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Event / できごと

武野紹鴎の茶

Takeno Jōō's tea
AD1540年頃
重要度 4

概要

堺の皮革商で、連歌を学び、藤原定家の歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」に侘びの心を見た。茶室から装飾を減らし、竹の花入と、備前と信楽の水指を使い、板の床を土壁にした。堺の町衆の間に茶を広げた。弟子に千利休、今井宗久、津田宗及。堺は自治都市で、鉄砲と南蛮貿易の富があり、その富が、簡素を選んだ。

場所


34.57°N 135.48°E · 大阪府

関わった人(1)

武野紹鴎AD1502年–AD1555年 · 広めた

本文

堺。大阪湾に面した港町。日明貿易と南蛮貿易。鉄砲(1543年の種子島の後、堺で量産された)。町の周りに濠を巡らせ、会合衆(えごうしゅう)36人の合議で自治を行った。宣教師ガスパル・ヴィレラが1561年に書いた。「堺の町は非常に広大にして大なる商人多数あり。この町はヴェネツィア市の如く、執政官によりて治めらる」。

武野紹鴎。1502年、堺(あるいは大和)。父は武田氏の一族と称する武野信久。家業は皮革(武具の材料)の商い。「皮屋」。

若い頃、京へ出た。三条西実隆(当時の和歌と古典の第一人者)に和歌と『源氏物語』を学んだ。連歌も。1532年、31歳で剃髪、紹鴎と号した。

茶を、珠光の弟子(宗珠、あるいは十四屋宗陳・宗悟)から学んだ。

彼が「侘び」を言葉にした。三条西実隆に学んだ、藤原定家の『詠歌大概』の序に、こうある。「情は新しきを以て先と為し、詞は旧きを以て用ゆ」。そして、定家の歌。

「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」

華やかなもの(花も紅葉も)が、ない。あるのは、海辺の粗末な小屋と、秋の夕暮れ。その「ない」ことの中に、美がある。紹鴎は、これが茶の心だと言った、と『南方録』(利休の弟子南坊宗啓が書いたとされる書。江戸期の成立で、内容の信憑性には議論がある)に記されている。

具体的に変えたこと。

床の間を、真塗の框から、白木や竹に。壁を、板から、土壁(藁の入った荒壁)に。花入を、金属や青磁から、竹に。水指を、唐物から、備前・信楽の甕に。茶杓を、象牙から、竹に。棚を減らし、道具を減らした。

彼の所持した「紹鴎茄子」(唐物茶入)や「紹鴎白天目」は、名物として伝わっている。彼自身は、唐物を捨てたのではない。唐物と和物、贅と簡素の、境目にいた。

堺の弟子たち。千利休(当時、宗易。魚問屋の子)、今井宗久(紹鴎の娘婿になり、道具と財産を継いだ。信長と秀吉の御用商人になり、鉄砲と火薬を扱った)、津田宗及(天王寺屋。会合衆の一人)。

「天下三宗匠」。この三人が、信長と秀吉の茶頭になった。茶が、政治と商売の場になった。信長は名物狩りで茶器を集め、家臣への恩賞に茶器と茶会の許可を使った(「一国に値する茶碗」)。

1555年、紹鴎が死んだ。54歳。利休は33歳。

侘びの茶は、堺という、日本で最も富んだ町の、最も富んだ商人たちの間で完成した。彼らは、金があるから、何もないことを選べた。

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