草原の帝国

概要
匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。
この物語について
草原の民は、いつも「攻めてきた側」として書かれている。書いたのが、文字を持っていた定住社会の側だったからになる。
ユーラシアの真ん中には、東の満洲から西のハンガリーの平原まで、草の海がほぼ切れ目なく続いている。雨が少なく、畑には向かないが、羊や馬、牛、ラクダを養うことはできる。草原の民は、家畜を連れて季節ごとに草地を移り、乳と肉と毛皮で暮らした。馬に乗って弓を射る技を子どもの頃から身につけた彼らは、そのまま強い騎兵になった。農耕の社会に穀物や布、金属があり、草原に馬と家畜がある。両者は奪い合うだけでなく、交換し合わなければ暮らせない関係でもあった。
記録に残る最初の騎馬の民の一つが、黒海の北にいたスキタイである。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、紀元前6世紀の末、ペルシアのダレイオス1世が大軍で攻め込んだとき、スキタイは決戦を避けて草原の奥へ退き、井戸を埋め、草を焼いて敵を疲れさせたと書いている。スキタイが残した金の装身具には、動物が絡み合う独特の文様が刻まれているが、彼ら自身の言葉で書かれた記録は無い。私たちが知るスキタイは、ギリシア人の目に映ったスキタイである。
東の草原では、紀元前3世紀の末、冒頓単于が匈奴をまとめ上げた。冒頓は、自分の鳴り鏑の矢が射た先を射なかった部下を斬って命令に絶対に従う兵を作り、ついには父を射させて単于の位に就いたと『史記』は伝える。紀元前200年、匈奴の大軍は、天下を取ったばかりの漢の高祖劉邦を、白登山で7日間包囲した。白登山の戦いの後、漢は匈奴に皇女を嫁がせ、毎年絹や酒、穀物を贈ることで和を保った。この関係は60年ほど続いた。

漢の武帝は、この関係を覆そうとした。張騫を西へ送って匈奴を挟み撃ちにする相手を探させ、衛青や霍去病を将軍として匈奴を北へ押し返した。だが戦争は漢の財政を傾け、匈奴も滅びはしなかった。紀元48年、匈奴は南北に分かれ、南匈奴は漢に従った。払って平和を買うか、戦って押し返すか。この二つの選択は、以後の王朝が草原と向き合うたびに繰り返される。
4世紀の後半、ヨーロッパの東に、フン族と呼ばれる騎馬の民が現れた。彼らに押されたゴート族などがローマ帝国の領内へなだれ込み、西ローマの崩壊の一因になった。5世紀の半ば、王アッティラはローマに貢納を払わせ、ガリアやイタリアへ攻め込んだが、453年に急死し、その国はたちまち崩れた。フン族が匈奴の子孫かどうかは、名前の似ていることなどから古くから論じられてきたが、決め手は無い。

552年、モンゴル高原からアルタイにかけて、トルコ系の突厥が、それまで仕えていた柔然を破って自立した。突厥可汗国の成立である。突厥は、中国の北朝の国々から大量の絹を受け取り、それをソグド人の商人を通じて西へ売った。絹の道の値段を握ったのは、草原の側だったのである。突厥はいったん唐に服属したが、7世紀の末に独立を取り戻した。8世紀の前半、その王族の業績を記念して建てられたのがオルホン碑文である。
オルホン碑文は、草原の民が自分たちの文字と言葉で、自分たちの歴史を書いた初めての長い記録とされる。そこには、唐の人びとは言葉が甘く、絹が柔らかいが、それに誘われて南へ移った者たちは多く死んだ、草原にとどまれ、と刻まれている。中国の側から見れば朝貢と恩恵だったものが、草原の側からは誘惑と危険に見えていた。碑文を建てた毘伽可汗の言葉は、記録を書く側が替わると歴史の見え方が変わることを、そのまま示している。

突厥の後に草原の主になったウイグルは、唐との関係をさらに深めた。755年に安史の乱が起きると、ウイグルは唐の求めに応じて騎兵を送り、長安と洛陽の奪還を助けた。その見返りに、唐は毎年多くの絹を払い、ウイグルの馬を高い値で買い取った。ウイグルは軍事の請負で富を得たともいえる。ウイグルの王族はマニ教を受け入れ、草原に城壁を持つ都を築いたが、840年、北のキルギスに滅ぼされた。
10世紀には、草原と農耕の境に新しい型の国が現れた。916年に耶律阿保機が建てた契丹の遼は、遊牧の民は部族の決まりで、農耕の民は中国式の役所で治めるという、二つの仕組みを使い分けた。1004年、遼は宋に攻め込み、翌年、両国は澶淵の盟を結んだ。宋は毎年、銀10万両と絹20万匹を遼に贈り、その代わりに戦争はおよそ120年止んだ。この支払いは、宋にとっては戦費に比べればはるかに安かったとする見方がある。払う側を弱いと見るか、賢いと見るかで、この時代の評価は大きく変わる。

12世紀には、満洲の女真が金を建てて遼を滅ぼし、1127年には宋の都の開封を落として、二人の皇帝を北へ連れ去った。西では、トルコ系のセルジューク朝が1071年、マンジケルトで東ローマの皇帝を捕らえ、アナトリアがトルコ系の人びとの土地になっていくきっかけを作った。草原から出た人びとは、中国でも西アジアでも、定住の国の支配者になっていった。
13世紀のはじめ、草原の歴史は頂点を迎える。1206年、テムジンはモンゴル高原の部族を統一してチンギス・ハンとなった。彼は部族の枠を壊して兵を千人隊に編み直し、身内でなくても功のある者を登用した。モンゴルの軍は中央アジア、西アジアを征服し、1241年にはハンガリーの軍をモヒで破り、1258年にはバグダードを落とした。孫のフビライ・ハンは1279年に南宋を滅ぼし、中国の全土を治めた。日本やベトナム、ジャワへの遠征は失敗したが、モンゴルの帝国は史上最大の陸の帝国になった。

モンゴルは破壊者として記憶されることが多い。実際、抵抗した都市の住民を皆殺しにした例は少なくない。だが帝国が一つになると、駅伝の制度が東西を結び、商人も宣教師も使節も、比較的安全に長い道を行き来できるようになった。マルコ・ポーロの旅も、この道の上にある。紙幣、火薬、天文学、料理の知識が東西を行き交った。その同じ道を通って、14世紀の半ばにはペストも運ばれた。
14世紀の後半、中央アジアからはティムールが現れ、モンゴルの帝国の再興を掲げて西アジアからインドまでを荒らした。1402年、ティムールはアンカラの戦いでオスマン帝国のスルタンを捕らえている。だが彼の死後、帝国は分かれた。一方、ロシアでは1380年、モスクワの大公ドミトリーがクリコヴォでモンゴル系の軍を破り、草原の支配から抜け出す道を歩み始めた。

終わりは、18世紀に来た。モンゴル系の最後の遊牧の大国ジュンガルは、17世紀から中央アジアで勢力を広げ、清と長く争った。1750年代、清の乾隆帝は内紛に乗じて大軍を送り、ジュンガルの滅亡に至った。戦いと、それに続く虐殺、さらに天然痘の流行で、ジュンガルの人びとの大半が命を落としたとされる。勝敗を決めたのは騎馬の技量ではなく、大砲と鉄砲、そして何千キロも先まで兵糧を運び続けられる官僚の仕組みだった。北からはロシアが、東からは清が草原を分け合い、草原の民が大きな帝国を作る時代は終わった。
2500年のあいだ、草原の民は、定住の国々の歴史に、外から攻め込む者として繰り返し書き込まれてきた。だが彼らは、絹の道の値段を握り、東西の人と物と知識を運び、中国の王朝やインドのムガル帝国、オスマン帝国の土台を作った。ムガルの王家はティムールの子孫であり、オスマン家も草原から来たトルコ系の人びとの流れをくむ。記録を残した側からだけ歴史を読むと、半分しか見えない。草原の側から並べ直すと、ユーラシアの歴史は、農耕と遊牧という二つの暮らしが、奪い合い、払い合い、混じり合ってきた一つの歴史に見えてくる。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(103)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- キンメリア人のゴルディオン破壊できごとBC696年頃草原の騎馬民族が最初にアナトリアへ来た黒海の北から来た騎馬民族がフリギアの都を焼いた。触れたものを金に変えたというミダス王は、この時に死んだと伝わる。ゴルディオン
- スキタイの騎馬遊牧できごと紀元前7世紀記録に残る最初の騎馬遊牧民馬に乗って戦う集団が黒海北岸に現れた。彼ら自身は文字を持たず、記録はギリシアと中国の側にしかない。黒海北岸の草原(位置は特定されていない)
- ダレイオスのスキタイ遠征できごとBC513年戦わずに退いたボスポラスに船の橋を架け、ドナウを渡って草原に入った。スキタイは戦わず退き、井戸を埋め、草を焼いた。王は鳥と鼠と蛙と矢を贈られた。「鳥のように飛び、鼠のように潜り、蛙のように跳ばなければ、矢に射られる」。帰った。イストロス(ドナウ河口)
- ゲルできごとBC500年頃方位と序列を持つ、小さな宇宙柳の格子を蛇腹に広げて壁とし、放射状の垂木を輪で受けて屋根にする。羊毛を圧縮したフェルトで覆い、毛の縄で締める。釘も接着も使わない。二人で一時間ほどで組み、また畳める。頂の輪は煙を出し、光を入れ、そして時刻を測る目安になった。入口は必ず南を向く。内部の位置には決まりがあり、北が上座、西が男の側、東が女の側である。移動する家であると同時に、方位と序列を持つ小さな宇宙だった。カラコルム
- 匈奴の統一できごとBC209年草原に最初の大国ができる。秦の統一とほぼ同時期冒頓単于が諸部をまとめ、草原に最初の大きな国ができた。中国の統一とほぼ同時期になる。モンゴル高原(位置は特定されていない)
- 匈奴国BC209年(冒頓単于の即位) – AD93年(北匈奴が高原を追われる)草原の諸部族を初めて一つにまとめた草原の諸部族を初めて一つにまとめた遊牧帝国。漢は敗れて和親と贈り物で買い、のちに攻めて分裂させた。ローマに来たフン人との関係は、いまも議論がある。
- 前漢国BC202年 – AD9年最初の相手役。60年払い続けたあと、攻勢に転じる秦の崩壊後に興り、西域まで版図を広げた。同じころ地中海ではローマが伸びており、絹の道が両者をつないだ。
- 白登山の戦いできごとBC200年漢が贈り物を払う側に回った漢の高祖が7日間包囲された。以後60年、漢は皇女と絹を贈って和平を買う側に回る。白登山(位置は特定されていない)

- ミトリダテス1世(パルティア)人物BC195年 – BC132年遊牧の部族から帝国にアルサケス朝の6代目。メディア、メソポタミア、ペルシス、エリマイス。セレウコス朝のデメトリオス2世を捕えて娘を嫁がせた。「王の中の王」。ギリシア風の硬貨に「ギリシア人の友」。パルティアを、遊牧の部族から、帝国にした。
- 冒頓単于人物? – BC174年父を殺して立ち、モンゴル高原を統一した。漢の高祖を包囲し、贈り物を受け取る側に回らせる。
- パルティアのセレウキア占領できごとBC141年王の中の王ミトリダテス1世がメディアからメソポタミアへ下り、セレウコス朝の都を取った。のちの王たちは「王の中の王」を名乗る。ティグリスの対岸に冬の陣を置いた。クテシフォン。ギリシアの街とイランの遊牧民の陣が向かい合って、400年。ローマの東は、そこで止まった。セレウキア
- 霍去病人物BC140年 – BC117年24歳で死んだ18歳で初陣、20歳で河西を取り、22歳で匈奴の祭祀の地まで攻めた。「匈奴が滅びぬうちは家など要らぬ」と言い、24歳で死んだ。
- 張騫の西域派遣できごとBC138年匈奴を挟撃する同盟を探した使者。副産物として絹の道が開く匈奴を挟撃する同盟を探して送られた使者が、中央アジアの情報を持ち帰った。絹の道の始まり。長安
- グレコ・バクトリア王国の滅亡できごとBC130年頃月氏が来てアレクサンドロスの兵の子孫の国が、200年、アフガニスタンにあった。ギリシア語の硬貨、ギリシアの神殿、アイ・ハヌムの劇場。月氏が匈奴に追われて来て、終わった。張騫が来たとき、もうなかった。「大夏」と彼は書いた。バクトラ
- 衛青の河南奪回できごとBC127年黄河の湾曲の内側皇后の弟の騎奴が将軍になり、黄河の湾曲の内側を匈奴から取った。長安の北の脅威が消え、朔方郡が置かれ、10万人が移住した。以後7回出撃し、負けなかった。甥の霍去病が河西を取る6年前。オルドス
- 霍去病の河西遠征できごとBC121年匈奴の歌が伝わる。祁連山を失い、家畜が育たない20歳の将軍が匈奴を河西回廊から追い、漢はのちに四つの郡を置いていく。西域への道がここで開き、敦煌が最初の関になる。敦煌
- 大宛遠征(汗血馬)できごとBC104年血の汗をかく馬武帝が「血の汗をかく天馬」を求めた。大宛は使者を殺した。李広利が数万で行き、飢えて帰り、武帝が「玉門関を入るな」。もう一度、6万。大宛は王の首を差し出し、馬3000頭。帰ったのは1万。西域の道が、馬のために開いた。フェルガナ(大宛)
- 蘇武の帰還できごとBC81年雁の足に手紙匈奴に使者として行き、捕えられ、降らなかった。北海(バイカル)で羊を飼った。19年。「雄の羊が乳を出したら帰す」。漢の使者が「雁の足に手紙が」と嘘を言って取り戻した。髭は白く、節(使者の杖)の飾りは落ちていた。忠の型になった。長安
- 王昭君の降嫁できごとBC33年そのあと60年、境は静かだった後宮の女性が匈奴の単于に嫁がされ、草原で生涯を終えた。漢と匈奴の和親の証で、その後60年、境は静かだった。詩と物語が千年語り継ぐ。長安
- 匈奴の南北分裂できごとAD48年南は漢に従い、北は西へ去った。北匈奴の行方は分かっておらず、フン族との関係も証明されていない。モンゴル高原(位置は特定されていない)
- ソグド商人のネットワークできごと400年サマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。サマルカンド
- カタラウヌムの戦いできごとAD451年フンは草原から来て、ここで止められたローマと西ゴートの連合がアッティラを止めた。西ローマ帝国の最後の大きな勝利とも言われるが、兵の多くは西ゴートなど同盟した諸族だった。カタラウヌムの野(位置は特定されていない)

- アッティラ人物? – AD453年東西のローマから貢納を取り立て、ガリアとイタリアを荒らした。死ぬと帝国は数年で消える。
- アッティラの死できごとAD453年婚礼の夜ゲルマンの娘イルディコとの婚礼の夜、酒に酔って鼻血で窒息した。翌朝、花嫁が泣いていた。フン人は顔を切って血で悼み、金銀鉄の三重の棺に入れ、埋めた者を殺した。翌年、ネダオで従属民が反乱し、帝国は消えた。ゲルマンの伝説では妻に殺されたことになった。ティサ平原(セゲド)
- エフタルの侵入できごと5世紀後半中央アジアから来た勢力がグプタ朝を削り、ササン朝の王を戦死させた。草原からの圧力は西だけに向いたのではない。タキシラ
- 高歓人物AD496年 – AD547年六鎮の乱から懐朔鎮の貧しい鮮卑化した漢人。妻の持参金の馬で役人になった。六鎮の乱に加わり、爾朱栄の下で力をつけ、爾朱氏を滅ぼした。皇帝を立て、皇帝が逃げ、また立てた。鄴。晋陽。宇文泰と5度戦って勝てず、玉壁で負けて死んだ。息子が北斉を建てた。
- 突厥可汗国の成立できごとAD552年モンゴル高原からカスピ海まで届く国ができた。ビザンツにもササン朝にも使者を送り、絹の道の値段を握る。モンゴル高原(位置は特定されていない)
- ブミン可汗人物? – AD552年柔然に仕える鉄工の部族の長だった。主君の娘を求めて断られ、翌年その主君を倒して可汗になる。即位の年に死んだ。
- 突厥国AD552年(ブミン可汗の即位) – AD744年(ウイグルに滅ぼされる)モンゴル高原からアラル海まで20年で広げたアルタイの鉄工の一族が柔然を倒し、モンゴル高原からアラル海まで20年で広げた。ソグド商人を抱え、ビザンツと直接使節を交わす。独自の文字で碑文を残した。
- ソンツェン・ガンポ人物AD605年頃 – AD649年高原の諸部族を一つにし、唐とネパールから妃を迎えた。チベット文字はこの王の命で作られたと伝わる。
- 吐蕃国AD618年頃(ソンツェン・ガンポの即位) – AD842年(ラン・ダルマの死と分裂)763年に一時長安を占領したソンツェン・ガンポが高原をまとめ、唐と婚姻し、唐と戦った。763年には一時長安を占領している。仏教を国の宗教にし、チベット文字を作った。
- 吐蕃の高原統一できごとAD630年頃以後200年、唐と対等に戦う諸部族を一つにし、都をラサに置いた。唐とネパールから妃を迎え、チベット文字を作らせた。以後200年、唐と対等に戦う国になる。ラサ
- 文成公主の入蔵できごとAD641年ジョカン寺ソンツェン・ガンポが唐に妃を求め、断られ、吐谷渾を攻め、また求めて、太宗が宗室の娘を送った。仏像、経典、絹、種、暦、医書。ラサに寺を建てた。ジョカン寺。チベットは、この妃で、唐の文化と仏教を受け取ったと語る。統一チベットの始まりの物語。ラサ
- 毘伽可汗人物AD683年 – AD734年突厥を再興した可汗。自分たちの言葉で書かれた碑文を残し、唐に取り込まれるなと説いた。
- オルホン碑文できごとAD732年(毘伽可汗碑は735年)彼ら自身の言葉で書かれた、ほとんど唯一の史料テュルクの言葉で書かれた最古の碑文。唐の絹と甘い言葉に乗るな、と自分たちの文字で刻んである。オルホン渓谷(位置は特定されていない)
- ウイグル可汗国できごと744年安史の乱で唐を助け、見返りに絹を得た。840年にキルギスに敗れて西へ移り、オアシスに定住する。オルホン渓谷(位置は特定されていない)

- ウイグル可汗国国AD744年 – AD840年(キルギスの侵入)安史の乱で唐を助け、絹で払わせた突厥を倒して高原を継ぎ、安史の乱では唐を助けて長安を取り戻した。その見返りに絹を大量に得て、マニ教を国の宗教にする。キルギスに追われて西へ移った。
- タラス河畔の戦いできごとAD751年草原とオアシスの帯を、唐とアッバース朝が奪い合った唐がアッバース朝に敗れた。捕虜を通じて製紙法が西へ伝わり、やがてヨーロッパに届く。タラス河畔(位置は特定されていない)
- 吐蕃の長安占領できごとAD763年唐が西域を失う流れがここで決まる安史の乱で唐が弱ったところへ、高原の軍が都に入った。15日で退くが、唐が西域を失う流れはここで決まる。長安
- 張議潮人物AD799年 – AD872年帰義軍節度使敦煌の豪族。吐蕃の下で育ち、僧の学校で学んだ。848年に立って沙州を、瓜州、伊州、甘州を取り、851年に唐に使者を送って「帰義軍節度使」。河西を60年ぶりに唐へ。867年、長安に入って人質のように留められ、そこで死んだ。莫高窟156窟に、彼の出行の絵。
- キルギスのウイグル打倒できごとAD840年オルドバリクを焼いた内紛と飢饉と雪で弱ったウイグル可汗国を、エニセイのキルギスが襲い、可汗を殺し、オルドバリクを焼いた。100年の可汗国が消えた。ウイグルは西へ逃げて、天山と河西に落ち着き、農耕と仏教とマニ教の民になった。唐は北の敵を失い、843年にはマニ教を禁じた。オルホン渓谷(位置は特定されていない)
- 張議潮の帰義軍できごとAD848年60年ぶりに唐へ吐蕃が敦煌を取って60年。吐蕃が内乱で割れると、敦煌の豪族張議潮が立ち、沙州を取り、河西11州を唐に返した。帰義軍。莫高窟に彼の出行図がある。唐が滅んでも、宋が来ても、敦煌は190年近く、この軍の土地だった。11世紀に西夏が来た。敦煌
- 耶律阿保機人物AD872年 – AD926年契丹の諸部をまとめて皇帝を名乗った。遊牧民と農耕民を別の制度で治める仕組みを作る。
- サーマーン朝の興りできごとAD875年奴隷兵に取られたバルフの貴族の孫たちがカリフからトランスオクシアナを与えられた。ブハラ。ペルシア語をアラビア文字で書き、宮廷で使った。ルーダキー、フェルドウスィーの『王書』。イブン・シーナーがブハラの図書館で学んだ。トルコの奴隷兵を育て、その奴隷兵に取られた。ブハラ
- マジャール人のパンノニア定住できごとAD895年草原から来た騎馬の民がドナウの平原に落ち着いた草原から来た騎馬の民が、ドナウの平原に落ち着いた。大モラヴィアを潰し、50年ヨーロッパを荒らし、キリスト教に改宗してハンガリーになる。カルパチア盆地(位置は特定されていない)

- 契丹(遼)の建国できごとAD916年遊牧民と農耕民を別々の制度で治めた。中国の北の一部を含む国が、草原の側から作られる。上京臨潢府
- 遼(契丹)国AD916年 – AD1125年草原の側から作られた、中国の北半分を含む国契丹の諸部をまとめて皇帝を名乗り、遊牧民と農耕民を別々の制度で治めた。宋から毎年の贈り物を受け取る側だった。
- 高麗国AD918年 – AD1392年モンゴルに30年抗って服属した新羅のあと半島を統一し、474年続いた。モンゴルに30年抗って服属し、大蔵経を彫った。国名 Korea の語源になる。
- スヴャトスラフ人物AD943年 – AD972年頭蓋骨が杯にイーゴリとオリガの子。母は改宗し、彼は「従士が笑う」と拒んだ。ハザールを滅ぼし、ブルガリアを取り、ビザンツと戦って和し、帰り道でペチェネグに殺された。頭蓋骨が杯になった。長い口髭と剃った頭、片耳のリング。「私はあなたを攻めに行く」と先に伝えた。
- レヒフェルトの戦いできごとAD955年マジャール人の西への襲撃が止まるマジャール人の西への襲撃が止まった。定住してハンガリー王国になり、ヨーロッパの側に入る。レヒフェルト(位置は特定されていない)

- カラハン朝のイスラーム受容できごとAD960年頃草原のトルコ系が初めて国としてイスラームに入る草原のトルコ系の王朝が、初めて国としてイスラームを受け入れた。以後、中央アジアのトルコ語圏がイスラーム世界に組み込まれていく。カシュガル
- ハザールの滅亡できごとAD965年一房もないユダヤ教に改宗した草原の帝国を、キエフのスヴャトスラフが攻めた。サルケル、イティル。「ハザールはブドウ園があったが、いまは一房もない」。300年、ビザンツとカリフとルーシの間に立った国が消え、草原の道が開いて、ペチェネグとクマンが来た。イティル
- トゥグリル・ベグ人物AD990年頃 – AD1063年オグズの一部族を率いてイランを取り、バグダードに入ってカリフから「東西の王」の称号を受けた。カリフの娘を妻に求め、認めさせた。
- ハンガリー王国国AD1000年(イシュトヴァーン1世の戴冠) – AD1541年(ブダ陥落。オスマンとハプスブルクに分割される)モンゴルに一度潰された草原から来たマジャール人が、キリスト教の王国になった。教皇から王冠を受け、モンゴルに一度潰され、オスマンにモハーチで敗れる。言葉は変えなかった。
- 澶淵の盟できごとAD1004年毎年の支払いで120年の平和を買う宋が遼へ毎年銀と絹を送ることで戦争を止めた。屈辱と呼ばれたが、実際には120年の平和を買っている。澶淵
- 亀州の戦いできごとAD1019年契丹の第三次侵入契丹の第三次侵入。10万が開城の手前まで来て帰る途中、姜邯賛が亀州で待っていた。風向きが変わり、契丹は数千人しか帰れなかった。71歳の文官の将軍。高麗は契丹と和し、千里長城を築き、100年の平和を得た。亀州(亀城)
- アルプ・アルスラーン人物AD1029年頃 – AD1072年マンジケルトでビザンツ皇帝を捕虜にした。アナトリアがテュルクの土地になる入口を開く。
- 西夏国AD1038年(李元昊の皇帝宣言) – AD1227年(モンゴルによる滅亡)チンギスの最後の遠征で滅びたタングート人がオルドスと河西回廊に建てた。宋と遼と金の間で、独自の文字を作り、仏教の経典を訳した。チンギスが最後の遠征で滅ぼし、その死の直後に都が皆殺しになる。
- ダンダーナカーンの戦いできごとAD1040年遊牧民がイランを治める800年がここからセルジュークがガズナ朝を破り、ホラーサーンを取った。トルコ系の遊牧民がイランを治める時代がここから始まる。メルヴ

- 完顔阿骨打人物AD1068年 – AD1123年舞えと言われて拒んだ女真の部族長。遼の皇帝の宴で舞うことを拒み、2500の兵で挙兵して、10倍の遼軍を破った。1115年に皇帝を称し、女真文字を作らせ、遼の五京をすべて落として死んだ。
- マンジケルトの戦いできごとAD1071年8月26日アナトリアがテュルクの土地になりはじめるセルジューク朝がビザンツ皇帝を捕虜にした。アナトリアがテュルクの土地になりはじめ、十字軍を呼ぶ遠因になる。マンジケルト

- 耶律大石人物AD1087年 – AD1143年200騎で西へ遼の太祖の8代の孫。進士。金に遼が滅ぼされる直前、200騎で西へ逃げた。モンゴル高原、ウイグル、バラサグン。「グルカン」。カトワーンでサンジャルを破り、中央アジアを取った。「カラ・キタイ」。中国風の年号と官制。プレスター・ジョンの元。
- レヴニオンの戦いできごとAD1091年4月29日クマンを雇ったペチェネグがトラキアを荒らし、コンスタンティノープルに迫った。アレクシオス1世は敵の草原の民クマンを雇い、一日で潰した。「一つの民が、一日で消えた」。20年、負け続けたビザンツの最初の勝ち。4年後、アレクシオスは教皇に兵を頼み、十字軍が来た。レヴニオン

- 金の建国できごとAD1115年女真が遼に反旗を翻し、10年で滅ぼした。草原の帝国が、さらに北の森の民に倒される。上京会寧府
- 金(女真)国AD1115年 – AD1234年遼を倒した、さらに北の森の民女真が遼を10年で滅ぼし、返す刀で宋の都を落とした。華北を1世紀支配したあと、モンゴルに削られて消える。
- 靖康の変できごとAD1127年宋が中国の南半分の王朝になる金が宋の都を落とし、皇帝父子を北へ連れ去った。宋は南へ逃げ、以後は中国の南半分の王朝になる。開封

- カトワーンの戦いできごとAD1141年9月東の異教徒に負けた遼の王族耶律大石が西へ逃げて建てた西遼(カラ・キタイ)が、サマルカンドの北でセルジューク朝のサンジャルを破った。イスラームの軍が東の異教徒に負けた。ヨーロッパに「東方のキリスト教の王が来る」と伝わり、プレスター・ジョンの伝説になった。カトワーン
- チンギス・ハン人物AD1162年頃 – AD1227年草原の諸部族をまとめ、史上最大の陸上帝国の土台を築いた。生年も墓所も分かっていない。
- 崔氏政権の始まりできごとAD1196年江華島に28年武臣政変から26年、武人の間の殺し合いの末に、崔忠献が李義旼を殺して権力を握った。王を二人退け、四人を王位に就けた。都房、政房、三別抄。4代62年。モンゴルが来ると江華島に逃げて28年抵抗した。武臣政権は100年続いた。開城
- モンゴル帝国の拡大できごと1206年草原の側が最大に達した史上最大の陸上帝国。ユーラシアが一つの交通圏になり、人も物も疫病も東西を往復する。カラコルム
- フビライ・ハン人物AD1215年 – AD1294年草原の側が中国を丸ごと治めた中国を征服して元を建てた。二度日本へ兵を送り、二度とも失敗する。
- チャガタイ汗国国AD1225年頃 – AD1680年頃(東部のモグーリスタンの終わり)西はティムールが乗っ取り、東は17世紀まで続いた次男チャガタイの家が継いだ中央アジア。西半分はティムールが乗っ取り、東半分はモグーリスタンとして17世紀まで続く。ウイグルの文字と文化が、ここでトルコ語の書き言葉になった。
- モンゴルの站赤できごとAD1234年牌子を持つ者は馬を替えられるオゴデイが整備した駅伝の網。25から45キロごとに站を置き、馬、食料、宿、そして替えの人を常備させる。牌子(パイザ)を持つ使者は、どの站でも馬を替えられる。金の牌を持つ者は最優先。急使は一日に300キロ以上進んだとされる。マルコ・ポーロが、その規模に驚いて詳しく書いている。ユーラシアの東西が、初めて一つの通信網で結ばれた。同時に、この街道を、14世紀の疫病が同じ速さで移動した。カラコルム
- バトゥの西征できごとAD1237年凍った川を道にして冬に進んだモンゴル軍が凍った川を道にして冬に進み、ルーシの諸公国を次々に落とした。ハンガリーとポーランドまで達し、大ハーンの死で引き返す。キーウ
- モヒの戦いできごとAD1241年4月11日バトゥがハンガリーを潰したバトゥの軍がハンガリー王の軍を橋の上で破った。人口の15〜25%が失われたとされる(かつては半分とも言われた)。王はアドリア海の島まで逃げ、モンゴルが去ってから石の城を各地に建てた。モヒ(シャヨー川畔)(位置は特定されていない)
- キプチャク汗国国AD1242年(バトゥの西征の終わり) – AD1502年(大オルダの滅亡)ルーシを250年従え、その間にモスクワが育ったチンギスの長男ジョチの家が継いだ、帝国の西の端。ルーシの諸公国を250年従え、その間にモスクワが徴税の代行で力をつけた。ヴォルガの都サライは交易で栄えた。
- キョセ・ダグの戦いできごとAD1243年アナトリアの中央権力が消え、その隙間にオスマンが生まれるモンゴル軍がルーム・セルジュークを破った。アナトリアの中央権力が消え、小さな君侯国が並ぶ。その一つがオスマンになる。キョセ・ダグ(位置は特定されていない)

