概要
ワルシャワ近郊。父はフランス人の家庭教師。7歳で出版、8歳で公開演奏。1830年、20歳でウィーンへ発ち、その3週間後に十一月蜂起が起きて、帰れなくなった。パリで、貴族の生徒に教え、少人数のサロンで弾いた(大ホールの演奏会は生涯30回ほど)。ジョルジュ・サンドと9年。マズルカ、ポロネーズ、ノクターン、バラード、練習曲。ほぼ全部がピアノのため。結核。39歳。心臓は姉が壺に入れてワルシャワへ運んだ。
関わったできごと(1)
ショパンの練習曲AD1833年 · 書いた本文
1810年3月1日(洗礼記録では2月22日)、ワルシャワ近郊ジェラゾヴァ・ヴォラ。父ニコラ・ショパンはロレーヌの村からポーランドへ来て、フランス語の家庭教師になった人。母ユスティナは、没落した貴族の縁者で、その家の家政を見ていた。
生後半年でワルシャワへ。父がリツェウム(高等中学)の教師になった。家に下宿生を置いた。母がピアノを弾いた。
6歳でチェコ人ジヴニーに習い始めた(バッハとモーツァルトを教えられた。3年後、「もう教えることがない」と辞した)。7歳でポロネーズ ト短調が出版された。8歳で公開演奏。「ポーランドのモーツァルト」。
1826〜29年、ワルシャワ音楽院。校長エルスネルの成績表。「特別の才能。音楽の天才」。
1829年、ウィーンで演奏会。成功した。
1830年11月2日、20歳。ウィーンへ発つ。友人たちが送別会を開き、ポーランドの土を詰めた銀の杯を贈った。
11月29日、ワルシャワで十一月蜂起。ロシアの支配に対する武装蜂起。彼は帰ろうとしたが、家族と友人が止めた。ウィーンに留まった。ウィーンの世論はロシア寄りで、ポーランド人であることが不利になった。
1831年9月、パリへ向かう途中、シュトゥットガルトで、ワルシャワ陥落の報せを受けた。手記(シュトゥットガルトの手記)。
「郊外は破壊され、焼かれた。……ヤシは、母は、どこにいるのか。……妹は。……ああ、なぜ私はここにいるのか。一人で。……時々、私は呻くだけで、ピアノに苦しみを注ぎ込み、絶望する。……神よ、あなたはいるのか。いるのに、復讐しないのか」。
パリ。1831年10月から、死ぬまで18年。
演奏会。生涯の公開演奏会は約30回。「私は群衆に向いていない。彼らの視線に麻痺し、好奇の目に息が詰まり、見知らぬ顔に口がきけなくなる。しかし君(リスト)は、それに向いている」。
生活は、レッスンで立てた。貴族と富裕市民の令嬢。1時間20〜30フラン(当時、労働者の週給に近い)。1日に5、6人。上等な服を着て、馬車を持ち、上流の客間に出入りした。
友人。リスト、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ(彼の肖像を描いた。後に切り分けられて、ショパンの部分がルーヴル、サンドの部分がコペンハーゲンにある)。
ジョルジュ・サンド。1836年に会った(第一印象「なんて感じの悪い女だ。あれは本当に女なのか」)。1838年から9年。1838〜39年の冬、マヨルカ島のバルデモサの廃修道院。雨が続き、彼は喀血し、島の人が結核を恐れて家を貸さず、宿を追われた。そこで『24の前奏曲』作品28を仕上げた。以後、夏はサンドの領地ノアン、冬はパリ。
1847年、破局。サンドの娘ソランジュの結婚をめぐる家族の争いで、彼がソランジュの側に立った。サンドは彼を家から締め出した。以後、二人は会っていない(一度、パリの客間で偶然会い、彼が「あなたはおばあさんになりましたね」と言った、と伝わる)。
音楽。ほとんど全部がピアノのため。マズルカ58(ポーランドの農村の3拍子の舞曲。彼はそれを、和声の実験室にした)、ポロネーズ16、ノクターン21、ワルツ、練習曲27、前奏曲26、バラード4、スケルツォ4、即興曲、ソナタ3、そして協奏曲2(20歳までに書いた)。
音の作り方。ペダルの使い方(響きを混ぜて、次で洗う)。「ルバート」(左手が拍を守り、右手が伸び縮みする。「木の幹は動かず、葉が揺れる」)。指ごとの違いを生かす運指。
1848年、二月革命でパリの生活が崩れ、スコットランドとロンドンへ演奏旅行(弟子のジェーン・スターリングが手配した)。霧と湿気で悪化した。11月16日、ロンドンでポーランド難民のための演奏会。これが最後の公開演奏。
1849年10月17日午前2時頃、パリ、ヴァンドーム広場12番地。39歳。結核(近年、心膜炎の合併や嚢胞性線維症の説もある)。
葬儀。マドレーヌ寺院。モーツァルトの『レクイエム』(女性歌手が歌うことを教会が禁じたため、実現に2週間かかった)と、自身の前奏曲。3000人。
心臓。彼は生前、「生き埋めが怖い」と言い、死後に体を開いて確かめてほしいと頼んだ。姉ルドヴィカが、心臓をアルコールの入った壺に納め、外套の下に隠して(ロシアの支配下のワルシャワへ持ち込むため)運んだ。聖十字架教会の柱の中。1944年、ワルシャワ蜂起の際にドイツ軍の司祭が持ち出して保管し、戦後に戻された。2014年、封を開けずに外観を調べ、結核の所見が確認された。
体は、ペール・ラシェーズ墓地。棺の上に、あの銀の杯の、ポーランドの土が撒かれた。