はまだ草履と下駄で、靴は役人と軍人のものだった。土間で脱ぐ暮らしと、靴を履いたまま家に入る暮らしは、床の作りから違う。靴が広まるには、道が舗装され、家の作りが変わるのを待つ必要があった。東京
- 廃藩置県できごと1871年8月29日(明治4年7月14日)260年続いた分権の仕組みが一日で消えた藩を廃して県を置いた。260年続いた分権の仕組みが一日で消え、中央集権国家になる。江戸

- 岩倉使節団できごと1871年何を作るべきかを見に行った政府の首脳50人が1年10か月かけて欧米12か国を回った。条約改正は果たせなかったが、何を作るべきかを見た。

- 幸徳秋水人物AD1871年11月5日 – AD1911年1月24日計画を知らなかった土佐の生まれで中江兆民の弟子。『廿世紀之怪物帝国主義』を書き、日露戦争に反対して『平民新聞』を出し、渡米してアナキズムに転じた。大逆事件で首謀者とされ、絞首刑。裁判で「私は計画を知らない」と言った。
- 午砲できごとAD1871年(明治4年)9月9日寺の鐘に替わって、大砲の音が正午を告げた江戸の町は、寺の鐘が打つ時刻で暮らしていた。昼と夜をそれぞれ六つに分けるので、一刻の長さは季節で変わる。明治政府は、西洋の時刻に合わせた合図を必要とした。旧江戸城の本丸で、毎日正午に大砲の空砲を一発撃つ。その音は町じゅうに響き、人々は「ドン」と呼んで、昼飯の合図にした。役所も学校も工場も、この音で時計を合わせた。やがて各地の都市でも撃たれるようになる。空砲の費用がかさみ、1929年にサイレンに替わるまで、ドンは半世紀以上、東京の正午を告げた。東京
- 散髪脱刀令できごとAD1871年8月9日(明治4年)自由にしたはずの布告が、性別で線を引き直した髷は、身分と所属を示す記号だった。1871年、政府は髪型と帯刀を自由にすると布告する。強制ではない。だが役人が先に切り、学校が続き、切らない者が遅れているように見られた。散髪した頭を叩いてみれば文明開化の音がする、という戯れ句が流行る。地方では逆に、髷を切らせる強制と受け取られて騒動も起きた。明治天皇が断髪したのは二年後である。身体の見た目が制度から切り離されたようでいて、別の規範がすぐに埋めた。東京
- 横浜毎日新聞の創刊できごとAD1871年1月28日1871年1月28日(明治3年12月8日)、横浜で、日本語で書かれた初めての日刊の新聞『横浜毎日新聞』が創刊された。それまでも幕末の外国人の新聞や、翻訳の新聞はあったが、毎日出る日本語の新聞はこれが初めてだった。和紙ではなく洋紙に、木版ではなく鉛の活字で刷った。開港の町の商人たちのために、船の出入りや物の値段を載せた。数年のうちに東京でも日刊紙が次々に生まれ、新聞は、政府を論じ、民権を唱える場になっていく。横浜
- 学制の公布できごとAD1872年9月5日(明治5年8月3日)邑に不学の戸なく「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」。全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区に分けた。授業料は親の負担で、就学率は最初3割。学校が焼き討ちされた県もある。それでも30年で9割になった。東京
- 樋口一葉人物AD1872年5月2日 – AD1896年11月23日14か月で全部書いた父が死んで17歳で戸主になり、母と妹を食べさせるために小説を書いた。吉原の裏で荒物屋を開いて失敗し、そこで見たものが『たけくらべ』になった。14か月で代表作を全部書いて、結核で24歳。五千円札。
- 壬申戸籍できごとAD1872年(明治5年)全国同じ様式の帳面が、徴兵と課税と学制を回した明治政府は、全国の人を一人残らず帳面に載せようとした。江戸時代の宗門人別改帳は寺が作り、身分ごとに別々の台帳があった。新しい戸籍は、住む場所を単位にして、家ごとに家族を並べ、全国同じ様式で作る。これで徴兵も課税も学制も回せるようになる。同時に、この帳面には身分の記載が残され、のちに差別の資料として使われてしまった。1968年に閲覧が止められ、いまも封印されている。人を数える仕組みは、数えた区分をそのまま社会に固定する働きも持つ。東京
- 日本の博物館できごとAD1872年(明治5年)古いものを国の宝として保存し、見せて教えるウィーンの万国博覧会に出品するため、政府は全国から品を集めた。その下見を兼ねて、1872年、湯島聖堂で展覧会を開く。名古屋城の金鯱や、大きな提灯、動植物の標本が並び、二十日間で十五万人が訪れたと伝えられる。人が集まりすぎて日時を制限したという。廃仏毀釈で寺の宝物が壊され、売られていた時期でもある。古いものを国の宝として保存し、見せて教える。そういう考え方が、この展覧会と、のちの東京の博物館から広まっていった。東京
- 銀座の洋風調剤薬局できごとAD1872年美しさが、薬局の棚から売られるようになった海軍の薬剤師だった福原有信は、1872年、東京の銀座に日本で最初の洋風の調剤薬局を開いた。名は易経の一節から取った資生堂である。医薬分業を掲げ、西洋の処方で薬を作った。1897年に化粧水を出し、やがて化粧品が本業になる。大正には意匠部を置き、広告と包装の図案まで自前で作った。白粉の鉛の害が問題になっていた時代に、薬の知識を持つ店が化粧品を作ったことに意味があった。美しさが、薬局の棚から商品として売られるようになる。東京
- 新橋・横浜間の鉄道できごとAD1872年10月14日(明治5年9月12日)分単位で時間を守る習慣明治の政府は、イギリスから資金と技師を借り、東京の新橋と横浜のあいだ二十九キロに鉄道を敷いた。海の上に堤を築いて線路を通した区間もある。1872年、天皇を乗せた開業の式が行われた。歩けば一日がかりの道のりを、汽車は一時間足らずで走る。運賃は高く、はじめは乗る人も限られたが、時刻表どおりに動く汽車は、分単位で時間を守るという新しい習慣を持ち込んだ。線路は、その後の半世紀で全国に伸びていく。横浜
- 富岡製糸場できごとAD1872年工女たちが支えた輸出生糸は、開国した日本の最大の輸出品だった。だが手作業の糸は質がばらつき、外国の商人に買い叩かれる。政府は、フランスから技師と機械を招き、群馬の富岡に大きな製糸工場を建てた。1872年に動き出す。全国から士族の娘たちが工女として集められ、技術を覚えて故郷に戻り、各地の工場で教えた。赤い煉瓦の建物は、いまも残っている。のちの製糸業の繁栄は、長時間の労働に耐えた無数の女工たちによって支えられた。富岡
- 銀座煉瓦街できごとAD1872年(明治5年)1872年2月、東京の和田倉門の近くから出た火は、銀座から築地にかけての一帯を焼き尽くした。江戸の町は火事に弱かった。政府は、焼け跡を燃えない煉瓦の町に作り変えることを決め、イギリス人の技師トーマス・ウォートルスに設計を任せた。広い通りの両側に歩道と街路樹を設け、二階建ての煉瓦造りの洋風の建物を並べた。1877年に完成した煉瓦街は、文明開化の見本とされたが、湿気がこもって住みにくいと嫌われ、はじめは空き家が目立った。やがて新聞社や洋品の店が集まり、銀座は日本で最も華やかな通りになった。1923年の関東大震災で、煉瓦の建物の多くは崩れた。東京
- 徴兵令できごと1873年武士だけが戦う時代が終わる武士だけが戦う時代が終わり、国民皆兵になった。士族の存在理由が失われていく。江戸
- 地租改正できごと1873年収穫高ではなく地価の3%を現金で納める形にした。国家の収入が安定し、農民の負担は重くなる。
- 太陽暦の採用できごとAD1873年1月1日13か月分の給料を払わずに済む明治5年12月3日を明治6年1月1日にした。布告から施行まで23日。閏月のある年の役人の給料を13か月分払わずに済む、というのが大隈重信の狙いだったと本人が書いている。東京

