人物

近松門左衛門

Chikamatsu Monzaemon
AD1653年 – AD1725年1月6日(享年72・推定)
元禄重要度 5

概要

越前の武士の子。京で公家に仕え、浄瑠璃を書いた。竹本義太夫と組んで『出世景清』(1685年)。『曽根崎心中』(1703年)で世話物。実際の心中を1か月で舞台に。『心中天網島』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』。「虚実皮膜」。100以上の作。「日本のシェイクスピア」と明治に呼ばれた。72歳。

関わったできごと(1)

『曾根崎心中』の初演AD1703年 · 作者

本文

近松門左衛門は1653年、越前国に生まれた。本名は杉森信盛。父は越前松平家の一門に仕える武士だったが、近松がまだ少年のころに浪人し、一家は京へ移った。近松は京で一条家などの公家に仕え、公家社会の教養と王朝の文学に触れた。この経験は、後の作品に出てくる宮廷や古典の知識の土台になったと考えられている。「近松」という筆名の由来ははっきりせず、近江の近松寺にいたことがあるから、という説も伝承の域を出ない。

やがて近松は、京で人形浄瑠璃の太夫として人気のあった宇治加賀掾のために作品を書き始めた。1683年の『世継曽我』が、作者として確かめられる初期の作品である。1685年には、大坂の道頓堀に竹本座を開いたばかりの竹本義太夫のために『出世景清』を書いた。平家の武将景清の悲劇を描いたこの作品は、それまでの浄瑠璃に比べて人物の心の動きを深く描いたとされ、のちにこれ以前を古浄瑠璃、これ以後を新浄瑠璃と呼ぶ区切りにされている。同じ年、井原西鶴も宇治加賀掾のために浄瑠璃を書き、近松・竹本座と競ったと伝えられる。

1690年代、近松は歌舞伎に軸を移し、京の名優坂田藤十郎のために多くの脚本を書いた。藤十郎は、遊女に入れあげて勘当された若旦那のような、柔らかく色気のある二枚目の芸「和事」を得意とした。近松はその芸に合わせて筋を書き、人気作を次々に生んだ。役者のために書く仕事を通じて、近松は当代の町人の姿を舞台に乗せる腕を磨いた。

1703年4月、大坂の曽根崎の森で、醤油屋の手代徳兵衛と、堂島の遊女お初が心中した。近松はこの事件を、わずか1か月ほどで人形浄瑠璃『曽根崎心中』に仕立て、5月に竹本座で上演した。徳兵衛は、金を貸した友人に裏切られ、身の潔白を示すすべを失い、お初とともに死を選ぶ。武将や英雄の物語である時代物しかなかった浄瑠璃に、同時代の町人の生活と恋を描く世話物という新しい分野が生まれた瞬間だった。二人が死に場所へ向かう道行の場面、この世の名残り、夜も名残り、で始まる詞章は、日本語の名文としてよく知られている。上演は大当たりし、竹本座が抱えていた借金を返すことができたと伝えられる。

1705年、近松は竹本座の専属作者となり、のちに京から大坂へ移り住んだ。座の経営には竹田出雲があたり、近松が書き、義太夫が語るという体制ができた。義太夫の死後は、若い竹本政太夫が語りを引き継いだ。

それからの近松は、世話物と時代物の両方で傑作を書き続けた。1711年の『冥途の飛脚』では、遊女梅川を身請けするために預かった公金の封印を切ってしまう飛脚屋の忠兵衛を描いた。1715年の『国性爺合戦』は、明の遺臣と日本人の母の間に生まれた鄭成功をモデルに、明の再興のために戦う和藤内の活躍を描く壮大な時代物で、17か月に及ぶ記録的な続演となった。1720年の『心中天網島』では、紙屋の治兵衛と遊女小春の心中を描くが、物語の中心には、夫と小春の両方を思いやって身を引こうとする治兵衛の妻おさんがいる。義理と人情の板挟みが、ここで最も深く描かれた。近松の世話物の主人公たちは、英雄ではなく、金に困り、つい弱さに負けてしまう平凡な若者である。近松はその弱さを責めず、追い詰められていく道筋を一歩ずつ描いて、観客に自分のことのように涙を流させた。1721年の『女殺油地獄』は、放蕩息子の与兵衛が金に困って顔見知りの女を殺す話で、心中物とは違う、救いのない人間の姿を描いている。

近松の芸術観を伝えるものに「虚実皮膜」という言葉がある。芸は、実と虚の皮と膜ほどの間にある。事実をそのまま写しても観客の心は動かず、まったくの作り事でも心には届かない。この言葉は、近松の死後、儒学者の穂積以貫が『難波土産』に書きとめた近松の談話として伝わっている。

心中物の流行は、社会に影も落とした。芝居をまねて心中する男女が増えたとして、幕府は1722年から翌年にかけて心中物の出版や上演を禁じ、心中を「相対死」と呼んで、生き残った者を厳しく罰するようにした。近松の心中物は、彼の死後しばらく、そのままの形では上演されなくなる。

1725年1月6日(享保9年11月22日)、近松は大坂で死んだ。72歳。死の前に書いた文には、代々武士の家に生まれながら武士の道を離れ、公家に仕えながら官位もなく、町に暮らしながら商いも知らない、という意味の言葉がある。武士でも公家でも町人でもない自分を見つめた、自嘲と誇りの入り混じった言葉である。

近松の後、人形浄瑠璃は竹田出雲らの合作によって『『仮名手本忠臣蔵』の初演』などの大作を生み、歌舞伎にも多くの演目を残した。明治になって坪内逍遥らが近松を研究し、「日本のシェイクスピア」と呼んだ。元禄文化を代表する劇作家として、その作品は今も文楽や歌舞伎で上演され続けている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1653年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →