武野紹鴎の茶
概要
堺の皮革商で、連歌を学び、藤原定家の歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」に侘びの心を見た。茶室から装飾を減らし、竹の花入と、備前と信楽の水指を使い、板の床を土壁にした。堺の町衆の間に茶を広げた。弟子に千利休、今井宗久、津田宗及。堺は自治都市で、鉄砲と南蛮貿易の富があり、その富が、簡素を選んだ。
場所
34.57°N 135.48°E · 大阪府
関わった人(1)
武野紹鴎AD1502年–AD1555年 · 広めた本文
堺は、大阪湾に面した港町である。15世紀の後半から、中国の明との貿易船が出入りし、16世紀には南蛮の船とも取り引きした。1543年に種子島に伝わった鉄砲(鉄砲伝来)は、堺でも盛んに作られた。町の周りに濠を巡らせ、会合衆と呼ばれる有力な商人たちの合議で治められていた。1561年、宣教師ガスパル・ヴィレラは、堺は大きく豊かな町で、ヴェネツィアのように執政官によって治められている、と書き送っている。
武野紹鴎は1502年、この堺に生まれた(大和の生まれとする説もある)。家は、鎧や馬具の材料となる皮革を扱う商人で、「皮屋」と呼ばれた。若い頃に京へ出て、当時の和歌と古典の第一人者、三条西実隆に和歌を学び、連歌にも励んだ。連歌師を志していたとも伝えられる。30歳を過ぎて頭を剃り、紹鴎と号した。

茶は、村田珠光と侘び茶の流れを汲む人々から学んだ。珠光は、唐物の名品を並べる豪華な茶から離れ、粗末な和物の道具にも美しさを見る茶を始めていた。紹鴎は、それを歌の言葉で説明した。藤原定家の歌、「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」である。華やかな花も紅葉も無く、あるのは海辺の粗末な小屋と秋の夕暮れだけ。その「無い」ことの中に、深い味わいがある。紹鴎はこれこそが茶の心だと言った、と『南方録』は記す。ただし『南方録』は利休の弟子が書いたとされながら江戸時代に世に出た書で、どこまで本当の言葉かには議論がある。
紹鴎が茶室から減らしたものについては、いくつかの伝えがある。床の間の縁を黒漆塗りから白木に替え、板張りの壁を土の壁にした。花入には金属や青磁ではなく竹を、水を入れる水指には、もとは日用の甕だった備前や信楽の焼き物を取り上げた。豪華な棚を減らし、道具の数を減らした。高価な輸入品だけが美しいのではない、身近なものの中にも見るべき形がある、という目を、茶の道具に持ち込んだのである。広い書院ではなく、四畳半ほどの小さな座敷で、亭主と客が向かい合う茶の形も、紹鴎の頃に整っていった。連歌の座で、身分の違う者が同じ席で句を付け合ったように、狭い茶室では、主と客が一つの場を作ることが求められた。
とはいえ、紹鴎は唐物を捨てたわけではない。彼が持っていた「紹鴎茄子」と呼ばれる中国渡りの茶入などは、名物として後に大名たちの手を渡り歩いた。紹鴎は、唐物と和物、豪華と簡素の境目に立って、その二つを一つの茶会の中で取り合わせた人だった。
堺の町衆には、紹鴎のもとで茶を学ぶ者が多かった。魚問屋の子の千宗易、のちの千利休。紹鴎の娘婿となって道具と財産を継ぎ、のちに鉄砲や火薬の取り引きで力を持った今井宗久。会合衆の一人で天王寺屋の主、津田宗及。この三人は、やがて織田信長と豊臣秀吉に仕える茶頭となった。信長は名物の茶道具を買い集め、手柄を立てた家臣に茶道具や茶会を開く許しを褒美として与えた。茶は、政治と商売の取り引きの場になっていった。1568年、京へ上った信長は堺に2万貫という巨額の軍用金を求めた。町は濠を深くして抗う構えも見せたが、翌年には屈した。自治の町の富は、天下を狙う武将の手に組み込まれていき、その橋渡しをしたのが、紹鴎の弟子の茶人たちだった。

1555年、紹鴎は54歳で死んだ。そのとき利休は33歳だった。紹鴎が始めたことを、利休はさらに推し進め、二畳の茶室や黒い楽茶碗にまで切り詰めていく(侘び茶の大成)。
侘びの茶は、日本で最も富んだ町の、最も富んだ商人たちの間で形になった。彼らは金があったからこそ、何も無いことを選べた。輸入品の名物を知り尽くした目が、日用の甕の美しさを見つけたのである。豊かさの中から生まれた簡素であることが、この美意識の不思議さであり、強さでもある。