- イル汗国国AD1256年(フレグのイラン入り) – AD1335年(アブー・サイードの死)7代目がイスラームに改宗し、『集史』が編まれたバグダードを落としたフレグの家が、イランを治めた。7代目のガザンがイスラームに改宗し、宰相ラシード・アッディーンが『集史』を編む。80年で血統が絶えて割れた。
- バグダードの陥落できごとAD1258年モンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。バグダード

- アイン・ジャールートの戦いできごとAD1260年9月3日モンゴルが野戦で初めて決定的に敗れたモンゴル軍が野戦で初めて決定的に敗れた。大ハーンの死で主力が引き上げていた隙を、マムルークが突いた。アイン・ジャールート

- 襄陽の攻囲できごとAD1268年回回砲漢水の要。南宋の北の鍵。フビライは6年囲んだ。イル・ハン国からペルシアの技師を呼び、回回砲を据えた。1273年、樊城が落ち、襄陽の呂文煥が降った。3年後、臨安。マルコ・ポーロは「私の父と叔父が砲を作った」と書いたが、彼らはまだ来ていなかった。襄陽
- 元国AD1271年 – AD1368年草原の側が中国を丸ごと治めた草原の側が中国を丸ごと治めた。モンゴル高原と中国が一つの国になり、大都(北京)が都になる。
- 大元の国号できごとAD1271年遊牧の帝国が、中国の王朝の顔を持ったモンゴル帝国の五代目の大ハーンとなったフビライは、草原の都カラコルムを離れ、中国の北に新しい都・大都を築かせた。いまの北京のもとになる町である。1271年、易経の言葉から取った大元という国号を定め、中国の王朝の形をとった。1279年に南宋を滅ぼし、中国の全土を一人の支配者のもとに置く。モンゴル人を上に置く身分の区別を残しつつ、中国の役所の仕組みを使って治めた。遊牧の帝国が、中国の王朝の顔を持った。北京
- 文永の役できごとAD1274年11月19日(文永11年10月20日)元と高麗の900隻元と高麗の900隻、3万が対馬と壱岐を襲い、博多に上陸した。てつはう、集団戦、毒矢。武士は一騎討ちの名乗りをして囲まれた。一日戦って、元軍は船に戻り、翌朝いなかった。嵐で帰ったのか、最初から威力偵察だったのか、いまも議論がある。博多
- 崖山の戦いできごとAD1279年3月19日南宋の最後南宋の最後。8歳の皇帝と20万人が1000隻の船を鎖でつないで海に浮かんでいた。張弘範が水と薪の道を絶った。陸秀夫は皇帝を背負って海に入った。10万の死体が浮いた。「崖山の後に中国なし」と、明末の遺民が言い、日本の学者が広めた。崖山

- 弘安の役できごとAD1281年7月(弘安4年閏7月)川船で台風に東路軍4万と、南宋の降兵からなる江南軍10万。博多の石築地で上陸できず、鷹島で船を並べているところに台風が来た。船の多くは急いで造った川船だった。「神風」の語は江戸時代から。フビライは三度目を計画して、やめた。博多
- 白藤江の戦い(元寇撃退)できごとAD1288年モンゴルが退けられた数少ない例川底に杭を沈め、引き潮で元の艦隊を座礁させた。大越はモンゴルを三度退けている。白藤江(位置は特定されていない)

