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Event / できごと

村田珠光と侘び茶

Murata Jukō and wabi tea
AD1490年頃
年に諸説あり重要度 4

概要

奈良の称名寺の僧で、大徳寺の一休宗純に参禅した。それまでの茶は、唐物の名器を並べて競う書院の茶か、賭けをする闘茶だった。珠光は、四畳半の狭い座敷で、唐物の中に和物(信楽・備前の粗い焼物)を混ぜた。「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」。「月も雲間のなきは嫌にて候」。武野紹鴎、そして千利休へ。

場所

奈良
34.69°N 135.81°E · 奈良県

関わった人(1)

村田珠光AD1423年–AD1502年 · 始めた

本文

茶。栄西が1191年に宋から種を持ち帰り、明恵が栂尾に植えた。初めは薬。鎌倉末から南北朝、「闘茶」が流行った(産地を当てる賭け。婆娑羅大名が、豪華な会場で、賞品を積んで争った)。室町、書院の茶(唐物の名器を並べて、飾って、鑑賞する。同朋衆が飾りの型を定めた)。

村田珠光。1423年、奈良。父は検校(盲人の官職)とも、町人とも伝える。11歳で称名寺に入り、20歳頃、寺を出た(怠けて追い出された、という伝えもある)。京へ。

一休宗純(1394〜1481年。大徳寺の住持を短期間務めたが、寺に住まず、酒を飲み、女と暮らし、権威を罵り、詩を作った禅僧)に参禅した、と伝える。一休が、悟りの証として、圜悟克勤(宋の禅僧)の墨蹟を与えた。珠光がそれを茶室に掛けた。それが「茶掛け」の始まりとされる(この話は後世の伝承で、確かな史料はない)。

彼が変えたこと。

(1)狭い座敷。それまでの茶は、広い書院(十八畳や十二畳)で、床の間に唐物を並べた。珠光は四畳半を使った。

(2)唐物と和物の取り合わせ。中国から来た完璧な天目茶碗や青磁だけでなく、備前・信楽の、歪んで、灰がかかって、素朴な焼物を、同じ席に置いた。

(3)主客の関係。豪華さを競う場でなく、亭主と客が向き合う場に。

彼のものとされる手紙が一通、残っている。弟子の古市播磨澄胤(奈良の武士で、風流人)に宛てた「心の文(こころのふみ)」。

「この道、第一わろき事は、心のがまん(我慢=慢心)・我執なり。……こころざしの深き人は、道具の善し悪しをいわず、ただ心を磨くべし。……和漢のさかいをまぎらかす事、肝要肝要」。

「和漢のさかいをまぎらかす」——中国のものと日本のものの境目を、曖昧にする。これが、後の茶の根本になった。

もう一つ、彼の言葉として伝わるもの。

「月も雲間のなきは嫌にて候」。満月が、雲一つない空にあるのは、面白くない。雲に隠れかけた月がよい。

「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」。粗末な小屋に、立派な馬をつないである。その取り合わせ。

彼は、大徳寺の真珠庵に葬られた、と伝える。

その後。武野紹鴎(1502〜55年)が、堺の町衆に広げ、竹の花入と土壁を使った。千利休(1522〜91年)が、二畳の茶室(待庵)まで小さくし、楽茶碗を長次郎に焼かせ、にじり口(腰をかがめて入る小さな入口。刀を差したままでは入れない)を作った。

「侘び」。もとは「わぶ(心細い、みすぼらしい、落ちぶれる)」という、否定的な言葉だった。それを、美の言葉に反転させた。

奈良の小さな寺を出た男が、四畳半の座敷を選んだところから、その反転が始まった。

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