人物

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス

Sor Juana Inés de la Cruz
AD1648年11月12日 – AD1695年4月17日(享年46)
ヌエバ・エスパーニャ重要度 4

概要

学問を続けるために修道院に入った女性。教会に筆を折らされ、蔵書を手放した2年後に死ぬ。

関わったできごと(1)

ソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」AD1691年 · 著者

本文

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスは1648年11月12日、スペインの植民地ヌエバ・エスパーニャ(いまのメキシコ)の、首都の南東にある村サン・ミゲル・ネパントラに生まれた(生年を1651年とする説もある)。母はアメリカ生まれのスペイン系の女性、父はスペインのバスク地方出身の軍人で、二人は結婚していなかった。俗名はフアナ・イネス・デ・アスバヘ。母方の祖父の農園で育ち、その書庫が少女の世界になった。

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)Wikimedia Commons Miguel Cabrera · Public domain

彼女が後に書いた手紙によれば、3歳のとき、姉が通う読み書きの学校についていき、先生にうそをついて自分にも教えてもらい、母に知られないうちに読めるようになっていた。チーズを食べると頭が鈍くなると聞いて、好物のチーズを口にしなかった。首都に大学があり、そこで学問ができると知ると、男の子の服を着せて大学へ行かせてほしいと母にせがんだ。女性が大学に入る道は無かった。自分で決めた期間までに覚えるべきことを覚えられないと、罰として自分の髪を切った。髪が伸びるより先に頭の中身が育たないのは許せない、というのである。

8歳頃、かつてのアステカの都の上に築かれた首都メキシコ市の親戚の家に引き取られ、ラテン語を短い期間で身につけた。10代の半ば、その才能が評判になり、副王の妃の侍女として宮廷に迎えられた。のちの伝記作者によれば、副王が大学の教授や神学者ら40人ほどを集めて少女に問いを浴びせたが、彼女は大きな船が小舟を蹴散らすように答えたという。美しく才気にあふれた侍女は、宮廷の人気者だった。

メキシコシティ、サン・ヘロニモ修道院
メキシコシティ、サン・ヘロニモ修道院Wikimedia Commons Eneas de Troya · CC BY 2.0

だが彼女は、宮廷の暮らしも、結婚も選ばなかった。1667年に厳しい戒律の修道会に入って体を壊し、数か月で出たのち、1669年、聖ヒエロニムス会の修道院で誓願を立てた。後年、彼女は、結婚という身分に対して全く気が進まなかった、自分の救いのためにも、静かに学ぶためにも、修道院が最もふさわしかった、と書いている。当時の女性にとって、結婚せずに生き、学問を続けられる場所は、修道院のほかにほとんど無かった。それは、スペイン帝国の植民地社会で、私生児として生まれた女性が身を立てる数少ない道でもあった。

修道院の個室は、彼女の書斎になった。蔵書は数千冊にのぼったといわれ、楽器や、天体を観測するための道具も集めた。神学や哲学、数学、音楽理論を独学で学び、詩や戯曲、宗教劇、教会の祝祭のための歌を次々に書いた。副王夫妻とは親しく交わり、とりわけ副王妃マリア・ルイサとの友情から多くの詩が生まれた。彼女の詩集は1689年にスペインで出版され、評判を呼んで版を重ねた。人々は彼女を「第十のミューズ」と呼んだ。女性を責めながら、自分たちがその原因であることに気づかない愚かな男たちよ、と男性の身勝手を突いた詩は、今もよく知られている。魂が眠りの中で宇宙の知を求めてさまよう長詩『第一の夢』は、スペイン語のバロック詩の頂点の一つとされる。

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)Wikimedia Commons Miguel Cabrera · Public domain

1690年、彼女が、ポルトガルの高名なイエズス会士の説教を論駁した文章が、本人の知らないうちに、プエブラの司教によって出版された。司教はそこに、「フィロテア修道女」という女性の筆名で手紙を添えていた。あなたの才能はすばらしいが、修道女は世俗の学問よりも、宗教の書物にこそ時間を使うべきだ、という穏やかな叱責だった。

1691年、ソル・フアナは長い返答を書いた(ソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」)。そこで彼女は、幼い頃からの学ぶことへの抑えがたい欲求を語り、聖書や教父の書物から学問に励んだ女性たちの例を次々に挙げ、女性が学ぶことを禁じる根拠は無いと論じた。本を取り上げられたときには、目に入るものすべてから学んだ。卵が油では固まるのに砂糖のシロップでは崩れること、こまの回り方。台所でも哲学はできる、アリストテレスが料理をしていたら、もっと多くのことを書いただろう、と彼女は書いた。女性の学ぶ権利を擁護した文章として、新大陸で最も早いものの一つとされる。

アメカメカのパノアヤン荘園、ラミレス・デ・サンティリャーナ家の邸宅
アメカメカのパノアヤン荘園、ラミレス・デ・サンティリャーナ家の邸宅Wikimedia Commons Thelmadatter · Public domain

だがその数年後、彼女は筆を置いた。1693年頃から、蔵書や楽器、観測の道具を手放し、売った代金を貧しい人々への施しにあてたとされる。1694年には、修道女としての誓願を新たにする文書に署名し、そこに自らを最も悪い女と記した。教会の上層部の圧力に屈したのか、それとも自ら信仰を深めた結果なのか、研究者の間で今も議論が続いている。

1695年、修道院で疫病がはやった。ソル・フアナは病に倒れた修道女たちを看病するうちに自らも感染し、4月17日に46歳で死んだ。

ソル・フアナが生涯の多くを過ごしたヒエロニムス会修道院の回廊
ソル・フアナが生涯の多くを過ごしたヒエロニムス会修道院の回廊Wikimedia Commons Gobierno CDMX · CC0

20世紀に入って、彼女の作品と生涯は改めて光を浴びた。メキシコの詩人オクタビオ・パスが書いた長大な評伝は、彼女を、信仰の罠にかかった知性として描いた。いま彼女の肖像はメキシコの紙幣に刷られ、ラテンアメリカで最初の偉大な女性の作家として、またフェミニズムの先駆者として読まれている。

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