ウンム・クルスームの木曜の夜
概要
毎月第一木曜のラジオ放送で、アラブ世界の街から人が消えたと言われる。一曲を1時間かけ、同じ一行を客の反応を見ながら何度も変えて歌った。
場所
30.04°N 31.24°E · エジプト
関わった人(1)
ウンム・クルスームAD1898年頃–AD1975年2月3日 · 歌手本文
ウンム・クルスームは、ナイル・デルタの小さな村で生まれた。生年ははっきりせず、1898年から1904年まで説が分かれる。父は村のモスクの導師で、祝いの席に招かれては宗教歌を歌って暮らしを立てていた。娘の声が兄より強いことに気づいた父は、彼女を少年の服で包み、頭巾をかぶせて一緒に歌わせた。女の子が人前で歌うことが、村ではよく思われなかったからである。
1920年代の初め、一家はカイロに出た。田舎の歌い手は、はじめ都会の客に笑われた。だが彼女は詩人アフマド・ラーミーから詩と古典の言葉を学び、作曲家たちと組んで新しい歌を次々に出した。レコードが売れ、映画にも出た。1930年代には、エジプトでいちばんの歌手と呼ばれるようになっていた。

彼女の歌を支えたのは、詩と旋律を書いた人びとだった。作曲家ムハンマド・カサブギー、リヤード・スンバーティー、ザカリヤ・アフマド。歌詞には恋や別れを歌う現代の詩だけでなく、古典の詩や宗教的な詩も選ばれた。教養のある詩の言葉を、読み書きのできない人まで口ずさむようになった。
1934年にエジプトの国営ラジオが始まると、彼女の演奏会は電波に乗った。1937年ごろから、毎月第一木曜の夜にカイロの劇場で開く演奏会を、そのまま生で放送するのが決まりになった。その夜は、アラブ世界のあちこちで、カフェにも家々にも人がラジオの前に集まった。街から人が消えた、と言われるほどだった。放送はモロッコからイラクまで届いた。

演奏会は夜遅くに始まり、数時間続いた。一曲が1時間を超えることも珍しくなかった。秘密は歌い方にある。同じ一行の詩を、客席の反応を確かめながら、節を変え、間を変え、何度も歌い直す。客は感極まって声を上げ、もう一度と叫ぶ。彼女はまた別の形で歌う。歌い手と聴き手が一緒に陶酔の頂へ昇っていく、アラブの音楽で「タラブ」と呼ばれる体験である。同じ歌が、二度と同じには聞こえなかった。
舞台の上の姿も決まっていた。長いドレスに身を包み、手には一枚のハンカチを握る。晩年は目を患い、濃い色の眼鏡をかけて歌った。私生活はほとんど語らず、結婚したのは50代になってからで、相手は自分の主治医だった。長く音楽家組合の長も務めている。
1952年の革命で王政が倒れると、王の前で歌ってきた彼女の歌を放送から外そうとする動きがあった。ガマール・アブドゥル=ナセルがそれを聞いて、エジプトを敵に回すつもりか、とやめさせたと伝えられる。以後、彼女は新しい国の声になった。1956年のスエズ危機のさなかに彼女が歌った愛国歌『ああ、わが武器よ』は、のちに長くエジプトの国歌として使われた。ナセルの重要な演説を、彼女の演奏会の直前に放送したという話も残る。人びとがラジオの前にいる時間だったからだ。

1964年には、長く張り合ってきた作曲家ムハンマド・アブドゥルワッハーブの曲『あなたは私の命』を歌った。二人の大家の初めての組み合わせは「頂上の出会い」と呼ばれ、大きな話題になった。
1966年に歌った『廃墟』は、詩人イブラーヒーム・ナージーの詩に、スンバーティーが曲をつけたものである。失われた愛を廃墟に重ねた歌で、彼女の代表作の一つとされる。翌年の敗戦のあと、その歌詞は国の痛みに重ねて聴かれるようになった。

1967年、エジプトがイスラエルに大敗すると(第三次中東戦争)、彼女はパリをはじめ、アラブ各地と国外を回って演奏会を開き、収益をすべて国に寄付した。60代の後半だった。敗戦で沈んだ人びとにとって、彼女が舞台に立つこと自体が一つの支えだった。
晩年は腎臓などを病み、1975年2月に死んだ。カイロの葬儀には数百万人が集まったとされ、群衆は棺を担ぎ取り、予定と違う道を何時間も運んだ。「東方の星」と呼ばれた歌手の録音は、死後半世紀たったいまも、カイロのタクシーやカフェで流れている。