- 火葬禁止令できごとAD1873年(明治6年)7月18日禁じてから二年、都市の土が足りないことに政府が折れた明治政府は、火葬を仏教の葬法と見て、これを禁じた。神道を国の形に据え直す流れのなかの一つである。だが都市では、土に埋める場所がすぐに足りなくなった。寺と火葬場からは撤回を求める書が相次ぎ、衛生の面からも火葬のほうがよいという意見が出る。二年足らずの1875年5月、禁令は取り消された。同じころ、ロンドンでは火葬協会が、墓地の満杯と地下水の汚れを理由に火葬を広めようとしていた。片方は禁じて戻し、片方は禁を破ろうとしていた。同じ都市の問題に、逆の方向から行き着いている。東京
- 印鑑登録できごとAD1873年(明治6年)押すこと自体が、確認したという意思の表示になった明治政府は、証書に実印を押すことを定め、その印影をあらかじめ役所に届け出る仕組みを作った。届け出た印と照合すれば、本人が押したと確かめられる。署名を使う西洋の方式も検討されたが、当時は字を書けない人も多く、印のほうが定着していた。以後、日本では印鑑が本人確認の中心になる。銀行の届出印、契約の実印、そして書類ごとの認印。押すこと自体が、確認したという意思の表示になった。持ち出しやすく、偽造もできる道具に、それだけの意味を負わせてきたことになる。東京
- お歯黒をやめるできごとAD1873年美しさの基準は、外の視線で書き換えられる結婚した女性が歯を黒く染め、眉を剃る。江戸時代の日本では、それが既婚の印であり、美しさでもあった。明治の政府は、外国人の目に野蛮と映ることを気にかけた。1870年に華族にお歯黒と眉剃りをやめるよう求める布告を出し、1873年には皇后が自らやめてみせる。人びとはすぐには従わず、農村では明治の終わりまで残った。美しさの基準は、国の外の視線で書き換えられることがある。東京
- 六曜が生き残るできごとAD1873年禁じられた迷信が、かえって広まった明治の改暦で太陽暦に切り替えたとき、政府は、吉凶を記した暦の注記を迷信として載せないよう求めた。ところが先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜は、民間で刷られる暦に残り続ける。戦後、一般のカレンダーや手帳に広く載るようになり、結婚式は大安に、葬式は友引を避けて、という習わしが全国に広まった。もとは中国から来た時刻の占いとされ、仏教とも関係が無い。禁じられた迷信が、禁じられた後にかえって広まった。東京
- 第一国立銀行できごとAD1873年金を集めて事業に回す江戸時代にも両替商はあったが、人びとから広く金を集めて事業に貸す銀行は無かった。アメリカの制度を手本に作られた法律のもとで、1873年、東京の兜町に第一国立銀行が開業する。国立と名がついているが、民間の資本の銀行である。大蔵省を辞めた渋沢栄一が、その経営の中心に立った。渋沢はこの銀行を足場に、製紙、紡績、鉄道、保険など五百ほどの会社の設立に関わる。金を集めて事業に回す仕組みが、日本の資本主義の出発点になった。東京
- 征韓論政変できごとAD1873年政府が二つに割れた転機明治の政府の中心の人びとが岩倉使節団として欧米を回っているあいだ、留守を預かった西郷隆盛らは、国交を拒む朝鮮に使節を送り、場合によっては武力に訴えることを決めた。1873年、帰国した大久保利通や岩倉具視は、国内を固めるのが先だとしてこれを覆す。敗れた西郷、板垣退助、江藤新平らは、そろって政府を去った。彼らの一部は武力の反乱へ、一部は議会を求める言論の運動へ向かう。明治の政府が二つに割れた転機である。東京
- 民撰議院設立建白書できごと1874年自由民権運動の始まり藩閥の専制を批判し、議会の開設を求めた。自由民権運動の始まり。江戸

- 台湾出兵できごとAD1874年初めての海外への派兵1871年、台湾の南部に流れ着いた宮古島の船(首里へ年貢を納めた帰り)の乗員のうち五十人余りが、先住の人びとに殺された。清は、台湾の先住の人びとは自分たちの統治の外にあると答える。1874年、日本は三千の兵を台湾に送り、先住の人びとの村を攻めた。戦いで死んだ者より、マラリアで死んだ兵のほうがはるかに多かった。清は最終的に賠償金を払い、日本の出兵を正当なものと認める形になる。これは、琉球の人びとを日本の国民として扱う根拠にも使われた。明治の日本が初めて行った海外への派兵だった。恒春半島(位置は特定されていない)
- 苗字を名乗らせるできごとAD1875年(明治8年)2月13日許すだけでは広まらず、義務にした。理由は徴兵江戸時代、公に苗字を名乗れるのは武士などに限られていた。庶民が持っていなかったわけではなく、家の名は村の中で使われていたが、公の書類には書かなかった。明治政府は1870年に庶民の苗字を許し、1875年には名乗ることを義務づける。許すだけでは広まらなかったからである。理由は徴兵にあった。同姓同名が並ぶ帳面では、誰を呼び出すのか決められない。人々の側には、苗字を届けると新しい税がかかるのではないかという警戒もあった。名前は、国に見つけられるための番号でもある。東京
- 東京気象台できごとAD1875年(明治8年)最初の予報文は、どこにでも当てはまる一文だった明治政府は、外国の技師を雇って気象の観測を始めた。1875年、東京に気象台が置かれ、毎日決まった時刻に気圧と気温と風を記録する。各地に観測所が増え、電信で集まるようになると、1883年から天気図が作られ、翌年には一日三回の全国の予報が出された。当初の予報文は「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」という、どこにでも当てはまる一文だった。外れても文句を言われないよう書かれている。観測の網が細かくなるにつれ、予報は具体的になっていった。東京
- 樺太・千島交換条約できごとAD1875年北の国境が、はじめて線になった樺太は、日本とロシアの人びとがともに住む境の定まらない島で、争いが絶えなかった。1875年、ペテルブルクで結ばれた条約で、日本は樺太をロシアに譲り、代わりに千島列島のすべてを得る。北の国境が、はじめて線として定められた。島に暮らしていたアイヌやニヴフの人びとは、どちらかの国籍を選ばされ、移住を強いられた人もいる。のちの日露戦争で樺太の南半分が日本に戻り、第二次世界大戦の後は、千島もソ連に占められることになる。サンクトペテルブルク
- 讒謗律と新聞紙条例できごとAD1875年6月28日民権の新聞を抑える1875年6月28日、明治政府は、人を悪く言い立てることを罰する讒謗律と、新聞と雑誌を取り締まる新聞紙条例を定めた。自由民権運動の高まりのなかで、新聞は政府の役人を激しく批判していた。条例は、政府を倒すことや法を守らないことをそそのかす記事を罰し、社主や編集の責任者を定めさせた。一年足らずのうちに、多くの記者が牢に入れられ、罰金を科された。新聞は、記者が捕まったときに代わりに牢に入る「身代わりの編集長」を置いて対抗した。東京
- 野口英世人物AD1876年11月9日 – AD1928年5月21日黄熱病で死んだ会津の農家に生まれ、囲炉裏で左手を焼いた。手術で動くようになった手で医者になり、金を借りて渡米し、ロックフェラー研究所で梅毒スピロヘータを脳から見つけた。黄熱病の病原体を見つけたと言い、それは間違いで、ガーナで黄熱病で死んだ。千円札。
- 西南戦争できごと1877年徴兵の軍が士族に勝ち、武力で抗う道が閉じた西郷を担いだ士族の最後の反乱。徴兵された農民の軍が士族に勝ち、武力で政府に抗う道が閉じた。鹿児島
- 博愛社できごとAD1877年(明治10年)5月1日反乱軍の兵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった西南戦争のさなか、元老院議官の佐野常民と大給恒は、ヨーロッパで見た赤十字のような救護団体を作ろうとした。政府は初め、許さなかった。反乱軍の兵まで手当てするというのが、引っかかったとされる。佐野は熊本の征討総督の本営まで出向いて、有栖川宮熾仁親王に直接願い出て、許しを得た。救護員は官軍の兵とともに、薩摩軍の負傷兵も手当てした。日本がジュネーヴ条約に加わったのは九年後で、翌年、博愛社は日本赤十字社と名を改めた。内戦で敵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった。熊本
- 大久保利通の暗殺できごと1878年5月14日(明治11年5月14日)維新の三傑がこの2年で全員いなくなる西南戦争の翌年、不平士族に討たれた。維新の三傑がこの2年で全員いなくなる。江戸
- 吉田茂人物AD1878年9月22日 – AD1967年10月20日占領下で講和条約を結び、戦後日本の枠組みを決めた。軍備を抑えて経済に賭ける選択をする。
- 与謝野晶子人物AD1878年12月7日 – AD1942年5月29日君死にたまふことなかれ堺の菓子屋の娘。与謝野鉄幹と恋をして家を出て、『みだれ髪』。子を13人産み、『源氏物語』を現代語にし、女性の参政権を言い、「君死にたまふことなかれ」を書いた同じ人が、日中戦争を讃える詩も書いた。
- 君が代できごとAD1880年(明治13年)国歌は、どこで歌わせるかで意味が決まる明治の初め、外国の儀礼に接した日本は、国歌が無いことに気づいた。イギリス人軍楽隊長の助言で、古今和歌集の歌に曲が付けられたが、日本人には歌いにくかった。1880年、宮内省の雅楽の楽師が作った旋律に、ドイツ人教師が和声を付け直したものが採用される。以後、学校と軍隊で歌われた。法律で国歌と定められたのは1999年で、それまで百二十年近く、慣習として使われていたことになる。歌詞の「君」が誰を指すのかをめぐる議論は、その制定のときも、いまも続いている。東京
- 地震を学ぶ会できごとAD1880年1880年2月、横浜を中程度の地震が襲った。お雇い外国人として東京で鉱山学を教えていたイギリス人ジョン・ミルンは、揺れを測り記録する必要を説き、同じ年に日本地震学会を作る。世界で最初の地震学の学会である。地震の多い日本は、揺れを観測する実験場になった。ミルンは揺れを記録する地震計を工夫し、帰国後は世界に観測網を作ろうとした。地震は神の怒りでも鯰の仕業でもなく、測って比べる自然の現象になった。東京
- 明治十四年の政変できごとAD1881年政府が主導権を握る形で準備された議会国会を開けという民権の運動が全国に広がるなか、北海道の開拓使の施設を、同じ薩摩出身の商人に安く払い下げようとしたことが明るみに出て、政府は激しく非難された。1881年10月、政府はイギリス風の議会の早期開設を唱えていた大隈重信を追い出し、払い下げを取り消すとともに、九年後に国会を開くと天皇の名で約束する。憲法はドイツ風のものにすることが決まった。議会の時代は、政府の側が主導権を握る形で準備されていった。東京
- 日本銀行の設立できごとAD1882年10月10日物価は下がり、農民は土地を失った西南戦争の戦費をまかなうために政府が紙幣を刷りすぎ、物価が跳ね上がった。大蔵卿となった松方正義は、紙幣を減らし、支出を削る厳しい引き締めに転じる。1882年10月10日、国の中央銀行として日本銀行が作られ、紙幣を出す権利を一手に握った。物価は下がったが、米や繭の値が暴落し、借金を返せない農民が土地を失う。借金に苦しむ農民たちの一部は、やがて武器を取ることになる。東京
- 鹿鳴館できごとAD1883年11月28日文明国だと見せるために井上馨が条約改正のために建てた洋館で、外国の外交官を招いて夜会と舞踏会を開いた。日本は文明国だと見せるために。「猿真似」と国内外で笑われ、井上が辞めて4年で終わった。東京

- 秩父事件できごとAD1884年証文を焼いた困民党松方の引き締めで生糸の値が暴落し、養蚕で暮らす秩父の山村の農民たちは、高利貸しへの借金に追いつめられた。借金の返済を先へ延ばしてほしいという訴えは聞き入れられない。1884年11月、困民党を名乗る数千人の農民が蜂起し、郡の役所や高利貸しの家を襲って、証文を焼いた。自由民権の運動に加わっていた者も多かった。政府は軍隊と警察を送り、十日ほどで鎮める。首謀者たちは死刑となった。秩父
- 内閣制度の創設できごとAD1885年12月22日憲法より4年早く太政官を廃し、内閣総理大臣と各省大臣の内閣にした。初代は伊藤博文、44歳。長州4、薩摩4、土佐1、旧幕臣1。憲法より4年早く、政府の形を先に作った。東京
- ノルマントン号事件できごとAD1886年10月24日裁けない法への怒り1886年10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州の沖で沈んだ。イギリス人の船長と乗組員は救命ボートで逃れたが、乗っていた日本人の乗客二十数人は全員が死んだ。条約で外国人を日本の法で裁くことはできず、イギリスの領事の海難審判は、船長を無罪とする。世論は激しく怒り、のちの裁判で船長は禁錮三か月とされたが、賠償は無かった。この事件は、不平等な条約を改めよという声を国じゅうに広げた。紀州沖(位置は特定されていない)
- 言文一致できごとAD1887年だ・です・である明治まで、日本語の書き言葉は話し言葉と別物だった。漢文訓読体、候文、雅文。二葉亭四迷は『浮雲』を書くとき、どう書けばよいか分からず、坪内逍遥に相談した。「三遊亭円朝の落語通りに書いてみろ」と言われた。速記された落語の本が売れていた時代である。「だ」で終える文体ができた。山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」。学校教育と新聞と、そして活版印刷が、これを全国の標準にした。話すように書く、という当たり前が、作られたものである。東京
- 持ち歩ける電池できごとAD1887年ヴォルタ以来の電池は、液体を使う。傾ければこぼれ、寒ければ凍る。持ち運べない。日本の屋井先蔵は、電池で動く時計を作ろうとして、この不便に突き当たった。彼は液をのり状にして漏れないようにし、外側を亜鉛の筒にした乾電池を1887年ごろ作った。特許を取る金が無く、同じころドイツでも同様の電池が作られている。広まったのは日清戦争のころで、寒さの厳しい戦地でも使えると評判になった。電気を持ち歩けるようになって初めて、懐中電灯も、携帯できる機械も成り立つ。東京
- 大日本帝国憲法の発布できごと1889年2月11日(明治22年2月11日)アジアで最初の近代的な成文憲法。天皇が定めて国民に与える形をとり、議会には限られた権限が置かれた。江戸

