ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
概要
教会の勤めとして毎週カンタータを書いた。死後は忘れられ、80年後にメンデルスゾーンが掘り起こす。
所属
神聖ローマ帝国関わったできごと(3)
平均律クラヴィーア曲集AD1722年 · 作曲バッハ『マタイ受難曲』の初演AD1727年 · 作曲したマタイ受難曲の復活上演AD1829年3月11日 · 書いた本文
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1685年3月、中部ドイツのテューリンゲン地方の町アイゼナハに生まれた。バッハ家は、町の楽師や教会のオルガン奏者を何代にもわたって出してきた音楽家の一族で、この地方では「バッハ」が音楽家を指す言葉のように使われたほどだったという。アイゼナハは、かつてマルティン・ルターがかくまわれて聖書を訳したヴァルトブルク城の麓の町でもある。バッハは生涯、ルター派の信仰の中で音楽を書いた。

9歳で母を、10歳で父を亡くし、近くの町でオルガン奏者をしていた長兄に引き取られた。兄が鍵のかかる棚にしまっていた楽譜集を、夜中にこっそり取り出し、月明かりで半年かけて写したが、見つかって取り上げられた、という話が、死後に息子たちがまとめた追悼文に残っている。15歳で北ドイツのリューネブルクの学校に移り、聖歌隊で歌いながら学んだ。
18歳でアルンシュタットの教会のオルガン奏者になった。20歳のとき、休みをもらって400キロ近く離れたリューベックへ行き、名高いオルガン奏者ブクステフーデの演奏を聴いた。4週間の休みのはずが、帰ったのは4か月後で、教会の役員から叱られている。合唱隊の生徒と喧嘩になって剣を抜いたこともあった。腕は確かだが、扱いにくい若者だったのである。
その後、ミュールハウゼンの教会を経て、1708年からヴァイマルの宮廷のオルガン奏者となり、やがて楽師長に昇った。1717年、隣のケーテンの宮廷から楽長に招かれると、手放したくないヴァイマルの公爵は辞職を認めず、バッハを1か月近く牢に閉じ込めた。釈放されたバッハはケーテンへ移る。ケーテンの宮廷は改革派の信仰で、教会の音楽はあまり必要とされなかった。そのためこの時期に、ブランデンブルク協奏曲、無伴奏のヴァイオリンとチェロのための曲、鍵盤の『平均律クラヴィーア曲集』の第1巻など、のちに器楽の基本の書となる曲が生まれた。1720年、旅から戻ると、妻のマリア・バルバラは急な病ですでに亡くなり、葬られていた。翌年、宮廷の歌手アンナ・マクダレーナと再婚する。
1723年、バッハはライプツィヒの聖トマス教会の楽長、トーマスカントルに就いた。市の参事会は、まず当時いちばん名の知られた作曲家テレマンに声をかけ、断られ、次の候補にも断られて、三番目にバッハを選んだ。最上の人が得られないので、中くらいの人で我慢するしかない、と参事会員の一人が言ったと記録にある。
仕事は重かった。市の主な教会の礼拝のために音楽を用意し、付属の学校で少年たちにラテン語と音楽を教える。日曜日ごとの礼拝では、聖書の朗読に合わせた20分ほどのカンタータを演奏した。最初の数年、バッハはほぼ毎週、新しいカンタータを書き、写譜させ、少年たちに練習させて本番に臨んだ。生涯に書いたカンタータは300曲ほどとされ、そのうち200曲ほどが残っている。1727年の聖金曜日には、二つの合唱と二つの管弦楽を使った大曲『マタイ受難曲』が演奏された(バッハ『マタイ受難曲』の初演)。市当局とは、給料や生徒の質、権限をめぐって何度もぶつかった。

家庭には子どもが多かった。二人の妻との間に20人が生まれ、そのうち半数が幼くして死んでいる。生き残った息子たちのうち、カール・フィリップ・エマヌエルはプロイセンのフリードリヒ大王の宮廷で、末のヨハン・クリスティアンはロンドンで活躍し、父より名を知られる音楽家になった。1747年、バッハはポツダムのフリードリヒ2世のもとを訪ね、王の出した主題でその場で即興演奏をした(フリードリヒ2世(大王))。帰ったあと、その主題をもとに曲集を作って王に献じている。
生前のバッハは、何よりもオルガンの名手、楽器の目利きとして知られていた。作曲家としては、古い書き方に固執する人と見る向きもあった。1737年には、若い批評家シャイベが、バッハの音楽は大げさで入り組みすぎ、自然な美しさを損なっている、と書いた。時代の好みは、旋律が分かりやすく軽やかな新しい様式に移りつつあった。同い年のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがロンドンで国民的な作曲家となったのに比べ、バッハはドイツの一都市の勤め人のまま生涯を終える。

晩年、バッハは目を病んだ。1750年、イギリスから来た旅の眼科医の手術を二度受けたが、かえって弱り、その年の7月28日に亡くなった。65歳だった。最後に取り組んでいた『フーガの技法』は、途中で途切れている。
死後、その作品は表舞台から消えた。ただ、完全に忘れられたわけではない。鍵盤の曲は音楽家の間で写本で伝わり、モーツァルトやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは『平均律』を学んでいる。1802年には最初の伝記も出た。そして1829年、20歳のフェリックス・メンデルスゾーンがベルリンで『マタイ受難曲』を、大幅に短くしたうえで上演し、大きな反響を呼んだ(マタイ受難曲の復活上演)。作曲者の死から79年後のことである。これを機に再評価が進み、1850年、死後100年を記念して、全作品を楽譜に起こす協会が作られた。

いまバッハは、西洋の音楽で最も多く演奏され、学ばれる作曲家の一人である。毎週の礼拝のために締め切りに追われて書かれた曲が、教会の外の演奏会場で、宗教の違いを越えて聴かれている。聖トマス教会の床の下には、20世紀の半ばに移された彼の墓がある。