『カンタベリー物語』

概要
ベケットの墓への巡礼者が、宿から大聖堂まで話を語る。騎士、粉屋、女子修道院長、バースの女房。英語で書かれた最初の大きな文学で、この言葉がフランス語に代わって文学の言葉になった。
場所
51.28°N 1.08°E · イングランド
関わった人(1)
ジェフリー・チョーサーAD1343年頃–AD1400年10月25日 · 作者本文
四月、甘い雨が三月の乾きを根まで潤すころ、人びとは巡礼に出かけたくなる。ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』は、こう歌い始める。英語で書かれた詩の最初の一行として、いまもイギリスの学校で覚えさせられる一節である。
舞台は、テムズ川の南岸、ロンドン橋のたもとのサザークにある宿屋「陣羽織亭」。カンタベリー大聖堂の聖人トマス・ベケットの墓に詣でようと、二十九人の巡礼が泊まり合わせた。ベケットは1170年、国王の騎士たちに大聖堂の中で殺され(トマス・ベケットの殺害)、ほどなく聖人とされて、その墓はイングランドで最も人気のある巡礼地になっていた。宿の主人ハリー・ベイリーが一行に提案する。道中の退屈しのぎに、一人が行きに二話、帰りに二話ずつ語り、いちばん良い話をした者に、帰ってきたら皆で夕食をおごろう。

計算すれば百を超える話になるはずだったが、書かれたのは二十四話で、そのいくつかは途中で終わっている。巡礼はカンタベリーに着く場面も、帰り道も描かれない。チョーサーは1387年ごろに書き始め、1400年に亡くなるまで書き継いだが、作品は未完のまま残された。
それでも、この本の楽しさは、語り手たちの顔ぶれにある。序の歌は、一人一人の身なりと癖を、皮肉と愛情を込めて描き出す。戦場を渡り歩いた礼儀正しい騎士。小犬に上等のパンを食べさせ、「愛はすべてに勝つ」と刻んだブローチを下げた上品な女子修道院長。五人の夫を教会の戸口で迎えたと自慢するバースの女房。偽の聖遺物を売り歩く免罪符売り。粉屋、料理人、船乗り、医者、法律家、貧しい学僧、正直な農夫。中世のイングランドの社会が、一つの宿にそろっている。
話の中身も、語り手に合わせて千差万別である。騎士は古代ギリシアを舞台に、二人の騎士が一人の姫を争う気高い恋の物語を語る。下敷きはボッカッチョの詩である。続けて修道士が語るはずだったところへ、酔った粉屋が割り込み、大工の若い妻と下宿の学生が老いた夫をだます下品な笑い話を始める。バースの女房は、書物の権威よりも自分の経験の方が結婚を語る資格がある、と言い放つ。免罪符売りは「金銭への欲こそ諸悪の根」と説教しながら、その場で聴衆から金を集めようとし、金貨を見つけた三人のならず者が互いに殺し合う寓話を語る。学僧は、ペトラルカがラテン語に訳した『デカメロン』のグリゼルダの話を語り直す。チョーサー自身も巡礼の一人として登場し、退屈な騎士の物語を語り始めて、宿の主人に「もうやめてくれ」と止められる。

チョーサーはロンドンのぶどう酒商人の家に生まれ、少年時代から王家に仕えた。百年戦争ではフランスで捕虜になって身代金で解放され、外交の使節としてイタリアにも渡り、ロンドンの港の税関の監督官も務めた。宮廷と街の両方を知り、イタリアの新しい文学にも触れていたことが、この作品の幅を作った。1381年のワット・タイラーの乱で反乱の農民たちがロンドンになだれ込んだとき、チョーサーは彼らが通った市の東門の上の部屋に住んでいた。
この作品の意味は、何よりも、それが英語で書かれたことにある。1066年のノルマン人の征服から三百年近く、イングランドの宮廷と貴族の言葉はフランス語、学問と教会の言葉はラテン語で、英語は庶民の言葉にすぎなかった。14世紀の後半、百年戦争でフランスと戦うなかで英語の地位は上がり、1362年には裁判で英語を使うことを定めた法ができた。同じころウィクリフの仲間たちは聖書を英語に訳している(ウィクリフの英語聖書)。チョーサーは、ロンドンの英語で、フランスやイタリアの詩に負けない長い物語詩を書いてみせた。一行に強弱の拍を五つ並べ、二行ずつ韻を踏む形も、英語の詩の基本の型の一つになった。

写本は八十を超えて残る。中でも豪華なエルズミア写本には、馬に乗った語り手たちの絵が添えられている。1476年ごろ、イングランドで初めて印刷所を開いたキャクストンは、この作品を最初期の本の一つとして刷った。チョーサーはウェストミンスター寺院に葬られ、のちにその周りに詩人たちが葬られて、「詩人のコーナー」が生まれた。チョーサーはいまも「英詩の父」と呼ばれている。