- 第一回帝国議会できごと1890年11月29日(明治23年11月29日)選挙で選ばれた議員が国政に加わった。有権者は納税額で絞られ、全人口の1%ほど。江戸
- 教育勅語できごとAD1890年10月30日315字315字。父母に孝、兄弟に友、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」。井上毅と元田永孚が書いた。学校で暗誦させ、御真影と共に奉安殿に置いた。1948年、国会が失効を決議した。東京

- 宮内省の鵜匠できごとAD1890年(明治23年)長良川では、千年以上前から鵜を使って鮎を捕ってきた。夜、舟の先で篝火を焚くと、光に寄った鮎を、首に紐を巻いた鵜が水に潜って飲み込む。紐があるので大きな鮎は喉を通らず、鵜匠が鵜を舟に引き上げて吐き出させる。鵜の喉を通った鮎は、傷がなく、一瞬で締まるので味が良いとされた。戦国の世には織田信長が鵜飼を保護し、江戸時代には鮎が将軍家に献上された。明治になって後ろ盾を失いかけた鵜匠たちを、1890年、宮内省が御料鵜飼として抱えた。長良川の鵜匠は、いまも宮内庁の職員である。長良川(岐阜)
- 内村鑑三不敬事件できごとAD1891年1月9日頭を深く下げなかった第一高等中学校の教育勅語奉読式で、教師の内村が天皇の署名に深く頭を下げなかった。「不敬」と騒がれ、辞職に追い込まれた。キリスト教は国体と相容れるか、という論争が始まる。東京

- 大津事件できごとAD1891年5月11日司法の独立1891年5月11日、日本を訪れていたロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖からの帰り道、大津の町で、警備の巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられ、頭に傷を負った。大国ロシアの報復を恐れた政府は、皇族に危害を加えた罪を当てはめて津田を死刑にするよう、裁判所に強く迫った。だが大審院長の児島惟謙は、その罪は日本の皇族に対するものだとして退け、判事たちを説いた。津田は普通の殺人未遂として無期徒刑になった。政府の圧力から司法の独立を守った事件として語られるが、児島が担当の判事に働きかけたこと自体も、裁判への干渉だったという見方がある。大津(近江大津宮)
- 大槻文彦『言海』できごとAD1891年最初の近代的な国語辞典1875年、文部省は洋学者の大槻文彦に、日本語の辞書を作るよう命じた。西洋の国々が自国の言葉の辞書を持っているように、日本も国の言葉を整えた辞書を持たなければならないと考えられた。大槻は、言葉を五十音順に並べ、一つ一つに品詞と語源と意味を示し、用例を添えるという、西洋の辞書にならった方法で、ほぼひとりで10年あまりかけて原稿を書き上げた。政府は出版の費用を出さず、大槻は自費で1889年から1891年にかけて4冊の『言海』を出した。日本で初めての近代的な国語辞典である。東京
- 日清戦争できごと1894年朝鮮をめぐって清と戦い、勝った。東アジアの序列が入れ替わり、日本は台湾を得る。

- 条約改正(日英通商航海条約)できごとAD1894年7月16日36年かかった領事裁判権の撤廃。幕末の不平等条約から36年、井上、大隈、青木と失敗を重ねて、陸奥宗光が日清戦争の2週間前に結んだ。関税自主権の回復は1911年、小村寿太郎まで待つ。ロンドン
- 「国語」と標準語できごとAD1894年国語と国家と明治のはじめ、日本の言葉は地方ごとにまったく違い、薩摩の人と津軽の人では話が通じなかった。書き言葉も、漢文訓読体、候文、和文と分かれていた。1894年、ドイツで言語学を学んで帰国した上田万年は、日清戦争のさなか、「国語と国家と」と題する講演で、国の言葉は国民の精神の血であると説いた。1900年、小学校の教科として「国語」が生まれ、1902年には国の機関が東京の教養ある人々の話し言葉をもとに標準語を定めることを方針にした。教科書を通じて標準語は全国に広がったが、学校で方言を話した子どもに罰の札を下げさせる地域もあった。東京
- 三国干渉できごとAD1895年4月23日臥薪嘗胆下関条約の6日後、ロシア、ドイツ、フランスが遼東半島の返還を「勧告」した。返した。「臥薪嘗胆」が流行語になり、以後10年、軍備を倍にして日露戦争へ向かう。東京
- 乙未事変できごとAD1895年10月8日広島で無罪日清戦争のあとロシアに近づいた王妃を、日本公使三浦梧楼が浪人と守備隊で王宮に押し入って殺し、遺体を焼いた。三浦らは広島で裁かれて無罪。高宗はロシア公使館に逃げた。朝鮮で日本への憎しみの起点になった事件。漢城(ソウル)

- 明治民法と家制度できごとAD1898年7月16日家制度明治の政府は、不平等条約を改めるため、西洋にならった法典を急いだ。フランスの法学者ボアソナードが起草した民法は1890年に公布されたが、「民法出でて忠孝亡ぶ」と、日本の家族の道徳を壊すとの反対が起き、施行は延ばされた。日本の学者が書き直した新しい民法は、1898年7月16日に全体が施行される。家族は「家」の単位でまとめられ、家の長である戸主が、家族の結婚や住む場所に同意する権限を持った。家の財産と地位は、原則として長男がひとりで継いだ。妻は、重い取引をするのに夫の許しが要った。家制度は、1947年に日本国憲法のもとで民法が改められるまで続いた。東京
- 北海道旧土人保護法できごとAD1899年保護の名で奪われた言葉土地と暮らしを奪われ、貧しさに追いやられたアイヌの人びとに対して、1899年、政府は保護を名目とする法律を作った。農業をするための土地を与えるとしたが、与えられた土地はやせていることが多く、勝手に売ることもできなかった。学校では日本語が教えられ、アイヌの言葉と習わしは失われていく。旧土人という呼び名の法律は、およそ百年後の1997年まで残った。2019年、アイヌの人びとを先住民族と明記する法律ができた。札幌
- 女子英学塾の創設できごとAD1900年6歳で渡米した女性が、帰国後に女性のための高等教育の場を作った。東京
- 足尾鉱毒事件できごとAD1901年12月10日日本の公害の最初渡良瀬川の魚が死に、田が枯れ、農民が押し出しに出た。衆議院議員の田中正造が議会で10年訴え、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村は遊水地にされて消えた。日本の公害の最初。足尾
- 与謝野晶子『みだれ髪』できごとAD1901年8月15日やは肌のあつき血汐「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。22歳の女性が恋と体を歌って、罵倒された。3年後、日露戦争の弟に「君死にたまふことなかれ」を書いて、また罵倒された。東京