- オスマン帝国国AD1299年頃 – AD1922年(スルタン制の廃止)アナトリア北西の小さな君侯国から始まり、コンスタンティノープルを落とし、三大陸にまたがった。19世紀に外から削られ、第一次世界大戦の敗戦で解体する。
- ティムール人物AD1336年4月9日 – AD1405年2月18日中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドを学問と建築の都にする。
- ドミトリー・ドンスコイ人物AD1350年10月12日 – AD1389年5月19日ドン川の9歳でモスクワ大公。クレムリンを石の壁にし、諸公をまとめ、クリコヴォでモンゴルを破って「ドン川の」と呼ばれた。二年後に都を焼かれたが、汗の許しなしに大公位を息子に譲った。聖人。
- 青水の戦いできごとAD1362年モンゴルの支配から最初に抜けた土地リトアニアがキプチャク汗国の軍を破り、キエフとドニエプル西岸を取った。モンゴルの支配から最初に抜けた東スラヴの土地になる。青水(シニェ・ヴォディ)(位置は特定されていない)
- ティムール帝国の拡大できごと1370年中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドには各地から職人と学者が集められる。サマルカンド
- クリコヴォの戦いできごとAD1380年9月8日ルーシがモンゴルに勝った最初モスクワ大公が諸公を集めてドン川を渡り、キプチャク汗国のママイを破った。ルーシがモンゴルに勝った最初。二年後にトクタミシュがモスクワを焼き、貢納は100年続いたが、話はこの日から始まる。クリコヴォの野

- アンカラの戦いできごとAD1402年7月20日ティムールがオスマンの君主を捕らえた。おかげでコンスタンティノープルの陥落は半世紀遅れる。アンカラ

- ウルグ・ベクの星表できごとAD1437年ティムールの孫ティムールの孫が、サマルカンドに半径40メートルの六分儀を地中に埋めて作り、30年、星を測った。1018個の星の位置。1年の長さを365日5時間49分15秒とした(誤差25秒)。ヒッパルコス以来、最も正確な星表で、ヨーロッパが追い抜くのは17世紀。1449年、王位を継いだ息子に殺された。天文台は宗教者に壊され、20世紀に地中の六分儀の溝だけが見つかった。サマルカンド
- 土木の変できごとAD1449年9月1日エセン宦官王振に勧められて正統帝が50万で親征し、オイラトのエセンに囲まれ、皇帝が捕虜になった。于謙が弟を皇帝にして北京を守った。エセンは皇帝を返した。帰った皇帝は7年幽閉され、弟が病むと復位して于謙を殺した。明はそれから長城を築き続けた。土木堡
- カザン攻略できごとAD1552年10月2日ヴォルガが全部ロシアのものにイヴァン4世が15万と大砲150門でカザン・ハン国を囲み、坑道に火薬を詰めて城壁を吹き飛ばした。ジョチ・ウルスの後継の一つが消えた。モンゴルに支配された側が、モンゴルの後継国を併合した最初。ヴォルガが全部ロシアのものになり、東はシビル、ウラル、シベリアへ。赤の広場の聖ワシリイ大聖堂は、この勝利の記念に建てられた。カザン
- イェルマークのシビル汗国征服できごとAD1582年シビル汗国ストロガノフ家が雇ったコサック840人が、火縄銃でウラルを越え、シビル汗国の都を取った。イェルマークは3年後に川で溺れた。鎧が重かった。ロシアはそのあと60年で太平洋に着いた。毛皮を追って。シベリアの名は、この汗国から。カシュリク(シビル)
- ジュンガルの滅亡できごと1755年終わり。火器と兵站が騎馬に勝った清が最後の遊牧帝国を消した。住民の多くが殺されるか疫病で死に、2000年続いた草原と農耕の力関係がここで終わる。イリ渓谷(位置は特定されていない)
- プガチョフの乱できごとAD1773年コサックが死んだ皇帝を名乗り、農奴とウラルの労働者を集めてヴォルガ流域を席巻した。鎮圧後、エカチェリーナは農奴制をむしろ強めた。カザン

- ロシアのタシケント占領できごとAD1865年19世紀、ロシアは草原を南へ進み、中央アジアのオアシスの国々に迫った。1865年、将軍チェルニャーエフは、命令を待たずに中央アジア最大の商業の町タシケントを攻め落とす。二年後、ここにトルキスタン総督府が置かれ、ブハラとヒヴァは保護国になり、コーカンドは滅ぼされた。ロシアは綿花の畑を広げ、アメリカの南北戦争で途絶えた綿を補った。南のインドを持つイギリスは、ロシアがアフガニスタンを越えて来ることを恐れ、両国の探り合いは「グレート・ゲーム」と呼ばれた。タシュケント
- バスマチ蜂起できごと1916年徴用への反発から始まり、ソビエト政権への抵抗として20年近く続いた。山と砂漠を使った戦いで、最後は国境の封鎖と土地の分配で終わる。ブハラ

- カザフの飢饉できごと1930年遊牧という暮らし方が終わる遊牧民を強制的に定住させ、家畜を集団化した結果、150万人前後が死んだ。カザフ人の人口の4割近くにあたる。長く公には語られなかった。アラル海(位置は特定されていない)
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