雪舟
概要
明へ渡って水墨画を学び、帰国して日本の風景を描いた。手本を写すことから離れる。
所属
日本関わったできごと(2)
応仁の乱1467年 · この戦乱の時期に明へ渡る雪舟の山水長巻AD1486年 · 描いた本文
1420年、備中(いまの岡山県総社市のあたり)に生まれたとされる。幼くして近くの宝福寺に入った。絵ばかり描いて修行をしないので、住職に柱に縛りつけられた。泣いて床に落ちた涙を足の指で集めて鼠を描いたところ、本物と見紛うほどだったので許された——という逸話が伝わる。ただしこれは、200年ほど後の江戸時代に狩野派の画家がまとめた画人伝に見える話で、史実かどうかは分からない。
![『絹本著色雪舟自画像(模本)』(重要文化財[注釈 1]、藤田美術館)](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Portrait_of_Sesshu.jpg/960px-Portrait_of_Sesshu.jpg)
10代で京都の相国寺に移り、禅僧として修行した。相国寺には、将軍家の御用を務めた画僧の周文がいた。雪舟はその下で水墨画を学んだとされる。当時の日本の水墨画は、宋や元の名品を手本に、その筆づかいを写すことから始めるものだった。「雪舟」という号を名乗るのは40歳を過ぎてからで、中国の禅僧が書いた「雪舟」の二字の墨跡を手に入れたことにちなむとされる。
やがて京都を離れ、周防の山口に移った。西国の大名、大内氏の城下町で、朝鮮や明との交易で栄え、京都から文化人が集まっていた。雪舟はここに画室(雲谷庵)を構えた。1467年、大内氏の仕立てた遣明船に乗って明へ渡る。数えで48歳、満で47歳だった。同じ年、京都では応仁の乱が始まっている。

明では寧波に着き、禅の名刹である天童山で「天童第一座」の称号を受けた。北京にも上り、役所の壁に絵を描いたと伝えられる。2年ほど滞在し、各地の山水を自分の目で見て1469年に帰国した。晩年、弟子に与えた『破墨山水図』の自賛で、明に渡って師を求めたが、師とすべき画家は多くなかった、と書いている。そして、日本の先人である如拙と周文の名を挙げて敬意を示した。明で学んだのは、誰かの画風よりも、実際の山と水を見ることだったとも読める。
帰国後は、九州の豊後や山口を拠点に、各地を旅しながら描いた。それまでの日本の水墨画は、中国の手本の山を写すものだった。雪舟は、自分が見た日本の風景を描いた。1486年、数えで67歳のときには、四季の移り変わりを一本の巻物にした長さ16メートルの大作を描き上げている(雪舟の山水長巻)。

『天橋立図』は、80歳を過ぎてからの作とされる。丹後の天橋立を、高いところから見下ろす形で描き、寺や社の名を書き込んでいる。実際に現地を歩いて描いた、下絵とも本画ともとれる作品で、地図のような正確さと、絵としての大きさが並んでいる。
1496年、数えで77歳のときに描いた『慧可断臂図』も国宝になっている。禅の祖である達磨に弟子入りを願った慧可が、自分の左腕を切り落として差し出し、覚悟を示す場面を描いたものだ。壁に向かって座り続ける達磨の衣は太く単純な線で囲まれ、腕を差し出す慧可の顔には、ほとんど表情が無い。禅僧として生きた画家が、老いてから選んだ主題だった。

東京国立博物館にある『秋冬山水図』のうち冬の図は、画面の真ん中を、上から下へ一本の太い線が走っている。崖の輪郭とも、空間の切れ目ともとれる線で、何を描いたものかについて、いまも解釈が分かれている。墨の濃淡を重ねて形を作る従来の水墨画の中で、この線の強さは異様に見える。
死んだ年は1502年とも1506年とも言われ、死んだ場所も山口とも石見の益田ともされて、はっきりしない。80代の半ばまで生きたことになる。

国宝に指定された作品は6件あり、一人の画家としては最も多い。雪舟の名は、死後に権威になった。山口の雲谷派は雪舟の画室を継ぐと称し、桃山時代の長谷川等伯は「雪舟五代」を名乗った。狩野派もまた雪舟を先達として仰いだ。手本を写すことから始めた画僧が、今度は後の画家たちに写される手本になったのである。足利義政の東山の文化と同じ時代、戦乱の京を離れた地方の城下で、日本の水墨画は自前の目を持った。