- 八幡製鉄所できごとAD1901年煙は繁栄の印だった鉄は、軍艦にも鉄道にも橋にも要る。国産の鉄を作るため、政府は日清戦争の賠償金の一部を使い、北九州の八幡に官営の製鉄所を建てた。筑豊の炭鉱の石炭と、中国の鉄鉱石を運び込んで使う。1901年、最初の高炉に火が入った。はじめは故障が続いたが、やがて国内の鉄の大半を生み出すようになる。煙突の煙は繁栄の印とされた。のちの公害も、同じ煙から生まれた。八幡(北九州)
- 日英同盟できごとAD1902年1月30日光栄ある孤立の終わり「光栄ある孤立」を捨てたイギリスが、アジアで最初に選んだ相手が日本だった。ロシアの南下を止めるため。日本は対等の同盟国として認められ、2年後の戦争で、イギリスの海図と金と情報を使った。ロンドン
- 日比谷公園できごとAD1903年(明治36年)憩いの場が、そのまま政治の場になった日本にも寺社の境内や名所はあったが、洋風の「公園」は明治に入ってきた考え方である。1903年に開いた日比谷公園は、練兵場の跡地に、林学者の本多静六が設計した。芝生、花壇、洋風の音楽堂、そしてベンチ。日本人がベンチに座って休むという習慣は、ここから広まったとも言われる。開園後、この広場は別の役割も持つ。1905年、講和条約に反対する集会が開かれ、暴動になった。人が集まれる広い場所は、憩いの場であると同時に、政治の場にもなる。東京
- 同じ教科書できごとAD1903年(明治36年)明治の初めは、学校ごとに教科書を選んでいた。やがて国が検定する制度になり、1902年、その採用をめぐる大規模な贈収賄が発覚する。教科書会社と地方の役人、校長が処分された。政府はこれを機に、翌年から国が編集した教科書だけを使う国定制に切り替える。全国の子どもが、同じ日に同じ頁を開く。言葉も、歴史の語り方も揃った。教育の水準を保つ仕組みであり、同時に、何を教えるかを一か所で決める仕組みでもある。敗戦後、この制度は検定制に戻された。東京
- 日露戦争できごと1904年勝ち方は薄氷だった大国ロシアに辛勝した。国力は限界で、賠償金の無い講和に国内は暴動で応えた。

- 旅順攻囲戦できごとAD1904年8月19日203高地乃木の第三軍が要塞を5か月囲み、203高地を取るまでに6万人の死傷者を出した。乃木は二人の息子をここで失った。機関銃と鉄条網とコンクリートの要塞に歩兵で向かう戦争の、最初の大きな例になる。旅順

- 日本海海戦できごとAD1905年5月27日敵艦見ゆ7か月かけて地球を半周してきたバルチック艦隊を、連合艦隊が対馬沖で2日で沈めた。ロシア側は38隻のうち21隻を失い、日本は水雷艇3隻。アジアの国がヨーロッパの大国に海で勝った最初。対馬沖(位置は特定されていない)

- ポーツマス条約できごとAD1905年9月5日賠償金なしセオドア・ローズヴェルトの仲介で、小村寿太郎とウィッテが結んだ。韓国の指導権、旅順・大連、南満洲鉄道、樺太の南半分。賠償金はなし。日本にはもう戦う金も兵もなかった。ポーツマス(ニューハンプシャー)
- 日比谷焼打事件できごとAD1905年9月5日国民は勝ったと思っていた賠償金なしの講和に怒った群衆が日比谷公園に集まり、内相官邸、交番、教会、新聞社を焼いた。死者17人。戒厳令。国民は自分が勝ったと思っていた。政府は負けかけていたことを言えなかった。東京
- 夏目漱石『吾輩は猫である』できごとAD1905年1月1日名前はまだ無い「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。英語教師が神経衰弱の気晴らしに書いた話が『ホトトギス』に載り、続きを求められて11回続いた。37歳。2年後に東京帝大を辞めて朝日新聞に入る。東京

