聖像破壊論争
概要
像を拝むのは偶像崇拝かをめぐって100年争った。西方教会との溝が深まり、1054年の分裂につながる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
レオン3世(イサウリア朝)AD685年頃–AD741年6月18日 · 始めた皇帝本文
東ローマ帝国では、6世紀から7世紀にかけて、キリストや聖母や聖人を描いた板絵、つまりイコンへの崇敬が急速に広まった。人々はイコンに口づけし、灯りをともし、病が治るよう祈った。町を守る力があると信じられたイコンもあり、戦いの前に城壁の上を運んで回った。一方で、旧約聖書の十戒は「刻んだ像を造ってはならない」と命じている。木や絵の具でできたものを拝むのは、異教の偶像崇拝と同じではないか、という疑いは、教会の内部にも昔からくすぶっていた。
8世紀の初め、帝国は存亡の危機にあった。7世紀にアラブのムスリム軍にシリアとエジプトを奪われ(ヤルムークの戦い)、717年から718年には都コンスタンティノープルが包囲された(コンスタンティノープル包囲とギリシア火)。この包囲をしのいだのが、軍人から皇帝になったレオン3世(イサウリア朝)である。なぜ神はキリスト教徒の帝国に敗北を続けさせるのか。偶像を一切持たないムスリムが勝ち続けているのは、自分たちが神の戒めに背いているからではないか。そう考える者がいても不思議ではない時代だった。

726年、エーゲ海のテラ島の海底で大きな噴火が起きた。レオン3世はこれを神の怒りのしるしと受けとめ、聖像に反対する立場をとり始めたと、のちの年代記は書く。宮殿の門に掲げられていたキリストのイコンを取り外させ、それに抗議した人々が罰せられた、という話も伝わる。730年には、反対した総主教が退けられた。ただし、レオン3世がどこまで本格的に聖像を壊させたのかは、はっきりしない。この時代の記録の多くは、最後に勝った聖像擁護の側が書いたもので、相手を悪く描いている。近年の研究では、組織的な破壊が進んだのは次の皇帝の時代だとみる見方が強い。
息子のコンスタンティノス5世は、聖像破壊を神学として打ち立てようとした。754年、彼は300人以上の司教を集めて会議を開き、キリストを絵に描くことは、神であり人であるキリストの本性を分けるか混ぜるかのどちらかになるので許されない、と決議させた。聖像擁護の拠点だった修道院は厳しく弾圧され、修道士が還俗させられたり、見せしめに辱められたりした。教会の壁のモザイクは、十字架や草花、鳥の図柄に塗り替えられた。

聖像を守る側にも理論家が現れた。ウマイヤ朝の支配下のダマスカスに住んでいた修道士、ダマスコのヨアンネスである。帝国の手の届かないところにいたので、自由に書けた。神は目に見えない存在だから旧約では像が禁じられた。だが神は人となってこの世に現れたのだから、見えた姿を描くことができる。そして、像に向けられる崇敬は、像そのものではなく、描かれた本人へと移っていく。神だけに捧げる礼拝と、聖像や聖人に向ける崇敬とは別のものだ、というのが彼の答えだった。
争いは、皇帝の代替わりのたびに揺れ動いた。780年、幼い皇帝の母として実権を握ったエイレーネーは聖像の擁護に回り、787年、ニカイアで公会議を開いて、聖像への崇敬を正式に認めさせた(第2ニカイア公会議)。ところが815年、皇帝レオン5世が再び聖像破壊を打ち出し、修道士テオドロスら擁護派は再び迫害された。最後に争いを終わらせたのも、女性だった。843年、幼いミカエル3世の摂政となった母テオドラが聖像崇敬を復活させ、この出来事は「正教の勝利」として、いまも正教会で四旬節の最初の日曜日に祝われている。
この100年あまりの争いは、東西の教会の関係にも傷を残した。ローマ教皇は一貫して聖像破壊に反対した。皇帝はその報復として、南イタリアとシチリアなどの教会を教皇の管轄から外し、コンスタンティノープルの総主教の下に移したとされる。北からはランゴバルド人が迫っていたが、皇帝は教皇を守ってくれない。教皇はフランク王国に頼るようになり、756年のピピンの寄進、800年のカール大帝の戴冠へと進んでいった。そのカール大帝の宮廷は、ラテン語に訳された第2ニカイア公会議の決議を読んで、像を神のように拝めと命じていると誤解し、これを批判する書物まで作っている。

結局、聖像は認められた。ただ、正教会では立体の彫像はほとんど作られず、平面のイコンが信仰の中心になっていった。描き方にも決まった型ができ、画家の個性よりも伝統の正しさが重んじられた。東と西の教会は、その後も教義や教皇の権威をめぐって離れていき、9世紀のフォティオスの分裂を経て、1054年に互いに破門し合う(東西教会の分裂)。聖像をめぐる争いは、その遠い始まりの一つだった。