概要
それまでの女性の服は、客が布を選び、仕立て屋が客の注文どおりに縫うものだった。イギリス生まれのシャルル・フレデリック・ウォルトは、1858年、パリに自分の店を開き、仕立て屋ではなく、服を考え出す者として振る舞った。季節ごとに新しい服を考え、生きた女性に着せて客に見せ、客はその中から選んで自分の寸法で作らせた。服には自分の名前の入ったラベルを縫いつけた。皇妃ウジェニーが顧客となり、ウォルトの服はヨーロッパの宮廷を席巻した。デザイナーが流行を作るというオートクチュールの仕組みは、ここに始まった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
19世紀の半ばまで、上流の女性の服は、まず客が布地屋で生地とレースを選び、それを持って女性の仕立て屋のところへ行き、自分の好みと注文どおりに縫ってもらうものだった。仕立て屋は、客に仕える職人だった。流行を決めるのは、宮廷の貴婦人たちだった。
シャルル・フレデリック・ウォルトは、1825年、イングランドのリンカンシャーに生まれた。ロンドンの布地屋で働いたのち、20歳でパリに渡り、高級な布地屋で働きながら、服を仕立てる腕を磨いた。彼は、同じ店で働いていたマリー・ヴェルネと結婚し、自分が考えた服を彼女に着せて店に立たせた。
1858年、ウォルトはスウェーデン人の共同経営者とともに、パリのラ・ペ通りに自分の店を開いた。やがて、オーストリアの大使の妻メッテルニヒ侯爵夫人を通じて、ナポレオン3世の皇妃ウジェニーが彼の客になった。皇妃が宮廷の舞踏会で彼の服を着ると、ヨーロッパの王侯の妃や貴婦人、アメリカの富豪の妻たちが、ウォルトの店に押し寄せた。
ウォルトは、服の作り方と売り方を変えた。彼は客の注文を待つのではなく、季節ごとに新しい服をあらかじめ考えて作り、生きたモデルに着せて客に見せた。客はその中から気に入ったものを選び、自分の寸法に合わせて作らせた。流行を作るのは、客ではなく、服を考える者になった。彼は、服に自分の名前を織り込んだラベルを縫いつけ、画家のように自分の作品に署名した。袖や身頃の型を組み合わせて多くの服を効率よく作る方法も工夫した。
1868年、パリの高級な仕立ての店の組合が作られ、のちにオートクチュール(高級な注文服)を名乗れる店の基準を定めた。ウォルトの店は、彼の死後も息子たちに受け継がれた。デザイナーが季節ごとに作品を発表し、流行を世界に送り出す仕組みは、20世紀のシャネルやディオールへと続いていく(ディオールのニュールック)。