- 国技館できごとAD1909年6月2日江戸時代の相撲は、寺社の境内に小屋を掛けて興行し、雨が降れば休みになった。1909年、両国に鉄骨の丸屋根を持つ常設の館ができ、晴天でなくても取組ができるようになった。館の名は、開館の案内に書かれた「角力は日本の国技」という言葉から採られたと伝えられる。同じ年、新聞社が幕内でいちばん勝った力士をたたえる仕組みを始め、個人の優勝という考えが生まれた。見物の人々は、東西の勝ち負けより、誰が勝ち越し、誰が優勝するかに目を向けるようになる。相撲が「国技」と名乗ったのは、この建物が最初だった。両国
- 大逆事件できごとAD1911年1月24日冬の時代天皇暗殺を計画したとして社会主義者26人が起訴され、非公開の一審で24人に死刑判決、12人が処刑された。幸徳秋水は計画を知らなかったとされる。以後、社会主義は「冬の時代」に入る。東京
- 白瀬矗の南極探検できごとAD1912年1月204トンの漁船で204トンの漁船で。政府は金を出さず、大隈重信が募った。アムンセンとスコットが点を争っている同じ月に、ロス棚氷を280キロ走って引き返した。「大和雪原」。帰ると借金だけ残り、講演で返した。日本人が南極に立った最初。南極点
- 大正政変できごとAD1913年民衆の運動が内閣を倒した明治の元老に推された軍人出身の桂太郎が、三度目の首相になると、藩閥が政治を独り占めしていると非難の声が上がった。憲政を守れ、閥族を倒せ、と唱える運動が起き、1913年2月、数万の民衆が議事堂を取り囲む。新聞社や交番が焼き討ちされた。桂内閣は発足から二か月足らずで総辞職する。民衆の運動が内閣を倒した初めての例で、政党が政治の中心になっていく大正の時代の始まりを告げた。東京
- 受験と学歴できごとAD1918年受験地獄という語1872年の学制で学校ができ、1886年の学校令で帝国大学を頂点とする階梯が固まった。中学、高等学校、帝国大学。定員が限られ、入るには試験がある。1918年の高等学校令で高校が増設されたが、競争は緩まなかった。新聞が合格者名を載せ、「受験地獄」の語が大正期に定着した。家柄でなく試験で人を選ぶという建前は、機会を開くと同時に、失敗を本人の責任にした。予備校、模擬試験、偏差値(1960年代)。科挙と同じ構造が、別の形で現れた。東京
- 米騒動できごとAD1918年台所の怒りが、政治の形を変えた第一次世界大戦の好景気で物価が上がり、シベリアへの出兵を見越した米の買い占めで、米の値段が一年で倍になった。1918年7月、富山の漁村の女性たちが、米を県外へ積み出すのをやめよと浜に集まった。新聞が「越中の女一揆」と報じると、八月には全国の都市と炭鉱に騒ぎが広がり、米屋や商社が襲われる。政府は軍隊を出して鎮めたが、内閣は倒れた。代わって、初めての本格的な政党内閣が生まれた。台所の怒りが、政治の形を変えた。富山
- 原敬の政党内閣できごとAD1918年9月29日平民宰相の政党内閣米騒動で寺内内閣が倒れると、元老たちは、衆議院の第一党である政友会の総裁・原敬に組閣を命じた。1918年9月29日、陸軍・海軍・外務の大臣を除いて、閣僚をすべて政党員で占める内閣が生まれる。爵位を持たない原は、平民宰相と呼ばれた。鉄道を地方に伸ばし、高等学校や大学を増やして支持を固める。だが普通選挙には慎重だった。1921年11月4日、東京駅で、一人の青年に刺されて死んだ。東京
- 普通選挙法できごとAD1925年(大正14年)日本で最初の選挙に投票できたのは、高額の税を納める男だけで、人口の一パーセントほどだった。財産の条件は少しずつ下げられ、1925年、二十五歳以上のすべての男に選挙権が与えられる。有権者は四倍に増えた。ただし女性は含まれない。そして同じ議会が、同じ年に治安維持法を通している。参加を広げる一方で、体制を変えようとする考えそのものを取り締まる仕組みを用意した。広げることと、締めることが、同時に行われた。女性が投票するのは、敗戦後の1946年になる。東京
- 東京裁判できごとAD1946年5月3日天皇は訴追されなかった市ヶ谷の旧陸軍省。11か国の判事。A級戦犯28人。「平和に対する罪」。2年半。7人が絞首刑。東条英機、広田弘毅。インドのパル判事は全員無罪の意見書を書いた。天皇は訴追されなかった。「勝者の裁き」か「文明の裁き」か、日本ではいまも二つの答えがある。東京

- 丙午の年に子が減るできごとAD1966年統計に表れるほど、人は暦を気にしていた干支で六十年に一度めぐる丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の命を縮める。江戸時代に広まった迷信で、火付けをした八百屋お七が丙午の生まれだという話と結びついた。1966年、日本の出生数は前の年より四分の一ほど減った。結婚や出産を一年ずらした夫婦が多かったとみられる。前の丙午の1906年に生まれた女性が縁談で避けられたことも、まだ記憶にあった。高度成長のさなか、統計に表れるほど多くの人が暦を気にしていた。次の丙午は2026年である。東京
- ニクソン訪中できごとAD1972年2月21日頭越し反共の大統領が、国交のない国へ。空港で周恩来と握手した。ダレスが1954年に拒んだ握手。毛沢東と1時間。万里の長城。上海コミュニケ。「一つの中国」。ソ連への牽制。テレビ生中継。「世界を変えた週」。日本は頭越しに知らされた。北京

重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
ムンディ先生の講義で学ぶ歴史17件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。女性の権利11件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ10件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。主権はだれのものか8件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。表現の歴史8件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。教育の歴史8件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。幕末7件を共有 / 黒船が来てから15年で、700年近く続いた武家政権が終わった。都市の歴史7件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。技術と産業6件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。法と裁判の歴史6件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。武士の700年5件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。考えることの歴史5件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。お金の歴史4件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。言葉と文字の歴史4件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。キリスト教のひろがり3件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史3件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。メディアの歴史3件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。インドと仏教2件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。朝鮮半島2件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。交易路とお金2件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『想像の共同体』で読む歴史2件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。働くことの歴史2件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。近代と宗教2件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。子どもの歴史2件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。中国の王朝1件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『武士の家計簿』で読む幕末1件を共有 / 加賀藩の会計係の家が、37年つけた家計簿が見つかった。武士は、思われているよりずっと借金に苦しんでいた。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。戦争と平和の歴史1件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。