ルクレティウス
概要
生涯のことはほとんど分からない。原子論を六巻の詩にした。中世の写本はわずかしか残らず、1417年にポッジョが見つけた写本の写しから広まる。
所属
ローマ関わったできごと(1)
ルクレティウス『事物の本性について』BC55年頃 · 作者本文
ティトゥス・ルクレティウス・カルスの生涯について、確かなことはほとんど無い。紀元前1世紀の前半を、共和政末期のローマで生きた人である。生まれは紀元前99年ごろとも94年ごろともいわれ、死んだのは紀元前50年代の半ばと考えられている。家柄も、どこで育ったかも分からない。少年時代には、ローマの市街でマリウス派とスッラ派が殺し合い、処刑者の名簿が広場に貼り出された(スッラの独裁)。大人になってからも、政治家たちの抗争と内乱の気配は絶えなかった。ルクレティウスの詩には、権力や名誉を求めて争う人々の空しさが、繰り返し描かれている。

同時代の確かな証言は、一つしかない。紀元前54年2月、キケロが弟クィントゥスに宛てた手紙で、ルクレティウスの詩について、君の言うとおり、才能のひらめきが多く、しかも技巧も多い、と書いている。それだけである。
4世紀の聖職者ヒエロニムスは、年代記にこう書いた。ルクレティウスは恋の媚薬を飲まされて狂い、狂気の合間に数巻の書物を書き、のちにキケロがそれを校訂した。44歳で自ら命を絶った、と。神々を否定した詩人にふさわしい最期として、キリスト教の側が作り上げた話と考えられており、いまでは信じる研究者は少ない。
ルクレティウスが残した作品は一つ、『事物の本性について』である(ルクレティウス『事物の本性について』)。ラテン語の六歩格の詩で、全6巻、7400行あまり。ギリシアの哲学者エピクロスの教えを、ローマの読者のために詩の形で説いたもので、貴族のメンミウスにささげられている。苦い薬を子どもに飲ませるとき、杯のふちに蜜を塗るように、難しい教えを詩の甘さで包むのだ、と本人が書いている。

詩は、愛と生命の女神ウェヌスへの美しい呼びかけで始まる。そして説く。何ものも無からは生まれない。世界のすべては、目に見えない無数の原子と、何もない空虚からできている。原子は永遠に動き回り、ぶつかり合い、結びついて、星も海も生き物もつくり、やがてほどけて別のものになる。原子はときどき、ほんのわずか、予測できない方向へそれる。そのずれがあるから、世界は決まりきった因果の鎖に縛られず、人には自由な意志がある。
魂もまた原子でできている。だから体が死ねば、魂も散ってしまう。死後の罰も地獄も無い。死は我々にとって何ものでもない、と詩は言う。私たちがいるとき死は無く、死が来たとき私たちはいない。生まれる前の永い時間を恐れないのと同じく、死んだあとの時間を恐れる理由は無い。神々は存在するとしても、遠い世界で安らかに暮らしており、人間の世界にはかかわらない。雷も地震も疫病も、神の怒りではなく自然の働きである。ギリシアの王が娘を神々への生贄にささげた話を引いて、宗教はこれほどの悪をそそのかすことができたのだ、と書いた一行は、後世たびたび引かれることになる。
第5巻では、世界と生命の始まり、人類が火を使い、言葉を持ち、家を建て、金属を見つけ、国と法を作っていく歩みを描く。最後の第6巻は、アテネを襲った疫病の凄惨な描写で、唐突に終わる。詩が未完のまま残された、と考える研究者は多い。
詩はローマの文人たちに読まれた。ウェルギリウスが、物事の原因を知りえた者は幸いだ、とうたったのは、ルクレティウスのことだとよくいわれる。だが神の摂理を否定し、魂の不滅を認めないこの詩は、キリスト教の時代になると嫌われ、ほとんど読まれなくなった。それでも9世紀のカロリング朝の写本が少なくとも二つ作られ、いまもオランダのライデンの図書館に残っている。
1417年、イタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニが、ドイツの修道院で写本を見つけ、写しをイタリアへ送った。そこから写本が増え、1473年には印刷された。原子が空虚の中を動き回るという考えは、ジョルダーノ・ブルーノやモンテーニュ、17世紀のガッサンディらに受け継がれ、アイザック・ニュートンも蔵書にこの詩を持っていた。原子論が科学の言葉として戻ってくる19世紀のドルトンの原子論まで、この古代の詩はその道筋の一本になった。作者のことは何も分からないまま、詩だけが2000年を生き延びたのである。